『奇跡講座』 ワークブック

ACIMワーク247‐赦しがなければ、私は見えないままである。

2019-02-25

些細なゲンジツに一喜一憂するワタシ

枯れた木に新芽が出ている。3月近し。いよいよ春到来の気配。

甥っ子が第3希望の大学に進学が決まったと母から電話。「あんたも電話してやりなさい」。

先日甥と話してからも妹から連絡があったわけじゃないし、電話しても機嫌が悪かったらヤダなと若干気が重かったけど電話した。

今度は妹もいた。

「進学先決まったんだって、お母さんからうれしそうな声で電話があったよ」と私。

「お姉ちゃんにこの前からいろいろ頂き物しているのに電話もしなくてごめんね」「大学のこともこちらから連絡しなくちゃいけないのに」と妹。

進学先が決まって機嫌がよかったのかもしれない。その言葉に私はみるみる解けて癒されていくのを感じた。

現実ではないと自分に言い聞かせつつも、やはり気にかかっていたのだ。最近は「お姉ちゃん」とも呼んでもらえなくなっていたから、「お姉ちゃん」と呼んでもらえるだけでうれしい。

こんなささいなことでも、私には大事なんだな。

私の在り方はこの世のすべてを赦すという態度とはほど遠いのだった。

でも、ACIMの教えに倣って電話をかける前に不安感を手放すということを何度かやっていたため最初から不安をぶつけずに済んで、和やかなゲンジツが得られたのかもしれない。

私には子どもがいないから、甥っ子は母の唯一の孫であり未来の世への希望をつなぐ存在。

そのことだけでも妹には頭が上がらないと思ってしまう。

ACIMワーク247‐赦しがなければ、私は見えないままである。

罪は攻撃の象徴である。罪をどこかに見ている限り、私は苦しむ。赦しだけが、私にキリストの心眼をもたらす手段だからである。」(L247-1-1,2)

兄弟よ、私の所にきて、あなたの姿を見せてほしい。あなたの麗しさが、私自身のそれを映し出す。

あなたの無罪性は私の無罪性である。あなたは赦されており、私はあなたとともに赦されている。」(L247-1-5,6,7,8)

このとおりだ、と抽象的概念としては理解できるけど、自分の身に具体的な事象がおこるとすぐわけがわからなくなってしまう。

目の前のことに感情が揺らぎ、『奇跡講座』の概念のほうがウソくさく思えてしまう。

どちらが真実でどちらが偽りと思えるか。心の中に切り替え装置でも付いているみたいだ。

私の無意識の恐怖と罪悪感の埋蔵量はどれぐらいのものだろう。

ワークを始めて5年余り。0.1%ほどでも手放せただろうか。

たとえ行き先は見えなくても方向はわかったのだから、磁石の指すほうを目指したい。

ACIMワーク246‐父を愛することは、父の子を愛することである。

2019-02-22

早くも蘭が咲いた

蘭の花が咲いた。

例年5月頃咲くのだけど、引っ越ししてから西日が入る部屋になり蘭は「咲こう」という気分になったのか。

もともと仕事で一緒に出かけた方に小さな鉢を買っていただいたもの。今ではかなり野性的に育っている。

蘭の花がほころんでいくのを見ていると春が近いと感じる。

母から甥っ子が滑り止めの大学には合格が決まったらしいと聞き、電話をしてみた。妹は外出中で甥っ子だけだった。

そこで、合格したってね、と話しつつ、送ったけどリアクションがなく気になっていたチョコのことを聞いてみた(参照:2月16日ダイアリー)

「忘れてた」と気の抜けた応え。

着いたかなと気になったからメールでもしてね、と言いながら、甥には何らの感情的こだわりがないことに気づく。

私が意識してしまっているのは妹のほうだった。

子どもの頃はかわいい、かわいいだけだったけど、大人になって妹が旅先で家族みんなに怒りをぶつけたことがあり、その姿が昔の母を思い起こさせ私の心に壁ができたのだった。

私は「許せない」と思っていた母を赦したつもりで、そうではなかった。母が老いて弱者になり丸くなったから、その感情がうずくことがなくなっていただけだったのかもしれない。

支配的に感情的に振る舞う妹にかつての母を見て、それ以来感情が揺れるようになったのだ。

認めたくないが、それは私が隠している自身の姿そのものでもあるんだろう。

また妹には別の感情もあった。

私は高校卒業して進学のため家を離れた。とにかく母から離れたかった。

一方私がいなくなった家では、思春期を迎えた妹がひとりで母のパワハラ的しつけを受け、それはかなりしんどかったらしい。パワーある妹は反抗で返したらしいが。

その「自分だけ逃げ出した」というどこか罪悪感めいたものが、妹に対してあるのだ。

妹に若かった母のおもかげを見てざわつく気持ちと、「逃げた」という感覚、両方とも「神から離れた」という原初のできごと(もちろん実際には起こってない)の、別バージョンの再現ドラマだ。

それこそが私の心に根っこがある勘違い。私が赦すべきことだ。

そうやって“分析”はできるものの、それですっきりおしまいというわけにはいかない。心の深みにある感情を表面化して手放していく時間という幻想の経過が必要だ。

親や兄弟、夫、妻といった近しい「特別の関係」は、ACIMの中でも手ごわいものなんじゃないかと思う。

ACIMワーク246‐父を愛することは、父の子を愛することである。

さてレッスン246。

胸に憎しみを抱いたままで神への道を見出せるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-1)

神の子を傷つけようとしながら彼の父や私の真の自己を知ることができるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-2)

自分自身を認識できないまま、父を自覚できるとか、父から私への愛や私が父に返す愛が思い描けるなどと、信じることがありませんように。」(L246-1-3)

まさに!

振り返って、最近はワークをやっていてもおざなりで上滑りしていて“エゴ主導”になっているかも、とも思った。

起きていることはすべて赦しの機会を含んでいる。

私がいろんなことを正当化して自分の赦しを遅らせることがありませんように。

知っていることを実行するだけの勇気が持てますように!

ACIMワーク245‐父よ、あなたの平安が私とともにあります。私は安全です。

2019-02-20

夜な夜な英語アプリを前に大声で発音練習中

区主催のもてなし英語の講座は6回目を終えた。

「お好み焼きを外国人にどう説明する?」などという先生からのお題に、カタコトすら言葉が浮かばず、先生に当てられたらどうしよう?と毎回ビビりながらの参加だ。

でも自分から手を挙げる参加者の方が多いから座っているだけで時間が過ぎ、今日も無事終わったとほっとする。

そんなんでいいのか…。

でも日本人でもこんなにみんな流暢に話せるんだな~という“発見”は大いに刺激になった。

私もペラペラ話せるようになりた~い!

でもおカネはかけたくない。

前は無料アプリの「毎日英語」というので発音練習していたこともあるが、久しぶりに立ち上げてみたらいつの間にか毎月課金しないと使えなくなっていた。

それに代わるものと語学アプリをいろいろ見て「Real英会話」というのを買ってみた。こちらは買い切り600円なので許容範囲だ。

これが今の私には合っていた。「スピーキング」では発音をアプリが判断してくれる。正しいと判断されないとクリアできない。練習し始めてかれこれ20日。今は初級30%というレベル。

声に出して発音してどうやっても聴き取ってもらえないフレーズがいくつもある。

私はどうも「L」の発音ができていないらしく、よくひっかかる。「We'll」もまったく聴き取ってもらえない。

この練習、時間が経つのが早い。何度も却下されているうちに自然に声がでかくなる。老独女が夜ひとりアプリに向かって拙い英語のことばを繰り返す。。。の巻(^_^;)

ACIMワーク245‐父よ、あなたの平安が私とともにあります。私は安全です。

私の行くところには、あなたの平安がともにあります。その光は、私が出会うすべての人に注がれます。」(L245-1-2,3)

私はその光を、惨めで孤独で怯えた人々のところへと運びます。」(L245-1-4)

…とここまで読んで、惨めで孤独で怯えた人…?

「それは私やないかい!」と心の中でツッコンでしまった。

え!?

ネガティブ卒業「ポジティブでいこう」と決意して間もないというのに、自分のことを「惨めで孤独に怯えた人」と思っていたなんて、と気づく。

そんなに急には変われないものか。

それでも、こうしてACIMに出会えてACIMを学習できるスペースが与えられて、私はとても恵まれていると思っていることも本当。ACIMのおかげで人生が行きつく先は死ではないと知り、希望の光を得た。

その昔20代の頃勤めていた会社を辞める時に上司だった方が手紙をくれた(退職時の会の際みんなの前で読んでくれた)。その手紙の中にあったフレーズを思い出した。

自助の人たれ

英語でセルフヘルプ。

自分が「惨めで孤独に怯えている人」なら、まず自分に「神の平安」を届けよう。聖霊はいつも助けてくれるだろう。

それができるようになったら、その平安の光を他の人にも届けることができるだろう。

まず自分に光を当て幸せにする。

幸せは願望というより義務に近い。

私が行くところには必ず神の平安があるのだから、私はその光をもってどこにも行ける。

その光をともにある人すべてと浴びることができるはず。

ACIMワーク244‐世界のどこにいても、私に危険はない。

2019-02-18

ダンベル体操のDVDを飲み込んだままのプレーヤー

筋力UP・維持のため以前やっていたDVDを見ながらのダンベル体操を再開させたいとダイアリーを書いていたのが、去年の9月。

それから毎日とはいかなかったけれど何とか週2回くらいやっていた。

が、それも昨年末DVDプレーヤーの調子が悪くなるまで。今年に入ってからは一度もやってない。

しばらくぶりにDVDプレーヤーのスイッチを入れてみた。もしや直っているかと思ったが、やはりだめ。機械に自己治癒力はなかった

ブーンと音が鳴り続け、ダンベルのDVDを飲み込んだまま開くことすらできなくなっていた。

2年前Amazonで3,500円で買ったDVDプレーヤー。やっぱり壊れるのが早い…

なかなか決断できなかったけど、やっぱり新しいの買おう。

でも、やっぱり次もAmazonの最安値を選んでしまいそうだ。

「安物買いの銭失い」ってことわざあったなぁ、と思いながら。

おカネだって幻想の最たるもんだけど、なかなか…ね。自由までの道のり遠し。

ACIMワーク244‐世界のどこにいても、私に危険はない。

レッスン244の主題概念も私には響くものだ。

なんだかんだ言って気づけばやはり不安と恐怖でがちがちになっていることが多いから。

言葉にして「世界のどこにいても、私に危険はない。」と言ってもらえると心強く思うのだ。

私は赦しを実践して前進するどころか、逆に幻想の不安や恐怖を強固なものとして自分の足を引っ張っているのではないか…

危険がある場所は、スクリーンじゃなくて映写機のフィルムのほう。自分の心の中なのだ。

神の中で私たちは安全である。」(L244-2-3)

ずっとこれを覚えていられたら、と思う。

この感じ方をリアルに感じられるくらい成長したい。

ACIMレッスン243-今日、私はどんな出来事も裁かない。

2019-02-16

赦し…言うは易く行うは…

「赦し、赦し」とそればかり口にしているくせに、ささいなことでもひっかかってしまう。

甥っ子にバレンタインチョコを送ったがリアクションがない。甥っ子はとても大人しく口数も少ないが、妹は高3の受験生に「余計なことを」と思っているかも。

妹の誕生日があったから2月初めには妹にもチョコを送っていたが、それに対してもまったくノーリアクションだ。

仲が悪いわけではないけれど歳が離れているのもあって、妹が家庭を持ってからあまり行き来がない。

自分が勝手に送ったくせに…しかもささやかなもの。だけど、なんだか軽んじられている気もしてしまう。

それが自分の“罪”を赦すための赦しの機会だということは知っているくせに…。

気になったなら気軽に電話すればいいだけのことだけど、それもできず。

ACIMワーク243‐今日、私はどんな出来事も裁かない。

滞っているワークについて書こうと、「今日はどこから?お題は何だっけ」と見たら(ワークをやるのとブログに書くのとの間には少しズレがある)、これだった。

今日、私はどんな出来事も裁かない。

そう…、私は裁きたくなっていたのだ。

たかだかチョコレートの受け取り連絡がないくらいで、ネガティブに振れてしまうとは…

ACIM学習者ならずとも小さすぎる。

私は大昔家庭教師をしていたお宅から結婚祝いに高価なランプをいただいたが、お礼の連絡をしそびれたという大失態をしたことがある。

実家に宅配便で送っていただいたのだがその時慌ただしかったこともあって何か紛れて連絡しそびれてしまったのだ。

こう書いているだけで未だにピリピリする。なんでできなかったんだろう。

自分がそんな大それた失礼なことをしておきながら、人には小さなことでも見咎めようとする。それが私…

レッスン243の文言は穏やかに諭す。

今の自分の理解が及ぶはずもないことを、すでに知っていると思わないようにする。知覚の断片から、全体が理解できるなどと思わないようにする。」(L243-1-2,3)

それにより私は、もともと自分にはできない判断を下さずにすむ。」(L243-1-5)

すべては赦しのために…なんだよな。

私の見方が変われば、世界も変わる。それはワークを通して何度も経験している。

私に赦すべきことがあるから、見せてもらっていることなのだ。

私は今も神とひとつなのだから、自分も他者も裁く必要はない。

ACIMレッスン242-今日一日は神のものである。私はこの日を神への贈り物とする。

2019-02-14

バレンタインデー

バレンタインデー…愛する男性へチョコをというのは残念ながらできないけど、ちょうど母の誕生日。

で、毎年母にチョコレートを送っている。

一緒に洋服を送ったりしていたが、色やデザインが好みに合わないことが続き、2年前ついに「今後一切断じて服送るべらかず」というお達しが出た。

正座するのがきついと言い出したので正座用椅子を送ったら、「余計なことを」とひどく叱られたこともある。

母は正直だから、要らないものは要らないと言う。他の方への贈り物でも「合う」ことは少なくて、きっと私は「余計なもの」を贈っているんだろうなぁ。

今回はまだ北陸は寒さが続くだろうから、レッグウォーマーを添えた。これだったらミスマッチだとしてもダメージは少なそうだ。

ちゃんと届いたらしい。夕方母から、

「おいしいチョコレートありがとう。最近松山千春のCD(前に私が送った)をよく聞きます。今も聞いています。」とメールが来た。

「苦情」覚悟だったから、ほっとした。

ACIMワーク242‐今日一日は神のものである。私はこの日を神への贈り物とする。

私は世界を理解していないのだから、自分ひとりで生きようとすることは愚かである。

しかし、私にとって最善なることを知っている聖霊がある。

そして聖霊は、私のために喜んで、神へと導く選択だけをしてくれる。

私は帰還の時を遅らせたくないので、この日を聖霊に捧げる。

聖霊こそが神への道を知っているからである。」(L242-1-2,3,4,5)

そのとおり、と思う。

問題は、

(自分なりの方法で)ワークがちゃんとできているのか、

聖霊の声がちゃんとキャッチできているのか、

だけど、これも深追いして考えないことにした。

稼げてないことへの不安感、恐怖感、自己否定感がずっとあるけど、これも今しばし棚上げしようと思う。

気づけばすぐゲンジツに巻き込まれ、ザワザワしたりパニクったり、あるいは被害者になったりしているけれど、これも「作っているのは私だ」と思い出すことを心がけている。

日中はすっかり忘れているけれど、思い出した時に「そうだった」と思い返す。

なるたけ聖霊さんのしごとの邪魔にならないようにしたいけど、そういう舌の根も乾かないうちにまた邪魔してしまいそうだ。

私は恵まれている。感謝しよう。

ACIMレッスン241-この聖なる瞬間に救済が訪れる。

2019-02-07

福袋買った

楽天市場内ショップのお知らせメールから、何気にサイトに飛んでいったら「福袋」が目についた。

レビュー☆4.75は高い。

たいがい福袋には「こんなのもらっても困るよね」っていうものが入っているのだと思っていたけど、「全部ちゃんと着られるものばかりです」「めちゃくちゃお得」等のレビューが気になってしまった。

ニットとカットソー5点でクーポン使って送料込み1839円。ポイントを消化するとすれば実際に払うのは900円。

買ってみる?

服が欲しいというより、福袋を覗いてみたいという衝動。何が来るかわからないのにワクワクして、ポチっとした。

そして来た。

地味だ。モノトーンに近い。

レビュアーさん方のおっしゃるとおり、全部使えそうなものばかり。

グレーのニット着てみたら着心地悪くない。福袋とは思えない実用性だ。

5枚のニット&カットソーにおまけの白いマフラー。これで1839円とは…安っ。

単品で売っていたら買うかどうかは別だけど、何が来るかな、どんなのかな、と思って待って開けてみる、その一連は思いのほか楽しかった。

薄手のものが多いから春先に着ようっと。

ACIMワーク241‐この聖なる瞬間に救済が訪れる。

第2部に入ってから、主題概念を第1部ほど重んじてはいない。

このレッスン241「この聖なる瞬間に救済が訪れる。」も、そっかぁという感じで読んでいた。

「聖なる瞬間」は私にはまだ遠そうだ。

「赦し」の宿題がたくさんあるから。

私はどうも自分がやりたいことや自分がそうでありたいと思うことの近くにコンプレックスがくっついているらしく、やりたいことや好きなことに向かいたいんだけど向かえない。

関心と羨望のそばには同時に強い抵抗感と恐怖もあるのだ。

これこそが私の赦しのお題なんだろう。

は~、今世200年くらい欲しいなぁ。

葛藤しているうちに終わっちゃうよー。

昔読んだ本のフレーズ「これがあなたの人生だ。リハーサルではない。」が頭に浮かんできた。

何だっけこの本、とAmazonにうろ覚えのフレーズを入れたら、タイトルが出てきた。

『誰でもできるけれど、ごくわずかな人しか実行していない成功の法則』

便利な世の中だ。

なつかしいなぁ。この本。

こういう自己啓発本の類は『奇跡講座』に出会ってからまったく読まなくなったけど、たまには背中を押してもらうのもいいかもしれない。

ひゃあ~、ずっとリハーサルというか「いつか」と思って生きてきたけど、今が本番だよ~気づいたらエンドロールなんてヤダ。

この人生は幻想だからまあいっか、とはならない。

自分の心の抵抗感や恐怖感からもっと自由に生きたい。

第2部-3.世界とは何か

2019-02-06

内なる恐怖心の強さったら

おもてなし英語講座4回目。

二人組になって「一人でいる時最近何している」という会話をし、それをみんなの前で発表するというのをした。

私は去年の引っ越しを機にAmazonプライム会員になり、用意されているプログラムをテレビで見るという楽しみを覚えた。

今はまっているのが『ダウントン・アビー』という英国のドラマだ。だからそのことを話した(カタコト)。若い女性パートナーさんは、スノーボードやテニスを楽しんでいると話した。

ド下手でも一度さらしてしまえば楽になる。

参加者の方はみなフレンドリーな方で、私の諸々の引け目のようなものも私の過剰反応だと感じた。

しかし、私は物心ついた頃から人と世間に怯えていた。

その内なる恐怖感の強さったら!

どんだけ怖がっているんだか…。改めて認識した。

すべては私が自身の心を映した鏡なのだ。

『奇跡講座』を学んで、自分が世界というものを少しは知っているつもりになっていたが、知っているだけではだめ。エゴが解体されないことには前進できないのだ…

世界とは何か

世界とは、恐ろしい神から私たちが逃れるために自分にかけている催眠術の舞台ようなものだ。

だから本章は、「世界とは、誤った知覚である。」(第2部、3-1-1)という。

そもそもの誤解は、自分たちが自らの意志で神から離れたと誤解をしたところから始まる。

神はさぞかし怒っているだろう。とんでもないことをした。報復は免れない。

そのあまりの恐ろしさからの逃亡先がこの幻影の世界だ。

世界は神に対する攻撃として作り出された。それは恐れを象徴している。そして、恐れとは、愛の不在以外の何だろうか。」(第2部、3-2-1,2,3)

だから世界とは、神を締め出せる場所、神の子が神から離れていられる場所となるためのものだった。」(第2部、3-2-4)

この催眠術の舞台で、私たちは催眠術の手段である知覚をもって、イリュージョンを見続けている。

それは神から離れたという最初の誤解を強化するものだ。

その誤解をさらに強化するのではなく、解くほうに向わなければ私たちに救いはない。

催眠術を解くのが、私たちの中に今なおある神の記憶だ。

あまりの恐怖に覆われて見えなくなっているが、恐怖の奥には真理がある。

それを誘ってくれるのが、聖霊だ。

聖霊の光に従い、聖霊が見る通りに世界を見なさい。あなたに語りかけるすべてのものの中に聖霊の声だけを聞きなさい。」(第2部、3-4-3)

つまるところ、世界とは自作自演のホラー映画なのだ。ただ私が聖霊に従う決断をすれば神と愛を映すものに変えられる。。。

これが信じられるかどうか。

私は信じる。

私は恐怖心が人一倍強い。でも私という人生のなかでなるたけ軽くしたい。

ACIMレッスン240-恐れはいかなる形においても正当化されない。

2019-01-30

今さらながらの“怯えているエゴ解体講座”

おもてなし英語講座の第3回目。他の参加者の方とのレベル差を知った私は参加するのがイヤになっていた。

なによりコミュニケーション自体が怖かった。

そもそも申込時から想像できたこと。

まず自己紹介的なことがあるだろう。そこでは仕事や家族、趣味などについて質問し合ったりするだろう。その時にプレゼンできる触りのいいことが私には思い当たらない。。。

バツイチ独身家族なし、無職状態、若くない、内向き…

どんな音楽が好きかとか、あるいはどんなスポーツをやっているかとか…そういうのも答えようがなくて、さえないつまんない人だなと思われるのが怖かった。

でも、怯えているのはエゴで、これはそんなエゴを解体することこそ、この講座の目的なのだと気づいたら、見え方が違ってきた。

これは赦しのチャンスに他ならない。恐怖心や劣等感が浮かび上がったらその都度赦し手放せばいいのだ。

先週やった二人組になってみんなにパートナーさんを紹介する他者紹介、私とパートナーさんはまだだった。続き、今週はもうやらないかなと思っていたら、やった。

先生が「Next」と言われるのに躊躇していたら、結局最後になってしまった。

取り繕ってもしゃべれば、英語スキルは丸見え。みんなの前で下手なりに他者紹介を済ませられたら、すっきりした。

来てよかった。

参加しなかったら、低くなっている社会的自己評価がますます低くなっただろう。

「説明できる自分がない問題」だって、エゴが問題だと思っているだけで私の内に恐怖心や罪悪感がなくなれば、見え方はずっと違ってくるのだろう。

ACIMワーク240‐恐れはいかなる形においても正当化されない。

レッスン240は、私にはとくに沁みる主題概念だ。

恐れは偽瞞である。それが証言していることは、あなたが、決してありえない姿の自分自身を見たということと、それにより、あなたがありえない世界を見ているということである。」(L240-1-1,2)

それは、自分自身についてあなたが抱いている幻想を証ししているにすぎない。」(L240-1-5)

私たち一人ひとりが愛そのものの一部なのだから、私たちの中に恐れはない。」(L240-1-8)

重要箇所に線を引いているうちに全部になってしまう。

自分ではACIMを継続して前より恐れを手放せているつもりだけど、私の対人(対世間)恐怖って強いんだな~と改めて思う。

これまではわりとペルソナ(仮面)をうまく使えてきたほうだから、生身の傷つきやすさに直接触れないで済んできたのだ。

でも仮面はいつまで経っても仮面だし、それでは生きたことにならない。

恐れはいかなる形においても正当化されない」は、「怒りは決して正当化されない」(T-30.VI.1)とともに、私にはとっても大事な概念。おまじないと言ってもいい。

よくよく覚えておこうと思う。

ACIMレッスン239-私の父の栄光は、私の栄光である。

2019-01-29

まんだらぬりえ

日曜日、月1の色彩ワークショップで、持ち回りでファシリテーター役をやっているが、今回は私の番。

それで「マンダラ塗り絵」をやった(「まんだらぬりえ」とひらがなで書くほうがしっくりくる)。

何のことはない。本からコピーしたマンダラ下絵の中から気に入ったものを選んで塗るだけ。

本は10年以上前に買っていたのだけど一度も使ったことはなかったのだ。

マンダラとはユング心理学でも出てくる概念。自己(自我ではなく本来の自己のようなもの)を投影したものとみる。これを塗って仕上げていく過程で満たされ癒されていくのだという。

ワークショップでは近況をおしゃべりしながら塗った。選ぶ図柄、選ぶ色が違うから、それぞれちがうマンダラに仕上がっておもしろかった。

これで勢いづいたのか、昨晩小さくプリントし直し塗り絵した。

何にも考えずただ塗るだけ。配色もテキトーだ。

意外と時間がかかる。40分位かかったかもしれない。もっと単純な図柄にすればよかった。

できた塗り絵をダイソーで買った100円額縁に入れてキャビネット棚の上に置いた。

少し遠目に見ると塗っていた時とはまた違う印象になる。

文字どおり「こころ模様」なのかな。ちがうパターンも塗ってみたくなった。

ACIMワーク239‐私の父の栄光は、私の栄光である。

神がご自身の栄光を分かち合う人々の中に、わずかでも罪や罪悪感を見ることなどできるだろうか。」(L239-1-3)

神が、わが子は創造されたときのままであると知っており、わが子をまったく変わりなく永久に愛しているのなら、私たちがそこに含まれないということがあるだろうか。」(L239-1-4)

この反語が力強い。

気づけば、自分はダメ人間だと罪悪感を感じてしまっている私は、それでもやはり罪悪感を背負いながらも慰められる。

私が罪悪感を感じているのは中途半端だからというのもある。

自分が思うことをそれが共感を得られるかどうかに関わらず、表すことができていないから。

yesであれnoであれ、尊敬されようが軽蔑されようが、正しいかどうかもさておき、怖れなく表明できたらもっと自信が持てるだろう。

そういう意味で過激なことを言ってもシレっとしているホリエモンとか密かに憧れる。

「この世は幻想」とするACIMについて話そうとすると、すべての人を敵に回すかのような底知れぬ恐怖感がある。

でも、私はほんとうはどうありたいか。

ほんとうは何をしたいのか。

そう考えたら、この体をもった今回の人生で、自分の思いに沿って矢面に立ちたいのだな~と思う。それがどういうかたちかはわからないけれど。

だとしたら…

自分のアンテナに従って、少しでも反応したことをやってみる。

また人に喜んでもらえそうなことも、やってみる。

…ということかなぁ。

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