レッスン105-神の平安と喜びは私のものである。

2017-04-28

『「手帳ブログ」のススメ』

2年前ブログを始めてみたいと思った時、最初に読んだ本をざっと読み返した。2006年発刊だから変化が激しいネット社会では化石みたいな本かもしれない。

だけど、ブログ成長期の本だからこそか、自己成長、自己発見のツールとしてのブログの価値を改めて確認できた。書くことによる自己発見はいつの時代でも変わらない。

この本のつくり自体に「コツコツ積み重ねる」ブログから生まれた情報がたくさん盛り込まれていて、画期的というわけではないけど、とっつきやすい良心的なよい本だと思う。

この本の最初の方に、「無理なく書ける4行日記のコツ」という項目があって、
1行目:事実(出来事の記録)

2行目:気づき(その事実について気づいたこと)

3行目:教訓(気づきから導き出されたこと、次の行動の標)

4行目:宣言(目標を達成した後の自分をイメージして宣言)

といったような書き方が紹介されていた。

この4項目でまとめるというのは、私のワーク日記のまとめ方としても使えるかも?と思った。

1.事実⇒そのワークの概要

2と3.気づき+教訓⇒ワークをやってみて気づいたことと、気づきから導き出されたこと

4.アファメーション⇒そのレッスンから浮かんだ自分なりの宣言

みたいな3構成で。実際できるかわからないけど。

自分のためのブログはこの本から始まった。また時おり読み返そうと思う。

レッスン105-神の平安と喜びは私のものである。

このところずっと続いていた「幸福」についてのワーク。レッスン105ではストレートに高らかに「神の平安と喜びは私のものである。」と宣言している。

レッスン105のワークはこの贈り物を素直に受け入れることだ。実相では贈り物は私たちが受け取るにつれて増大する」と言う。

おもしろかったのは、「この世界での贈り物」を「罪悪感でなされる取引」とバッサリ切っているところだ。

そのような『贈り物』は、より高価な見返りを期待してつける指値であり、全額返済されるべき利子つき貸付金であり、贈り物をもらった者がいずれは受け取った額より多く返済しなければならない一時貸与である。」と言い切る。

そんなぁ、それは言いすぎだと思うけど。。とツッコミたくなる。

ACIMの一元性の世界では、与えることと受けとることはひとつであり、受けとるためには与えること。与えればそれは増えるばかりだ。

しかし、二元性のこの世では、「与えれば減る」という観念がある(物質は確かに移るから減るが物質はそもそも幻想だ)。だから与えることが恐れを生み出す源となってしまったので、あなたは贈り物を受け取るためのこの唯一の手段を避けようとしている」という。

レッスン105は、もともと自分のものである神の平安と喜びを「私のもの」と受け取るための「受け取ることと与えること」のワークだ。

ここでは、「平安と喜びを、あなたによって拒否された兄弟のことを考えてみよう」と言い、該当する人が浮かぶたびに、

私の兄弟であるあなたに、平安と喜びを差し出します。

それにより、私も、神の平安と喜びを自分のものにすることができるようになります。」と唱える。

そうして、もともと自分のものである平安と喜びを自分に受け入れる。

ワークをして(気づきと教訓)

このワークは中盤、英語がとくに難しく感じた。

ふと3年前にやったノートを引っ張り出してみたら、「平安と喜びを、あなたによって拒否された兄弟」としてワークの対象に、今回選んだのと同じ人を選んでいた!

赦しのためのソウルメイトといったところかな?なかなか根深いものがある。

本来ならば、そういう心の機微、ひだひだをダイアリーに書けばいいんだろうけど、なかなか(^_^;)

一元性の世界では他者はいない。自体一如だ。

他の人のPeaceとJoyを奪ったり邪魔してはならない。それはとりもなおさず、自分が神さまからのPeaceとJoyを拒否しないことだから。自分にPeaceとJoyの資格を認め胸をはって受け取ることになるから。

これまで心ならず邪魔をしてしまった人たちにPeaceとJoyをお返ししよう。

それによって、神さまと私の通りが良くなる。聖霊さんが活動しやすくなる。

時代劇で「かたき討ち」なんて言葉を昔はよく聞いた(今は時代劇自体が少ない)。けど、かたき討ちでは人は絶対に幸せになれない。討つべきかたきなんて、自分の他にはいないのだから。

でも誰かと接して心がザワついてしまうこと、歳を重ねても日常的にある。とにかく覚えていられたら、その都度修正しよう。

わたしのアファメーション

私には神さまからPeaceとJoyを受け取る資格がある。

レッスン104-私は真に神に属するものだけを求める。

2017-04-27

おとといテレビでやってた北朝鮮の“Xデ-”は何事もなくすぎたらしくて、よかった。木々が芽吹き野良猫がくつろぐこの季節に、そういうきな臭い話は最も似つかわしくない。

そもそも“Xデ-”って表現が気になっている。

それでは、「あるかどうか」ではなくて、「いつあるか」みたいな言い回しじゃないか。

ニュースに煽られたりすることなく、心が鎮まっていることが大事なんだろうな。大きいことでも、小さなことでも、自分の世界に現れることに対して。

レッスン104-私は真に神に属するものだけを求める。

レッスン104は、引き続き「幸福=喜び・平安」のテーマを別の角度から説明している。

喜びと平安は私たちの権利である。

だけど、私たちは神からのギフトとしての喜び・平安ではなく、偽のギフトを後生大事にしているから、神からのギフトが受け取れないでいる。

神からのギフトを受け取るために、「私たちは心の中にある神の祭壇の前の神聖な場所をきれいに片づける。」というのがレッスン104だ。

一言でいうと、心の大掃除と浄化だ。

偽のギフトとは、この幻想のゲンジツの中で自分を幸せにしてくれそうに思えるもの-お金や地位、名声、容姿、若さ、学歴、などが浮かんだ。まだまだいろいろあるだろう。ブランド品・高級品やパワーストーンとかも?

ACIMはそれがいけないと言っているというより、それは幻想にすぎないから、それに惑わされて心忙しくして真の幸福をつかみ損ねるなと言っているのだ。

葛藤を静めて、

私は真に私に属するものだけを求める。

神からの贈り物である喜びと平安が、私の望むすべてである。

と心を整える。

ワークをして

いろいろ葛藤があるし、ガラクタと言われても執着したいものもある。一番は自分の身体というか、自分自身だ。

ACIMの理屈を学ぶことと、それを実践することはまったく別のものだなと思う。

私は圧倒的に実践が足りない。

ワークは理論を学び実践をする手助けにはなるけど、実践ではない。プールで泳ぎを覚えようとしながら、ずっとビート版にしがみついているだけみたいな状態かもしれない、と思った。

それでも、このワークをすると、心が静まり一時かもしれないけど、穏やかな気持ちになった。

心の奥底の純粋なところが感じられた気がする。そこで感じた道しるべこそが真の幸福につながっているのかもしれない。

日々の私は生活の不安定さと健康面からくる将来不安に心がかき乱されている。ACIMワークをやってそれを手放しては、また戻ってくるというくりかえし。この仮初めのゲンジツの世での“対策”が十分取られていないがために強い不安というか恐怖を感じているのだ。

だけど、このワークでは、

「舞台は整っている。好きなようにやってみなさい」といったメッセージのようなものを感じた。恐怖で自分を縛りつけていたら、何もできない。「恐怖を捨てて自由になれ」と言われているように感じた。

制限や問題はそもそも100%自分の観念が作って見せているものだ。心の奥底で感じた道しるべに、もう少し頼ってみたいと思う。

レッスン103-神は愛なのだから、幸福でもある。

2017-04-25

外は日差しが出てよい陽気だ。

今朝のテレビで、今日は朝鮮人民軍の記念日で北朝鮮が核実験や弾道ミサイル発射をするかもしれないと聞いた。それがあればアメリカは武力行使をする“Xデー”なのだとか。

こんな穏やかな春の日に?

その後どうなったんだろう。

北朝鮮の最高指導者の動きを見ていると、ACIMで説明されているエゴの思考がよくわかる。無意識の怖れと罪悪感が非常に強くて自らのうちに認めることができず他者に投影し、それを敵とみなす。そして、やられる前にやれ、悪いのはあいつだ、とけしかける。アメリカのトランプ大統領の方も同じだ。それをこうして見ている私も同じ。

そこが行きつく先は破滅でしかない。

でも、これはまた私が見ている幻像でもある。

そこでなすべきことは、赦すこと。大きなことであろうと小さなことであろうと、やはり赦すことだ。

レッスン103-神は愛なのだから、幸福でもある。

レッスン103は引き続き「幸福」がテーマだ。

神は愛なのだから、幸福でもある。

へんな文章だ。ここでもやはり「幸福」にまつわる罪の意識や、神に対する恐れという誤解を解くことがテーマになっている。

幸福は愛の属性である。」レッスン103はこの言葉から始まる。

愛はいたるところすべてにある。だから、幸福もいたるところすべてにある。

苦痛は必要ない。

喜びを感じていい。

私たちは、「苦痛があるからその対価や報酬として喜びを許可される」といった発想がしみついているように思う。

この発想は神には愛と罰の両方があるという、私たちのまちがった神のイメージに基づいている。

しかし愛には対極はない。すべてを包み込むものに対極はない。

私たちは苦役や苦痛の末のつかの間のごほうびとしての喜び…ではなく、いつであれどこであれ、喜びや幸福を自分に認めていい。

神は愛なのだから、幸福でもある。

 神を恐れることは、喜びを恐れることである。

レッスン103は上記の言葉で「神は恐れであるという誤った信念を訂正する」。

2つめの文章は、主語と述語を逆にして

「喜びを恐れることは、神を恐れることである。」とも言えるかもしれない。

幸せになってもいい。幸せであってもいい。神は私たちに幸せだけを望んでいる。ないものに振りまわされず幸せを見よ。

幸せに自らがかけているリミッターを外せ。

ワークをして

何年か前の歯医者さんで、すごい恐怖を感じたことをなんでか思い出してた。歯科医は、「恐い」という私の感情がわからず、「痛い」のが嫌なのだろうと思っていて、大げさに恐がっていた私に「なんだ、これ、神経もう抜いた歯だよ、痛いはずはないじゃない。だまされたよ」と言ってた。

だましたんじゃなくて、痛いのがやなんじゃなくて、恐いんだよ~と、口をあんぐり開けながら、心で訴えていたけど、おそらく伝わっていなかっただろう。

私はただ恐くて、恐くて。たぶん、今、また歯医者さんに行っても恐いだろう。

例え恐れが心の中だけに在るものだとしても、恐れている者にとっては恐怖はリアルだ。

私は怒れる罰する神のイメージを歯医者さんに被せていたんだ。

そしてエゴの支配が強いからこそ、強い恐怖を感じてしまった。

人はその立場や境遇によって、恐れの感じ方や感じる場面は異なる。自分で創り出してしまう罪の投影もさまざまだ。

歯医者さん、恐くない、痛くない、と言われても、恐いものは恐いし。

そのエゴは少しずつ薄皮を剥ぐようにでも、解体されているんだろうか。

 

そう思いを巡らしていたら、北朝鮮の若き最高指導者の恐怖心はいかばかりだろう、とふと思った。

恐れはどこにも行きつかないばかりか、それを心理的リアルにすることでさらに深い恐れを呼ぶだけだ。

レッスン103は以下の言葉で恐れを鎮めなさいと締めくくられている。

神は愛なのだから、幸福でもある。

 私が今日、追及するのは幸福である。

 私は真理を追求しているのだから、決して失敗しない。

レッスン102-私に幸せを望む神の意志を、私も共有している。

2017-04-23

印刷博物館

今日は月1度の小さな色彩サークルの日で、参加者は3名と少なかったけど、飯田橋にある「印刷博物館」というところに行ってきた。凸版印刷が2000年、同社の100周年記念事業で設立したものらしい。

人類が文字を象形文字を綴った古代から現在にいたるまでの文字と印刷文化の技術、歴史が体感できる素敵な空間だった。とくにインターネットが普及してからのここ20年余りの時代の大きなうねりのようなものを感じた。

同年代の友人と行ったこともあって、つい「昔はこうだったよね」という話に花が咲いた。ついでに昔の私はもっとチャレンジすることに抵抗感がなかったことも思い出した。若さ=自信だったのかな?それが春の風とともに心地よい刺激となった。

博物館見学の後はラーメン&ギョーザを食べ神楽坂をぶらぶらしたけど、人出が多いことにびっくりした。日差しが強くまるで初夏のよう。休日らしい気持のよい日だった。

レッスン102-私に幸せを望む神の意志を、私も共有している。

レッスン102も引き続き「幸せ」がテーマだ。神は私たちに幸せを望んでいるということをさらに学んでいく。

私たちもまた自らの幸せを望んでいる。ただ私たちはどこかで辛いことが幸せの条件だと思っているようなところがある。たとえば「これだけ辛いことに耐えたのだから幸せになれる」みたいに。

そしてどこかしら辛いこと、しんどいことを賛美するようなところがある。けれど、神はそのようなことを求めてはいない。

幸せは代償を求められるようなものではない。

レッスン102にも「苦痛によって手に入るものなど何もない。」と明記されている。「それは何をもたらすこともなく、存在してもいない。」これが苦痛に対するACIMの見解である。

幸せは私たちの心の奥底にある。

幸せは神の意志であり、その意志を私たちは共有している。

そしてレッスン102はそこに到達する練習だ。

Be happy, for your only function here is happiness.(幸せでありなさい。なぜなら、ここにいるあなたの唯一のはたらきは幸せでいることだからである。)」

これはなんと力強いことばだろう。これを心から受け入れることがこのレッスンのテーマだ。

ワークをして

やはり私は外部環境に振り回されてばかりいて、いつもつい外の「問題」ばかりに目を向け反応している。存在しないはずの「問題」に…。

まあ、努力が少ないわりにはこうしてつつましく幸せにやっている、とも思うけど、ここでいう幸せ、神の子に用意されている幸せとはそういうものではないんだろう。

いま ここ しあわせ

神の子にあるしあわせに、そこはかとなく感じるありがたさみたいなものなんだろうか。

しあわせを「考えて」いたら、わからなくなった。

ちなみに辞書で調べたら、語源は「仕合せ」から来ていて、それは「めぐりあわせや機運、天運」というものを表すらしい。今ここに巡り合わせたありがたさ…?

考えるものじゃなくて感じるものだよな。

人生で最も幸せ感を感じた時は…と振り返ってみたら、20代の頃のデートで二人でボートに乗っていた場面で出てきた(^_^;)

ACIMで言っている幸せってどんなだろう。

幸せでありなさい、と言われ、どうあればいいのか、そのあるべき姿がわかるような、わからないような、なんとなく少しは思い出せそうな、とそんな感じになった。

幸せ…がよくわからない。けど、大事なのはやっぱり、赦すことと、感謝することと愛すること、この3つかな、と。

そのそれぞれも、実はよくわからないのだけど。

この3つをなるたけ実践することと、より実践できるようになるためにACIMの理論を学び、聖霊の声に耳を傾けること。

幸せでいることが私のしごとだ。それはなんか力強く元気が出るメッセージだ。

レッスン101-神の意志が私に望むのは完全な幸せである。

2017-04-21

ワークの方は先に進みたいけど、それをブログにするのに手間どっていて、差が開いている。今日のレッスン101は4月6日にやったやつ。

あれ、なんだっけ?ってなっている。

少しワークはがまんしても、一回差を縮めたい。

「ワークをがまんする」とは、なんかよく勉強しているみたいだけど、ただ365という数が与えられたら学生時代のドリルみたいでただとりあえず終わらせたくなる感があるだけで、実際には最近のワークのどれもが理解不十分かつ不完全遂行(?)かも。でも完全な理解を待っていたら一歩も先に進めないし…。

パソコンに向かって座っていて腰が痛いな~と感じるようになった最近。区のリサイクルセンターに立ち寄った際に、ふとバランスチェアの出品があった。粗大ごみで回収したけどまだ使えるものを無料で区民に提供しているのだ。応募多数の場合が多いから抽選となる(私はここのくじ運だけは非常によく、家の家具の半分はここのだ)。

バランスチェアは、クッションが2つあって、座面が斜めに傾いていて、もう1つのクッションで膝、脛で体重を支えるしくみの椅子。腰椎カーブが自然のS字になって腰への負担が軽くなるのだとか。試しに座ってみたら、心地よかった。

それで何気に応募して帰ったら、当たってしまった。…家にバランスチェアが来た。思ったよりでかい。

机の前に置いてみると、パソコンに向かう分にはよいのだけど、文字を書くとなると座面が高すぎて机とバランスが合わない。それでは困る。ということで、本来の目的である仕事机の椅子としては却下。でも、背筋がぴんと伸びて気分がいいので瞑想的ワークをするのに使ってみたら、いい感じ。また本を読むのにも心地いい。仕事部屋から居住部屋の和室に移してとりあえずはそこが定位置になった。

ぜったいに自ら探しては買わないだろうものが、ふいに家に来て、意外な存在感を放つことになった。

レッスン101-神の意志が私に望むのは完全な幸せである。

レッスン101は引き続き幸せについて学んでいく。レッスン100では、幸せと喜びが神の子である「私」のはたらきと説明されていた。レッスン101は、それをまた別の角度から説明している。

罪が実在すると思っている私たちは、救済を勘ちがいしているのだという。すなわち神による救済とは罪に相応しい罰を受けることだと。そして、この世でどんなふうにしていても罰は履行されると。

もし罪が実在するなら、救済は苦痛でしかない。(中略)なぜなら救済は殺しにくるものだからである。しかもそうした救済は、自らの怒りがおさまるまで、ゆっくりと生贄からすべてを剥ぎ取っていき、すでに骨と皮となっている生贄に、恩恵のごとく歓迎される死を授けるのである。」という表現はおどろおどろしく、まるで地獄絵図のようだ。

だけど、罪は存在しない。「神からの分離」という「過ち」が実際には起きていない。前提がまちがっているのだから、当然罪はない、罰もない。

レッスン101では、ここにフォーカスする。何度もくりかえし教えられていることだけど、私たちの心はエゴのマインドコントロールにかかっている。しかもそれは無意識となっている深いものだ。だから、くりかえしくりかえし正しいことを再暗示させるがことく訓練する必要がある。

神の意志があなたに望むのは完全な幸せである。なぜなら、罪は存在せず、苦しみには原因がないからである。喜びこそが公正なものであり、苦痛はあなたが自分を誤解したしるしにほかならない。

この文言がレッスン101のメッセージをよく表していると思う。

ワークをして

私も頭ではこの内容は理解できるのだけど、目をつむってワークを始めたら、若い頃からのこの世での悪行の数々と、幸せになってはいけない根拠が浮かんできて、悲しくなった。

法的な罪ではないけれど…

親を憎みながら成長したこと。

親が大喜びした結婚からわずか一年で離婚してしまったこと。

父の病で母の介護がたいへんにしていても、故郷で一緒に暮らす決断ができなかったこと。

親との関係だけでなく異性との関係でも、親しくなった男性に攻撃的になってしまい責めてしまうクセ…

このゲンジツの世は幻想に過ぎないと思っても、私がこれまで住んできたのはここで、そこでの思い出がノスタルジックに悲しみとたくさんの層となって出てきて、その一番下層にある「無罪・幸せ」まではなかなかたどりつけない感じがあった。

この世に生まれ、知るかぎりの幸せもこの世で経験したものだから、罪悪感は悲しみだけじゃなくて自分が感じた幸せともマーブル状になっていて、だから、さっぱり手放すのが寂しいようにも感じる。

もちろんこれは全部エゴが見せているものなんだろうけど。ノスタルジックに思い出すというのが、エゴの罠なんだろうな~。

罪と罰はない。幸せであること。これを何度もくりかえすこと。また時間をかけて勘ちがいの薄皮を剥いでいくことが必要なんだろうと思う。

「罪はない」と心の中で唱えると、一方から「何都合のいいことほざいてんだ」という言われる気がする。

でも、神への献身とは私が完全に幸せでいること。それは神と聖霊とゆだね一体であることから感じる幸せだ。

今は、毎日揺らいでいる。自分を責めたい自分と、幸せであろうとする自分。覚えている時は幸せを選ぼう。。

レッスン100-私の役割は救済計画に不可欠である。

2017-04-19

レッスン100-私の役割は救済計画に不可欠である。

レッスン100で「私の役割」とされ望まれているのは、「完璧な幸せ」=「私が完璧に幸せでいること」だ。

神の子が幸せであることが強いメッセージなのだ。

世界は私自身を投影したもの。私というカケラを通して幻想を見たもの。

だとすれば、私が笑顔でいて幸せでいることが、こだまして、それが世界だ。

だから、自分の中の最も神に近い部分(キリスト、真の自己)に共鳴し、今日一日、喜びに満ちて幸せでいよう、というのが(かなりざっくりだけど)レッスン100のワークだ。

ワークをして

思えば、くりかえし言っている気がするけど、自分に幸せをゆるすことにはすごく大きな抵抗があった。

幼い頃から厳しく暴力をふるう母親が怖くて、いつか見返してやりたいと憎しみを抱いて育った。一方で、親の期待に応えられないことに、自分はダメな子だと罪悪感も感じていた。

そして表面的には親に従ういい子でいながら、成長するにつれ反抗心から行動することで心は葛藤してますます瞑想し、自分の反抗心や怒りを社会や周りの他者に投影していたように思う。一頃流行った言葉でいえばアダルトチルドレン。意外とよくある話なのかもしれない。

そのすべての根っこは自己嫌悪であり、それは「神との分離」が実際起ったこと、自ら引き起こしたことだという誤解だ。

今やその誤解は解けた。

おっちょこちょいで思いこみが強いんだから~、という笑い話にすぎない。

私は幸せであってもいい。

いや、そうではなくて、

幸せであることが私のはたらきだ。

この世が私の心が投影された世界であるならば、幸せな世界は私の幸せにかかっている。

これは、ひきこもっている私の妄想だろうか。

世界のことはさておき、まず、今日の私は幸せでいよう。

いいことがあれば   ○  ⇒ 幸せ

よくないことがあれば ×  ⇒ 不幸せ

このループから私が抜け出せることはあるかな?

いいことがあろうと         ○ ⇒

よくない(不都合な)ことがあろうと × ⇒ 常に幸せ

よくない(不都合な)ことは実際に在ることではない、赦すべきことだ。

これを、かなりリアルなこのゲンジツワールドで、それだけいつも覚えていられるかな?

身体も脳もエゴの支配下で作られたものだというのに、私たちがそこから脱して、神と聖霊の考え方に完全に移行することができるのだろうか。

それにはこの幻想の世の一生があと何回必要だろうか。

でも、その旅は始まっている。その道すがら必要なものはすべて与えられている。

そしてナビゲーターは聖霊だ。

だから、今この与えられたチャンスを活かそう、と思う。

レッスン99-救済が、ここにいる私の唯一の機能である。

2017-04-18

もう4月18日。春だ。

先週は慌ただしかったこともあってまったくワークをしなかった。ワークの方は先週土曜のレッスン103で止まっている。

レッスン93からの「起きている間、1時間の最初の5分をワークに用いる」というのが、私にはなかなか負担できびしくワークから逃げていたというのが本当かな。再開したら、やらなきゃなんないから…。

そういう意味では十分羽根を伸ばせた気がする(エゴが?)。そろそろワークに戻ろう。

…ダイアリーブログの方は、レッスン99から。

って、レッスン99ってどんな内容だったか…。ノートを見たら4月3日にワークをしている。

レッスン99-救済が、ここにいる私の唯一の機能である。

レッスン99では、「救済が、ここにいる私の唯一の機能(はたらき)である。」と言い、「救済と赦しは同じものである。」と言っている。

「救済とは」を私はよくわかっていないけれど、要は日々の暮らしの中で赦しを実践することだと思う。それがすなわち救済になるのだと理解している。

私たちのゲンジツの世界では、本来ありえないものが「在る」とされていて、真理と幻想が対等になっている。それを真理だけを「在る」と認識すること。それが赦しだ。赦しがなされれば同時に幻想から救われる。

そこで頼るべきは聖霊だ。

聖霊はこの神の計画を、神から受け取ったそのままに、神の心とあなたの心の内に保持している。

聖霊は、依然として1つのことが間違いなく真実だと知っている。すなわち、神は今でも愛であり、今あなたが見ていることは、神の意志ではない、ということである。

レッスン99では、聖霊の導きを得て、起きている間以下の毎時5分のワークをする。

救済が、ここにいる私の唯一の機能である。

今でも神は愛であり、これ(私たちが見ている罪、苦痛、死、悲嘆など)は神の意志ではない。」

そして、聖霊から、「真の自己を知るために、何を学ぶことが必要か教えてもらいなさい」とある。

ワークをして

レッスン99をやって感じたのは、とにかく必要なのは1つずつ細かいことも含めて、赦すべきことを赦すことだな」ということだ。

その日はマンションの上階の方が亡くなられたばかりで悲しかった。赦すべきこととして、まずそのことが浮かんだ。

私たちが「神から分離した」と誤解しエゴに拠って生きるようになって、本来ならばありえない恐怖を感じている。

その最たるものが、神への恐怖と死への恐怖ではないかと思う。

私は昔から自分の体への執着が強く、死も人一倍恐れている気がする。それもあって、ご近所さんが亡くなったことに気持ちががたがたしてしまったのかもしれない。

私の人生の目標は、もしかしたら、自分の死に面して、死に怯えずに心穏やかでいられることかもしれない、と思った。真剣に訓練したら、そういう怖さも消えるものなのかな。

でも、怖いから、それを克服したいと思っているとしたら、それこそエゴの発想だ。そういう感覚とは別物なんだろう。気づいたらそういう恐怖はなくなっているというようなものではないか…。

死をリアルにしてしまっている自分の在り方を変えたい。

聖霊のメッセージを受け取る

レッスン99をやった夕方6時のメモには、「(私に必要なのは)、聖霊のメッセージをもっと心をオープンにして受け取ること。エゴの垣根で閉ざすのではなく」と書いている。

そして、次の7時のメモには「なぜ、聖霊のメッセージを聴けていないのか」と自問して、その答えに「聴いてしまって自分(と自分が思っているもの)を変えたくないんだ。」とあった。聖霊からの何らかのメッセージを受け取ったら、それに呼応して自分や自分の環境を変えなくてはならなくなる。それを恐れているのだ。

私…と思っているものは、この瞬間にもどんどん変わっているというのに、私は私という幻想に執着していたいんだ、と改めて気がついた。

エゴの執着を溶かして、聖霊の声を聴くというのが、ここ当面の課題かな。これ何回も書いているような気もする。

真央ちゃん、素晴らしかった、ありがとうございました!

2017-04-11

真央ちゃん、引退表明

昨夜遅くにフィギュアスケート、浅田真央選手がブログで引退表明した。

12歳で天才少女といわれた真央ちゃんも、今年26歳。今日のニューズではこれまでの真央ちゃんの試合映像が流れ、感情移入して何度もうるっとした出た。

真央ちゃんを好きな人はたくさんいるけど、私もその一人。

なんでこんなに惹かれるんだろう。3年前、日本橋高島屋で開催された浅田真央展に行ったけど、その時にもときめいた。ずっと成長を見て応援しているから、“親戚のおばさん”状態になっているというのもあるけど、それだけじゃない。

 

真央ちゃんの3つの「姿の美しさ」

私にとって、真央ちゃんの魅力って何だろう…。

やっぱり、「姿の美しさ」かな、と思い当たった。これはいくつかある。

一つには容姿。私たちが若い頃は、欧米人と日本人は骨格が違うから手足が短いのは仕方がない、と言われていたけど、日本人は変わった。真央ちゃんを見た時、なんて足が細くて長くて華奢で優美なんだろう、とその容姿のかわいらしさ、美しさにまず惹きつけられた。

そして、挑戦する姿の美しさ。アスリートとしては当然なのかもしれないがぎりぎりのところで常に挑戦し続けた。その姿勢に引き込まれ、一緒に拳に力を入れて熱くなった。そして自分に眠っている何かにも点火してもらったような。

それから、フィギュアスケートを真摯に極める姿勢の美しさ。ストイックでひたむきでピュアで、まるで求道者のようにも見え、つい祈りをささげたくなった。

真央ちゃんを見て、強さと可憐さは共存していいだな、ということも学んだ気がする。

あれだけスター性と実力を極めている選手はそうは出て来ないだろう。

メダルを超えた何かを、みんなの心に残した

トリノ五輪は年齢制限に引っ掛かかり87日足りず、出場できなかった。「金メダル候補」と言われ、天真爛漫にぴょんぴょんと三回転、三回転半を跳んでいた14歳だった真央ちゃんはあっけからんとして、「4年後に出られればいいから」と笑顔を見せていた。

でも私を含め大人は、「4年後金メダル」がそう簡単なことではないと知っていた。女子選手は体のフォルムが変わるからジャンプが難しくなるらしいし、プレッシャーも強くなる。ずっと天真爛漫というわけにはいかないだろう。だから、あんなに騒いだのだと思う。

その後、あどけなく天使みたいだった真央ちゃんの表情には、苦悩や葛藤や涙が加わり、大人になるのはこういうことなんだ、と見せられた気がする。

バンクーバー五輪でのトリプルアクセル、素晴らしかった。あれだけ高度な演技をしたのにミスが足を引っ張り、念願の金には届かず、終了後の泣き顔が目に焼きついた(赤と黒の大胆な切り替えのある衣装だったけど、私は真央ちゃんにはラベンダー色や桜色みたいなやわらかい優美な色が似合うと思う)。

ソチ五輪の時は、まさかのミスでショート16位発進。…からの、“奇跡の4分間”と言われたフリーでの神がかった演技。自己ベスト更新。

テレビで何人かが「金メダルを取らせてあげたかった」と言っていたけど、それは真央ちゃんに魅せられたみんなの共通の気持ちだと思う。実力は十二分にあったのだから。

真央ちゃんは金メダルを取らなかった。金メダル、めでたし、めでたしではなかった。

だけどそのことが逆にみんなの心に余韻を残した。

メダルの色を超えた素晴らしい何かが在ることを教えてくれた。

そしてこれから先も、浅田真央は生きる。

       *   *   *

金メダルも銀メダルも、、ACIMにはまったく関連ないなぁ。というか、これも幻想なのか…。それとも真央ちゃんが滑る姿にみんな愛が増幅されたのか。

ともかく本当に美しかった。内面、外面含めて、姿の美しさに魅了された。同じ日本女性として誇りも感じた。

       *   *   *

素晴らしかった、真央ちゃん!感動の連続でした。ありがとうございます。

お葬式

2017-04-08

ご近所さんのお葬式

マンションの上の階の方が亡くなり、その葬儀に行ってきた。ご夫婦の旦那様の方で、世帯数が少ないマンションで一緒に理事を務めたことがあった。若く見えたが聞けば80歳だったという。早すぎるという歳ではないだろう。

ポストに葬儀の案内が入っていて、とくに親しかったわけでもないから、どうしようかと迷ったけど、かつて下の階の方が亡くなられたのを何年か知らず、後に知ってショックを受けたということがあったから、今回はそんなことは嫌だと思い、参列した。

お葬式ではなくお別れの会という形式だった。行ってよかった。元気だった頃の遺影を見て、懐かしく思えた。

散歩をなさる姿を時折お見かけしており、その方が逝ってしまわれたというのが不思議な気がした。病気になられてからは気落ちしておられる様子が痛々しかった。

当マンションはもう築35年を超える。私は越してきて14年になる。どんな一生だっただろうと思いを馳せた。昭和の高度成長期に若かりし血気盛んな頃を過ごし、小さいながら新築マンションを買った当時は希望に満ちていたかもしれない。

近しい人ではなかったくせに、とても切ない思いがした。ご家族も泣いておられないのに、友人代表の挨拶を聞いて泣けてきてしまった。

しかし、なんでこんなに悲しいのだろう。亡くなった方はいったいどこに行ってしまったんだろう。

これこそが神との別れの再現か

落ち着いて考えてみたら、これはまさに、父なる神との別離の再現映像なのかもしれない、と思った。私の見方はまさに二元性だ。死はないというACIMの教えに反する。

私たちはこのゲンジツの世で、神との別離―神の子の幻想の中だけの出来事で実際には起っていないのだけど―を、何度も形を変えて再現VTRのように見ている。

今のこの切なさ、悲しさこそが、別れへの反応だ。そしてこそれこそが今私が赦すべきことなのかもしれない。

私たちが見ているこの世はリアルではない。悲しみや別れはない。喜びと幸福、愛…神だけが在る。

ここで悲しんでいるのはエゴに支配された私の心だ。別離を本当のこととして捉え感情に飲み込まれている。

そして、ご近所さんのご葬儀にこんなに心が動いてしまったのは、故郷でひとり暮らしをしている同い歳の母とだぶるからなのかもしれない。いずれ迎える親との別れ。そしてやがては迎える自分の死。

ACIMを学んで、私が取りうるべき反応というのは、赦すことと感謝すること、愛すること、この3つだと思うようになった。だけど、実践の場ではなかなかそうはいかない。

思いっきり悲しいんだ。

玉ねぎの皮を一枚ずつ剥ぐように、ワークを繰り返していけば、エゴの見方を薄めていくことができるだろうか。

満開だった桜は昨日、今日の雨でかなり散った。今年の東京の桜もそろそろおしまいかな。桜の花は、はかなげで鮮やかで、あっぱれだ。まるで人の命のよう。

ああ、やはりこれもまたエゴの二元性の見方かな。まだまだ、まだまだだ。

レッスン98-私は、神の救済計画における自分の役割を引き受ける。

2017-04-07

ちょこっと間が空くと、自分のブログながらブログを開くのが怖くなる。ワークをする日とそれをブログに文章にする日に一週間の差ができてしまっていて、誰に見せているわけでもないのだけど「たまったレッスン、ブログに書かなきゃ」とちょっとしたプレッシャーを感じる。

そして、ワークの方は自分のための勉強で先を急がねばならないものではないのだけど、365という数が目の前にあると先を急ぎたくなる。

あー、そうだ、レッスン98からだ。レッスン98は英語が私には難しく大畑学さんの「A Course in Miracles Workbook精読」の解説を脇に置きながらでも、時間がかかった。

そして、なかなか理解できず先に進みづらいことに、(こんなことしていていいのか)といった焦りやいらだちも感じた(日本語だけで読んで進めてもいいのだけど、一回始めたやり方を変えたくないし、やはり原文で読みたいという気持ちがある)。

レッスン98:私は、神の救済計画における自分の役割を引き受ける。

レッスン98で気になったところは、

まず主題概念そのものの「神の救済計画における自分の役割を引き受ける」。

私の役割とはなんぞや。

私たちには果たすべき大いなる目的があり、そのゴールの達成に必要なものはすべて与えられている。

また「罪悪感のない者に恐れはない。…(中略)…為すべく定められていることを為すという静かな確信の中で、彼らは休らう。

大畑学さんの解説には「あなたが自分の無辜性に気付き、スピリットとして生き始めると、確実に救いの道を進むことになる。あなたがいつどこで、その役割をどう果たして行けばいいのか。それは、神の計画の中で既に決められている。完璧なタイミングと場面が与えられ、あなたは自分の役割を果たすことになる。そこに疑いはない。」とある。

なすべきこと。定められていること。

自分に必要な赦しと救済の機会。

私は、未だに救済とは何なのかがわかっていないのかもしれない。

おもしろいなと思ったのは、ワークブック中のイエスの“営業トーク”。

自分の機能(はたらき)を認識することに毎時間5分かけることの“お得感”が強調されている。

計り知れない大きな報償が得られることを思えば、5分というのは小さな要請ではないだろうか。」とか、「ここで提供されているのは、あらゆる苦痛からの完全な開放とこの世の世界にはない喜びを、あなたに保証するものである。」とか。

さらに「時間には意味がないのだから、あなたはすべてを手に入れる代償として、何も要求されていないということになる。これはあなたが決して損をしない取引である。そしてあなたが得るものは、まさしく無限である!」と。

「えらい得するんだよ」というお勧めの仕方に、くすっと一人で笑ってしまった。

それで、1時間に5分というワークを、ともかくやった。

ワークをして

3月から4月への切り替え時で、いつも心にある将来への不安をまた感じ出していた。ワーク時も不安が出てきて、レッスン98の内容というより、それを手放すということをした。

何度目かの5分ワークの時に、神における救済計画における自分の役割を果たす…とは、やはり聖霊に身をゆだねることだと感じた。

私は、未だに聖霊の声やメッセージというものがよくわからない。エゴの支配下にあって聖霊からのメッセージに耳をふさいでいるような気もするし、無意識ながらメッセージを受け取れているのかもしれないと思う時もある。

ACIMと出会うきっかけとなった『神の使者』に出会えたことだって、その後すぐにブックオフで続編の『不死というあなたの現実』を見つけたことだって、聖霊の導きがあってこそだと感じている。

一方で私のエゴは、「ここまで」と聖霊が動いていい領域を決め、そこからはみ出さないように、と聖霊の動きを監視しようとしているようにも思う(あくまで私の心の中のことで、妄想にすぎないのかもしれないけど)。

エゴは聖霊を脅威に感じているのだ。

エゴの縛りが強い今の私は聖霊さんが何を私に指示してくるのか、何かを犠牲にするよう迫るのではないかと、耳をふさいでいるようなところもある(気がする)。

その日の最後の、夜11時からのワークの時のメモには、

「聖霊さま、いつもありがとうございます。

私は神の救済計画における私の役割を喜んでお受けします。」とある。

一日を通したワークで、そういう心境になったということだろう。

エゴはすべてを見通せないし、幻想しか作り出せない。

聖霊はすべてを見通し、実在する喜び・平安に導いてくれる。

だから、もっと聖霊の声を意識的に聴く、その決意をしよう。したい。

レッスン97-私は霊である。

2017-04-04

昨日は急な雷雨にびっくりしたけど、今日は春らしいよいお天気だった。

久しぶりに友だちと桜を見がてら神社に行き、ランチしておしゃべりした。人と一緒にいておしゃべりする、ということが、今の私には非日常的。ひとりで行動する独特の気の張りがなく、お店でもくつろいでいられた。それが私には恵みと癒しだった。

花見をしようと大勢の人出があった。風もここちよかった。なんでもないことをぐだぐだとおしゃべりできるありがたさ。

「今年の春の日」と取っておきたいような、なごんだやさしい風の日だった。感謝。

レッスン97:私は霊である。

レッスン97の主題概念は、「私は霊である。」

真の自己を、シンプルに自分に思い出させる。

毎時間に5分を、このために用いる。

私は霊であり、神聖な神の子である。あらゆる制限から自由であり、安全で、癒されていて、全一である。赦す自由と、世界を救う自由を持った神聖な神の子である。

この言葉を自分と世界に宣言する。

ワークをして

このワークをやったのは3月30日だったけど、毎時0分を意識して、目をつむり「自分は霊である。」と唱える。自分の心深く、霊である自分を感じようとする。

この世界から浮いたような、このワークを、今、実践できる環境にあること、実際にワークをしていられることが、恵みというか豊かさなんじゃないかな、と感じた。じゃまが入らず、内向できる空間と時間があってこそできることだ。

ワーク中は聖霊(さん?)を身近に感じた。なにか自分を見守ってくれている存在があるように感じた。それは思いのほか力強かった。

赦すことと、感謝と愛

そして必要なこと、求められていることは非常にシンプルなのだ、と確認した。

赦すことと、感謝と愛だ。

赦すことは文字どおり、ACIMでくりかえし説かれている赦し。そして、愛―これを感謝と愛と表現した。(私から見ると、この世でいう「愛」という言葉は、恋愛の愛や相手に求める条件付きの愛という意味合いを示すことも多い、今「感謝」という言葉で表すような感情が、本来の愛に近いんじゃないかなと)

だから、赦すことと、感謝と愛。

ACIMで求められていることはうーんと煮つめればこれじゃないのかな。私にはこの三語がわかりやすい。

それをなるたけ覚えていようと思う。

だけどこのシンプルなことがなかなか覚えていられない。

実践で大事なのは、この幻想のゲンジツの世で、何かがあって感情が乱れた時、「これは現実じゃない」と思い出して乱れた自分をいかにとりなすか、だ。

いくらACIMを読んでわかったつもりになっても、心が訓練されていないと、つい幻想の出来事と自分の感情に巻き込まれ、自分の心が投影して見せていることだとは思えず、全部がわからなくなってしまう。

小さなネガティブな感情にも気をつけて、なるたけ上機嫌でいることを実践したい。

それと、聖霊の声、メッセージに耳をかたむけること。

気づけば忘れているけど、心を鎮め聖霊に耳をかたむける。これも心に留めておきたい。

レッスン96-救済は私の一なる自己から訪れる。

2017-04-03

私のウォーキングコースでは川沿いに桜並木があるけれど、今朝けっこうほころんでいた。木にもよるけど1~8分咲き。

今年もこの季節がやってきた。

桜はとても繊細で美しく、その開花時期が短い。完璧といえる満開は3日から一週間位。その後は新葉が出るのだから成長に向かっているのだろうけど、散り際の寂しさはなんともいえない。

日本人は桜が大好きけど、それは桜がこの世の無常を象徴しているからではないのかしらん。この世を無常と心得たうえで、その最高の姿を愛で祝福する。日本人にはそういうメンタリズムがあるように感じる。どうだろう。

他の国の方々も、桜のつぼみからその潔い散り姿に特別な思いを感じたりするのだろうか。

レッスン96:救済は私の一なる自己から訪れる。

レッスンの説明文がむずかしく感じる。抽象的で日本語でもなかなかすっきりとはわからない。

くりかえし、少し単純化してみよう。

自己… 善… 愛…   霊…(真理)

エゴ… 悪… 憎・怖… 体…(幻想)

私たちは自己とエゴ(偽自己)に分かれているように感じていてその両者の間に葛藤を感じている。

この両者間のバランスを取ろうとするのは無意味である。エゴは幻想の中にしか存在しないのだから。

そうではなくエゴの幻想性を見抜いて、実在するものに拠りどころを持たなければ、永続的に救われることはない。エゴの論理では何事もなしえない。それは砂上の楼閣である。

実在するものを拠りどころとすることこそ救済である。

そして神と一なる自己こそが実在するもの。

ただ、私たちは今エゴを拠りどころとしているから、それがわからない。心は二分され、葛藤があるばかりだ。

そこで頼みにするのが、神と私たちをつなぐ聖霊だ。聖霊は私たちの心に住んでいる。聖霊は救済のアイディアを持っている。

レッスン96では、自分の中の聖霊とつながりそのアイディア(想念)を分かち合うこと。それを自分のものと宣言することがテーマとなっている(ように思う)。

ワークをして

たしかにこの幻想の世で葛藤する自分に折り合いをつけて「うまく」生きようとしても、たとえ一時はうまくいったかのように思えても、必ずほころびが出る。

「何か」で状況は変わるはず。

そうやって「新しい何か」を探し、今まで何度となくトライしてきた。

でも、欠落感がない安らいだ気持ちは得られないばかりか、いずれは滅ぶ肉体という夢がクリアに見えてきて、怖ろしさは増すばかりだ。

50も半ばを過ぎるとこの世のカラクリが垣間見え、

何か他のもの、新しい何か…にも期待できなくなってくる。

この世の常識からみれば、ばかげているようにも思うし、私がACIMの考えを支持していることが周りの人にわかれば「頭がおかしいのではないか」と思われそうで怖くもあるけど、

やはり一なる自己を「本気で」拠りどころにすべきではないか。

ワークをしてそう感じた。

2層の自分

ワークでは私たちの心が2つに分裂していると書かれているけれど、

今は自分が別の意味でも2つ…2層になっている気がする。

① ACIMの世界観を学び、そこになじもうとする私、と

② 世間でなるたけ普通に生きようとする私、だ。

たとえば、テロや傷害事件のような残忍なことがあれば犯人を憎む会話をするし、身内が亡くなられたと聞けば、普通にさぞかし辛く寂しいことだろうと思う。それが私も知っている人であれば、やはりショックを受けるし悲しい。

一方で、これは幻想なのだ、赦せと言い聞かせる私がいる。

そういう意味で2つ、2層の自分を生きている気がしている。

そしてここで生きる上ではこの2層は必要であり、これはこれでいい、とも思っている。

レッスン95-私は創造主と一体の一なる自己である。

2017-04-01

春めいたと思ったのは一時で、一転4月に入ったというのに底冷えする寒さだ。昨日はレッスン98をやったけど、レッスン93から続いている「起きている間一時間のうちの最初の5分をワークに捧げる」というのがなかなかハードで、耐えきれない。今日はワークはお休みにしよう…。したい。

1時間に5分なのだけど、内容を振り返ったりしていると7~10分位かかる。そうなると残り50分位ずつの刻みでしか物事ができなくなって、それが寝るまで続くのがしんどい。ひとりで何やってるんだろう、という気にもなってくる。そしてできないことに罪悪感ももつ。これもエゴのなせる技なのか。

レッスン95:私は創造主と一体の一なる自己である。

レッスン95には、起きている毎時間、最初の5分をワークに充てることについて2つの利点が書かれている。

①5分以上の長いワークでは集中力が続かないから。

②何度も頻繁にくりかえさないと、つい忘れてしまうから。

エゴの誘惑に対して自動的に正しい対応を身につけるためには、とくに毎時最初の5分という強い枠組みが有効なのだと書かれている。いわば武道の「型」のようなものだろうか。

でも、外出時とかはきちんとできないし、家にいる時も、何十分後かに控えているワークが気になりおちおち他のことに集中できず、それがストレスになる。他のやるべきことがあるし「ちゃんと」できないだろうから、今日はいいことにして明日にしよう、と思ってしまうけど、レッスン95はそうした思いに対しても言及している。

おそらくもはや要求されたことに応えられなかったという理由で、その日の練習は失敗したと見なしたい誘惑にかれるだろう。だがこれも、ただその正体を認識することが必要なだけである。

すなわち、それは自分の誤りが正されることに対する拒否反応であり、再び練習に取り組みたくはないという気持ちである。

まさにそのとおり、おっしゃるとおりだ。

そして、そういう自分の弱さに寛容になることにも触れられている。

それは「単に間違いを犯しただけである。

これには訂正が必要であり、必要なのはそれだけである。」とも。

さらに「間違いが存続するままにしておくことは、最初の間違いに基づいてそれを補強し、さらなる間違いを犯すことである。

これはACIM以外についても通るすごい正論だ。

…ということで、今日のワークは以下の言葉から始まる。

私は創造主と一体の一なる自己である。創造主とも、被造物のあらゆる側面ともひとつである自己、無限なる平安と力がみなぎる一なる自己である。

そしてこの「私は一なる自己である」という感じを感じ取ろうとする。

ワークをして

この毎時間5分という枠組みのワーク、私はどうも日中よりも夕方から晩の方が落ち着いてできるようだ。

感じたのは、最近はしばしばそう感じているのだけど、ACIMの教えを、ここではないどこかの理想郷や空絵ごとのようなイメージではなく、本当にこれこそが現実なのだとリアルに感じてみよう、ということだった。

意外とこれまでそうはしていないのだ。

この諸々(問題や理不尽さが)ある現実社会や人生からの精神的なよすがみたいなものだった。

精神的な頼みであって、それだけが在る、との実感が薄かった気がする。

まったくなかったわけではないにせよ、「私のこころ」には玉ねぎのように幾層も層があって、それが剥けるたびに実感に近づくというしくみなのかもしれない。

ただ神だけがある。

そして私は神と一なる自己である。

それをこれからの人生時間、現実として感じてみよう、と思う。一時だけでも感じ、その一時を少しずつ何回もにしていきたい。