レッスン112-レッスン93、94の復習

2017-05-30

長い夏のはじまり

東京はすでに初夏の陽気だ。少し動くと汗ばむ。

これから長い夏が始まる。

春と秋はあるにはあるけど、10月初旬まで残暑を感じるようになっていて年々短くなっている気がする。この暑さが終わったと思う頃には今年ももうそろそろ終わり、と思うのかな。早すぎる。

世の中のテンポと体内時計がずれている感がして久しい。歳のせいかな?東京の街なかに住んでいるせいもあるかな?

そういえば、深夜、大声でどなるような声が続いて寝つけなかった。窓からそっと見下ろすと、ランニングシャツ一枚のおじさんが片肘で頭を支えた肘枕で道路で寝そべって誰かに大声で怒鳴っていた。相手は学生?こっちは小さくて何を言っているかわからない。

あ゛~。再びふとんにもぐりこんだけど、声は夜闇に響き渡っている。時計は2時半。これも私のエゴが見せる投影⇒すなわち赦しの対象なんだろうけど…、こうして「結果」としてこの世に出てきたものに、どう対処したらいいのか…。術をまだ身につけていない。

いろんな人の声が混ざって聴こえてくる。30分位して静かになったので覗いてみたら、おじさん、消えてた。誰かに“撤去”されたのか。

レッスン112-レッスン93、94の復習

l93)光と喜びと平安が私の中に宿っている。

 私は光と喜びと平安が住む家である。私は神の一部なので、神と共有するわが家にそれらを迎え入れる。

l94)私は神が創造したままの私である。

 不変なるものによりそれ自身と同じものとして創造された私は、永遠に創造されたときのままであり続ける。だから私は神とひとつであり、神は私とひとつである。

ワークをして

以前よりこうした考えが「信じられる」と思うようになっていると気づいた。

真実のところ「私は光と喜びと平安でできている。」のだと思う。

では、それ以外の神の性質と合わないものはすべてやり過ごそう。赦し、囚われることなく通り過ぎよう。

たとえば、おカネ…というものはほんとうはない。だから、ものを買ったときでも、おカネとものとの交換=取引実行と思うのではなく、私によきものが与えられた、そのこと自体にただ感謝を示すことにしてはどうだろうか。

ますます浮世離れするか(^_^;)

言葉では表せないけれど神の表現に用いるような、平穏さ、安心、静けさ、喜び、幸せ、無限の愛、感謝、豊かさ…そういうものだけが、(真に)在ると思って(それ以外は非存在、赦しの対象)、日常の生活をしてみたら、どうだろうか。

言うは易し行うは難し… だろうけど。

もちろん、この世であるかぎり、身体を維持する必要やここでの生活を維持するための要請もあって、それはそれでこなしつつ、自らに関わる人やできごとのなかに、平穏さ、安心、静けさ、喜び、幸せ、無限の愛、感謝、豊かさだけを見て生きてみてはどうか。

それを完璧にやるのは無理だとしても、近づけるようにする。

“嫌なこと”“不都合なこと”が自分に降りかからないかぎりはできるかもしれないけど、何かあったらたちまち崩れるんだろうな。

それでも、ACIMのワークを始めてから4年近くになるから、もうACIMをまったく知らなかったときのようには世の中を見られなくなっている。

これまではACIMの世界観を心のどこかにあるピュアな憧れの世界、といった位置づけで生きてきたように思うけど、ここにきて、やはり、この現実に広がっている実際に在る世界として生きたいと思うようになっているのだ。

だから、真に在る神なるものをこの世に見たい。

アファメーション

小さな不快感でも気づいたら、すぐゆるそう。

レッスン111-レッスン91、92の復習

2017-05-29

レッスン111-レッスン91、92の復習

復習Ⅲでは、前述のとおり、1日につき2つのワークを復習する。

特徴的なのは、ワーク時間のしばりが強いことで、できれば朝目覚めてすぐ、それと夜眠りにつく直前の5分をワークに用いる(無理ならば、午前中と、夜寝る前の1時間以内に)とされている。

その際は、「あなたの心がそれらの概念を、あなた必要なことや、問題だと思えることや、あらゆる気がかりなことに、自然に関連づけていくにまかせる。

また日中のワークでは、起きている間ずっと毎時0分には、2つの復習のうち最初の主題概念を、30分にはあとの方の主題概念を、それぞれ数秒でよいから復習する、とある。

l91)奇跡は光の中で見える。

 闇の中では見ることはできない。聖性と真理の光が私の心を明るくし、内なる無垢性を見ることができますように。

l92)奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつのものである。

神からの贈り物である強さを通して、私は見る。神から与えられる神の強さが私の弱さと入れ替わり、その贈り物が、私の弱さである闇を消し去ってくれる。

ワークをして

レッスン111のワークをやったのが、5月10日。もうずいぶん前のことだな。

正直なところ、この日のワークがどうだったかほとんど思い出せないけど、メモには、レッスン91の本文からいくつか文言を書きだしている。

あなたが『自分』だと思っているものは、取り消されるべき信念である。

肉体に捧げることをやめた信仰心を今度はどこへ向ければいいのか、その対象を実感する必要がある。

「(自分についての)真理を体験するよう努める。

たぶん、ここらが気になったんだと思う。

そして、「このコースは学びのコースだけど、理解というより体験・体感こそが学びなんだと思う」と感想を書いている。

夜の就寝前のワークでも、「頭で理解しようとしていたことを、こらからは体感しよう」とある。

そして、レッスン68の「愛は不満を抱かない。」を引き合いに出して、「この不満には、広い意味で心配や不安、いらいら、後悔など、現状に満足していないことすべてが含まれる、と思う。これらはエゴが見せる幻想だから、こうした感情が起こったら、その都度赦そう。そして、聖霊の世界のことが見える真の視力を得られるよう、重ねよう」と書いていた。

問題は、私の心がついACIMを離れてさまようから、学びも3歩進んで2歩下がるみたいな緩慢なペースで、エッセンスが濃くならないことかな。

進んでいるか後退しているのか、自分ではわからない。

アフメーション

神の子が持ちえないネガティブな感情が起こったら、都度ゆるそう。

(「赦す」をひらがなで書いたら、ちょっとやわらかくていい感じがする。)

復習Ⅲへ

2017-05-26

やはり!?戻ってきたiPad mini

そうそう、先々週故郷に帰省して母にあげたiPad miniは「動かなくなった」ということで、宅急便で私のところに送り返されてきてた。数日そのまま寝かせていたけど、おそるおそる電源を入れてみると、Appleのりんごマークが表示されたあと、一行「iPadは使えません」の表示。

これは私には手に負えない、と購入したお店に持っていったら、、本来は設定していなかったパスワードを母が知らずと設定してしまったのか?…はっきりわからないけど、とにかく初期化するしかないとのこと。

で、買ったときのまっさらな姿になって戻ってきた。原因がイマイチ不明でまたヘンになったら…と思うけど、その時はその時。来月父の3回忌の時に持っていくことになった。

81歳、今度は使いこなせるか。

ワーク、復習Ⅲへ

ワークの方はようやく復習Ⅲへ。このACIMワークは、思い返せば昨2016年5月23日からスタートしている。で、今年の5月23日にはレッスン113までやっていたから、このペースで行くとワークは3年ちょっとかかる計算になる。

このブログ、ワークをやることが目的というより、もっと広く深く多角的にACIMを学ぶきっかけにしたいと思っていたけど、実のところは、ACIMを忘れない、かろうじてつながるためのものになっている気もする。

しかも、読み手を設定してもいない自分の確認だけみたいなもの、こんなもの何になるかとも思う。だけどそれでも自分の中のACIMプロジェクトのお皿を回し続けるという意識づけになるだけでもよしとしている。できれば、もっと頻度高くワーク以外のことを書きたいが。

復習Ⅲにおける「特別な形式」

復習Ⅲは、レッスン91~120の復習。毎日2つずつ復習する。

ただ特別なやり方が示されていて、朝起きた直後の5分と眠りにつく前の5分を2つのワークの復習に捧げる。やりたければもっと長い時間をかけてもよい。

それに加え、起きている時間はずっと毎時0分ぴったりに1つめの主題概念、30分ぴったりに2つめの主題概念を復習する。その時間は「それぞれにほんの数秒かけるだけでよい」とされている。

シンプルといえばシンプルなワークだ。だけど、これがなかなか(^_^;)

この期間は特別な形式に従って練習するので、できるだけ厳密にそれを守ることが特に望ましい」とあるけれど、どれほどの厳密さが求められているのか。

つい時計ばかり気にするようになる。もうそろそろかな、と思って時計を見たら、55分、あと5分後か…と思ってふっと気づくと、もうすでに40分経っていて、とっくに2つも飛ばしている…!

こんなことがしょっちゅうで、ワークになっているんだかいないんだか。誰かと一緒の時はすでに諦めてしまっている。ひとりで外を歩いているときなどは、忘れまいとずっと心の中で主題概念を唱えながら歩くことになる。

これならずっと言っているのだから、0分だって30分だって逃さないだろうと。それでも気づくと注意が他に向かってすっかり忘れて時間が経ってる。我ながら呆れる。

ワークの説明にも「もちろん私たちは、ここで勧められている最良のやり方を、あなたが毎日毎時間、実践できるわけではないことは承知している。

決められた時間に都合がつかず練習できなかったとしても、学びが妨げられることはない。」とある。一方で、「しかし、もしも要請されている時間を練習に捧げるのは嫌だという理由で、あなたが練習を省いてしまうときには、学びが妨げられる。」とクギをさされている。

理由はなんであれ、やりたくなかったので、抜かしてしまった練習は、自分のゴールは練習することだと思い直した時点で、ただちに取り組まなければならない。」とも。

つい何度も抜かしていると、「今日はもういいや」という気になる。「明日は朝からちゃんとやろう」でも、次の日もやっぱり抜かしてしまい「いいや、明日ちゃんと」となり、気づけばフェイドアウトしている。

5月12日にレッスン113で止まってちょうど二週間、今日レッスン114を再開した私がまさにそれだった。

ワーク時間が定められることで精神的負荷がぐっとかかる。無意識でも常にACIMを意識せざるをえなくなって、それに無意識にある抵抗感がぐっと邪魔をするみたいだ。

さっきまで覚えていたのに、ふっと忘れ何時間を経っているというのは不思議だ。私はまだまだACIMを学ぶのには“気合い”が少々必要で、無意識のうちにできるようにはなってないんだなと思う。

他の人はこうしたワークをどれくらいの厳密さでやって、今日はOK、次へ、としているんだろうか。。。

「この世は幻想」にフォーカスするのではなく…

2017-05-25

「この世は幻想」というワナ

気づけば5月も残りわずかに。

そして気づいたら、ACIMワークが5月12日のレッスン113を最後に止まり、すでに12日も経っている。12日夕方に母がひとりで暮らす富山に帰省して、すっかりACIMとは別世界に行ってしまい、東京に戻ってからも慌ただしくしていて、止めたお皿を再回転できていなかった。

復習Ⅲに入って、起きている間毎時0分と30分に主題概念を復習する、というきまりを重たく感じていて、無意識に再開したくなかったのかもしれない。

思えば、ACIMワークから離れていた時間、解放感も感じていたし楽しかった。

ワークをしているなかで、私はどうも「この世は幻想」という思いが強すぎて、なんでも「どうせ幻想なのだから」とやり過ごして現世に興味が薄れつつあった。母は美術や歴史、そしてジャイアンツが好きで、帰省中もいろいろ私に話しかけてきたが、そうしたものに対しても「幻想だし」という冷めた思いがあった。

だけど、それはACIMの主眼とするところではない。

ゲイリー・R・レナードさんの3冊目の本『愛は誰も忘れていない』にも、アサンディッドマスター、パーサの発言として「何かに取り組もうとするとき、つい人生は幻想だという点に焦点を当ててしまいがちになるけど、焦点を当てるべきはそこではないわ。」(初版、p33)とある。

そして「なぜって、他者を見るように自分自身を見るというのはほんとうで、人々や世界を幻想ととらえて人生を歩めば、次第に無意識下で自分自身のことも幻想と考えるようになってしまうから。そうすると虚無感を覚えたり、無意味に感じて落ち込んだ状態になるわ。無意識では、他者についての思いは、あなた自身についてのメッセージに置き換わることを忘れないで」と続く。

これは私が陥りつつあったことかも。

他者を完全無欠な存在とみる

それが生命力と好奇心旺盛な母の刺激によっていい意味で崩れた。そしてそのままマイACIMプロジェクトからも離れてしまっていた。

同著では、「さあ、かかわる人を時空の小さな枠に入れて制限する代わりに、身体を見すごして、Jがしたことをやりましょう。その人を限界のない存在として考えたいわ。

他者について考えるとき何かの一部としてではなく、完全な存在だと考えるべきよ。そうすれば、幻想にフォーカスしなくなるし、とても前向きな結果が得られる。」(初版、p35)と、どう姿勢の改め方も書かれている。

「他者を神にほかならない完全無欠なものとしてとられると、自分自身のことも徐々に同じように、そう経験するようになるわ。」

「出会う人全員の霊(スピリット)のほんとうの姿を目撃することよ。」

これらのアドバイスにしたがって、私も「この世を幻想」としてとらえることから、「出会う人はほんとうはみな完全無欠な神なる存在」という本質を見ることにシフトしたいと思った。

出会う人みな、勝手に「かぞく」にするぞ

そして、何の番組かテレビで誰かが、「かぞく」というものを血縁や親戚関係のある「家族」からもっと広い意味で「かぞく」としてとらえ直したい、みたいなことを言っていた(なんとなく聞いていたので主テーマは何かわからないけど)。それを思い出した。

ひとり身でひとり暮らしの私。母はいるけれど、自分の家族は作ってこなかった。それを寂しく感じることもある。だけど、思いきってこれから出会う人をみんな「かぞく」としようではないか。ふとそう思った。

出会う人は、「完全無欠な神なる存在」であり「かぞく」だ。

はたしてこのお題目はどれだけ覚えていられるか。それがまずはお題―。

工事という名の営業にプチパニック(^_^;)

2017-05-19

ケーブルテレビの工事…、いや営業?

先月ポストに地域のケーブルテレビから「既存設備双方化改修工事のご案内」というチラシが入っていた。家の中のテレビコンセント(端子)の交換作業だとか。

これはいかなるものか。「下の表からご都合のよい日時をお選びください」とある。「ケーブルテレビには入っていないけれど、必ず受けるべきものなのか。「これを受けなければ他の世帯に支障が出る場合もあります」ともあってなんだか恐い。

よくわからないけれど、希望日時を選んで来てもらうことに。男性2名で来られて、ひとりは作業。もう一人は勢いおく「ご説明させてもらいます」と、インターネットと電話を現在のフレッツ光からケーブルテレビに切り替えるとよい、という話を始めた。

なんだ、交換工事というのはとっかかりで営業だったか、と私。さすが営業の方はトークが上手く「ケーブルテレビの方が現在のフレッツ光より通信速度が速くなります、プロバイダーも必要なくなるから、その分安くなります」と資料を見せながら説明し、すかさず契約書を出して「こちらにサインを、こちらにクレジットカード番号を」と迫ってくる。

安くなるのはありがたいけれど、これまでのメールアドレスが使えなくなるのは困るし…と戸惑っていたら、「たぶんプロバイダーはメールだけ使わせてくれるはず、調べましょう」といったん帰られたが、「工事の認めのサインもありますし、夜9時にもう一度来させてください」と電話がかかってきた。

私はひとり暮らしだし、工事ということでも知らない男性二人が家に入るのに抵抗があったのに、夜にまた来るってー。それにその人がいいと言っても、本当によいかどうか自分でしっかり確認して進めたい、と心の中で黄色信号が点滅した。だいたい工事だと言ってひとんちに入って、すかさず営業攻勢とはずるくないか?

結局、その日は余力もなかったこともあって、夜9時の訪問は断り、翌日故郷に帰省をしたが、東京に戻ってきてから何とかという認めのサインが必要?だとかで再び訪問されることに。

気づけば“戦闘モード”に

そのサービスが本当に自分にとってよいものなのか、それとも必要ないものなのか、その方が訪問するまでに自分なりに調べて心を決めなければ…と、気づけば“戦闘モード”になってた。

その方と戦おうというのではないけれど、専門知識が乏しいことやなんかで、「お客様によいことです」と強引に向こうのペースで契約を押し切られるのは嫌だ。かといって、本当によい安くてよいサービスならば受けたい気もするし…と。

インターネットでケーブルテレビとフレッツ光のメリット、デメリットを調べ、ケーブルテレビのこうした訪問が一部で「点検商法」と警告されているサイトも見た。消費生活センターのサイトに事例もあった。

ケーブルテレビには携帯会社がauなら割引サービスがあるとのことだったので、私のプランならどの程度コストダウンになるのかもauショップで聞いてきた。

いろいろ調べた結果、通信速度は光の方が勝るとの記事があり、ネットが中心の私の場合、フレッツ光のままでよいのかもしれないーと思った。コストダウンは魅力的だけど今すぐ契約しなければならないものではないのでは?何より、工事にかこつけて契約を迫るやり方が気にいらない。

約束の日時、家に上げるのは嫌だったので、マンションの1階で待ち、迷いはあったものの「今回は見合わせます」と営業マンに伝えた。

強引に食い下がるだろうと身構えていたけど、意外にあっさり「そうですか」と引き下がった。前回端子の前に重い家具があって「工事」の一部は未完、「次に家具の中身を出していただいてから改修工事しましょう」という話だったけど、「それじゃあ工事も必要ないです」と。

「工事はタテマエでやっぱり営業が主じゃないか~」と思ったけど、とりあえずはほっとした。

渦中に赦しはむずかし

ここで私が思ったのは、この世は幻想だから、ネガティブな感情が起きたら赦すということは覚えていたけれど、幻想の世であってもその幻想の中で生きている体を持った私たちには判断すべきことが常にあり、その際、聖霊の考え方ではなく、エゴの考え方に傾きがちだということ。

私は、営業マンの強引さに嫌な感じを持って、「甘くみられて強引に向こうのペースで契約させられてなるものか」と一日だけど熱くなってしまった。その人の訪問にキンチョーし前日は夜も寝つけなかった。

彼は私のエゴからの投影なんだろうと思うけど、渦中にいる私にとっては、そんなことを言っている場合じゃない。不本意な契約はしたくないのだ!

今は落ち着き、通信に関する知識を含めいろいろ学ばせてもらったな~と思える。でも、渦中にいるときは、「これを赦すって、どうやることが赦すんだろ?まさかどんな契約でも受けるってことじゃないし」と、訳がわからなくなっていた。

心の中での赦しと、それをこのゲンジツというかたちのレベルでいかにふるまうかが、まだイマイチわからない。

やっぱりその都度、カーッとなって、エゴにまっさかさまに落ち入ってしまう。遠くのことは簡単に赦せたつもりになるけれど、自分の身に降りかかることはこんなささいなことでも動揺してしまうのだ(^_^;)

赦し道 はるか果てまで 先見えず。

レッスン110-私は神が創造したままの私である。

2017-05-17

チャレンジが大事!? ひとり身だからこそ

“母へiPad mini”プロジェクトは、「こんなもの、もったいない、余計なものを」と言われてしまう危惧もあったけど、2日間の手ごたえはまずまず。興味を持ってくれたみたい。使いこなして、ひとり暮らしの刺激になってくれたらいいと思いつつ、東京に戻った。

iPad miniは私も何年か前にWi-Fiモデルを買ってポケットwifiなるものを契約して使っていたけど、持ちだそうとすると意外に重く感じて実際持ち歩くことはなく、ポケットwifiは2年契約終了を待って解約。

家にはWi-Fiの環境がなかったので、前に入れた大畑学さんの『A Course in Miracles Workbook精読』『A Course in Miracles Text精読 』といったACIM関連の電子書籍を読むためだけのツール(すなわち本)になっていた。けれど、母のおかげで入門書をいっしょに読んで一緒に触って、私も家でいろいろ使えるようになったら楽しいかも、と思った。

50代になって「世の中がひとつ便利になると、自分はひとつ置いていかれ不便に」みたいに思っていたけど、ひとり身だからこそ情報は大事かな、ITやSNS関係のこと、少しずつでもチャレンジしていこうかな、と思えた。

今、ダイアリーを書いているこのブログも、ワードプレスの基本的な使い方やカスタマイズがわからなくて、マズイ状態のまんま放置しているのだった。まずはこれを何とかしなきゃ。

レッスン110-私は神が創造したままの私である。

このレッスン110の主題概念もまた、ACIMの基本となる考えだ。

この言葉だけですべてのことが含まれている。

あなたが神が創造したままであり続けるなら、見かけだけのものが真理に入れ替わることはできず、健康が病気となることも、死が生の代替となったり、恐れが愛の代理になることもありえない。あなたが神が創造したままであるなら、こうしたことのすべてがもともと起ってはいない。

と説明がある。

これは短い言葉でACIMの考え方をわかりやすく示しているように思う。また、

もし、あなたが神が創造したままのあなたであるなら、あなたの心が神から分離したことはなく、あなたの心とほかの者たちの心の間にいかなる分裂もなく、あなた自身の心の中には一体性があるだけである。」とも。

これは私たちが「戻りたい先」を表しているようにも感じる。これは説明があるとおり「もともと起ってはいない」ことだ。

レッスン110のワークでは、

私は神が創造したままの私である。神の子が苦しむことはありえない。そして私は確かに神の子である。」という言葉をしっかり心に抱き、

「神が創造したままの私」=「内なるキリスト」を、心のうちに探し、認める。1時間に5分のワークで、自分のもっとも聖なるところにアクセスする練習をする。

ワークの終わりには、

一日を通し、感謝の気持ちで神を思い出し、今日私たちと出会うすべての者たちに、愛に満ちた思いを抱く。私たちはそのようにして神を思い出すからである。」とある。

これはとても美しい文言だし、実践的なアドバイスだと思う。

ワークをして

シンプルなワークだけど、「私は神が創造したままの私である」と受け入れることが、実はもっともむずかしいんだろうな~と思った。

つい、「そんな…、こんな罪深い私を」といった気持ちになってしまう。心の形状記憶合金があるみたいだ。

でも、私は少しずつだけど、ACIMの考え方が浸透してきているし、エゴをベースにした考え方よりこっちの方が理にかなっていて整合性がある、と感じている。加えて副次的効果として、このゲンジツの世に対してよい結果ももたらすと経験しつつある。

だから、世の中からは狂っているように思われるかもしれないけれど、なるたけACIMの教えに沿って毎日をやってみる、という密かな実験を続けていこうと思っている。赦しの機会に直面した時、それができるかどうか自信ないけれど。まぁそれを気にしていても「赦しの機会は突然に」だから仕方ないし…。

アファメーション

私は神が創造したままの私である。そして私は確かに神の子である。なんとありがたいことよ!

レッスン109-私は神の内に休らう。

2017-05-14

帰省して母にiPad miniを渡す

週末故郷に帰省した。母の顔を見に。そして“母の日”だからというじゃないけど、母用のiPad mini、中古品だけど買ったのでそれを渡しに。

私の母は81歳になるが好奇心旺盛で、何かわからないことがあると電子辞書でしょっちゅう調べている。だけど最近のことや固有名詞は電子辞書には載っていないことも多く、私がiphonで調べて教えると羨ましそうにしていた。それでかねてから母用にiPad miniを買ってはどうかな?と思っていたのだ。

Amazonで手配した無線LANルーターの到着を待って説明書を見ながら設定して、ネットで調べつつ、母用のApple IDを取得して関心持ちそうなアプリを入れて…、基本操作を説明していっしょに練習して…、と機械系が得意でない私にしてはなかなか頑張った。

iPad miniは私自身使いこなしているわけではないし、ふだんひとり暮らしの母が使いこなせるのかどうかわからないけど、母は興味津々。喜んでくれているみたい。今のところは、持ってきたよかった、と思う。

母に対する愛情と懐かしいような、切ないような気持ち、ACIMでいう「特別の愛」だな、と思うけど、なんともできないでいる。やはり特別の思い入れと執着がある。

ここ富山でもワークをしたいと思ってきたけど、母の日常にペースを合わせると、そこはACIMとは別世界で、30分に一度という復習Ⅲのワークはぐだぐだになってしまった。でも人との会話がたくさんの時間は、私が東京ひとり暮らしで黙々とACIMワークをしている時より、見方によっては健全な気もした。

「ACIMは万人向けではない」と言われるが、家族がいてそれなりに満たされていたら、関心が向かないのもわかる気がする。まして母と同じ目線に立って見る生活ではこの小さな町こそが世界だと感じる。

レッスン109-私は神の内に休らう。

レッスン109はゴールデンウィーク中の5月4日にやった。

私は神の内に休らう。

このきわめてシンプルな概念のもと心の内に、安息と静けさ、平安と静寂、安全と幸福を感じるよう努める。外界がどんなであろうと、求めれば静けさと平安がいつでも自分の心の内にあるということを、起きている間ずっと1時間のうち最初の5分、文字どおり「神の内に休らう」ことを通して、体験する。

このことが内なる真理を目覚めさせ、すべての人やものの中にある同じ真理を見ることへとつながる。

今日あなたが5分間休憩するたびに、世界は目覚めへと近づく。

そして「あなたは今日、神の平安の内に休らい、自らの安息の中から兄弟に呼びかけ、あなたとともに休らうようにと、彼らを彼ら自身の安息へと引き寄せる。」とも。

ワークをして

ゴールデンウィーク中はいつもはうるさく感じる前面道路の車の往来も比較的少なく、街の空気が緩んでいた。私は一日を通して何度目かになる『神の使者』の再読をしていた。そういう環境だったからか、このワークも心地よく感じられた。

夕方のワークの後感じたのは、なんだかんだ言っても、未だに私はエゴの視点が強いな、ということ。しょっちゅう、不安や問題、不満を感じている。

この世の中の一般的な見方とはまったく違うかもしれないけど、不満、不安、心配などが見えているという時点ですでにエゴの見方に陥っているということだ。こうした感情は、「神からの分離」(神の世界を自分から離れた)という最初の分離(という勘違い)に対する、恐怖と罪悪感の変形バージョンだ。

世界にはいろんな問題があり、連日ニュースでも取り上げられていて「解決すべきこと」も山積だけど、見えている問題は、最初の勘違い(原因)の結果として見えているに過ぎない。

こうした問題に関心を抱かずまったく内向きでいるのは世間的には「よくない」ことなのかもしれないけど、まずは自分の心のあり方のみ注視しようと思った。

具体的には、愛は不平不満をいっさい抱かない、を実践しようと。

いろんなことは「ある」ように見えるけれど、まずは「原因」である自分の心を安らかにするのだ。そのために「神の内に休らう」という今日の概念の実践は最強だと思った。

アファメーション

私は不平不満がいっさいない神の内に休らいでいる。

レッスン108-与えることと受けとることは、真理においてはひとつである。

2017-05-12

カルチャー講座

おとといは月1回のユング心理学のカルチャー講座だった。今は秋山さと子著の『ユングの心理学』の読み合わせをしたり、見た夢の話をしたり。2002年の5月から参加している講座だから、思えばもう15年になる。

先生は秋山先生に直接学ばれ心理学にとどまらず宗教やオカルト的な方面にも造詣が深い。ベテランのカウンセラーでもある。これまで多くを学ばせていただいた。講座に出ていたおかげで、「無意識」や「投影」「否認」「象徴」といったACIMで用いられている概念のベースがわかりやすかったように思う。

一方でユングに限らず他の心理学や宗教とも、ACIMの考え方はまったくちがう、ということも最近ますます感じるようになってきた。

なにせ、すべてが自分の投影でその結果として世界を見ているという考えに立つのだし、「神はある、それ以外はない」となれば、誰とも合わなくなっても仕方ない。ふだん、このACIM的見方を口にすることはない。だけど、私の心にACIM的見方が浸透してきたおかげなのか、自分が浮いているように感じることが増えてきた。

他のACIM独習者はどうなのだろうか。いわゆる世間でうまくやっているかな。

レッスン108-与えることと受けとることは、真理においてはひとつである。

レッスン108は、私たちのこの世とは異なる、真理の世界とそこにおける原理を説明している。

そこでは光に満たされすべての葛藤やまちがった想念が消える。その光とは、肉体の目が見る光ではなく、闇が知覚されることのない心の状態をさす。

ここでは対立するものはなく、すべてが癒され平安を分かち合う。

そして、ここでは与えることと受けとることはひとつ。同じである。

与えることと受けとることの両方が、一なる想念の二つの側面と見なされており」と説明がある。

この「与えることと受けとることはひとつ」ということを体感的に学ぼうとするのが、レッスン108である。

これを体験するために、「自分のものとするために、すべての人に差し出したいと思うもの」について、イメージして、

すべての人に、私は静けさを差し出す。

すべての人に、私は平安を差し出す。

…といった具合に差し出して、その後、自分が与えたものを受けとる。

ワークをして

差し出すものは何でもいいのかな。

まず思いついたものとして、豊かさ、平和、喜び、感謝、穏やかさなどを差し出した。

笑顔、時間…こうしたものは幻想なんだろうか。

健康…からだのことでもいいのかな。

自分が差し出したものは、地球のすみずみまでインターネットの網のように、通っていくようなイメージをもった。

それは、あなたが与えた分だけ、あなたに戻ってくるだろう」と説明されているが、たった5分でも、差し出した方の自分がとっても豊かな気持ちになれるのを感じた。このワークはたとえ短い時間でも心が穏やかになる。

そして何度か5分のワークを繰り返すうちに、「あ、すべての人…は、いないんだ」「私は私に差し出しているんだ」と気づいた。

私は私という個ではなくて、一なる神の子だ。その一なる神の子に差し出しているのだから、当然受けとるのもまた一なる神の子、自分なんだ…

完全に闇が知覚できない心眼(ヴィジョン)が得られたら、この感じはもっともっと明らかになるだろう。

こうやって考えていくと、『奇跡講座』というのは極めて実践的―原因と結果の原因の方を変えることによって、その結果もおのずと変える-だと感じた。

アファメーション

真理の世界をこの世で生きよう。幻想はやりすごし、真理のカケラは自ら発信する。

レッスン107-真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する。

2017-05-08

今ここから、赦す

ゴールデンウィークは、5年前のACIMプロジェクトの原点だった『神の使者』を再読できた。そして、これは邪道なのかもしれないけれど、自分の中でACIMの副読本のように思っている『「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』という本がある。これも再読できた。よかった。

「ザ・マネーゲーム」から脱出する法は、言い方、視点こそやや異なるものの、本来の自己に導いてもらい幻想として見ている世界を打ち破って無限の豊かさを感じるという教えが、ACIMと共通するのではないかと考えている。表現が“現代的”でとっつきやすいこともあって、事あることに読み返している。

自分が原点だと感じているこの2冊を読んで、私は勉強しているつもりで、できていない、と改めて思った。“赦しの実践”という最も重要なことを脇に置いたまま、理屈の理解だけをしてきたことに(改めて)気づいたから。

私が今、感じている心配や不安、恐怖感、過去への後悔の気持ち、親への特別な思い、ちょっとしたいらいら、そういったものすべての幻想を赦し、手放し、本来ならばありえない心の雲を払うのが最も大事なはずなのに、そういったものを温存しつつ、それはそれとして理屈を学んでいた気がする。

ネガティブな感情が起こったら、常に赦しを実践しよう、と思った。これはこの世を否定することにもつながるから、これに対してもちょっとした恐れがあるけれど。

レッスン107-真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する。

連休が始まる直前の4月28日、レッスン107のワークをした。

真理は幻想を訂正する、というのがこのワークのテーマだ。

そして、真理に近い心の状態について、以下のように説明してくれている。

わずか1分か、それ以下の時間だったかもしれないが、あなたの平安を邪魔するものが何一つなかったときのことや、自分は愛されていて安全だと確信していたときのことを、思い出してみなさい。

それから、その瞬間が、時間を超えて永遠に届くまで引き延ばされたらどうなるか、想像してみなさい。

それからあなたが感じたその静かな感覚を百倍にし、それからさらにもう百倍にしてみなさい。」と。

そうすれば「限りなく微かにではあるが、推し量る手がかりを得たことになる。」この真理が訪れたときはすべての苦痛がなくなっている。

この真理を真摯に求めて得られないものはいない。そもそも私たちのものだから、それを練習で自覚するのだという。

この練習では、真の自己である聖霊の存在を認めて、聖霊に導いてもらう。

真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する。

そして、携えてきた真理はこの世界にも変化をもたらす。

ワークをして

私がこのゲンジツの世で見ているのは、“私の心のあり方”の結果の世界だ。私がここで苦痛を感じたなら、それは“あり方”を正すべし、ということ。すなわち赦しの機会なのだ。

問題はその瞬間にそれを思い出せないことだ。

私は心が狭い。言い替えたら、エゴがでかい。ちょとしたことでもざわざわ、いらいらしてしまう。

ACIMを学びたいと思っている私と、普段生活している私、別人格でいるのかもしれない。だとしたら、それを統合することが課題なのかな。

せっかく設定されている1時間に5分というワークの枠も、ざわついて心のまま時間だけをこなしていることがある。

それじゃあ、エゴはでかいまんまだ。

少しずつでも実践によって皮を剥いでいかなきゃ。そして、ちょっとでも不快に感じたことがあったら、それはエゴの皮を剥くチャンスだ。ありがたく思おう(覚えていられたら)。

アファメーション

今日一日、ネガティブな感情を見つけたら、赦しを実践しよう

赦しのプロセス

2017-05-05

原点回帰!?

とくべつな予定のないゴールデンウィークだけど、街の空気が和み心のスペースが広がるように感じられるという点ではとくべつ。このスペースに何が入ってくるだろうと思っていたら、『神の使者』の何回目かの再読だった!

変わりばえがしない…けど、小間切れで読むことが多かったから、まとまって目を通してみたかったのかもしれない。

そして、私のACIMプロジェクトの始まりはここだから、原点回帰したかったのかも。

改めて読んで思ったのは、私の理解は浅いし中途半端だということ。日常的に、不安や不満、心配を感じているけど、それが見えている時点で、すっぽりエゴの見方に陥っているのだということを、改めて思い出した。

第7章「赦しの法則」にはパーサによる赦しの要素が書かれていたので、私自身がすぐ思い出せるように自分なりにポイントをまとめておきたいと思った。

赦しのプロセス

赦しの要素と書かれているけれど、赦しのプロセスと捉えてもよさそうだ。

赦しのチャンスにぶつかった時とは―すなわち不安、不満、いらだちなどの不快感を感じた時―、取るべき対処は以下の流れ(だと思う)。

①夢だと思い出す

まず、この状況は夢で真実ではない、それは自分自身が見せているものであり、夢の登場人物を動かしているのも自分だと思い出す。

「登場人物はいない。この夢の責任者は自分だ。」

②夢のできごとと相手を赦す

自分自身の罪悪感と恐怖こそが原因で、それを自ら投射しているものだ。だから夢のできごとに反応するのではなくその感情を手放す。

「兄弟がしなかったことを赦しなさい。」

③自分自身を赦す

何も起こらなかったのなら、兄弟だけではなく自分自身だって罪はない。私は無辜だ。

「私は今も神とある。神は私を咎めなかった。もはや私も咎めない。」

④感謝する

本来の自分である聖霊と赦しのプロセス、それの元になってくれたイメージに感謝する。あとは聖霊におまかせする。

「愛は私が感謝の内に歩む道である。」

私に見える一見嫌なこと、不快なことというできごと(イメージ)があってこそ、それを赦す機会があり、赦される。それによって、神と私とを隔てる雲が少し取り除かれる。だから、すべてはこの自分のためにあり感謝すべきことなんだ…。

たぶん、最も難しいのは最初のステップだ。ACIMを学んでいるつもりでも、不快なことを感じた瞬間は感情的になって自分の正当性にしがみついてしまい、わけがわからなくなってしまうから。

次の赦しの機会にこれを覚えていられたらいいと思う。また瞬間的に忘れても、すぐに思い出せますように。

レッスン106-私が静まって、真理に耳を傾けられますように。

2017-05-03

世間は今日から5連休。晴れ。街の空気がゆったり感じられる。

このまとまった時間にやりたいと思っていたこともあるんだけど、手をつける気になれないでいる。昨日は『神の使者』の著者、ゲイリー・R・レナードさんの第三弾の本『愛は誰も忘れていない』を再読していた。

なんかゲイリーさんの本が私にとってのACIMテキストみたいになっている…。テキストより理解しやすいから。それでも、すぐ忘れるから、ゲイリーさんの本3冊は少しずつでも常にくりかえし回して読みたい。

それと同時に3冊目の本で勧められているように、テキストも1日数ページずつゆっくり浸透させたい。「ゆっくり」と思っていると、ついフェイドアウトして習慣にならないんだよなぁ。

レッスン106-私が静まって、真理に耳を傾けられますように。

レッスン106が言っているのは、一言でいうと「心の奥の内なる声に耳を傾けなさい」ということ。これを短い文章の中で何度もくりかえし言っている。

エゴの声に耳をかさず、「今日は静かにして、真理に耳を傾けなさい。

そうすれば、神は奇跡を携えて、あなたを訪れる。それが神の約束だ。

神はあなたを通して、真に見ることができなくなった者たちに呼びかける。

あなたは聖霊からあなたのはたらきについて学ぶ。

まず受け取ること。そうすれば与える者になれる。

「与えれば(その分)失う」というのは二元性の見方であり、正しくない。

実相では、受け取ることと与えることは一つであり、それはさらに増幅される。

受け取ることと与えることを学び、神の使者となること。そのためには静まって真理に耳を傾けること。

こんなようなことが書かれていた(気がする)。

ワークをして

ワークを始めにあたって、

私は静かにして、真理に耳を傾ける。

与え、受け取るというのは、何を意味しているのだろうか。

と自問自答する。そこで、私は受け取っても与えてもいないかもしれない、と思った。ただエゴの監視の下で、ひとりでワークをしているだけで。

与え、受け取ることは、とても流動的で先が読めないイメージがあるけれど、私はただ内向きにガードを固めているだけのようにも思う。その奥に潜んでいるのは“不安”かもしれない。

昔は、けっこう冒険やチャレンジ好きのところもあったはずだけど。

自分ではACIMを学んでいるつもりでも、その実、まったくACIMの存在を知らない人よりACIMから遠いところにいるのかもしれない、と思った。

私は、与えることも受け取ることも、苦手だ。

一つには人そのものが恐いから。人からは人当たりがいいと言われるけれど、それは生きる術としてそうしているだけで、気を許せていない。誰かといるときは常にキンチョー気味…。だから、疲れる。ひとりを楽に思う。そんな循環があるように思う(これこそが、ACIMで正すべき幻の原罪だ)。

そして、与えること、受け取ることについても、昔から「ただより恐いものはない」と言われてきたし、ACIMでいうように無自覚ながらエゴの取引的に捉えていたように思う。

また、社会的生き物である人間のコミュニケーション上の潤滑剤のようにも捉えていた、好意を示したり、防御したりするために。つまり与えること・受け取ることを主にツールとしていたように思う。そして、いただいた分はちゃんとお返ししなければいけない。その意味でマナーでもあった。

溢れるような愛からではなかったんだな…。いや、たまには心からあげたいと思ったこともあるし、愛もあったか。

実際に与えたり受け取ったりできるものは真に在るものだけだ。となると愛、平穏さ、静けさ、喜び…といった神の性質だけ…ということになるのかな。

与えることは、自分から減る、ことではない。

受け取ることは、相手から何かが減ってしまう、ことではない。

一元的な見方をすれば、与えることも受け取ることも同じで、分かち合いによって、ますます増幅していく。

なんか取りとめもなく書いてきたけど、今ここからの私のステップは、与えたり受け取ったり、人と分かち合う機会を多くしていくことなのかな、と。そこに行きついた。

「人がこわい」とはまったくACIM的ではない、と気づいた。ACIMを学んで実践しないのではまったく無意味なのだ。

アファメーション

あげよう、受け取ろう。ありがとう、うれしいよ。

(なんとか絞り出したアファメーションがこれだった(>_<))

 

5年前の出会いから

2017-05-02

『神の使者』との出会い

世の中はゴールデンウィーク。私はとくに予定なし。

元々暦と関係ないフリーランス。まったく関係ないかといえば、いや、かなり関係あるみたい。街の空気が緩んでいていつもより心にゆとりがある。空いたスペースに何か新しいものが入ってくるだろうか。

ふと、そもそもこの私の『奇跡講座』プロジェクト(たんに自分でそう言っているだけ)は、5年前、2012年の今頃からスタートしたんだったな、と思い出した。

ある調査の仕事を納品し終えて、ほっとひと息。二番目に近い図書館に行った時、ふと目に止まったのが『神の使者』だった。

分厚い本で、意味がわかりにくく難しく感じた。

でも、何か惹かれるところがあったのか。4月29日近所のブックオフで見つけて買ってゴールデンウィーク中ずっと読んでいた。そして5日1日にはAmazonで『奇跡のコース』日本語版を購入。別のブックオフでは『神の使者』の続編となる『不死というあなたの現実』を見つけてゴールデンウィークの後半読みふけっていた。

この年のゴールデンウィークは一言で言って『神の使者』だったのだ。

この“出会い”から実際にワークを開始するまでは1年以上かかった。今も赦しと聖霊の思考システムが身についたわけではないし、この後どこまで続けられるのかもわからない。

振り返ってわかるターニングポイント

それでもこの5年を振り返って思うのは、この1冊の本との出会いは私にとって大きかったな~ということ。

それまでは、人生とは死という終わりまでの間に、各々に与えられた自分らしさを掘り起して自己実現するのがよい生き方なのかな、と思っていた。でも、『神の使者』とACIMによれば、各々の個性が注視されないどころか、個としての自分も、死もないし、私たちが見ているこの世界も実在しない。ただ「God is.(神だけがある)」。

昔の人が、地球が宇宙の中心であると考えていた天動説から、太陽こそが中心であるという地動説を教えられたくらいの、いや、星が動く宇宙それ自体が本当はないというんだから、それ以上のインパクトだ。

なぜ、それが腑に落ちたのか。あるいは腑に落ちたわけではないけど受け入れたいと思ったのかはわからないけど、今もまだ学び続けているということは私にとって大きいことだ。

ターニングポイントというのは後になってみなければ本人にはわからない。5年前のゴールデンウィーク、いつもどおり地味に過ごしていたけど、実は大いなる出会いを経験していたのだ。

この同時期の3日、父が腸閉そくで緊急入院してそこから父との別れのテーマも本格的に始まった。

その意味でも変化時だった。ACIMでは時間もまた幻想だというけれど、5年というひと固まりをぼわんと感じて、やっぱりしみじみしてしまう。

ACIMやその関連本(と自分が位置づけている本)は私をとっても癒してくれた。私の原罪と恐怖を軽くしてくれて幸せになってもいいと請け負ってくれた。前と比べて軸ができたように思うし帰る家ができた。

この5年という幻のくぎりで、この出会いに改めて感謝したい。著者のゲイリー・R・レナードさんにも、もちろんACIMにもJにも、ヘレン・シャックマンさんやビルさん等、翻訳者の方々その他みんなにも。