母との東京旅

2016-11-30

東京に、母が来た

三泊四日で東京に遊びに来ていた母が昨日帰った。

東京駅から新幹線で見送り、帰り道で見上げた空がとても青く澄んでいた。ひとり自宅へ戻る道、さみしいのか、幸せだったのか、切ないのか…最後のお別れというわけではないのに、胸がいっぱいになった。

母は齢80歳。とはいえ感覚的には70歳前半くらいかもしれない。好奇心旺盛で身体もまだ元気。

到着日には、東京国際フォーラムにファンだという徳永英明さんのデビュー30周年コンサートに行き(直前にオークションサイトでチケットGet)、翌日には横浜にいる次女(私の妹)のところへ高1になる孫の顔を見に行った。また、外苑前のイチョウ並木や六義園など都内の紅葉スポットを見たり、上野の森美術館や根津美術館へ行ったり、私の近所の整体院で側弯症の治療を行ったり、と盛りだくさんの旅だった。

母は年とともに記憶力が落ちたり、思い違いが多かったりするが、感情豊かで好き嫌いがはっきりしている性格は変わらない。しかも表現がオーバーだ。

妹宅に向かう田園都市線で母だけが座ることができ、私がその前に立っていたら、「あんた、ずっと立っているのかわいそう」と大げさに言い、居たたまれなくなったらしい座っていた若い男性は、ついに私に席を譲ってくれた(すみません(^_^;))

せっかく東京に来たのだから、スカイツリーくらい行きたいかな、と予定に組んでいたのには、「人ん家の屋根を上から見てもつまらんし、わざわざ高いとこに登る必要ない」と却下。

母のその都度の気分で段取りや関心がどんどん変わってその都度iphonで調べて…と私にとっては脳トレみたいな旅…。

六義園(りくぎえん)に行く際には、「その庭の由来を調べて」と言い、「柳沢吉保が5代将軍・徳川綱吉からもらった土地に、自分で設計して作ったらしいよ」と答えると、「柳沢吉保ってドラマで悪い人みたいだけど、どんな人?」と聞かれる。

歴史に疎く大河ドラマも見ない私はちんぷんかんぷん。でも、調べるうちに、元々家禄530石の小姓組番衆だったのに、綱吉に仕えて気に入られたことによって、22万石の甲斐国甲府藩主で大老格にまで大出世、六義園もその気に入られた一環で、もらえた土地に作ったらしいことを知ってびっくり。

家からわりと近く何度も行ったことがある六義園はそんな庭だったか。

母といると勉強になることが多いのだ。

私は何でも「受け流す」が。母は逐一喜んだり怒ったりする。昔は怒られてばかりで怖かった。

今回の旅では、庭園の茶屋があることに甘いものを食べたがり甘えてくる母を新鮮に感じた。鞄から切符や薬ひとつ出すのも手間取り、足も弱くなり、歳とったな~とも感じた。

家族って、いいな

また、私はふだん出不精だが、それは一人で家族や親しい友だちが少ないからなんだな、とも、改めて思った。一人で出かけるにはある種の気合いがいるし、友だちと出掛けるにしても予定を合わせたり意向を確認しながら段取りしたり…そういうエネルギーが私には不足している。結果として出かけないことになってしまう。

けど、こうして秋空の下、母と出掛けた4日間のなんと楽しかったことか!

ACIMとはまったくちがう世界観なのかもしれないけど、素直に楽しかったし、家族っていいな、と思った。

そして、ACIMや聖霊さんのおかげで、暮れに近い慌ただしかったなかでも、こうして貴重な母娘の旅が無事できたことに、感謝!感謝なのだった。

レッスン75-光は訪れている。

2016-11-23

朝の地震

昨日朝5時59分、福島県沖で大きな地震があった。私もふとんからガッと飛び起きた。

やはり思い出すのは5年前の東日本大震災のこと。東京でもかなりの揺れを感じたのだから、福島県や近県の方はさぞかし怖かったことだろうと思う。

ケガをされた方もいたようだけど、津波警報も解除されて大きな被害がなかったこと、よかったと思う。一方で、いつどこで災害が起こるかわからない日本に住んでいるんだ、と改めて感じさせられた。

じつは、二週間前の10日、仕事をいただいている方のオフィスに打ち合わせに伺った際に、その方が「最近、パソコン初め身の回りの電子機器が不穏な動きをして調子わるい、おそらく地磁場の乱れでしょう」とおっしゃていた。

え、単なる故障とかではなくってー?

「いろんな機器が連動してヘンですからね。調べてみたら、23日あたり地震があるそうですよ、ネットでうわさです。電子機器の乱れはおそらくそのせいでしょう。たまさんも気をつけて」と言う。

まさか…とは思っていたけど、これは、そのネットの「予言」が当たったんだろうか。

朝、ぐらりとする揺れにガッと起きた時には、ありゃ~、当たったの~!?と、平時にはないアラームが頭に鳴った気がした。

『神の使者』には、地震もまた、神からの分離の象徴として私たちが見ている現象だと書いてあった(ように記憶している)。けど、やはりだからと言って、平静ではいられない。

あたりまえだけど、そんなことは起ってほしくない。あの悲しみ、絶望、嘆き、怒りを赦すことはなかなかむずかしい。

レッスン75―光は訪れている。

ようやくレッスン75。

私たちの赦しが見せてくれる世界を見つめるというワークだ。

光は訪れている。私は世界を赦した。

こう唱えながら、真の心眼(ヴィジョン)によって見ることができる世界を待つ。

今、あなたは世界をこれまでに見たことのないものとして眺めることができる。それがどのように見えるのか、あなたはまだ知らない。ただそれが見えてくるのを待つだけである。」とある。

私は、どうもこのワークが苦手だった。

「光」で見える世界というのが、どうもわからないから。

3年前もわからなかったし、今回もそう。何度かこのワークをやったけど、今まで見たこともないような見え方はしなかった。

で、私はだめだな、このワーク苦手だな、と思っていたのだけど、レッスン75は、今できることではなくて、赦しを完璧に実践できたら見ることができるものなのだ、可能性を示唆しているのだ、と捉えることにしたら、少し楽になった。

そして、ワーク中に今週末、急遽東京に来ることになった母のことを思い、ふと、こうして穏やかに母娘で旅ができるようになったゲンジツは、

あるいは「私が世界を赦した」結果なのかもしれない、と思った。

母とのこころの旅

大昔、子どもの頃、非常に怖くて暴力的だった母に対して、「大人になって力をつけたら、ぜったい“仕返し”してやる」と誓ったことがある。

なんて幼稚な考えなんだろう、と今は思う。

大人になって20年位経ってから、ようやく反抗心がなくなった。カウンセリングを勉強したり、アートセラピーやカラーセラピーに癒しを求めたりしながら、親子関係を見つめて、自分を見て、気づいて。

それは長い旅だった。

そして近年は少しずつACIMの赦しを実践している。

もちろん完璧に光が得られているわけではないけど、立ちこめていた雲の合間から薄日が差すように、私にも光が届いているのかもしれない、と思った。

ほんの少しずつだけど、私は変わってきているんだろう。

反抗心が消えた今、赦し手放すべきは、母への執着心の方だ。これはまだまだみたいだ。

母子関係は人間関係の基本だから、初っ端からつまづいたことで、ずいぶん人生遠回りした、と思うけど、これもまた自作のシナリオ…

今日は、過去にこだわり続けるのはやめなさい」とレッスン75は言う。

そう、今ここ、なんだよな。

光は訪れている。私は世界を赦した。

光は訪れている。私は世界を赦した。

光は訪れている。私は世界を赦した。

この言葉を忘れないでいたい。

日曜のよる

2016-11-20

今日までの締切だった調べ物のしごとをやり終えて、ポチっと送信した。

修正とかあるかもしれないけど、とりあえず、ほっとした。よかった。

コンビニに行って、アイスクリームでも買ってこようかな。

              *

急だけど、今週末、母が上京することになった。

80歳の母。北陸新幹線にひとりで乗って、やってくる。

夫や子どもがいない私は、50歳をとうに過ぎても、“娘”のまんまだ。

実家にいた子どもの頃は、恐ろしくて、憎んですらいた母だけど、

今は元気でいてくれることがありがたい。

親との関係も、自分が作った、自作自演の映し絵だった。それに気づくのにも永い時が必要だった。

「東京にこうして行けるのも、あと一年くらいかな」と母。

少し切ない気持になる。

ずっと、ずっと元気でいてほしい。

ACIMでは肉親への愛と見ず知らずのだれかへの愛を分け隔てしないが、やはりまだ私にとって、母への思いは特別だ。

「特別な愛」はACIMでいう普遍的な愛とはちがう。

いずれ、この気持ちも赦さなくてはならないのだとわかっているけど、今はまだ執着がある。

週末、晴れたらいいな、と思う。

レッスン74-神の意志のほかに意志はない。

2016-11-15

レッスン74-神の意志のほかに意志はない。

レッスン74は、神の意志の表現である私たちには、神のゴールをおいてはほかにゴールはない、と確認させる。

それはまた、

幻想がなければ、葛藤は不可能である

という確認でもある。

そして、幻想も葛藤もなく、神のゴールだけを意識している者には、実相から平安の感覚がもたらされる。遮断物がなくなってクリアに感じることができるようになるから、あたりまえに在る平安が感じられるようになる。

その平安を経験しようと努めるのが、レッスン74の中心だ。

「神の意志のほかに意志はない」という主題概念によって心の焦点を定めた後、葛藤が浮かぶようなら、

神の意志のほかに意志はない。これらの葛藤する考えは無意味である。

あるいは、特に難しく思えるものについては、

神の意志のほかに意志はない。私はそれを神と共有している。

○○についての葛藤は実在するものではない。

などと自分に向かって言い、心を整えてから平安を感じる瞑想ワークに入る。

負荷がかかるとワークできなくなる…

このワークの中で

もしうまく言っていれば、眠気や気力の減退などではなく、深い喜びの感覚と、鋭敏になった感覚を感じるだろう。と説明がある。

私は何度かワークをしたが、平安には至らなかった。並行して抱えているいくつかの仕事が気になり、目をつむっても、段取りをしていたり、締め切りが気になったりと、ワークをしている時間自体が気になりだして、集中できなかった。かと思えば、眠気を感じてコクン、と首がたれることもあった。

もう、何年もACIMワークをやっているのに(つもり)、シンプルな瞑想ワークさえ身についていないことを確認した。

3年前の第一回目のワークの時はどうだったのかな、とふと思い、昔のノートを見てみたら、この時も似たような状況で、ライターの仕事の締切に追われていた頃で、1つのワークに2週間くらいかかっていた。

どうも私はある一定以上不可がかかると、もうテンパって、ワークが手に付かなくなるみたいだ。

もちろんレッスン74の説明にあるとおり、この葛藤は実在するものではない。が、そうは思えなくなってしまう。

「時間がない(だから)⇒できない」

のではなく、

「私のものの見方が実相ではなく幻想に焦点が合っている(だから)⇒時間がない、という幻想を見ている」

のだ。

そう、要するに、私のエゴの抵抗なのかもしれない。フリーランスがいくつかの仕事を並行してやるのはあたりまえのこと。私の「時間ない」なんて、忙しい人から見たら、スローモーションで動いているかたつむりみたいなものだろうし。つまり相対的で意味ないことなんだ。

しかも仕事があるのは、ありがたいこと!

…このワークから今の自分の立ち位置が確認できたかな、という感じかな。

要するに、忙しくでもヒマでも、文句を言っている、てことかな。

最近、ひとり暮らしの私は、晩ご飯んにひとり鍋ばかり食べている。

あ、去年もそうだっけ?

覗いてみた3年前のノートには、3年若い私がいて、今と状況もけっこうちがっていて、かわいいこと言ってた。変わらない私と変わっていく私かぁ。

幸せとは、ありがたさ、かな

2016-11-13

半年に一度の検査

今日は小春日和の日曜日。まちの空気も少し和んでいる(家の前の道の交通量が少ない)。

一昨日は冷たい雨の一日で、正午の気温が8.9℃と冬のような寒さだった。いよいよコートの出番だ。

私は、前週、“臨時休業”だった病院に行ってきた。

何年か前に検査の結果、医師からある臓器の全摘を進められたけど、ネットでいろいろ調べた結果、私なりには「(現段階では)必要ない」と感じ、先生にその旨お伝えして経過観察を続けている。

半年ごとの検査のみ。原因不明で、痛みや苦痛などの症状もなく、薬を飲んだり治療したりもないから、ふだんは病気ということを忘れている。

だけど検査の結果、何かしらの変化があってやはり手術、ということにならないとも限らない。半年に一度のこの日…、重病で床に伏せっている人などから見たらたわいもない状況なのかもしれないけど、ビビリの私にとってはけっこうキンチョーな日なのだ。

しかし、この病院、すごい人、人、人…。まるでイベント会場で待つ人のような混雑さ。みんな一見元気そう(私もそうだ)。人は見かけではわからないものだなぁと思う。

ACIMでは、病気もまた「自分の罪悪感」の自身の身体への投影とみなす。つまり、病気は私が作ったものだ。これに一喜一憂して病気という幻想をリアルにしてしまうことはACIMの教えに反する。

そもそも神の子が見ている分離という夢を形にしたものが、個々の身体だから、身体に大きな意味を置いてはいけない、と学んだ(気がする)。

そうはいっても、幻想のゲームに参加中の私にとっては、やはり大きな問題。外科手術というのは、それこそ(実際には起っていない)分離の象徴ではないか。それをリアルにはしたくない。

受付してから4時間ほどで自分の診察の番が来た。ドキドキしながら、検査結果を覗きこんでいる先生の前に座る。

…結果としては、大きな変化なし(先生は「誤差の範囲」とおっしゃったが、むしろ、良くなっていると解釈した)、また「半年後に検査」で、経過観察続行ということになった。

幸せは、ありがたさかな、我まさに

ほっとして、そこはかとなく、嬉しさが湧いてきた。

やっぱり私、気にはしないようにしていたものの、不安だったんだ。

よかった。ありがとう。よかった…。聖霊さんに護られているようにも感じた。また半年の自由が与えられたようにも。

トランプ旋風のあおりを受け、わが微々たる株資産は、かなりのダメージ(日経平均と連動せず、大損(^_^;))。だけど、それが何するものぞ。

私は元気だ。病気も自分で治す。

帰り道は、沁みる寒さも心地よく、

「ありがたい、ありがとう、幸せだ、ありがたい、ありがたい、ありがとう、よかった」と心の中で唱えながら、スキップして帰りたいような気分だった。

そう、私は幸せを感じていたのだ。

で…あっと気づいた。

お金払ってなかった!

駅までの道を半分くらい進んで、くるりと向きを変えて、お会計へ。

再びの帰り道、ふと思ったのは、

幸せとは、ありがたいと思えることかな、と。

何かビッグな幸運が訪れることではなくって、

ほこほこと、ありがたさが湧いてくることかな、と。

この喜びは私が身体に重きを置いている証拠なのかもしれない。結果がよくて喜ぶことは、結果が悪くて嘆くことと同じくらいACIMに反したことなんだろう。結果がよかった、というのもまた二元論の幻想。身体などそもそもないのだから。

でも、、、冷え込む夕暮れ、病院から駅へのキラキラとしたショーウィンドウの通りを歩きながら、私は、しみじみとありがたさと幸せを感じていた。

レッスン73-私は光が現れることを意志する。

2016-11-09

久しぶりのワークのダイアリー♪

10月末に英語版と日本語版で読み合わせしたものの、その後ワークがなかなかできていなかった。今もちゃんとはできていないけど、先に進むことにしよう。

レッスン73では、私たちが「神と共有している意志」と、それと対峙する「エゴの願望」を比較し、

私たちの世界の映像は内側にあるものをそのまま映し出すことしかできないと確認し、

私たちが本当に望んでいるのは幸せなのだから、

トラブルや不満を原動力として成り立つ「エゴの無為の願望」ではなく、「神の救済計画」を選ぶのだと確認した上で、

自分の中にある光に、再び到達しようと試みる。

レッスン69で同じように自分の内なる光に到達するワークをした時、光は現れなかったが、トンネルを抜けた先に仏像のヴィジョンが見えて、私はそれを「私なりの光」なのだと解釈していた。

だけど、それはどうもやっぱりちがうみたいだ。

レッスン73で言及している「light(光)」は、比喩的に使っているのではなく、実際に感じる実体としての光なのだ。

そして結果を言えば、レッスン73のワークでも、私はやはりその実体としての光を感じることはできなかった。雑念ばかり湧いてきた。エゴの幻想の世界にすっかり取りこまれていたからかもしれない。

聖霊に「なぜ光が見えないのか、どうしたら見ることができないのか」と尋ねてみたら、

「光が現れることを心から求める気持ちが、圧倒的に足りない」という答えが返ってきた(…ように感じた)。

そうかもしれない。

罪悪感が売り買いされ、不満が膨れ上がる

腑に落ちる、おもしろい、と感じたのは、ワークのこの説明だ。

「(エゴが主導する)この世界を維持するためには不満が不可欠であり、その不満を必要としている自我(エゴ)は、世界の中に多くの人を住まわせる。あなたを攻撃しているように見え、『正義の』裁きを受けるべきと見える人物たちである。彼らは自我(エゴ)が不満を商うために雇い入れる仲介人となる。」という記載。

そして、

罪悪感が売り買いされ、そのたびに不満が膨れ上がる、というこの奇妙な交換取引において、あなたの意志はあなたから失われている。」という説明。

不満をエネルギーとするエゴの世界のカラクリがうまく説明されている、と思う。

自分が「イヤだな」と思うことや人は、エゴの世界の推進力、つまりガソリンだ。神の世界の下では本来はありえない不満や不安、怒りなどを焚きつけてリアルだと思わせ、「それもこれも○○が悪いからだ」と罪悪感の他者への投影を促す。それによってさらに不満というガソリンを蓄える。

これで、自分の心を省みる必要はなくなり、神と私たちが見事に断絶された世界が作られる。

これこそが、エゴの世界の回し車であり、

これこそが、まさに私たちが見ている世の中ではないか。

トランプ第45代大統領誕生!

今日は米国大統領選の開票日。

先ほど開票結果が発表され、

なんと、まさか…のトランプ氏が勝利した!

私は政治のことはよくわからないけど、ワイドショーなどで見た選挙戦では、トランプ氏はACIMのいう“エゴの仲介人”の元締めのように見えていた。

米国の中産階級とブルーワーカーら保守層の不満と不安を焚きつけ、それを自分たちではない「仮想敵」のせいだとし、「古きよきアメリカ」という夢(私から見れば、蜃気楼)に向かうリーダーを買って出たように見える。

トランプさん自身は、自分が描くお話をほんとうに信じているのだろうか。70歳という年齢、このエゴのゲンジツの世で最後の夢に賭けようとしているのか。

ACIMの教えに沿えば、そこからもたらされるのは、より大きな失望とさらなる不安だ。

映し出しているのは私自身

でも、この選挙戦の映像を作り出したのは、他でもない私…。

みんなで見ている映画でもあるが、私が私自身のスクリーンに映し出している映画でもある。

私は、それをどう見るのか。今朝レッスン74のワークの瞑想をするなかでも、トランプ氏が大統領になったら、日本経済がえらいことになる、という雑念が出てきた。

これは、このゲンジツに不満と不安を感じているということ。私もこの不満の売り買いに知らず知らずのうちに参加して、エゴ世界にパワーを差し出しているではないか。

まあ、エライことだとは思うが、それを反応してリアルにすることはないんだ。実相世界に響くことではないのだから。。

私が聖霊と通じ実相を見るか、それをしないか、だけのことなんだ。

答えは、赦すこと。それだけ。

でも、イギリスのEU離脱の時もそう思ったけど、ありえないと思っていたことが起きちゃう映画だ、これ。心して観ねば。

朝の散歩

2016-11-06

三週間ぶりに、朝起きて散歩した。

コースはずっと何年も一緒。約1時間と15分の散歩。

途中には小さな緑地があってそこでは深呼吸する。川にはカモみたいなのもいる。中間地点では神社に寄ってお参りもする。帰りはスーパーにもよって、ヨーグルトや野菜を買ったりする。

今日は、日差しがやわらかく、ぽかぽかしているけど暑くはなくて、ちょうどいい陽気だった。

青空駐車場ではねこが日向ぼっこしていた。

三週間来ないうちに、季節が進んだのを感じた。

ACIMワークの方は、昨日レッスン73を再開することができた。

久しぶりに読んだ『神の使者』は忘れていて新鮮に感じるところもあって、くりかえしくりかえし読むことが大事だな(私にとっては)、と改めて思った。

赦しの実践は一朝一夕には身につかない。

私は、赦しこそが私たちを幸せにするものだと知っているつもりだけど、実際にこの世で赦しが必要な時には、すっかり忘れていて自分を正当化してしまっていることが多い。

だれかのせいにして責めることに慣れているし、その方が楽だし(その瞬間は)。

『神の使者』を改めて読むと、いかに自分がわかっているつもりで、実践できていないか、ということがわかる。

この秋は、「さみしさ」を感じることが多かった。

「さみしい」ということは、エゴから見ているということだろう。神からの分離を、この世に映し出して見ているのだ。

「赦す」こと、この世のゲンジツを幻想だと知って手放すこと、どれも観念的にはわかっているつもりだけど、それを実際毎日の生活のあれやこれやのなかで、どう実践したらいいのか、となると、わからないことだらけだ。

人への相槌ひとつとっても、ぎこちなくなってしまう。

私は人一倍強固なエゴを持っているようにも思う。

赦すことができないがために、赦しのチャンスに出会わないように、関わりを避けているところすら、あるかもしれない。

でも、まぁ、ぼちぼち行こう。

この世の正体は、罪の意識と自己嫌悪だ。それを直視できないがために他者に投影してスケープゴートを求める。

そういう意味では少なくとも、昔より、自分が嫌いではなくなっていると思う。むしろ、ACIMをわずかながらも進めている自分をかわいいとも感じる。

今日のお日さまが穏やかであったかい。

それだけでも十分なんだろうなぁ。

ACIMと出会えたことで、道筋ができた。光はある。

そして、

神はある(God is)。

また 『神の使者』を開く

2016-11-04

とつぜんできた隙間じかん

半年に一度、経過観察のため通っている表参道の病院に来てみたら、臨時のお休みだった。

本当は先々月に行くはずだったのが、慌ただしさにかまけて延び延びになっていた。今日こそ、を気合いを入れてやっと来たものだから、お休みの貼り紙を見て、気が抜けた。

な~んだ。。。せっかく来たのにぃー

小春日和。澄んだ空。午後2時半。せっかくここまで来たのだから…と裏道を散歩をしていたら、おしゃれなお店と人ばかりで、何だか外国に来たみたいだった。

お花屋さんも何だか素敵だ。

パンケーキのお店は、未だに行列だった。

ひょっこり迷い込んだ隙間じかん、非日常的なカフェでも立ち寄りたい。そこで、持ってきた『神の使者』をすこし読みたい(病院の待ち時間がいつも長いから、持ってきた)、と思ったけど、なかなか落ち着けそうなところがない。

「ほっこりカフェ」で検索したお店にたどりつくと、こんどは「店長の具合が悪くて、長期休暇」の貼り紙… あ゛

まあ、カフェならなんでもいいや、と入ってみると、そこはガレット屋さん。どうも、ひとり客が落ち着ける雰囲気ではなく、ぐいっとコーヒーを流し込んで、外に出た。

帰ろかな、でも、ちょこっと寄り道したいな、まだ明るいし。

スタバで『神の使者』

結局、行き着いた先は、スターバックスの2階。

非日常的とはいえないかもしれないけど、ここならひとりでも居心地悪くない。大テーブルでは、ひとり客がみな思い思いのことをしている。私は、ホットゆずシトラスティーを飲みながら『神の使者』をひっぱりだして読んだ。

本を読んでいる人…、昔はけっこういたものだけど、今はまるっきりいない。大テーブルのメンバーは入れ替わりもあったが、半分はノートパソコン(大半がMacだ)、3割は、なんだか参考書か問題集みたいなのを出して勉強をしていた。

私を含む残りの2割は、メモ帳を覗きこんだり、スマホを見たり…。本を読んでいたのは私だけ。しかも分厚いマーカーがたくさん引いてある本なんて…!

はずかしくないこともないけど、みなそれぞれ自分のことをしているから、そう気にはならなかった。一時間位いた。なんとなくあったまったし、落ち着いた。

ACIMワークが足踏み状態で、最後にワークのダイアリーを更新してから、もう一週間だ。

ワークが止まってしまうと、だんだんやっていた感覚がわからなくなって戻りづらくなる。そして一度「原点」に帰りたくなってしまう。

私にとって「原点」は『神の使者』だ。

家で読むのもいいけど、外で読めたのがなんかよかった。外は外で集中できる。

また感覚を思い出して、ワークに戻ろうと思う。

11月。短そうだけど、大事にしたいな。秋のじかん。

やっとおわった

2016-11-02

急ぎと言われて、ずっとかかりっきりになっていた調査の仕事、先ほど終えて送信した!修正とかなくて、そのままOKになるといいなぁ。

ひとり暮らしで籠ってパソコンにずっと向かっていて、ここ数日、だれとも話してない。買物などでちょこっと話そうととすると、話をするのがヘタになっていることに気づく。

これって、まずい。。。いくらひとりは楽だと言っても。

習慣だったウォーキングも止まって、ACIMワークも止まって、申し込んでいたセミナーもすっ飛ばし、ただ回し車のハムスターみたくパソコンに向かって前方に走っていた。思えば、3年くらい前まではずっとそんな感覚だったんだ。

ACIMと出会ってワークをすることで、徐々に考え方が変わり、この世の中は幻想だと捉えて振り回されにくくなった気がしていたけど、それも単に環境がそうだっただけで、私はあまり変わっていないのだと再認識した。

外の状況に常に振り回されるし、ACIMワークから少し離れただけで、周りのゲンジツをリアルに捉えてしまってネガティブになってしまう。

思えば、この急ぎの調査とそのまとめは、慌ただしかったけど、刺激的で楽しくもあった。そして何とかクリアできた。

ひとつも困ってはいないんだ。

ただ、ウォーキングもせず、人ともしゃべらず、ふだん食べないスナック菓子とか買って気を紛らせながら、ともかく終わらせなきゃ、と籠っていたから、リズム崩しただけなのかもしれない。

ACIMはこんな私の心の支えになっているのかもしれない。ACIM的視点でものごとが見られているときは、この私でも心豊かに健やかに生きられる、と思う。少し離れると、私って世の中の人から浮いてていったい何やっているんだろう、と思える。

今ははざまにいる感じだ。

外は雨。気づくと11月。急に冷え込んできた。