この宇宙はバーチャルリアリティ-奇跡講座のおはなし②

2019-02-26

奇跡講座のおはなし①:神はこの世を創らなかった

近年すさまじく進んだバーチャルリアリティ

近年バーチャルリアリティ(VR)の進化がすごい。

東京ディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパン(USJ)でも、VR技術を使ったアトラクションが人気なのだそう。

Virtual Reality…日本語では「仮想現実」や「人工現実感」と訳されるらしい。

専用ゴーグルを付けるだけで、あたかも空を飛んでいるかのように感じられたり、人気アーティストのライブを実際その場にいるかのように体感できたり。

人がVRの可能性に魅せられるのもわかる。医療分野でもどんどん活用されるだろうし。

VRの技術がもっともっと進んで五感によりリアルに感じられるようになれば、私たちは体をここに置いたまんまどこにでも行けるのかもしれない。

近い未来には、「パリ」と選び、ゴーグルをかけただけでパリの街並みを歩き観光スポットを回るような商品も一般販売されているかも。

実際に見て歩いてパリの風を感じている感覚が脳にリアルにある。その私の現実は、パリにあるのか部屋の中にあるのか…、現実ってそもそも何?

この世はバーチャルリアリティの映画を見ているようなもの

『奇跡講座』(ACIM)では、この宇宙が大きなバーチャルリアリティ空間だと見ている。

私たちは「生きてここにいる」と思っているけど、ここにはいない。幻想=よくできたバーチャルリアリティの映画を見ているのだと考えるのだ。

いやいや、いやいや、実際いるし!

でも、それは仮初めの世界。ゴーグルを付けていて仮想現実の中に入り込んでいるから気づけてないんですよ、と『奇跡講座』は言う。

そして、そこからリアルな世界(実相)に目覚めたら、世の中の見方だけじゃなく、これまで人生だと思っていたものがまったく違うように見えるよ、と教える。

私たちは死んで地獄に落ちたらどうしよう、怖いと思う。

いやいやそうじゃない、すでに地獄にいるだよ。

だって、この世は怖いことや理不尽なことだらけじゃないか。(このあたりの言い回しは『神の使者』から)

そこから抜け出すことはできるよ。

そう、その付けているゴーグルを取ればいいんだ。

そう教えているのが、『奇跡講座』なのだ。

ACIMワーク247‐赦しがなければ、私は見えないままである。

2019-02-25

些細なゲンジツに一喜一憂するワタシ

枯れた木に新芽が出ている。3月近し。いよいよ春到来の気配。

甥っ子が第3希望の大学に進学が決まったと母から電話。「あんたも電話してやりなさい」。

先日甥と話してからも妹から連絡があったわけじゃないし、電話しても機嫌が悪かったらヤダなと若干気が重かったけど電話した。

今度は妹もいた。

「進学先決まったんだって、お母さんからうれしそうな声で電話があったよ」と私。

「お姉ちゃんにこの前からいろいろ頂き物しているのに電話もしなくてごめんね」「大学のこともこちらから連絡しなくちゃいけないのに」と妹。

進学先が決まって機嫌がよかったのかもしれない。その言葉に私はみるみる解けて癒されていくのを感じた。

現実ではないと自分に言い聞かせつつも、やはり気にかかっていたのだ。最近は「お姉ちゃん」とも呼んでもらえなくなっていたから、「お姉ちゃん」と呼んでもらえるだけでうれしい。

こんなささいなことでも、私には大事なんだな。

私の在り方はこの世のすべてを赦すという態度とはほど遠いのだった。

でも、ACIMの教えに倣って電話をかける前に不安感を手放すということを何度かやっていたため最初から不安をぶつけずに済んで、和やかなゲンジツが得られたのかもしれない。

私には子どもがいないから、甥っ子は母の唯一の孫であり未来の世への希望をつなぐ存在。

そのことだけでも妹には頭が上がらないと思ってしまう。

ACIMワーク247‐赦しがなければ、私は見えないままである。

罪は攻撃の象徴である。罪をどこかに見ている限り、私は苦しむ。赦しだけが、私にキリストの心眼をもたらす手段だからである。」(L247-1-1,2)

兄弟よ、私の所にきて、あなたの姿を見せてほしい。あなたの麗しさが、私自身のそれを映し出す。

あなたの無罪性は私の無罪性である。あなたは赦されており、私はあなたとともに赦されている。」(L247-1-5,6,7,8)

このとおりだ、と抽象的概念としては理解できるけど、自分の身に具体的な事象がおこるとすぐわけがわからなくなってしまう。

目の前のことに感情が揺らぎ、『奇跡講座』の概念のほうがウソくさく思えてしまう。

どちらが真実でどちらが偽りと思えるか。心の中に切り替え装置でも付いているみたいだ。

私の無意識の恐怖と罪悪感の埋蔵量はどれぐらいのものだろう。

ワークを始めて5年余り。0.1%ほどでも手放せただろうか。

たとえ行き先は見えなくても方向はわかったのだから、磁石の指すほうを目指したい。

ACIMワーク246‐父を愛することは、父の子を愛することである。

2019-02-22

早くも蘭が咲いた

蘭の花が咲いた。

例年5月頃咲くのだけど、引っ越ししてから西日が入る部屋になり蘭は「咲こう」という気分になったのか。

もともと仕事で一緒に出かけた方に小さな鉢を買っていただいたもの。今ではかなり野性的に育っている。

蘭の花がほころんでいくのを見ていると春が近いと感じる。

母から甥っ子が滑り止めの大学には合格が決まったらしいと聞き、電話をしてみた。妹は外出中で甥っ子だけだった。

そこで、合格したってね、と話しつつ、送ったけどリアクションがなく気になっていたチョコのことを聞いてみた(参照:2月16日ダイアリー)

「忘れてた」と気の抜けた応え。

着いたかなと気になったからメールでもしてね、と言いながら、甥には何らの感情的こだわりがないことに気づく。

私が意識してしまっているのは妹のほうだった。

子どもの頃はかわいい、かわいいだけだったけど、大人になって妹が旅先で家族みんなに怒りをぶつけたことがあり、その姿が昔の母を思い起こさせ私の心に壁ができたのだった。

私は「許せない」と思っていた母を赦したつもりで、そうではなかった。母が老いて弱者になり丸くなったから、その感情がうずくことがなくなっていただけだったのかもしれない。

支配的に感情的に振る舞う妹にかつての母を見て、それ以来感情が揺れるようになったのだ。

認めたくないが、それは私が隠している自身の姿そのものでもあるんだろう。

また妹には別の感情もあった。

私は高校卒業して進学のため家を離れた。とにかく母から離れたかった。

一方私がいなくなった家では、思春期を迎えた妹がひとりで母のパワハラ的しつけを受け、それはかなりしんどかったらしい。パワーある妹は反抗で返したらしいが。

その「自分だけ逃げ出した」というどこか罪悪感めいたものが、妹に対してあるのだ。

妹に若かった母のおもかげを見てざわつく気持ちと、「逃げた」という感覚、両方とも「神から離れた」という原初のできごと(もちろん実際には起こってない)の、別バージョンの再現ドラマだ。

それこそが私の心に根っこがある勘違い。私が赦すべきことだ。

そうやって“分析”はできるものの、それですっきりおしまいというわけにはいかない。心の深みにある感情を表面化して手放していく時間という幻想の経過が必要だ。

親や兄弟、夫、妻といった近しい「特別の関係」は、ACIMの中でも手ごわいものなんじゃないかと思う。

ACIMワーク246‐父を愛することは、父の子を愛することである。

さてレッスン246。

胸に憎しみを抱いたままで神への道を見出せるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-1)

神の子を傷つけようとしながら彼の父や私の真の自己を知ることができるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-2)

自分自身を認識できないまま、父を自覚できるとか、父から私への愛や私が父に返す愛が思い描けるなどと、信じることがありませんように。」(L246-1-3)

まさに!

振り返って、最近はワークをやっていてもおざなりで上滑りしていて“エゴ主導”になっているかも、とも思った。

起きていることはすべて赦しの機会を含んでいる。

私がいろんなことを正当化して自分の赦しを遅らせることがありませんように。

知っていることを実行するだけの勇気が持てますように!

ACIMワーク245‐父よ、あなたの平安が私とともにあります。私は安全です。

2019-02-20

夜な夜な英語アプリを前に大声で発音練習中

区主催のもてなし英語の講座は6回目を終えた。

「お好み焼きを外国人にどう説明する?」などという先生からのお題に、カタコトすら言葉が浮かばず、先生に当てられたらどうしよう?と毎回ビビりながらの参加だ。

でも自分から手を挙げる参加者の方が多いから座っているだけで時間が過ぎ、今日も無事終わったとほっとする。

そんなんでいいのか…。

でも日本人でもこんなにみんな流暢に話せるんだな~という“発見”は大いに刺激になった。

私もペラペラ話せるようになりた~い!

でもおカネはかけたくない。

前は無料アプリの「毎日英語」というので発音練習していたこともあるが、久しぶりに立ち上げてみたらいつの間にか毎月課金しないと使えなくなっていた。

それに代わるものと語学アプリをいろいろ見て「Real英会話」というのを買ってみた。こちらは買い切り600円なので許容範囲だ。

これが今の私には合っていた。「スピーキング」では発音をアプリが判断してくれる。正しいと判断されないとクリアできない。練習し始めてかれこれ20日。今は初級30%というレベル。

声に出して発音してどうやっても聴き取ってもらえないフレーズがいくつもある。

私はどうも「L」の発音ができていないらしく、よくひっかかる。「We'll」もまったく聴き取ってもらえない。

この練習、時間が経つのが早い。何度も却下されているうちに自然に声がでかくなる。老独女が夜ひとりアプリに向かって拙い英語のことばを繰り返す。。。の巻(^_^;)

ACIMワーク245‐父よ、あなたの平安が私とともにあります。私は安全です。

私の行くところには、あなたの平安がともにあります。その光は、私が出会うすべての人に注がれます。」(L245-1-2,3)

私はその光を、惨めで孤独で怯えた人々のところへと運びます。」(L245-1-4)

…とここまで読んで、惨めで孤独で怯えた人…?

「それは私やないかい!」と心の中でツッコンでしまった。

え!?

ネガティブ卒業「ポジティブでいこう」と決意して間もないというのに、自分のことを「惨めで孤独に怯えた人」と思っていたなんて、と気づく。

そんなに急には変われないものか。

それでも、こうしてACIMに出会えてACIMを学習できるスペースが与えられて、私はとても恵まれていると思っていることも本当。ACIMのおかげで人生が行きつく先は死ではないと知り、希望の光を得た。

その昔20代の頃勤めていた会社を辞める時に上司だった方が手紙をくれた(退職時の会の際みんなの前で読んでくれた)。その手紙の中にあったフレーズを思い出した。

自助の人たれ

英語でセルフヘルプ。

自分が「惨めで孤独に怯えている人」なら、まず自分に「神の平安」を届けよう。聖霊はいつも助けてくれるだろう。

それができるようになったら、その平安の光を他の人にも届けることができるだろう。

まず自分に光を当て幸せにする。

幸せは願望というより義務に近い。

私が行くところには必ず神の平安があるのだから、私はその光をもってどこにも行ける。

その光をともにある人すべてと浴びることができるはず。

ACIMワーク244‐世界のどこにいても、私に危険はない。

2019-02-18

ダンベル体操のDVDを飲み込んだままのプレーヤー

筋力UP・維持のため以前やっていたDVDを見ながらのダンベル体操を再開させたいとダイアリーを書いていたのが、去年の9月。

それから毎日とはいかなかったけれど何とか週2回くらいやっていた。

が、それも昨年末DVDプレーヤーの調子が悪くなるまで。今年に入ってからは一度もやってない。

しばらくぶりにDVDプレーヤーのスイッチを入れてみた。もしや直っているかと思ったが、やはりだめ。機械に自己治癒力はなかった

ブーンと音が鳴り続け、ダンベルのDVDを飲み込んだまま開くことすらできなくなっていた。

2年前Amazonで3,500円で買ったDVDプレーヤー。やっぱり壊れるのが早い…

なかなか決断できなかったけど、やっぱり新しいの買おう。

でも、やっぱり次もAmazonの最安値を選んでしまいそうだ。

「安物買いの銭失い」ってことわざあったなぁ、と思いながら。

おカネだって幻想の最たるもんだけど、なかなか…ね。自由までの道のり遠し。

ACIMワーク244‐世界のどこにいても、私に危険はない。

レッスン244の主題概念も私には響くものだ。

なんだかんだ言って気づけばやはり不安と恐怖でがちがちになっていることが多いから。

言葉にして「世界のどこにいても、私に危険はない。」と言ってもらえると心強く思うのだ。

私は赦しを実践して前進するどころか、逆に幻想の不安や恐怖を強固なものとして自分の足を引っ張っているのではないか…

危険がある場所は、スクリーンじゃなくて映写機のフィルムのほう。自分の心の中なのだ。

神の中で私たちは安全である。」(L244-2-3)

ずっとこれを覚えていられたら、と思う。

この感じ方をリアルに感じられるくらい成長したい。

ACIMレッスン243-今日、私はどんな出来事も裁かない。

2019-02-16

赦し…言うは易く行うは…

「赦し、赦し」とそればかり口にしているくせに、ささいなことでもひっかかってしまう。

甥っ子にバレンタインチョコを送ったがリアクションがない。甥っ子はとても大人しく口数も少ないが、妹は高3の受験生に「余計なことを」と思っているかも。

妹の誕生日があったから2月初めには妹にもチョコを送っていたが、それに対してもまったくノーリアクションだ。

仲が悪いわけではないけれど歳が離れているのもあって、妹が家庭を持ってからあまり行き来がない。

自分が勝手に送ったくせに…しかもささやかなもの。だけど、なんだか軽んじられている気もしてしまう。

それが自分の“罪”を赦すための赦しの機会だということは知っているくせに…。

気になったなら気軽に電話すればいいだけのことだけど、それもできず。

ACIMワーク243‐今日、私はどんな出来事も裁かない。

滞っているワークについて書こうと、「今日はどこから?お題は何だっけ」と見たら(ワークをやるのとブログに書くのとの間には少しズレがある)、これだった。

今日、私はどんな出来事も裁かない。

そう…、私は裁きたくなっていたのだ。

たかだかチョコレートの受け取り連絡がないくらいで、ネガティブに振れてしまうとは…

ACIM学習者ならずとも小さすぎる。

私は大昔家庭教師をしていたお宅から結婚祝いに高価なランプをいただいたが、お礼の連絡をしそびれたという大失態をしたことがある。

実家に宅配便で送っていただいたのだがその時慌ただしかったこともあって何か紛れて連絡しそびれてしまったのだ。

こう書いているだけで未だにピリピリする。なんでできなかったんだろう。

自分がそんな大それた失礼なことをしておきながら、人には小さなことでも見咎めようとする。それが私…

レッスン243の文言は穏やかに諭す。

今の自分の理解が及ぶはずもないことを、すでに知っていると思わないようにする。知覚の断片から、全体が理解できるなどと思わないようにする。」(L243-1-2,3)

それにより私は、もともと自分にはできない判断を下さずにすむ。」(L243-1-5)

すべては赦しのために…なんだよな。

私の見方が変われば、世界も変わる。それはワークを通して何度も経験している。

私に赦すべきことがあるから、見せてもらっていることなのだ。

私は今も神とひとつなのだから、自分も他者も裁く必要はない。

色えんぴつ画

2019-02-15

会場まちがえる

今週火曜は月1の色えんぴつ画講座があった。

この一ヶ月まったく画に触らず、先月のまんま。

慌ただしく準備して向かったら、だれもいなかった!

区のサークル活動としてやっていて、AセンターとBセンターのうち会場が取れたところでやっている。その会場をまちがえてしまったのだ。

あ゛~。

先月念押しされたというのに。。汗をかきながらあたふたAからBへと移動し遅れて加わった。

ミスのない日を送りたいと思い、今日こそはと思っているが、財布を忘れたり出がけに鍵が見当たらず遅刻したりとミスばかりしている。

風景画の建物がむずかしい

先月から習っているのが風景画。

いただいた写真と手順のレジュメを元にまず青色を塗る。先生は赤、青、黄色+白黒の5色のみで描かれる。私もそれに倣っている。下描き→青→赤→黄色→黒→調整の順で色を重ねていくのだ。

建造物描くの、難しい。

“情報”が多すぎて鼻から無理と思ってしまう。

「この写真は風景画のなかではうんと簡単なほうです。だって建物に窓がないから」と先生。

たしかに。窓がたくさんあったりした日にゃお手上げだ。

自分が実際には見たことがない風景を写真から絵を描くことも気乗りがせず、なかなか進まない。

「来月は風景画の続きでも自由画でもどっちでも好きなほうを」と先生。じゃあ、途中でやめようかな、それとも苦手克服?のために最後まで仕上げるべきか?

“芸風”をつくるには?

頭のなかでイメージしたものがさらさら描けたら、楽しいだろうに。

下手とはうまいとかはさておき、自分なりの“芸風”みたいなのがあって味があるっていうの、いいなぁ。

“自分なりの味”を出せるようになるには、たくさん描くことなのか…月1度しか画用紙に向かわないって、趣味にしてもなんだかな。

ベストセラーになった『大家さんと僕』のカラテカ矢部さん、たしかあれが初漫画って言ってたけど、上手。いい味出してるなぁ。お父さんが絵本作家さんというから素養がおありなのか。

たまに自分で描いたイラストとか載せておられるブログを見ると、そういうのも素敵だなと思う。

あれは…ペンタブとかいうので描いているのかしらん?私もやってみたいな。

自由に描くということを学んでいる

教えてくださる先生が「自由に描いていいんですよ」とおっしゃるので、描くことに対する縛りが次第に解かれていく。

色えんぴつ画講座は私にとってセラピーみたい。

やっぱり私はもっと自由に表現できるようになりたくて、行っているのかもしれないな。

先生は「絵は手で描くものではなくまず目で描くもの。しっかり見ることが大事」ともおっしゃる。

この世は幻想で五官は「幻影を作り出す器官」だと言いつつ、この世の細部を観察して絵を描く。

それもおもしろいなぁと思っている。

ACIMレッスン242-今日一日は神のものである。私はこの日を神への贈り物とする。

2019-02-14

バレンタインデー

バレンタインデー…愛する男性へチョコをというのは残念ながらできないけど、ちょうど母の誕生日。

で、毎年母にチョコレートを送っている。

一緒に洋服を送ったりしていたが、色やデザインが好みに合わないことが続き、2年前ついに「今後一切断じて服送るべらかず」というお達しが出た。

正座するのがきついと言い出したので正座用椅子を送ったら、「余計なことを」とひどく叱られたこともある。

母は正直だから、要らないものは要らないと言う。他の方への贈り物でも「合う」ことは少なくて、きっと私は「余計なもの」を贈っているんだろうなぁ。

今回はまだ北陸は寒さが続くだろうから、レッグウォーマーを添えた。これだったらミスマッチだとしてもダメージは少なそうだ。

ちゃんと届いたらしい。夕方母から、

「おいしいチョコレートありがとう。最近松山千春のCD(前に私が送った)をよく聞きます。今も聞いています。」とメールが来た。

「苦情」覚悟だったから、ほっとした。

ACIMワーク242‐今日一日は神のものである。私はこの日を神への贈り物とする。

私は世界を理解していないのだから、自分ひとりで生きようとすることは愚かである。

しかし、私にとって最善なることを知っている聖霊がある。

そして聖霊は、私のために喜んで、神へと導く選択だけをしてくれる。

私は帰還の時を遅らせたくないので、この日を聖霊に捧げる。

聖霊こそが神への道を知っているからである。」(L242-1-2,3,4,5)

そのとおり、と思う。

問題は、

(自分なりの方法で)ワークがちゃんとできているのか、

聖霊の声がちゃんとキャッチできているのか、

だけど、これも深追いして考えないことにした。

稼げてないことへの不安感、恐怖感、自己否定感がずっとあるけど、これも今しばし棚上げしようと思う。

気づけばすぐゲンジツに巻き込まれ、ザワザワしたりパニクったり、あるいは被害者になったりしているけれど、これも「作っているのは私だ」と思い出すことを心がけている。

日中はすっかり忘れているけれど、思い出した時に「そうだった」と思い返す。

なるたけ聖霊さんのしごとの邪魔にならないようにしたいけど、そういう舌の根も乾かないうちにまた邪魔してしまいそうだ。

私は恵まれている。感謝しよう。

ポジティブでいこう

2019-02-11

大雪注意?

関東には積雪注意報が出ている。

北海道や東北、北陸の雪が多いエリアから見たら「何を大げさな」という感覚だろう。

エアコンが苦手だから、この冬まだ一度もつけたことがないけど、さすがに寒い。

腰には腰巻きケットを巻きつけ、家の中だというのにユニクロのダウンコートを着てる。首には輪っかマフラー(スヌードというらしい)。足元は45㎝角のホットカーペット。これあったかい。

土曜日はWebデザイン講座の最終回。雪の予報にも関わらずみんな頑張って参加していた。

最終回はJavaScriptというプログラミング言語?によってサイト上にアニメーションもどきを創るというもの。

先生のテキストに従って、おまじないのような長いアルファベットと記号をパソコンに打ち込んでいくが、どこかで間違えてしまっているらしくうまく作動しない。

あ゛~間違ってるの、どこ?あ、これ?あ゛、待って。

その繰り返し。

もー、ほとんどお手上げ状態だった。

先生は丁寧なレジュメを下さっているから、自分でも復習できるんだろうけど、戦意喪失。

こういうもんはやっぱり若いもんのものかな、と思ったりする。

ネガティブの住人、やはりポジティブでいこう

ワークをしていて、というわけではないけど、最近ふと思ったこと。

私って、やっぱりネガティブだ。

この二元性の世界に、「Yes」の世界と「No」の世界があるとしたら、まちがいなく「Noの世界」に住んでいる。

「ある」の世界と「ない」の世界があるとしたら、「ない」の世界。

「ネガティブ」と「ポジティブ」だったら、やはり「ネガティブ」。

それは自分がどんな色眼鏡を通して世界を見るかと同じで、クセというか自分が落ち着くと感じるパターンみたいなものだ。けどそれはやはりよいクセではないな~と思う。

何も解決しないけれどグチを言って落ち着くみたいなものだ。

二元性ではなく一元性を目指している。「Yes」も「No」も、「ある」も「ない」も「ポジ」も「ネガ」も越えて「神だけがある」世界が真実だ。

だけど神なるものは豊かさであったり喜びであったり幸せだったりすると思うから、やっぱりこの世でネガかポジかで言えば、ポジのほうが神に近いように思う。

一時ネガを否認して何でもかんでもむやみに明るいのがいいみたいなポジが流行ったけどそれとは違う、静かなあり方として、

「Yes」「ある」「ポジティブ」の世界に住む。

「いえいえ、私なんか」「どうせ」「○○だから」「できない」はもう織り込み済み(そうでしょーよ)。それをわざわざ言わない。そう決めといたら、もっと制限が取れて自由になれるのかもしれない。

そうしたら、JavaScriptだってYesなのだからできちゃうかもしれないのだ。

こう書いてきて、ふっと思った。

私はもしかしたら、私というコンピュータに「私なんか」「どうせ」「○○だから」「できない」という言語をプログラミングしていたのか?

かなり基本的な部分にそれが書き込まれているんだろうか。

それを削除して、

「もしかしたら」「意外と」「○○でも」「できちゃうかも?」みたいなことを上書きできたら、ACIMの赦しの過程をすべて終えるのを待たずとも、見ている世界は変わるかも。たぶん。より自由で楽しいほうに。

年を重ねて新しいことをやるときの心得

2019-02-08

なかなか身に付かないWebサイトづくりのスキル

懲りもせず週末東京都主催のキャリアアップ講習「Webサイトデザイン」に通っている。

三日間午前9時~午後4時半まで、実際にパソコンを操作する実践講習だ。

明日が最終日。あ゛~、今回も操作についていくのにいっぱいいっぱいだったなぁ。

HTML、CSS、ドリームウィーバーなどこの手の講座を何年も前から受講している。だけど、受講したまんまで実際操しないからか身に付かずそのうち忘れてしまう。

また次に受講したときに、そういえば何かあったな、と思い出す。その繰り返し。

Webサイトづくりから言ったら、初歩の初歩のことをやっているんだけど。。ずっと初心者のまんまで足踏みしている。

私はよっぽどこういうことが苦手なのかな?

ばかなんだ。新しいことが覚えられない(*_*) 何年も同じ講座を受講して何やってるんだと我ながら呆れ気味だ。

だけど、去年、ある本のなかの言葉が気に入ってノートの表紙の裏に貼っていたことを思い出した。

確かめてみる。

あった…

歳を取って新しいことをやる時、心得ておくとよい4つのこと

若い時と違う点がいくつかあるけど、その点さえ押さえておけば「年配者でも『やれば新しいこともこなせる』というもの。

このマイナス面を認識した上で取り組めば、できないことはないと。

  1. 覚えるの時間がかかる
  2. 反復練習が必要である
  3. ときには年配者としてのプライドが邪魔をする
  4. 同時進行でいろいろなことができない。

この4つを心得えつつ「歳だから無理」という思い込みは捨て、ゆっくり時間をかけて覚えていけばいいとある。

そう考えたら、私は今、「反復練習」をしているところなのだ、と大いに励まされた。

私はまだそこまでの歳だとは思ってはおらず「年配者でも…」のフレーズが気にならなくもないが。

でも「症状」というか「現象」は同じだ。

残念なのは、感じ入ってコピーしてノートに貼ったのはいいんだけど、誰のどんな本かがまったく思い出せないこと。勝手に流用してすみません。

たしか図書館で借りた本だと思うのだけど。。。

よいことたくさん言っておられたから、同じ著者の他の本も読んでみたい気がするけれどもうわからない。(ネットでそれらしい言葉を入れて検索してみたけれど、さすがに無理だった)

今度貼り付けたいと思うようなことがあったら、出典もメモしておこう。

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