181~200

ACIMレッスン200-神の平安のほかに平安はない。

2018-08-27

暑さが終わったら、今年もおわり~!?と、焦る

お盆を過ぎた頃ふっと涼しい日々があり、「また暑くなるんでしょうけど、私的にはもう夏は終わったと思ってます」と言っておられた方がいた。

私もそれに習って、お盆後「夏終わり、もう秋」とした。

だけど、ここ数日猛暑がぶり返していて、暑い…。

また、暑い、暑い…と言って、そのうち涼しくなったと思ったら、今年もあと○○ヶ月ですね、となって、ハロウィーン、クリスマス…と商戦で町が賑わい、あ゛~、今年も終わり…だ

…と、焦る(*_*;

なぁ~んにも、してない、、、私。

時間なんて、意味ないはずなんだけど。

暑くても、できることやろう。

ACIMワーク200-神の平安のほかに平安はない。

レッスン200は、私たちは常に平安を求めているが、それを探す場所を間違えている、と言っている。

世間的に、平安につながると思われている、社会的な成功や達成、名声、権力、おカネ、美貌、魅力…、そうしたものは、一時的な快楽や喜び、興奮を与えてくれるかもしれないが、私たちが心から求める永続的な幸福感や平安をもたらしはしない。

平安は神に拠らねば満たされない。

…と言っている。

なぜなら、そうとは見えなくても、神以外はすべて幻想だから。錯覚にすぎないのだから。エゴの煙幕にすぎない。

だから、そうしたものに惑わされて無為にさまようのではなく、ダイレクトに平安の源である神に拠りなさい

そのために、赦しなさい

幻が、本来ではありえない不安や恐怖、罪悪感、嫉妬、怒りが自分の心の内にあるのを見せてくれた時には…。

それが、錯覚から正気を取り戻す唯一の道なのだから。

常に同じ中身だけど、たぶんこういうことを伝えているのだと思う。

要は、渦中でも赦しを思い出すこと

やはり、要は赦しなのだ。

赦しは何をするのだろうか。真理においては、それは何の機能もなく、何もすることもない。なぜなら、赦しは天国では知られざるものだからである。

それは地獄においてのみ必要とされ、そこでは強力な機能をする。」(L200-6-1,2,3,4)

神だけが確かであり、神が私たちの歩みを導く。」(L200-9-4)

神様だけが現実。そのための赦し。

この考え、自分としては「わかっているつもり」だけど、それも「何かが起こるまで」。

何かがあると、不思議とこの世が幻想とは思えなくなる。

一瞬で圧倒的ゲンジツ感の渦中に巻き込まれ、神さまはぶっ飛ぶ。

そして、その時の自分の感情が正当なものと感じられる。

そして、ワークの中身が遠くおぼろげになる。

不思議。

だからこその、ワークであり、練習なんだろうけど.

今ここでは、まず「暑さ」を赦すことかしらん?

「忙しさ」について感じたこと

このワークをやっていた時、「忙しさ」についても感じるところがあった。

忙しくしないこと。

「忙しくするのは、電車の中で走っているようなものだ。」と。

これも、社会的な一般論とは異なるから言いにくいところはあるけれど、忙しさをよしとする背景には、神を忘れる、死を忘れる、罪悪感を晴らす、といった無意識の目的があるのかもしれない。

平安でいいのだ。

頑張らなくても、忙しくしなくても、ありのままで平安でいいのだ。

これを実践してみたい。けど、まだ怖くもある。

ACIMレッスン199-私は肉体ではない。私は自由である。

2018-08-24

祝準優勝、金足農業が見てた人みんなの「ひたむきスイッチ」押した!?

第100回の高校野球決勝が終わって三日。

やっぱり、高岡商業を破った(三回戦:3-1)大阪桐蔭は強かった。史上初の二度目の春夏連覇だという。すごい…

しかしながら、ニュースなどで報道され注目を集めているのは、むしろ敗れた秋田の金足農業の方だ。

日本人はえてして判官贔屓だ。全国49の参加校の中で公立高はわずか8校、その中でも唯一の農業高校に肩入れしたくなるというものだ。

[caption id="attachment_4154" align="alignleft" width="300"] 金足農業、吉田輝星投手(撮影:杉山ヒデキ氏)[/caption]

 ピッチャーが3人が分担して投げた大阪桐蔭に対して、金足農業は吉田君ひとりが予選から頑張って投げ抜いたという。

決勝まで知らなかったけれど、見れば吉田君は爽やかイケメンだし、名前が「輝星」というのもまんま。絵に描いたようなヒーローだ。

努力と根性が報われた昭和時代のノスタルジーも喚起させ、みんなが深層心理で求めるひたむきなストーリーにばっちり嵌っていた。

勝負の世界は二元性の代表だし、勝ちもあれば負けもある。だけど、勝負を超えて人々の「ひたむきスイッチ」を押したのではないかな?

同校には寄付金が1億9000万円も集まったという。そのひたむきスイッチを押してくれた善意のお礼ではないのかな。

スポーツオンチだけど、そして、これもまたこの世の幻想の一つだと知っているけれど、スポーツが生み出すストーリーには惹きこまれる。

ACIMレッスン199-私は肉体ではない。私は自由である。

さてさて、レッスン199。

お盆帰省前にやっていた。

私は肉体ではない。私は自由である。

短いフレーズだが、これも極めて重要な、ACIMの根幹の考え方だ。

肉体は本来はひとつであった神の子が分離した(という誤解の)結果の幻であり、

肉体は一つの制限である。」(L199-1-2)

心が自由になれるのは、自らを肉体の中に存在するものと見なさなくなったときであり、自分が肉体にしっかりと固定され、肉体の存在によってかくまわれていると思わなくなったときである。」(L199-1-4)

スポーツは肉体をベースにして高みをめざすものだから、スポーツ自体、自我のものなんだろうか。

それを言ったら、この世にあるすべてがそうなのだけど。

このワークは私には特に難しく感じられる。

私は人一倍自分と自分の体に執着がある方だと思うから。

その性質がACIMの学びを阻んでいるのは気づいている。

そうは言ってもなかなか… 。

学習が進むにつれ、聖霊に従いたい自分の部分と、肉体をまとった自我(エゴ)チームが先導する部分と、両方の自分がせめぎ合っているのを感じる。ある時は聖霊に委ねようとしているが、おおむねエゴが牛耳っていると感じる。

肉体に執着したい私は、死を恐れる私でもある。

まだまだ私には、赦しの経験が必要だ。

この概念が自我にとってはまったく狂気だということは気にかけずにいなさい。

自我は肉体の中に住み、自分が作り出した家と一体化して生きているので、肉体を非常に大切にする。」(L199-3-2,3)

ここに自我は隠れており、ここに自我の正体が見てとれる。あなたの無罪潔白を宣言しなさい。そうすれば、あなたは自由になる。」(L199-4-1,2)

私がACIMの道を進むためには、ここをちゃんと超えていかなければならない…

「存在感の美しいひと」への憧れ

ACIMの教えとは逆行するのかもしれないけれど、私は、ずっと「存在の美しいひと」「存在感の美しいひと」に憧れがあり、そこには見た目の美しさも入っている。

具体的にどんなふうかとなると、よくわからないのだけど、余分なものが削がれていて、細部まで神経が行き、聖なるイメージ。

自分の中の「存在の美しいひと」と、ACIMは相反するものなんだろうか。

また改めて考えてみようと思う。 

ACIMレッスン198-私の咎めだけが私を傷つける。

2018-08-21

ACIMレッスン198-私の咎めだけが私を傷つける。

レッスン198は、とても力強いメッセージだ。

傷つくということはありえない。

しかし、自分が咎めをリアルにするなら、それはありうる。

自分から咎めを取り除くことが、自らを赦し癒す。

真理に咎めはないのだから。

これを受け入れて、咎めを手放すことができれば、楽になる。

だけど、それには「赦し」という訓練が必要だ。

それが、ひどく難しい。

あっという間に何かが起こり、感情の渦にいる。

毎度。毎度。

どうして、咎めにしがみつきたくなるんだろう。

やはり、赦し

特に気になったところは、赦しの重要性を述べたところ。

咎めるなら、あなたは幽閉される。赦すなら、あなたは解放される。」(L198-2-1,2)

幻想は幻想を作り出す。だが例外が一つだけある。赦しは幻想ではあるが、ほかのすべての幻想への回答となる幻想である。」(L198-2-8,9,10)

赦しはほかのすべての夢を一掃すると同時に、それ自体は夢であっても、ほかの夢を育てはしない。」(L198-3-1)

ナビゲーターは、エゴか、聖霊か。ひどく長そうな道のり。

赦しを実行するためには、聖霊とのつながりを保ち続けることだ。

事あることに聖霊の言葉に耳を傾けること。

聖霊の言葉には効果がある。聖霊の言葉は救済する。」(L198-6-1)

私は、聖霊の言葉に耳を傾けること自体に、長いこと恐れがあった(今もある)。

不都合なことを聴いてしまいそうだから。

誰にとって?

私。

その私とは?

私のエゴ。

でも、エゴと一体化する方法では、すでに行き止まりだと知っている。

エゴか、聖霊か。

二者択一で、その中間はないんだ。

私の中では、未だエゴの圧勝、かな?

今日は、あらゆる形の苦しみは、必ず、赦そうとしない想念を隠しているということを忘れてはいけない。

そしてまた、赦しが癒せないどんな形の苦痛もないということも、忘れてはいけない。」(L198-9-5,6)

神の子の中にはどんな咎めもないと宣言するこの一つの幻想を受け入れなさい。」(L198-10-1)

私は、聖霊の声を受け入れる練習をするところからだ。

ひどく長そうな道のりに、気持ちも萎える。だけど、だからといって、エゴがおすすめする成功万歳、とは思えないところにいる。

ACIMレッスン197-私が得られる報酬は、自分自身からの感謝のみである。

2018-08-11

昔からの友人とのパフェは青春の味!?

汗かぶれは、専門の塗り薬「アセムヒEX」を塗ったら、劇的に改善、かゆみが気にならなくなった。ほーっとひと息。

昨日、20代からの友だちと3年ぶりに会った。

入ったのはフルーツパーラー。高価だから、ふだんの私の脳にはない選択肢だ。

桃のパフェとコーヒーのセットで、1,400円。フレッシュな桃がとってもおいしかった!

何層にもなったフルーツとクリームがきれいで、二人とも思わずスマホを取り出して写真を撮った。

「20代の頃、インスタあったら、私たちもやったよねー」と私。

「うんうん、ぜったい。」と友人。

そして、「今のコは、仲いい友だちが自分にぜんぜん声かけないで、別の友だちといろんな所に遊びに行っているのとかも、Facebookやインスタで丸見えで、それもなかなか大変だね」という話になった。

確かに。

またSNSを通して自分を見せるのも自分活動の一環で、神経使いそうだ。私なんかも、インスタにアップするためにどこかに出かけたり何かしらのイベントに参加したりしてしまいそうだ。

今や、そんな見栄を張るエネルギーは残っていない。

暑い中出掛けて戻った後は、2時間くらい動けず横になっていた。

何年ぶりかで会っても一週間ぶりぐらいな感じで話せる。お互いの若い頃を知っている友だちって貴重だなと思う。

ACIM197-私が得られる報酬は、自分自身からの感謝のみである。

この世は、自分の想念の映し鏡のようなもの。

この世で、自分が何かしらしていること、すること、その相手は、実はすべて自分だ。

相手と自分はひとつなのだから。

リアルには神の延長である私たちしかいない。

この世という想念フィールドの中で、私たちは、それぞれの考えを投射して見ている。

レッスン197には、この世で捧げる感謝やギフトについて書かれている。

面白いと感じたのは、最初のほうの「あなたは親切になって赦そうと試みる。けれども、外側に感謝の気持や、あふれんばかりの謝意を見いださない限り、再びそれらを攻撃に変えてしまう。」(L197-1-2,3)というところ。

この世で私たちが言う「思いやり」や「ギフト」や「感謝」は、大概これだ。

気づかいや感謝に対し、同じような気づかいや感謝で応えられないと怒りだしてしまい、すぐさま撤収してしまう。

なんとも身勝手だけど、そうだ。

でも、「ほかの人があなたの贈り物に価値がないと思ったとしても、それは問題ではない。その人の心の中には、あなたに感謝してあなたの心とつながっている部分がある。」(L197-4-1,2)

すべての贈り物は唯一あなた自身に与えられるので、神に捧げられ、神はあなたが捧げるすべての贈り物を祝福する。」(L197-5-1)

相手の反応は気にかけず、結局は自分に与えているのだから、安心して与えなさい、という。

自分の幻想を赦す時、私は感謝を循環させ、その感謝は自分に返る

あなたが自分の幻想からこの世界を解放するとき、世界は必ずあなたに感謝する。しかしこの世界の解放は、あなたの解放を反映することしかできないので、あなたの感謝もあなたのものである。」(L197-3-1,2)

すごく抽象的で、説明が難しい。でも感覚的にわかる、と思う。

自分が与える贈り物を取り下げるなら、あなたは自分に与えられたものが撤回されたと思うだろう。そうではなく、自分の外側に見えていると思っている罪を、赦しに取り去ってもらうことを学びなさい。

そうすれば、神からの贈り物を、死によって取り上げられるまでのわずかな間だけ貸与されるものだとは、決して思わなくなる。」(L197-6-1,2)

心に響いたところを書きだそうとしたら、全部になってしまいそうだ。

要は実践。

この概念を決して信じてないわけじゃないけれど、いざ場面に遭遇するとまだまだ躊躇してしまう。

ACIMレッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

2018-08-08

今晩から明日にかけて台風13号が関東にも上陸するだろう、要注意とのニュース。ここ数日と打って変わって涼しい。

異常気象が続いているなかでも、今年はその異常さが際立っている。何事もなく過ぎてほしい。「無事」が有難い時代になった。

レッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

レッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

この世は、神から造反したと思い込んでいる私たち神の子が、エゴから唆され、怖ろしい神からの隠れ家として作り出したものだ。しかし、それは勘ちがいにすぎない。

この世は、自らが上映している映画にすぎない。

一見ばらばらの身体を持っているように見える私たちは、実はひとつであり、ただ神の延長である。

神に対するすさまじい恐怖と罪悪感パニックから、本当のアイデンティティ-罪なき神の子であるという-を取り戻す訓練が、このACIMだ。

この理屈に従えば、レッスン196もすんなり理解できる。

私たちは常に、自らの罪悪感を投影できるスケープゴートを求めている

ただ頭で理解しても、水面下にある氷山のごとく私たちから知覚できない無意識には、計り知れないほど深い恐怖と罪の意識が眠っている。

私たちは、これを見たくない。

あまりに怖いから。意識の上にあげるのを拒む。

無意識にあるものは、否認するがゆえに、自分以外のものに投影される。

だから、私たちには常に「責めるべき悪い人、悪い事」を無意識のうちに求めている。

テレビのワイドショーやニュースは、次々と私たちが、私たちの恐怖と罪を投影できる対象を提供する。

それを見ている時は、私たちは、正義の味方でいられるし自分の罪を直視しなくていいから。

でも、様々な悪に見える根源は、私たちの心の中に気づかれずに在る神への恐怖心と罪悪感だ。

これが、心の表面に出てきた時、つまり嫌なことに出くわしたり、誰かに許し難いことをされた時に、「これは本当ではない」と気づき、赦すこと。

理屈を理解した上で、その機会が訪れた時に、赦すこと。

これだけが、恐怖を減らして真実に近づく方法なのだ。

過去ノートを開いてびっくり、一回目のレッスン196は修羅場の渦中だった

今日、ふと、1回目にこのワークをした時はどんなだったのかな?と、古いノートを取り出してみた。

で、びっくりした。

私は修羅場の渦中にいた。

私にとっては長い話で、端折ると、

20代の頃に結婚してすぐに別れてしまった元だんなさんが、

私が当時書いていたブログを発見して(もちろん名前も住所も書いていなかったが)、ここら辺りにいると当りをつけて会いに来た(私から一方的に別れ、未消化の感情があったのかもしれない)。

そして偶然(私はそう思っていた)、20年ぶりに再会。

その後、短いあいだ再び恋愛関係に。

その後疎遠になるも(振られた)、ある時再び現れ、私はおカネ(大金)を貸してしまう。

私は彼に未練があって、その下心もあって貸したのだ。

でも、思うように返済されず、当然のことながらそれで恋愛がうまくいくはずもない。

私には、軽んじられて利用されている感があって、その怒りの感情を彼に爆発させたのが、2015年1月末、レッスン196のワークの日だった。

その日のノート。

「大爆発してしまった。すごく責めてしまった。

ACIMと真逆のことをした。

自分で自分の首を絞めた。」

と乱暴な字で書いてある。

もっとも大きな赦しの機会

そして、

「私は赦す、だからこれは消えていく」

ともあり、マーカーで囲んでいる。

あ゛~、あの時…。

頭と感情が真っ二つだった。

あれは、ACIMを学び始めて、もっとも大きな赦しの機会だった。

今だって全部赦せているかどうかわからない。それほど感情を揺さぶられる相手であり出来事だった(おカネはその後全額返してもらった)。

でも、考えてみれば、彼は私の内なる罪悪感の投影の引き受け人で、彼がいなくては無意識はそのまんま温存される。

私にとってはソウルメイトであり、感謝すべき人なんだ。

レッスン196の最近のワークについて書くつもりが、たまたま過去ノートを見て、よみがえった感情。

これも偶然じゃないんだろう。

未だ赦すべきものがあるからだろう。

赦すべきことに気づいたら、なるたけ赦そう。

レッスン196の締めの文

あなたの心が十字架に欠ける対象とすることのできる相手は、あなたしかしない。しかし、あなたの贖いもまた、あなたから訪れる。」(L196-12-5,6)

 

ACIMレッスン195-愛は私が感謝の内に歩む道である。

2018-08-06

ACIMレッスン195-愛は私が感謝の内に歩む道である。

レッスン195のテーマは、「感謝のうちに愛の道を歩むこと」。

引っ越しの直前と、引っ越し後1ヶ月余りのブランクの後にやっていたワークで、ワーク時「難しい」と感じていたが、改めて読んでも難しく感じた。

感謝と不平不満は対極にあると思う。

私は元々グチっぽく不平不満が多い質だ。気づけば、何かしらに不具合や不満を感じている。

つまり、感謝が下手だ。

ACIMと出会い、ようやく下手なりに、感謝を学び、練習している。

真の感謝は、神とひとつであることに対して捧げられる

レッスン195には、この世における一般的な感謝と、真の意味での感謝の両方が書かれている。

この世での感謝は、「せいぜい自分自身が他人よりましな状態にあると見なすこと」だという。つまり、他人の苦痛を根拠に感謝するのだと。

これは、平安や豊かさにはかぎりがあって、それを私たちが同胞と奪い合っているという見方をベースとしている。

兄弟があなたよりも不自由だからといって、それはあなたが神に感謝を捧げるべき理由にはならない。また、自分より彼のほうが自由であるように思えるという理由であなたが怒りを感じることも、正気の沙汰ではない。」(L195-4-1)

ACIMが言うところの感謝については、次のように説明されている。

私たちは一つのことについてのみ、父に感謝する。すなわち、生きとし生けるものから私たちは分離しておらず、だから神とひとつであるということだけに感謝する。」(L195-6-1)

さもなければ無に対して感謝することになり、神から私たちへの贈り物を認識しそこなうからである。」(L195-6-2)

この一般的に言う感謝と、ACIMの「神とひとつであるということだけに感謝する」という感謝の違いが、わかるような、わかっていないような?

私は、希望する住まいがなかなか見つからなかったが、今のマンションに出会えて契約できたことをとてもありがたいと思っていたけれど、その気持ちは感謝と言えるのだろうか?

自分ではそのつもりでいても、単に物質的なものに対する満足にすぎないのかもしれない。

愛は感謝以外の道を歩くことはできず、私たちもそのように進んでいく

愛は比較しない。そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ、真摯なものでありえる。」(L195-4-2)

感謝とは、すべての被造物の源である愛の一つの側面にほかならないからである。」(L195-10-3)

「愛」も「感謝」も抽象的で、実感としてはよくわからない。

でも、こういう時思い出すのは、「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」といった文言。

『なまけ者のさとり方』という本のなかにあった。(そんな気がしていたけど、本をぺらぺらめくってみたけれど、見つけられず。勘ちがいか?)

「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」

「感謝することがわからなければ、そのわからない自分に感謝しなさい」

感覚としては間違っていないと思う。

レッスン195の最後の文、「神に対するあなたの感謝は、あなたに対する神の感謝とひとつのものである。愛は感謝の道以外の道を歩くことはできず、神への道を歩む私たちも、そのように進んでいく。」(L195-10-5,6)

とても深い。

あまりに崇高で、恐れ多い。

 

ACIMレッスン194-私は未来を神の手にゆだねる。

2018-08-03

ACIMレッスン194-私は未来を神の手にゆだねる。

これも6月中旬の引っ越し前にやっていたワーク。引っ越しが差し迫ってばたついていた頃で、ワークもどこか流していた。

改めて本文を読んでみたら、シンプルだけどとても重要な概念だと感じた。

ACIMは表現や視点をさまざまに変えながら同じ原理原則を説明しているが、誰にでも、響きやすく、とくに真実を思い起こさせてくれる表現があると思う。

私は未来を神の手にゆだねる。

私にはこれが響く。

そうすれば、あなたはあらゆる不安や地獄や絶望の間も、罪の想念も、罪悪感がもたらす荒廃も。すべて通り抜けたことになる。」(L194-2-1)

ただ未来を手放し、神の手にゆだねることだけが求められている。」(L194-4-5)

頭ではわかってもなかなかできない。

考えただけで、不安になってしまう。

頑張らないと、身構えていないと、疑わないと、とんでもないことになってしまう、という“常識”もある。

そして、やっぱり私の場合、根っこに罪悪感と恐怖があって、「そんなお気楽でいいのか(神の手にゆだねることが、お気楽とは言えないが)」「何バカなこと言っているの?」「自分が頑張らないことの言い訳でしょ」という、内なるエゴの声がする。

エゴの声だけを聞いて従うには、ACIMの考えも浸透してきており、宙ぶらりん。どっちつかずだ。

「未来を神の手にゆだねる」のに、聖霊の声を聴きわけること

引っ越しを済ませ新居に移り、物もたくさん処分してきた。引っ越し後の家も片づいてきた。

仕事もしていない。

今私には、空きスペースができつつある。

この空きスペースに何が入るのか。何を入れるのか。

空いていること=不安定、でもあるけれど、せっかく空けたのだからへたなもので満たしたくないとも思う。

「未来を神の手にゆだねる」には、聖霊のメッセージを聴いてこれに従うことが不可欠だと思うけど、自信がない。

ちゃんと聴けているのか。

あるいは、聖霊の声と思いつつ、実のところ聴いているのは、エゴの声ということはないんだろうか。

基本的なことだと思うけれど、未だによくわかっていない。。

聖霊の声を聴いてしまったら、それに従わなくちゃいけなくなって困る(←エゴが)、メッセージを聴こうとしながらも、手で耳をふさいだり開いたりしながら、「あー」と声を出しているようなところがある。

そういえば、引っ越し前のワークでずっと感じてきた「姿勢を良く、体幹を鍛えろ」というのは、そのとおりだった。

今回の引っ越し後のぎっくり腰は、いつもとちがって治るのに1ヶ月以上かかったから。

聖霊が、そんな体のことをアドバイスしたりするのかな?と思っていたけど、聖霊の声かどうかはともかく、「姿勢」と「体幹」は私にとって大事なことにはかわりない。

いつでもどこでも、今・ここから

まぁ、ともかく、今・ここから、しかない。

自分にとってメッセージと思えることを聴きながら、自分のゲームを進もうと思う。

彼は、自分の知覚は間違うかもしれないが、それらは必ず訂正されると確信している。」(L194-7-7)

攻撃したくなるときは、私たちの休息を護る聖霊に助けを求め、私たちにかわって誘惑をはるか後ろに遠ざける選択をしてもらう。」(L194-9-5)

本文のこの2ヶ所が救いかな。

ACIMレッスン193-すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。

2018-07-30

台風12号と罪悪感

日本列島を逆走する“異例のコース”を辿った台風は、明日まで九州に居座り、九州南部や四国に激しい雨を降らすらしい。

西日本豪雨で被災した地域では、再び冠水被害に合われた方々も。

家が水浸しになってしまい一から生活を作っていかなければいけない徒労感とやるせなさは、いかばかりかと思う。

とてもとても「赦し」などとは言っておられないだろう。

こういった災害のニュースを見ると、心が揺れる。

なんて、ひどい…と思う自分と、

これもまた赦すべきこと…と思う自分がいるから。

そして、後者の自分に、罪悪感を感じるから。

ACIMレッスン193-すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。

ワークのダイアリー、いつが最後だったかと見たら、6月6日のレッスン192だった。

レッスン193からだ。

これをいつやっていたのか、と振り返ったら、5月末から6月初めだった。

粗大ごみを出したり、本を大量処分したり、リフォームの手配をしていた頃だ。

レッスン193には、「各レッスンには中心をなす想念があり、それはどのレッスンにおいても同じである。(中略)それは次の通りである。」と書かれ、

赦しなさい。そうすれば、あなたはこれを違った見方で見るだろう。」(L193-3-7)

とある。

この言葉をもって誘惑が終わり、罪悪感は放棄されて崇められることがなくなる。これが罪の夢を終わらせ、心から恐れを取り除く言葉である。」(L193-5-2)

災害や犯罪などのニュースに、恐怖、罪悪感、怒りを感じるが、そうしたこともやがてすべて赦せるようになるのだろうか。

怒りや恐怖は「手放さねば」とシンプルに思えるが、罪悪感は、それを手放すそのことに罪悪感を覚えてしまう。

自分が間違った見方をしているかどうか、見分けるには、

その知覚において、苦痛が実在するもののように見えているかどうかを問いなさい。もしそう見えるのであれば、そのレッスンは学ばれていないと確信してよい。

そして、その心の中に、赦そうとしない思いが隠れて存在しており、心は自らの指令下にある目を通して苦痛を見ているのである。」(L193-7-2,3,4)

とある。

私には、まだいろんな苦痛が実在するように見えている。

すべては神があなたに学ばせたいと望むレッスンである。神は赦そうとしない想念を一つでも訂正されないままに放置することはない。」(L193-9-1)

赦すべきことだらけだ…。

私は赦す。だから、これは消えていく。

レッスンの終わりに、この世のシンプルな見方が書かれている。

私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)

この見方がすべてなんだよな。

でも、すぐに忘れてしまう。

ふと、気づいた。

私は、災害のニュースを赦そうとする自分に罪悪感を感じると書いた。けど、その背後には、もっと大きな別の感情がある。

そうしたニュースを赦そうとする姿勢を、周りの人々や世の中は非難するだろう、その非難をこそ恐れているのだ。

これに対しても、答えは、やはり、

私は赦す。だから、これは消えていく。

この魔法のことばなのだ。

ACIMレッスン192-私には、神が私に全うさせようとする機能がある。

2018-06-06

15年分の垢落とし

昨日、新居に洗面台設置のためリフォーム屋さんが下見に来られた。

リフォーム屋さんが帰った後は、念願の!?そうじを開始。管理人さんに脚立を借りて、レンジフードやエアコンを掃除した。

初夏何もない空間で、音楽アプリから流れる知らない曲を聞きながら、汗だくで掃除をしていると、昔むかしの若い頃の何かが始まる予感…を思い出した。

何もない…

新しい…

ということは素晴らしいことかもしれない。

若ければ…?

今朝は身体が筋肉痛だ。ウォーキング以外からだを使っていないから鈍っているんだ。歳を重ねてこそ体を動かさねば。引っ越ししたら、区のジムが近くなるから、通おう。

今回の引っ越しでは、歴代のノートパソコンや、長年愛用したブラウン管テレビも処分する。

なんでこんなもの持っているんだというものも多い。むかーし取材したカセットテープも大量処分した。

気づけば半年をかけての、人生のクリーニングのようだ。15年分の垢落とし。

新たなものを入れるには、古いものの処分が不可欠だということかな?

あるいは、老い支度だろうか。

ACIM192-私には、神が私に全うさせようとする 機能はたらきが在る。

レッスン192。やっていたのは先月だ。

ここでは、赦しについて、その位置づけと 機能はたらき についてより深い言及がされている。

赦しは、この世での私たち神の子のはたらきであり、真理でないものが取り消されるための手段である。

私たちは肉体を有しているが、肉体こそ攻撃の対象であり恐れの居場所だ。肉体を自らの家だと考えている心がこれらを生み出すのだという。

肉体は、学びが完了すれば横たえられるだけの単なる学習手段であり、学ぶ者を変化させはしない」(L192-4-3)とあるが、ここが私にとっては難しい(なかなかそうは思いづらい)。

ライザップのCMとか見ていても、肉体が変わればまるで別人のように見えるし。

この見方を変換させるのが、赦しだ。

肉体を自らの家だと考えている心を、そうした考えから解放できるのは、赦しだけである。」(L192-5-5)

私…。頭でっかちで、赦しの実践が圧倒的に少ない。

むしろ、赦しの機会から逃げている気がする。

怒らせる出来事をもたらした人に感謝をする

レッスン192でもっとも大事だと思うのは、9節の以下の部分だ。

「この道は単純明快である。突き上げてくる怒りを感じるたびに、自らの頭上に剣を振りかざしていることを理解しなさい。そして、罪を宣告された者となるか、自由な者となるかをあなたが選択するたびに、剣は振り下ろされるか、回避されるかのどちらかである。」(L192-9-3,4,5)

だから、あなたを怒らせるかに見える人々は、あなたを死の牢獄から助け出す救助者を象徴している。だから、あなたが彼らに返すべきものは、苦痛ではなく感謝である。」(L192-9-6,7)

私は、私を怒らせるように見える人に果たして感謝できるだろうか。

ACIMでは繰り返し、繰り返しこれを説いている。

とにかく、この世ではすべての人や、できごとが、赦しに集約されていく。

ここで体験したことを、自分の心の中に引き戻して、そして赦す。今日の出来事はなるたけ今日赦す。

これだけ、赦しについて聞いていても、いざそのチャンスの時には、この理屈がわからなくなってしまう。だからこその繰り返しの実践なんだ。

私にはまだこの世にいながら、この世を赦すという、その正解の感じがいまいち掴めていない。

赦すことが苦手だから、厭世しているような…。そんな気すらする。

ACIMレッスン191-私は神ご自身の聖なる子である。

2018-05-25

半年に一度の通院へ

一昨日は、半年に一度の通院の日だった。

4年前手術を勧められた腫瘍の大きさは変化なし。また半年後検査となった。

正直ほっとした。

一方で血液検査が「ある病気の可能性あり」と引っかかり、その結果を郵送で知らせてもらえることになった。

住まいも人生も仕切り直したいと思っている今、病気になるスペースはないはずなんだけどな。

ACIMを学んできて、病は自分の罪悪感や恐怖心の投影で、本来なら必要ないものだと学んだ。

直前のレッスン190にも、

あなたに苦痛を引き起こすのは、あなたの想念だけである。」(L190-5-1)

この世界には、あなたを病気にしたり、悲しませたり、か弱く、脆いものにするだけの力をもつものは存在しない。」(L190-5-5)

とある。

私は、自分に病を課す必要はないんだ、と改めて思う。

転居届提出、引っ越し日決まる

引っ越しプロジェクトのほうでは、6月15日と引っ越し日が決まった。引っ越し業者さんに見積もりに来てもらい、近場のわりには若干高めかなと思ったが、まぁいいかと決めた。

現区役所への転出届と、新区役所への転入届を済ました(登記の関係で、転入届は引っ越し前に出すらしい)。たいしたことはしていないのに要領が悪く時間ばかりかかっている。

レッスン191-私は神ご自身の聖なる子である。

レッスン191は、自らのアイデンティティを高らかに宣言するワークだ。

私は神ご自身の聖なる子である!

これが認められさえすれば、私たちは救われ幸福である。しかし、このアイデンティティを拒否するなら、この世は魑魅魍魎の世界となる。

最近はテレビで、加計学園の獣医学部新設時の総理の関与問題や、レスリングのパワハラ問題、日大アメフト部員の悪質タックル問題などが、話題となっている。

上の人に忠実に従うのが徳とする文化がずっとあり、それがパワハラや忖度を容認してきたようにと思う。どれも形は違うけれど似たような構図に見える。この世で地位があがると、いつしか擬似神エゴを崇めその手下になってしまう危険がある。

ある種社会のダーティな部分を受け入れてこそ社会で「一人前」「大人」とされてきた。私の若い頃も「セクハラも仕事の内」と言われていた時代があった。今から思えば、なんじゃそれ、だが。

私が見ている世界は、やっぱり魑魅魍魎だな。

でも、昔は隠せたことが今は表面化しやすくなっている。私のカルチャー講座の先生は「浄化の時代なのよ」とおっしゃるけど、実際、そうなのかもしれない。

アイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム?

だがこれは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外の何だろうか。」(L191-4-1)

この文がしゃれていると思う。

ACIMを少しずつだけど時間をかけて学んでいくと、一見荒唐無稽なこの教えがほんとうに真実だと感じられてくる。

実際、この世の中はACIMの言うようなしくみで動いているのだ。

あなたにはこの世界を残酷に用いる必要はなく、だから世界の中にこの残酷な必要性を知覚する必要もない。」(L191-6-3)とは、心強い。

あなたは虚しい希望と荒廃した夢を抱き、涙を流し、痛みに苦しみ、ただ死ぬだけのために生まれ、自分をひ弱で壊れやすいものと知覚しているが、よく聞きなさい。あなたには地においても天においてもすべての力が与えられている。」(L191-9-1)

この「よく聞きなさい」がけっこう好き。直接導いてもらえている気がする。

ついていこうと思う。

感じたことは、

心を曇らすな」ということ。

…→「(欲で)心を曇らすな」

…→「(小欲で)心を曇らすな」

うーむ。

私は神ご自身の聖なる子である。

ACIMレッスン190-私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

2018-05-14

「母の日」に帰省した

北陸新幹線に乗って、きのう、実家に帰省した。マンション共有者である母の書類を市役所で取ったり、必要な書類にサインをしてもらったりといった手続きのためだ。

母は「母の日」に娘がやってきたことに喜んでいた。

手土産はカーネーションの替わりの蘭。

母曰く、葉っぱが左右対称なのが趣に欠ける、と。

実家の居間では、亡き父が微笑んでいた。

親というのは、つくづくありがたいものだ。

遅ればせながら、そう思える人生になって、よかった…。

親を憎んだまんまでは辛いから。

負のリアリティをそのまんま引きずってその見方で世の中を見続けても、いいことはない。

ただ自分のなかの自己像を鏡に映しているのだとは、なかなか気づかない。

実際このゲンジツ下では親の影響力と存在感は絶大で、今回の帰省でも朝から夜までずーっと話かけてくる母に、ACIMの教えはぶっとんでしまう。

とても、これが幻想だとは思えない。

深夜になってACIMをようやく思い出す。

家族と暮らしながら、ACIMのワークを続けるのは、本当にむずかしそうだ。私などはひとり暮らしだからやってたんだと思う。

レッスン190-私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

レッスン190は、好きなワークだ。

わかりやすいし、私には沁みる。

私はずっと無意識のうちに「(私なんぞは)幸せになってはいけない」と思っていたようだ。苦痛こそが自分にふさわしいものと思い込み、そのうえで、来たるべき苦痛にひどく怯えていた。

それを、レッスン190は「苦痛とは、間違った見方である。」(W190-1-1)と、一蹴してくれている。

その言葉にほどけていく私がいる。私は物心ついたころから、苦痛に対して防衛して身を固くしてきたのだった。

苦痛とは、神の子が自分が何であるかについて誤解していることを証言するものにほかならない。」(W190-2-3)

苦痛が実在するという考えには、「このような愚かしさに平安あれ!」(W190-4-1)

そうなのか。

そうなんだ。

そうなんだ!

よかった…

苦痛は間違った見方だと、このワークは言葉を変えて、何度も繰り返してくれる。

もし苦痛を感じているとしたら、それを引き起こしているのは、私の考えだけだ。

この世界には、あなたを病気にしたり、悲しませたり、か弱く、脆いものにするだけの力をもつものは存在しない。それどころか、自分の本性をただ認識するだけで自分が見ている一切を支配できる力をもっているのは、あなた自身である。」(W190-5-5,6)

これは私には救いの言葉だ。

私はこれを信じる。

そして、喜んで、苦痛のかわりに、神の喜びを選択する。

私が今、見ているこのゲンジツは結果の世界なんだ。

そこには、幻想を別の幻想に変える以外の力はない。

「神あり」とこの世で体現できる人になりたい。

最近感じるのは、恐怖心より罪悪感のほうが「やっかい」、ということだ。

恐怖心はわかりやすく手放そうと意識化しやすいけれど、罪悪感は気づきにくいし、それを手放すことにまた罪悪感を感じてしまうから。

人によってちがうのかな。

実家では、考えがまとまらずブログを書くのがむずかしい。

母のパソコンに、慣れないせいもあるかな。

母は会うたびに腰がまがっている。切ない。愛おしい。一方で、心のなかで「和解」し感謝できていること、いまここに居てくれること、それがなによりありがたい。

これはACIMの考えに依った感情かどうかわからない。

ACIMレッスン189-私は今、自分の中に神の愛を感じる。

2018-05-11

新しい町が気に入っている

おかげさまで、ようやく意識が「マンション売却」から「引っ越し」に移ってきて、引っ越しが実感できるようになってきた。

住まいを駅で選んだわけではないけれど、内見やらなんやらで行くにつれ、町に親しみが増してきている。商店街には八百屋さんや靴屋さんなど昭和の面影が残る店があって、ほっこりする。

今は「この町が好きだ」と思う。

この年になって、また心機一転の気分。あるいは、長い滞在型の旅をするかのようだ。

この世が幻想であっても、環境の影響って大きいと思う。

この世がすべて結果なら、私という原因がどこか変化したから、私が見る環境が変わったということだろうか。

体は、ぎっくり腰はよくなったけど、昨日からまだ膀胱炎っぽい。

こちらの幻想はこじらせる前にさっさと手放したいが。

レッスン189-私は今、自分の中に神の愛を感じる。

レッスン189は、「あなたの中には、世界が知覚できない光がある。この光を、あなたはこの世界の目で見ることはない。あなたは世界によって目が見えなくなっているからである。」(L189-1-1)から始まる。

この世界が知覚できない、内なる光とは、内なる神の愛の反映である。

この神の愛に意識を集中してこれを認めることが、この今回のワークのお題だ。

私たちが内なる神の愛を認めて感じるなら、その反映としての世界というスクリーンには、無垢性と祝福を見ることになる。

今、私の目に映る世界には恐れと怒りが渦巻いている。

これは、私の見方がエゴを通したもので間違っていると示す証拠だということだ。

見方の二者択一

見方は二つに一つ。神の愛を認めるか、否か。神の愛か、罪&恐怖か。どちかかが幻想でどちらかが実在する。

そのどちらもが在るということはありえない。

私はどちらを選ぶのか。

それは「『人は自らの内に感じているものを見ることになる』という知覚の法則(L189-5-2)」に従っている。

だから、

今日、私たちは幻想を通り越して、幻想を通り越し、自らの内にある真実なるものに到達しようと努める。」(L189-6-1)

そして、

愛と愛からのギフトである光を感じる視覚を感じることを試みる。

そのためには、既存のすべての概念を取り去って、心を空にする。

ワークで取り去るべき概念の中には、「この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手をまったく空にして、あなたの神のもとに来なさい。」(L189-7-5)とACIMでさえ忘れ、まっさらな心でいることが強調されている。

そして、ただ神に来てもらうことだけを願う。

神に至る道はただ神を神のままに在らせることである。」(L189-8-7)

「問題」「困りごと」はエゴのエネルギー源だから、今は忘れる

おそらくエゴが幻想であるエゴを保つには、エネルギーを与え続けることが必要だ。それが、私たちがこの世で目にする「問題」だ。

問題はこのレベルでは確かに解決すべきことだけど、この世界は結果にすぎないとしたら、その原因のほうを解決することが合理的だ。

その原因は、私(たち)の心の中の神の不在だ。神と私たちは切っても切り離せない。ただ神を認識すること。

そのために心の中のあれやこれや、とくに自分がもっとも問題だと感じていることを脇に置くこと。

神にお願いごとをしたり問題解決を願うのは、神を自分(エゴ)の望みで変形させようという試みだ。

そうではなく、それらを一時心から出して、ただ心を空にすること。

それが神を感じられるスペースを作ることであり、神に近づくことだ。

呼吸をするくらいに無意識にできたら…

ACIMブログを書いている時は、もちろん覚えているけれど、こういうことは渦中に入るとすぐわからなくなってしまう。

だから、くりかえしが必要なんだな、と思う。

前よりも、神さまが怖くなくなった。神の愛を素直に感じられるようになったと思う。

歯磨きくらい、呼吸をすることくらい、神の愛を感じることが習慣化されたら、この世界もまた違って見えるだろうなと思う。

ACIMレッスン188-神の平安は今、私の中に輝いている。

2018-05-02

引っ越しはまさに断捨離のため?

家にある荷物を見ながら、「やっぱり断捨離しなきゃダメだな~」と思っている。

新居は押入れ一つ分の収納が減るし、本棚の置き場所も減るから、使わないものは捨てなきゃ。

「断捨離」って友だちがよく使うけど、「ものを捨てる」ってこと?ようわからん、と思っていたけど、

ネットでちらと見たら

  • 」=入ってくる不要なモノを断つ
  • 」=不要なモノを捨てる
  • 」=モノへの執着から離れる

という意味があるとか。

「例えば、モノが増えてきたから捨てればいい、ではなくて、自分にとって『本当に必要なものを見つめ直そうとするのが断捨離です。」とある。

それならば…!

私が、引っ越しすることになったのは、実際のところ断捨離したいからかも。

モノのだけじゃなくて、自分の在り方の。

自分という存在の“ぜい肉”を落とし、幹をしっかりと太く堅くしたい。今回初めて自宅に増えたものに気づいたように、引っ越しは手っ取り早くいろんなものを見直すきっかけになる。

メルカリ初出品

この前は初めて「メルカリ」に挑戦した。購入後返品しそびれていたウォーキングシューズを売った。

写真を撮ってちょこっと説明書いて、出品ボタンを押すだけだったけど、初めてのことってやはり気合いが要った。

むかしむかし若かりし頃、「おばさん」って、新しいものを使いこなせず、なんてとろくさいのだろう、と思っていたけど、自分が成長して、まさに、その生物になろうとは…(^_^;)

「メルカリ」では質問を受けただけじゃなく値引き交渉を受けたことも新鮮だった。まだわかっていない暗黙のルールもありそうだ。でも、初めて「ネットを通して売る」体験は、ほんのちょっぴり自信にもなった。

占いの本とかも、ブックオフに持ってくんじゃなくてメルカリに出品してみようかな。

レッスン188-神の平安は今、私の中に輝いている。

レッスン188でも、言葉を変えながら、神と自分がひとつであることを説いている。

悟りとは認識にほかならず、変化のことなどではない。」(L188-1-4)というのが、なんかいい。

認識できるようになる道程、それがACIM(A COURSE IN MIRACLES)だ。

今ここに光はある。

自らの内にある。

見えるものはすべて、内なる視覚で見られたものの影である。知覚は内なる視覚から始まり、内なる視覚で終わる。それ以外の知覚の源はない。」(L188-2-6,7)

だから、

神の平安は、今あなたの中で輝き、あなたのこころから世界中へと延長される。」(L188-3-1)

この光と平安を自らに認めるには、静かに座り、目を閉じて内に向かうこと。

あなたの内にある光で充分である。L188-6-2)

このフレーズも好きだ。

その光だけで、あなたに視覚の贈り物を与える力がある。」(L188-6-3)

忘れるのは仕方ない、なるたけすぐ思い出せるようになろう

こんなに、手を変え品を変え、ACIMは勘ちがいをとりなしてくれているというのに、ちょっとでも、ゲンジツに自分にとって不具合なことが起こると、すぐ心乱れてしまう。そして、わけがわからなくなってしまう。

私は新居を購入した不動産屋さんからあるはずの連絡がなく、不安に思いいらだちを感じていた。

そんなささいなことでさえ、心がさざめいてしまうのだ。

怒る必要があることなんて、この世にはない(正しい目で見れば)。

怒りの裏には恐怖、不安、見捨てられ感がある。

怒りは、それを赦せるために、そのことのために起っているんだ。

連絡がないことは、私自身のだらしないところを見せていて、それを赦すために現れているように感じた。

すべての不愉快な、あるいは理不尽なことには、赦しの機会だということを、なるたけ覚えていたい。

私たちは、世界が自分に為したと思っていたことについて全世界を放免し、一切を赦す。私たちこそ、自分が望む通りに世界を作り出す当事者だからである。私たちは今、世界が無垢であり、罪がなく、救済に向かって開かれたものとなることを選択する。」(L188-10-2,3,4)

意識に残ったところを書きだそうと思うと、どんどん増えて全部になってしまいそう。

ACIMの教え、日常生活のなかで、すぐ忘れてしまうのは仕方ないとして、なるたけすぐに思い出せるようになりたい。

ACIMレッスン187-私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

2018-04-30

後ろめたさが緩むGW

GW真っただ中。

私は昨日もおとといも、ただぼーっと過ごした。なんだかとても眠くて、眠くて。でろりんとしている。考えもまとまらない。

金曜日の売却の契約で、昨年末から始まっていたマンション売却・住み替え・引っ越しプロジェクトがひとくぎりで、知らず知らずの間に臨戦態勢にあった身体から力が抜けたようだった。

自分がそんな“臨戦”だったことに、軽くショックを受けた。私は、だれから身を守りだれと戦っているんだろう。

GWは好きだ。

GWこそは籠りたい。世間が休みということで、罪悪感なく自分のやりたいことに向かえるから。

いつも世の中のみんなが頑張っていて自分が頑張っていないことに、どことなく「後ろめたさ」を感じていて、常に煽られ感がある。GWはそれが緩む。

新しい住処の後は、新しいはたらき方、収入源をかたちにしなくては。

レッスン187-私は世間を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

レッスン187は、ちょうど私にとっての女神=買主さんが現れた時のワークだった。

            *

自分が持っているものでなければ、与えることはできない。

この世の見方では、与えてしまったら与えた方は失うが、ACIMはそうではない、という。ものはそれを作り出す想念を表現したもので、想念は与えることによって、強化され増大する。

強化され増大された想念は、さらに与えた時より好ましい形で返ってくる。

だから、「自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それらを守りなさい。そうすれば、あなたは自分がそれらを決して失わないと確信する。」(L187-4-1)

失うように見えるものは、いずれは必ず自分に戻ってくるものに比べて、自分にとってずっと価値の低いものばかりである。」(L187-5-8)

与えた者は、犠牲を払っているかのようだが、「犠牲」という概念はまさに幻想の産物であり、「狂った概念」だという。

苦痛や損失、病気や悲嘆、貧困、飢えや死などで現れる一切の犠牲もありえない。

自分が犠牲を払うことが可能だなどと決して信じてはならない。」(L187-8-1)

もし、そうした想念が生じたなら、その想念の存在自体が、誤りが生じていて訂正の必要があることを証明している。」(L187-8-3)

犠牲ではなく、あるのは祝福だ。

犠牲は神への恐れと罪悪感から生じているが、神との分離が幻想なのだから、犠牲など存在しえない。

ただ、祝福がある。

今、私たちは祝福されており、だから今、私たちは、世界を祝福する。」(L187-11-1)

神への恐れと罪悪感は、とてつもなく大きな幻想だ。大きすぎて直視できず認めることも拒否している。

私たちは、たえずスケープゴートとして非難し祭り上げる人を求めている。悪いのは自分ではなく、「あの人」だと。最近はマスコミなんかでも、その傾向がさらに強く出ている気がする。

自分を責めたくなる分だけ、目の前の人に寛容になれ

私はこのワークをしている時、生前の父に対する申し訳なさが出てきた。

それは「こうすればよかったのに」という後悔になって、さらに自己否定へとつながっていった。

でも、それから、「申し訳なさは幻影。申し訳ないと思ったときは、それを手放して感謝を倍にしなさい。」と言われた気がした。

ワークをしていて、最近のぎっくり腰や膀胱炎も、自分の中の罪悪感に気づく機会なのだと感じた。

それから、こうも感じた。

人間はおしなべて、苦労に耐えられないんじゃなくて、幸せに耐えられないんだ。

勘ちがいの罪悪感に苛まれ続けるから。

自分を責めたくなる分だけ、

目の前の人に寛容になれ。

見ているのは自分自身だ。

ACIMレッスン186-世界の救済は私にかかっている。

2018-04-27

「喜びとは静かなものである」

先週、欲しかったもの(気に入った新居)が思いがけず手に入ったという喜びを感じていた。そして、とてもコーフンしていた。

エネルギーが乏しい方だから、そのコーフンで感情エネルギーを使い疲れ果ててしまい、土曜に懸案だった自宅マンションの売却まで決まった時には、うれしいんだけど反応する余力が残っていなかった。

レッスン186は、そういう最中の一週間に行った。

ワークをしている時、この新居は、自分に与えられた役割(聖霊には母のいる故郷に帰れと言われた気がしたことがある)に素直になりきれず、駄々をこねる子に対して聖霊が与えてくれた「おもちゃ」なのかもしれないと感じた。

手を引かれ、「ほら、家に帰るぞ」と言われているときに、縁日のおもちゃや雰囲気に魅せられ「まだ帰りたくない」という幼児に、「これ買ってやるから」と大人がなだめておもちゃを買い与えるように…。

そんなふうに感じつつも、一方ではやっぱりとってもうれしかった。

ワークでは、「喜びとは静かなものである」という声(メッセージ)も感じた。私が先週感じていたコーフンは、真の豊かさを反映した喜びとは異質なものなんだろう。

レッスン186-世界の救済は私にかかっている。

主題概念の「世界の救済は私にかかっている。」とは、いかにも大げさである。ワークブックにも「今日の主題概念は、その意味がわからないうちはひどく深刻なものに思えるかもしれない。」(L186-3-1)とある。

だけど、世界は、分離した(ことになっている)神の子が、それぞれの位置から映画を見ているにすぎないこと、自分の世界はただバーチャルリアリティ映画そのものであること。

その真実に目覚めることで見える「世界」が変わるのなら、この私が見ている世界の救済は私にかかっている、というのは、理にかなっている。

この考えを受け入れることは、謙虚さである。

この考えを否定することは、傲慢である。

もし、神の声が、救済にあなたの役割が必要であり、そしてその全体があなたにかかっていると保証するのであれば、その通りであることに確信をもとう。」(L186-5-4)

聖霊はこの気づきをサポートしてくれている。しかしー

聖霊が話すとき、あなたの自己像は自らの土台が崩れるのを感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。」(L186-7-2)

最近の私は(いや、ずっと前からも)こんな↑感じだ。

聖霊の声を聞いてしまったらー、ぼんやりとではなくクリアに感じてしまったらー「困る!」(それによって、私が仕切りたいと思っている人生の路線を変えなければならないから)と、ずっと思っている。

そして、ワークブックを学び、聖霊に耳を傾ける時間を取りながらも、同時に耳をふさいだり開けたりしている。

そして、垣間にもれ聴こえる声をかいつまんで聴いて、従ったふりをする。

あ゛…、自分でそこまで気づいているなら、もうそろそろ「ふり」はできなくなるな。

この世界を見せているのは自分だ、とワークを続けるなかで、私はより納得できるようになってきた。

神の声が指示するとおりに行いなさい。もしその声があなたに不可能と思えることを求めるなら、誰が求めているのか、誰がそれを拒否しようとしているのかを思い出しなさい。」(L186-12-1)

神の声(聖霊の声)に素直に。

これが私のお題だ。

耳をふさいだり、開けたりしながら、聴こえないように「あ~」と自らの声を出している。

その声を静めて、ふさいだ手を下ろすこと。

そして、目前の赦しを実践していくこと(これがむずかしい)。

この世界の救済はすことのできるあなたにかかっている。それがここにおけるあなたの 機能はたらきである」(L186-14-5)

∠(`・ω・´)

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