ACIMレッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

2018-08-08

今晩から明日にかけて台風13号が関東にも上陸するだろう、要注意とのニュース。ここ数日と打って変わって涼しい。

異常気象が続いているなかでも、今年はその異常さが際立っている。何事もなく過ぎてほしい。「無事」が有難い時代になった。

レッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

レッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

この世は、神から造反したと思い込んでいる私たち神の子が、エゴから唆され、怖ろしい神からの隠れ家として作り出したものだ。しかし、それは勘ちがいにすぎない。

この世は、自らが上映している映画にすぎない。

一見ばらばらの身体を持っているように見える私たちは、実はひとつであり、ただ神の延長である。

神に対するすさまじい恐怖と罪悪感パニックから、本当のアイデンティティ-罪なき神の子であるという-を取り戻す訓練が、このACIMだ。

この理屈に従えば、レッスン196もすんなり理解できる。

私たちは常に、自らの罪悪感を投影できるスケープゴートを求めている

ただ頭で理解しても、水面下にある氷山のごとく私たちから知覚できない無意識には、計り知れないほど深い恐怖と罪の意識が眠っている。

私たちは、これを見たくない。

あまりに怖いから。意識の上にあげるのを拒む。

無意識にあるものは、否認するがゆえに、自分以外のものに投影される。

だから、私たちには常に「責めるべき悪い人、悪い事」を無意識のうちに求めている。

テレビのワイドショーやニュースは、次々と私たちが、私たちの恐怖と罪を投影できる対象を提供する。

それを見ている時は、私たちは、正義の味方でいられるし自分の罪を直視しなくていいから。

でも、様々な悪に見える根源は、私たちの心の中に気づかれずに在る神への恐怖心と罪悪感だ。

これが、心の表面に出てきた時、つまり嫌なことに出くわしたり、誰かに許し難いことをされた時に、「これは本当ではない」と気づき、赦すこと。

理屈を理解した上で、その機会が訪れた時に、赦すこと。

これだけが、恐怖を減らして真実に近づく方法なのだ。

過去ノートを開いてびっくり、一回目のレッスン196は修羅場の渦中だった

今日、ふと、1回目にこのワークをした時はどんなだったのかな?と、古いノートを取り出してみた。

で、びっくりした。

私は修羅場の渦中にいた。

私にとっては長い話で、端折ると、

20代の頃に結婚してすぐに別れてしまった元だんなさんが、

私が当時書いていたブログを発見して(もちろん名前も住所も書いていなかったが)、ここら辺りにいると当りをつけて会いに来た(私から一方的に別れ、未消化の感情があったのかもしれない)。

そして偶然(私はそう思っていた)、20年ぶりに再会。

その後、短いあいだ再び恋愛関係に。

その後疎遠になるも(振られた)、ある時再び現れ、私はおカネ(大金)を貸してしまう。

私は彼に未練があって、その下心もあって貸したのだ。

でも、思うように返済されず、当然のことながらそれで恋愛がうまくいくはずもない。

私には、軽んじられて利用されている感があって、その怒りの感情を彼に爆発させたのが、2015年1月末、レッスン196のワークの日だった。

その日のノート。

「大爆発してしまった。すごく責めてしまった。

ACIMと真逆のことをした。

自分で自分の首を絞めた。」

と乱暴な字で書いてある。

もっとも大きな赦しの機会

そして、

「私は赦す、だからこれは消えていく」

ともあり、マーカーで囲んでいる。

あ゛~、あの時…。

頭と感情が真っ二つだった。

あれは、ACIMを学び始めて、もっとも大きな赦しの機会だった。

今だって全部赦せているかどうかわからない。それほど感情を揺さぶられる相手であり出来事だった(おカネはその後全額返してもらった)。

でも、考えてみれば、彼は私の内なる罪悪感の投影の引き受け人で、彼がいなくては無意識はそのまんま温存される。

私にとってはソウルメイトであり、感謝すべき人なんだ。

レッスン196の最近のワークについて書くつもりが、たまたま過去ノートを見て、よみがえった感情。

これも偶然じゃないんだろう。

未だ赦すべきものがあるからだろう。

赦すべきことに気づいたら、なるたけ赦そう。

レッスン196の締めの文

あなたの心が十字架に欠ける対象とすることのできる相手は、あなたしかしない。しかし、あなたの贖いもまた、あなたから訪れる。」(L196-12-5,6)

 

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