復習Ⅵへ & ACIMレッスン201-レッスン181の復習

2018-08-29

復習Ⅵへ

復習Ⅵは、レッスン181~200の復習。

毎日1つずつ主題概念を取り上げ、それをできる限りたびたび練習する。」(復習Ⅵ序1-1)

朝と夜にそれぞれ少なくとも15分を捧げ、1日を通して1時間ごとにそれを思い出し、その合間の時間にもできるだけ何度も使用する。」(序1-2)

…とある。

最近の20の想念を一つずつ丁寧に染み込ませていく。

よく理解され、練習され、受け入れられ、一日を通して生じるかに見える出来事のすべてに適用されるなら、それぞれの概念にはこのカリキュラムのすべてが含まれている。」(序2-2)

そして、前回の復習時と同様、軸となる概念があり、各レッスンの前後は次の概念で終わるようにとされている。

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」(序3-3,4,5)

一日をこの概念とともに始め、それとともに終える。そして私たちは毎時きっかりにこの概念を繰り返す。」(序3-6,7)

練習には形式は設けないとしながら、例外として、

雑念をそのままにしておかないこと」(序5-2)という留意点が示されている。

誘惑があるときには、

この考えを私は望まない。そのかわりに、こちらを選択する__」(序6-2)

と解放を宣言する。

…読み返しながらポイントと思うところを書きだしていたら、冗長になってしまった。

レッスン201-レッスン181の復習

(レッスン181)私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。

このレッスンはお盆帰省中とそれから東京に戻ってきた時にやっていた。

復習Ⅵを貫く機軸となるテーマ「私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」には、どちらかというと苦手意識がある。

個としての「肉体」と「私」に執着があるから。

私はずっと自分を体だと思い、その「私」の自己実現に関心があった。

関心があるのは「私」であって、同胞-この世の兄弟姉妹―にはあまり関心がなかったのだ。

でも兄弟姉妹と自分はひとつで、出会いに偶然はなく、自分の無意識にあるものを見せてくれている、と知る今…。

自分の中の「束縛されてしまう」という恐れに気づく

ワークをして感じたのは、このワークと直接関係がないようにも思えるのだが、「(制約を設けず)この世でしたいことをすればいい」ということだった。

しかし、果たして、それは何?

気づいたことは、私の中にはずっと「束縛されてしまう」という恐れがあること。

「束縛」自体ではなく、「束縛されてしまう」恐れに支配されている。

根底に対人恐怖があるのだろうか。周りが怖くて、学校でも職場でもその他の場でも、いつもその場の何かに孫卓してしまう。よく言えば「空気を読む」なのか?

そして、八方美人になり、過剰適応してしまう。

いわゆる「いい子」をやってしまい(できているかどうかは別)、そのことに自分自身が疲れてしまい、その場を去りたくなってしまう(それで、旧居も逃げ出した?)。

そういう自分が好きじゃない。つまらないなぁと思う。言いたいことがちゃんと言えて、したいことができている(ように見える)人に憧れる(なんでか、ホリエモンの顔が浮かんだ)。

恐れを手放し兄弟姉妹を信頼するという、私のお題に気づく

いい子になろうとして自滅するパターンは、長男長女に多いかもしれない。

その心理の根底にはやはり「恐れ」があるのだと思う。

私は、物ごころついた頃から、常に恐れているのだ。

もう気づいた頃には、周りに受け入れられるだろう「キャラ」を身につけていた気がする。それは、膨大な無駄なエネルギーが要った。

もう、そんなエネルギー使う気がしない。

でも、でもー。

自分が本当に「やりたい」ことならば、恐れなくてもいいのではないかー

今、そう思う。

私は自由でありたい。

どこにいても、ゆったりにこにこしていて、いいんだ。

そういう自分でいたい。

そのためには、レッスン181の「私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。」(L201-1-1)は不可欠なのだ、と改めて気づいた。