ACIMレッスン194-私は未来を神の手にゆだねる。

2018-08-03

ACIMレッスン194-私は未来を神の手にゆだねる。

これも6月中旬の引っ越し前にやっていたワーク。引っ越しが差し迫ってばたついていた頃で、ワークもどこか流していた。

改めて本文を読んでみたら、シンプルだけどとても重要な概念だと感じた。

ACIMは表現や視点をさまざまに変えながら同じ原理原則を説明しているが、誰にでも、響きやすく、とくに真実を思い起こさせてくれる表現があると思う。

私は未来を神の手にゆだねる。

私にはこれが響く。

そうすれば、あなたはあらゆる不安や地獄や絶望の間も、罪の想念も、罪悪感がもたらす荒廃も。すべて通り抜けたことになる。」(L194-2-1)

ただ未来を手放し、神の手にゆだねることだけが求められている。」(L194-4-5)

頭ではわかってもなかなかできない。

考えただけで、不安になってしまう。

頑張らないと、身構えていないと、疑わないと、とんでもないことになってしまう、という“常識”もある。

そして、やっぱり私の場合、根っこに罪悪感と恐怖があって、「そんなお気楽でいいのか(神の手にゆだねることが、お気楽とは言えないが)」「何バカなこと言っているの?」「自分が頑張らないことの言い訳でしょ」という、内なるエゴの声がする。

エゴの声だけを聞いて従うには、ACIMの考えも浸透してきており、宙ぶらりん。どっちつかずだ。

「未来を神の手にゆだねる」のに、聖霊の声を聴きわけること

引っ越しを済ませ新居に移り、物もたくさん処分してきた。引っ越し後の家も片づいてきた。

仕事もしていない。

今私には、空きスペースができつつある。

この空きスペースに何が入るのか。何を入れるのか。

空いていること=不安定、でもあるけれど、せっかく空けたのだからへたなもので満たしたくないとも思う。

「未来を神の手にゆだねる」には、聖霊のメッセージを聴いてこれに従うことが不可欠だと思うけど、自信がない。

ちゃんと聴けているのか。

あるいは、聖霊の声と思いつつ、実のところ聴いているのは、エゴの声ということはないんだろうか。

基本的なことだと思うけれど、未だによくわかっていない。。

聖霊の声を聴いてしまったら、それに従わなくちゃいけなくなって困る(←エゴが)、メッセージを聴こうとしながらも、手で耳をふさいだり開いたりしながら、「あー」と声を出しているようなところがある。

そういえば、引っ越し前のワークでずっと感じてきた「姿勢を良く、体幹を鍛えろ」というのは、そのとおりだった。

今回の引っ越し後のぎっくり腰は、いつもとちがって治るのに1ヶ月以上かかったから。

聖霊が、そんな体のことをアドバイスしたりするのかな?と思っていたけど、聖霊の声かどうかはともかく、「姿勢」と「体幹」は私にとって大事なことにはかわりない。

いつでもどこでも、今・ここから

まぁ、ともかく、今・ここから、しかない。

自分にとってメッセージと思えることを聴きながら、自分のゲームを進もうと思う。

彼は、自分の知覚は間違うかもしれないが、それらは必ず訂正されると確信している。」(L194-7-7)

攻撃したくなるときは、私たちの休息を護る聖霊に助けを求め、私たちにかわって誘惑をはるか後ろに遠ざける選択をしてもらう。」(L194-9-5)

本文のこの2ヶ所が救いかな。