ACIMレッスン232-父よ、一日中、私の心の中にいてください。

2018-12-31

故郷での大晦日

紅白歌合戦聴きながら、ブログを書いている。横では母がテレビに逐一反応して声をあげている。

昨日から、買い出し、掃除、神棚や床の間、仏壇、玄関に花を活け、1月2日にはお寺から読経に来られるからその準備。おせちの支度…。

全部母主導で私は言われたことをやるだけ。

わが家のお雑煮は、(富山県内はみんなそうなのかな)醤油ベースのけんちん汁みたいななかに焼いた鯛の身を入れたもの。

魚屋さんで焼いてもらった鯛から骨を取って身をほぐす料理以前の作業は、例年私の役だ。

亡き父はお雑煮にはどんな細かいものでも骨が入っていることを嫌ったから、どんな細かい骨も見逃さないことが重要だった。今日も骨を見逃していないか二度チェックする。

鯛から骨を外していく作業をしていると、ああ、命をいただいているんだなぁと思う。

故郷ならではのお正月。

こうした風習も母がいてこそだ。

私ひとりだったらやらないだろう。

東京にいるなら、なおさら。

お雑煮さえも作らないのではないかと思う。

幼い頃はあたりまえだった風習。母に付き合うかたちでやっているけど、私の中にはもはやないものだな。

それはなさけなく寂しいことかもしれないけれど。

『絵本つくりかた』

帰省直前に、Amazonで『絵本つくりかた』という本を手配して届いた。

12月12日や12月19日の記事にも書いたけどACIMワークをしているとき、何度かこの本のイメージが浮かんできて「買ったほうがいいかな」と気になっていたのだ。

絵本に関心はあるけど具体プランがあるわけではないし、買いたい本なら他にあるから、と買えないままきた。でも、勘違いかもしれないけれど、聖霊さんからの何かヒントなのかもしれない。

暮れも差し迫った今、聞いておいたほうがいいんじゃあ?

そう思って買ったのだ。

中はまだ見てない。

来年は聖霊の声がもっと聴けるかなぁ。従えるかなぁ。

まあ、私次第なのだけど。

ACIMワーク232-父よ、一日中、私の心の中にいてください。

レッスン232も短いけれど、根幹となるいい教えが書いてあるなぁ。しかも平たい言葉で。

1分、1分があなたとともにいる時間となりますように。」(L232-1-2)

そして、あなたがともにあり、私の呼びかけを聞き、私に答えるために常にそばにいてくださることに、毎時間、感謝を捧げるのを忘れずにいられますように。」(L232-1-3)

今日、恐れの終わりを練習しなさい。

あなたの父である神を信じなさい。

すべてを神にゆだねなさい。

神にすべてを明らかにしてもらいなさい。

そして、あなたは神の子なのだから、うろたえずにいなさい。」(L232-2-1,2,3,4,5)

とくに心に染み入る言葉を書き出していったら、全部になりそうだ。

 

このブログ、この世のあたりまえに立っているかのかと思うと、次の瞬間にはACIM的価値観に立っていたりと(ACIMにちゃんと立つとすべてはメタファーで何にも書けないけど)、意味不明で思いやりに欠ける。

それにもかかわらず、

立ち寄ってくださった方、どうも どうも ありがとう。

たくさん素敵なことが来ますように!

ACIMレッスン231-父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

2018-12-29

故郷へ帰省、雪が降っている

昨夜、故郷の富山に帰省した。

東京は空気が乾燥して風が冷たいが、こちらはしーんと体に染み入る寒さ。寒さの種類がちがう。

でもやっぱり富山のほうが格段寒い。

母はいつもこの季節、郷土料理のかぶら寿司を漬ける。それも業者が使うような樽で大量に。それを親戚や近所の方に配るのだ。

今日はそれをおつかいで、配って歩いた。

いっつも、いっつも「今年はかぶらの質がいま一つだった」とか「ブリの塩がきつすぎて」など、“言い訳”を添えて配るのだ。

親戚から晩に「手間暇かかるものありがとう。今年のもおいしかった」と電話があり、母は上機嫌だった。

親戚のおばちゃんは、私に「たまちゃんもかぶら寿司作ることできるんでしょ?ちゃんとお母さんに習ってね」とプレッシャーをかけてくるが、私は一回も習ったこともないばかりか、作る場面に立ち合ったこともない。

手料理で周りの方に喜んでもらうのが好きだという母の性質は素晴らしいと思うけど、そういうところは受け継がなかったみたい。

私は一見優しげにいるけれど、実際に人に尽くしたり役に立ったりといったことが苦手だ。手料理や手仕事が上手な人、人に尽くすことができる人に引け目を感じている。

あ~、思えば、今年もあとわずか。

一年の区切りに意味があるような、ないような、でもやっぱり影響あるような。

大晦日から新年は、日本国民みんなで大縄跳びをしているみたい。一緒にその大縄を飛べなければ新しい一年に乗れない気がする。

混んだ新幹線での大移動、面倒だと感じる反面、行ける故郷があるのがありがたいとも思う。

ACIMワーク231-父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

富山は、私にとってACIMから遠くなる場所だ。もちろん私の錯覚のなかでのことだけど。

一日中話しかけてくる母に反応しているうちに、ACIMの世界がどんどん遠くおぼろげなものになっていくのだ。

とりあえず、ワークブックだけ持ってきた。

朝晩のワークだけできればいいけど。

家族と密な時間を過ごしていると、神より家族が近く感じ、そもそも私は家族なるものの代わりに神を求めているのかなという気分になってくる。

家族や愛に恵まれていると、ACIM的なものに意識が向かわないのも無理はないのかもしれないと思う。

私は神さまもよくわからないのだけど、ただACIMの言っていることは理が通っている、と思う。

先が通じている。

ほんものだと感じる。

だから、どう行っても出口のないと感じるこの世のやり方ではなく、ただ幸せと感謝に満ちているACIMの教えに重きを置きたい。

ワークのメモを書いていたノートもちょうど新しいノートへの切り替わりで古いのは置いてきてしまったから、L231ワーク時にどんなことを感じたか(あるいは感じなかったか)思い出せない。けれど、母が寝静まった今の私の気持ちはL231のとおりだ。

父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

あなたを思い出させてください。自分自身についての真理のほかに、何を望むことができるでしょう。」(L231-1-5,6)

ACIMワークブック第Ⅱ部‐2.救済とは何か

2018-12-27

白いバラへの執着

クリスマスが過ぎると街は一気に年末モードになる。

お正月へと一直線だ。

ぼーっとしている私は土曜日のXmasシャンソンライブの帰りにもポカをした。 (さらに…)

ACIMレッスン230-今、私は神の平安を求め、それを見つける。

2018-12-24

色彩サークル“自主研究”

おとといの夜久しぶりに徹夜した。

きのう参加している月一の色彩サークルの年内最終回で、各自の“自主研究”の発表がありその資料づくりのためだ。

少人数のゆるい会だし、最近は「色」のことは優先順位も低くなっていてまったく手がつけられないまま前々日になっていたのだ。

自主研究といいながら一夜漬けとはなさけないと思ったが、手ぶらでは行けない…。

にわかだけどテーマは、「企業webサイトと使っている色の分析」みたいなこととした。

結婚情報サイトはやはり「愛・幸せ」をイメージさせるピンク系だし、老舗和菓子店は「和の伝統」を示すような茶系…といった話。男性化粧品はスタイリッシュ感を出すため、黒に渋めの青、緑。こじつけ感もあるけど。

資料をまとめるの久しぶりで、途中からちょっと楽しくなった。

綺麗な色でプリントアウトするために、午前4時にコンビニに行ったら、シニア世代の店長さんが黙々と品出しをしておられた。コンビニ経営、負荷がかかるたいへんな仕事だと頭が下がった。

シャンソンXmasコンサート

おととい昼は、四谷にある蟻ん子というシャンソンライブハウスで、しますえよしおさんのXmas コンサートだった。

お客さんは元気なシニア女性が大部分。みんな自らの一年の労をねぎらう意味もあるのかな。

お弁当の写真しか撮れなかったけど、しますえさんの生歌の迫力がすごかった。朝吹タツヤさんの歌にはいつも愛を感じる。

心を鷲づかみにされて揺さぶられた。

歌で人の心を動かせるってすごいと思った。

ACIMワーク230-今、私は神の平安を求め、それを見つける。

私は『奇跡講座(ACIM)』から離れないことが大事だと思い、とりあえずはワークを続けてきた。

でもそれは、やはり自己流で自己都合で捻じ曲げられたものだと感じた。

最近なおざりにしてきた『奇跡講座テキスト』を読んで、ありゃ…と気づいたのだ。

ACIMを勉強している(つもりだ)けど、ACIMを生きてはいない。

左足をACIMにかけ右足はこの世の価値観に置き、股裂き状態なのだ。

頭はACIMで心はまだこの世…

それが「わかっている」ということはどういうことなんだろう…

なぜACIMで価値観でもっと生きられないのかというと、執着しているものを手放さなければならないように感じそれが受け入がたいのだ。

またACIMの考えはやはり突飛な感じもするから、全てを託しきるまでは達せていないのかもしれない。

今、私は真の自己でいることだけを求める。L230-1-5)

私はあなたに創造されたままの私です。あなたから授かった平安を見いだすためには、私はただあなたに頼めばよいだけです。」(L230-2-4,5)

ACIMから離れないでさえいればいずれはその心に近づけるのではないかなぁというのが、今のきもちだ。

L230ワーク時のメモには、

「ひとつの扉を開かなければ、次の扉は開かない。

全部に確実性を求めることは不信の態度を表す。」と。

今日の一日なんだな、まず。

今日一日、神さまと聖霊さんとともにいたい。

あっ、MaryXmas

クリスマス・ストレス!?からの

2018-12-21

クリスマスが苦手なのはひとりだから

クリスマスイブが近い。

私はじつはクリスマスが苦手だ。

11月ハロウィンが終わった頃から街に響きだすクリスマスソングがひどく耳ざわりだった。毎日行くスーパーでさええんえんと流れ続け、レジ係は赤いサンタの帽子姿。

うざい…

クリスマス・イブは「もっとも大事な人と過ごす日」という刷り込みがあるのに私はここ何年もひとりというのが、ストレスの主原因なんだろう。

いつもは気楽でいいと思っているくせに。。ね。

なんか、去年もそんなようなことを言っていたな、と思って、ブログを検索してみたら、去年もおととしも似たようなことを言ってた。

「クリスマス*コワイ」(2016年12月19日)

「おひとりさまは12月が苦手!?」(2017年12月2日)

変わってない…私 (^_^;)

今年は引っ越して都心から少し遠くなったためか、クリスマスソングが去年ほど耳に入ってこない。楽だ。

クリスマスと健康リスク

クリスマスソングが苦手だなんて人に言いにくいと思っていたけど、「クリスマスソングは健康に悪影響」という記事をどこかで見た。

主に同じ曲を長時間聴き続けなければならないショップ店員さんのことを言っているらしい。

また「クリスマスイブは心筋梗塞の発症リスクが高い」とのニュースも見た。

何でもイブは、その前後2週間と比べて発作リスクが37%増加するとか。そのピークは夜10時らしい。

原因については、イブはお祝いのメインの日であるため感情が高ぶりストレスにつながる可能性と言及。

二元性の世界、光を集めればそれだけ陰も強くあるんだろうと思う。

今年は聖霊さんと厳かなときを

『奇跡講座』を学習し始めて早6年目。

いいかげん、自分が見せているこの二元性の世界で「小さな世間基準と(自分が)ちがう」ことをストレスを感じるのは止めにしてはどうか、と自分に持ちかけたい。

明日は、ここ数年前にiPad mini講座を受けた時の先生と受講生の仲間で同じく受講生だったシャンソン歌手の方のクリスマスコンサートに行く。

とっても心にしみる歌を聴ける素晴らしい時間。

これがここ数年のこの時期の過ごし方で、これは自分に「私のクリスマスは済ましましたよ」というハンコ的役割もしていたのだ。

それでも24日の夜はどことなく寂しく感じていた。

でも、考えてみれば、クリスマスは、『奇跡講座』の著者であるイエス・キリストのお誕生日。

「時間はない」というイエスさまがお誕生日をどれだけ大事に思っているかどうかはわからないけど、そろそろストレスに思うのじゃなくて、厳かに聖霊とともに過ごしたいものだ。

それにはキャンドルくらいあったほうがいいかな。

ACIMレッスン229-私を創造した愛が、私の本性である。

2018-12-19

「おもてなし英語講座」受講決まる

11月22日に応募した区のおもてなし英語講座の結果が来た。

「定員を大幅に上回る応募があり、厳正に抽選を行いましたところ、次のとおり結果が…」という文言の後に、太字で、

「当選」と。

おー、当選してる!

大幅にって、どれぐらいだったのかな。かなりの倍率とかだったらありがたみが増すよ。何はともあれ無料英会話講座、ありがたい。

私が案じていたとおり、初日は「自己紹介」で時間が30分長くなっていた。

英会話より、講座でのコミュニケーションを怖れていた私。

みんなに(わかりやすく)紹介すべき自己がないし、ひとり者っていうのも若干引け目。こういうところに来る人はテンションもコミュ力も高めの人が多そうだなー、と。

これも、もちろん赦しの対象だ。

誰も対して私を攻撃しようとしているわけではないのに自己防衛が先に立つ。

差し出し人は区の「人事課 人材育成課」となっていた。あー、ごめんなさい、私でいいのかな。

来年1月開校。ともあれ「旅の恥はかき捨て」くらいの気合いで参加しようと思っている。

ACIMワーク229-私を創造した愛が、私の本性である。

レッスン229は、12/5~9母との旅行から帰ってきた頃にやっていたワーク。

旅の余韻がありこの世の方がACIMの世界よりリアルに感じられ、いろいろ母への思いが湧いていた。

たいしてワークのメモもしていないなかで、ここでも『絵本つくりかた』買おうか、と書いていた。

最初にこの本を知ったきっかけは何だっけ?

絵本が気になっているんだな、私。

私がつくるとしたら、おとな向けの本だ。

おはなしの案も、具体的なイメージもない。

けど、気になっているんだな。

レッスン229をいま改めて読んだら、「私を創造した愛が、私の本性である。」とある。

愛が私の本性…?

何日間かそのワークをしていたはずなのに、なんか新鮮に感じた。

愛が私の本性…

今年の漢字、もとい「感」

2018-12-18

張本選手の今年の漢字「感」…私も!

今朝お風呂で(昨夜入ったのだけど、髪が大爆発してて収拾がつかず)、卓球の張本智和選手が記者に「今年の漢字は?」と聞かれて「感」と答えたというニュースをふと思い出した。

「いろいろなことを感じた年だったし、支えてくれた両親に感謝をこめて」と言った意味合いだった。

おー、15歳なのになんてしっかりしているんだと思った。

それを思い出し、

あ゛~、感だ、感だ、私も「感」だ、と思った。

私、昨日ブログで自分の今年の一字を「迷」か「猶」か、と言ったけどまちがいだ。張本選手の真似しちゃうけど、私も感謝の「感」だ!

こうして、無事引っ越しできて穏やかに過ごせていること。

秋には母と京都に行けたこと。

身に余る一年だった。

引っ越しプロジェクトが着地できたことに思いを馳せる

思えば、去年の今頃、旧居のご近所さんから道端で「私たち、来年もたまさんに理事長やってもらおうと話してたのよ」というのを聞いたのが、引っ越しプロジェクトの始まりだった。

人間関係が複雑な古いマンションでの調整役は私には荷が重く、え゛ー、やぁっと任期が終わると思っていたのに(>_<)、とパニくったのだった。

今から思えば、そういった“後押し”がなくては引っ越しできなかった。

後で聞くところによると、マンションは売りに出して2年位売れないこともあるらしい。

売ることと買うことのタイミングがうまく合ったことも、今思えばラッキーだった。

私は前より静かな解放感ある空間を得ることができた。オートロックになって安心感も増した。

これは、私がどうにかできることではない。

たまたま、運よくだった。

感謝しかない。

おまけに東京オリンピック前だからか地価が上がっていたため、購入時よりかなり高く買ってもらえ身の振り方に“猶予”ができたことも大きかった。

張本選手に便乗するけど、私も今年の漢字は「感」。

常に四の五の言ったりしているのは、私のエゴで私のクセでもある。

だけど、本来の私はとても自由で豊かだ。

それが前より感じられるようになった。

来年の漢字は…とイメージが膨らんで「飛」かな?と思ったけど、これは欲張りすぎか。(まぁ、「飛」にもいろんな意味があるけど)

ACIMレッスン228-神は私を咎めなかった。もはや私も咎めない。

2018-12-17

かぜひいた

かぜひいた。

先週土曜パソコン講習日。午後3時までは何ともなかったたが、3時過ぎから喉が痛くなり始め、講習が終わった5時にはしっかり風邪引きになっていた。

電車でもらったかな。空気乾燥しているし。

免疫力少しついたかと思っていたけど、そうでもなかったか。

昨日は一日中だるく、なんでか眠くて仕方がなかった。早めに寝た。

これ以上悪化させないようにしよう。

ACIMワーク228-神は私を咎めなかった。もはや私も咎めない。

『奇跡講座』は病気(と病人)には厳しい。

レッスンL136では「病気は真理に対抗する防衛である。」という主題概念を掲げ、「病気は偶発的なものではない。すべての防衛と同じように、病気も自己欺瞞のための狂気の仕組みである。」(L136-2-1,2)と説明している。

レッスンL140では、「罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。」(L140-4-3)と言っている。

また「病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」(L140-4-4,5,6)とも。

単なる風邪でも、「寒かったから」とか「空気が乾燥していたから」が原因ではなくて、私に罪悪感があるからなのかな。

罪悪感なら、、、やっぱりある、と思う。

昔から引きずっているものもあれば、現在進行形のものもある。他の人はみな頑張って働いているけど私は…、と思う気持ちだ。自分を咎めたくなる。

だけど、罪悪感をこじらせて(新たな)病気を作りたくはない。

自分を咎めるのは止めよう。

この世の価値観と『奇跡講座』の価値観の中で揺れている。開き直っていると思う。けど、やはり揺れている。

2018年の世相を表す漢字に「災」が選ばれた。私の場合は引っ越しの「転」かなと思っていたけど、迷走の「迷」かもしれない、と思う。

あるいは猶予の「猶」かな。

Apple新宿へ、iPhoneの電池交換に行った

2018-12-14

iPhone割引電池交換を予約

iPhoneの割引価格での電池交換(8,800円→3,200円)が年内終了だった。ネットで「予約が取れない」とのニュースを見て、思い出した。

私もできればお願いしたい。

予約サイトを見た。たしかにもうすでにいっぱい。

でもしつこく何度も画面をチェックしてたら、ふっと「Apple,新宿」の「12/14 17:10」に空きが出た。で、慌てて申し込んだのが数日前。Appleって新宿にもあったんだ…

Apple,新宿にはちょっとした外国感があった

夕方の新宿はこれから飲みに繰り出そうとする人たち?で賑わっていて、師走の雰囲気を感じた。もっとも、賑わっているのは年がら年中なんだろうけど。

Apple,新宿はマルイの正面玄関に堂々と陣取っていた。

店内がすごく明るい。大きなスクリーン。カウンターの商品をさわっている人。店内の壁沿いをぐるっと囲むように長ーい行列。おそろいの赤いTシャツのおしゃれな店員さん。

外国に来たみたいだ。気遅れがする。

大縄跳びの中に入るくらいの勢いをつけて、声をかけたら、分担がしっかりしているらしく思いのほかスムーズだった。

長い行列について聞いてみたら「商品ご購入希望のお客様の順番待ちです」とのこと。みんなの購買意欲の高さにびっくりした。

「○○○で△△、もしくは○○○で□□、どちらになさいますか」

何度も説明しているのだろう、女性店員さんは早口で流暢すぎて聞きとれず。

私一人でいて人と話す機会が少ないから、日本語のヒアリングとスピーキングがヘタになっているのだ。

パードゥン…、と心のなかでつぶやく。

「あ、ごめんなさい。もう一度お願いします」

iPhoneを開いてみたら壊れていたという場合、3万いくらかで買い直すか、電池交換もせずそのまま返すか、の選択肢だった。

後者をお願いした。

2時間位かかる、と言う。引き取り時間は19:15~30。

格安カット店からの、ハンバーガー屋さんも久しぶり

2時間どうしよっかなー、と思ったけど、マルイの中に格安カット店が入っていたから、髪を切りに(30分)。それでも時間があったので、ファーストキッチンで日替わりハンバーガーセットを食べて、図書館で借りたての『罪と罰』を読んでいた。

夜の新宿を歩くことも、Appleに入ることも、ハンバーガー屋さんに入ることも、どれもみな人(若者?)にとっては日常的なトーンでできることだろうけど、私は、それぞれにちょっとしたエイッって感じがあった。

ちょっぴり新鮮なような、背伸びするような。それが心地よくもあった。

やっぱり外国感なのかな。

歳を重ねるってことは、自分の国が外国になっていくような感覚なのかもしれない。

そういえば、何より難度が高かったのは、電池交換の前日に、パックアップを取ること。ネットで調べながら2時間位かかった。

子どもとかいたら、聞けるんだろうけど。

これからもいろんな変化とその対応のあれやこれやがあるんだろうなと思う

ワークL228について書くつもりが気づいたら、電池交換で終わってしまった。たぶん2時間余りの師走の夜の新宿がワクワクして楽しかったんだと思う)

ACIMレッスン227-これが、私が解放される聖なる瞬間である。

2018-12-12

冬だ、冬。一年て、早い。

4日ぶりのブログ。

急に冷え込み、すっかり冬になった。

手がかじかむ。

そうそう、こんなだった、去年も。冬の寒さを思い出した。

あ゛~、引っ越しの時、加湿器じゃまだと思って、リサイクルショップに引き取ってもらったんだ。ミスった。

今年の冬だって乾燥するー。他区だって乾燥するー。

気が大きくなっていたのか、、、。あの時は、ただ物を減らしたい衝動にかられてた。

年末が見えてきて、、一年ってなんて早いんだろうと、焦る。

体内時計(リズム)がトロくなっているから、周りが早く感じられる。

感覚的なもの=錯覚なんだろうけど。

自分が不十分感をもっているから、早く感じられるんだろうな。

自分のブログでさえも、間が空くと、来るのに気合いが要る。

ちゃんとできない時には、できない自分を赦すこともワークのひとつだっけ。

ACIMワーク227-これが、私が解放される聖なる瞬間である。

レッスン227をやっていたのは、11月23~26日頃。

やっていたと言っても、文章を読み、朝晩15分くらい瞑想ワークするだけだけど。

少しでもACIMワークを離れると、この世とこの世の価値観がリアルになる。

やっぱり私たちは肉体で、肉体の死とともにすべてが終わる。それまでの間いかにこの世で自己実現すべきか…と。

それに並行してACIMが奇想天外、荒唐無稽なものに感じられる。

これは現実逃避のもので、気休めだな。。と。

私と神さまのつながりは、これくらい薄いものなんだな、と思い知る。

ACIMワークに戻って、そういえば、そうだった…となり、遠くなっていた神を思い出す。

神さまは探さなくても、そこに在る。

自分の感受性を取り戻すだけだ。

それには赦すことと感謝すること。

このシンプルなことを、覚えている時はなるたけ、やろう。

これは、ACIMを生きようとそうでなかろうと、「実際に」役立つことだから。

ここ最近のワークで「絵本つくりかた」という本が出てくる。

それが聖霊さんからのアドバイスかどうかわからないけど、目を閉じて静かにしていると、その本が出てくる。

だけど、買えてない。

差し迫って必要なものじゃないから、2,030円が高く思える。

だったら、「Webデザイン」の本が欲しいな、などと思っているとポチっとできないのだ。

今日のワークでも、その本のことを思い出していた(一回イメージに出てくると連続するのか)。

さっきブログを書くために、レッスン227ワーク時のメモをを見たら、すでに、

「『絵本つくりかた』買おう」とメモしていた。

いつから、そう感じているんだろう。

その「メッセージ」が本物かどうかわからなくても、「2,030円」投資をしてみることは価値があるだろうに。。

一方で、それ買ってどうなるっての?受けとるのも面倒なんだよな、と、ぐだぐだしぶる自分もいる。

神の子は今日、自分の夢を放棄する。神の子は今日、罪から解放され、聖性に包まれ、ついに正しい心を取り戻し、再びわが家に帰る。」(L227-2-2,3)

↑改めて今読んで、気になったところ。

はたして「絵本つくりかた」は年内に買えるか。

「家に帰るまでが遠足」…帰り道で大失敗

2018-12-07

旅の余韻、帰りの新幹線

しつこく旅行ネタ。

4日の午後1時、母が乗った金沢行きサンダーバードを見送った後、私ものぞみに乗って東京に向かった。

旅、慌ただしかったな。お母さんにも無理を強いたかな。

やさしくしたいと思っていたのに、次の行き方を調べたり乗り場を探したりといった目の前のことでいっぱいいっぱいで、だめだった。。

最終日の駅カフェで母がパンを「油っこい、こりゃ胸やけするわ」と言った時も、(乗り場に近いから、ここがいいって自分で言ったくせに)「だったら、無理して食べなきゃいいじゃない、残しとけば?」と、言ってしまった。

母と話していると、つい自分が責められたような気分になってイライラしてしまうのだ。

初めは受け流していられたのに、3日目には反応してしまっている自分がいた。(これこそ赦すべきことだ)

ああ、結局ダメだった。。と旅を反芻する。

母は好奇心旺盛で自分でも頭がいいと思っているが、歳には抗えない、心と頭、体の間にはギャップがあるなぁ。

やさしくしたいなら、一緒に住めばいいのに。

でも、一緒にいるのは3日が限界かも。

私に子どもがいたら、さぞかし喜んだだろうに。

脈絡のない思いがぐるぐる回っていた。これ“マザコン”だよなぁ。

バカ、バカ!大失態に気づく

自分が失態に気づいたのは、東京駅に着いてから。

改札で切符を出そうとする。が、

あれっ、ない!

リュックの小ポケットに入れていたはずだけど。

コートかな?トートバックのポケット?

ない…、ない。

とにかく落ち着こう。

トイレに行って大捜索。

ない。

あ゛~、私ってば、切符、なくしたんだ。

そういえば…

名古屋駅でシニア男性が降りようとしていた歳、通路に落ちていた切符に気づき、「お父さん落とされたみたいですよ」と家族の方に切符を渡した。

あれ、私のだったんだーーー!

私、自分がそそっかしいのを忘れてた。落としたのは他でもない自分だー。

窓口に行き、駅員さんに必死で説明した。

「名古屋駅に電話してみますが、見つからなければ、再購入ということになりますね」

あ゛…(・・;) どーしよ!!

一気に旅の余韻から覚めた。

私が買っていたのは、「東京―東京」の一筆書き切符(こんなのが世の中にあるって初めて知った)。乗車券だけで13,820円。これに新幹線特急券。

あってくれ~。祈る気持ちで待つ。

「家に帰るまでが遠足」を噛みしめる

私が事情を話した男性職員は、他の方の対応で忙しくしている。どーなる?

…、と、事務室のドアから女性の職員の方が出てきた。

「名古屋駅で切符が見つかり確認が取れました。これをお使いください。」と、代用の切符を手渡してくれた。

あ ありがとうございます。

へなへなとからだからちからがぬけた。

あ よかった。

からだからちからがぬけたまんまで、改札を出て山手線に乗り換えた。

この世の出来事も、おカネもすべて幻想だって言ってもねー。

「母との秋旅2018」というVTRは、最後にスパイスを効かせてあった。

しっかし、私、よく物を落とすよなぁ。ぼーっとしてるからだ。(実家に来るまでも、マフラーを紛失、駅に届けられていたのを受け取った)

気をつけないと!

届けてくださった方々、ありがとう。

「家に帰るまでが遠足です」子どもの頃、何度も言われたこの言葉を改めて、噛みしめた。

おわりよければ、すべてよし。

いろいろもろもろ、ありがとうございます。

母とスマホカメラ

2018-12-06

少し落ち着いてきたら、私は自分人生ゲームの映画館で「母との秋旅2018」というVTRを選び、映画の世界に喜んで浸っていたのだ、と思えてきた。

他の様々なVTRと同じひとつのVTRなのだ。それでも、これはお気に入りだったし、その中でのエピソードも楽しかった。

      *     *     *     *     *

よく知らない人に声をかける人懐っこい母

私はいつもに増してトイレが近く、三日目の朝立ち寄った東福寺でも、母に「ちょっと待ってて」と言って、境内脇のトイレに寄った。

数分経って出ると、あれっ?母がいない。

見ると、10数メートル先、5、6人の制服姿の男子高校生に囲まれている。

ん、またぁ!

私の母は、社交的なほうで、よく知らない人に話しかける。

エレベーターで乗り合わせた赤ちゃん連れの人には「かわいいお顔しとられる」、観光地で袴姿だったカップルには「おしゃれさんやね」。歩きスマホの女子高生には「ねーちゃん、ちゃんと前見て歩こ!」と注意したことも。

また、何か声かけたにちがいない。

そう思った私は母に小走りで駆け寄った。

と、「いいとこに来た、写真撮って」と母からスマホを渡された。

「ちゃんと本堂の屋根まで入れてあげてね」と母。

「あ、はい。もっと皆さんもっとお互い寄ってぇ、ハイ」

パシャリ。

「あ、横でも一枚撮りますね、ハイ!もー一枚!」

パシャ、パシャ、と私。

男子高校生に見せると「バッチシです」

ニコッと笑ってお礼を言って去っていった。

声をかけたのは男子高校生のほうだった

どうも、声をかけたのは母の方ではなく、男子高校生グループの方だったようだ。

よりによって今もガラケーの80歳オーバーのおばあちゃんに頼むなんて。人選ミスだ。

母は、言われたとおりシャッターを押したけど、見きれて全員が入らなかったり、本堂が入らなかったりして、何度かやり直しさせられている途中だったという。

画面上のボタンに力を入れ過ぎて、いつもぶれてしまうのだ。

最初に声をかけた男子は、「おまえもよ~(こんなやつに声かけるなんて)」と仲間から突っ込まれていたんだとも、教えてくれた。

母は、以前新幹線の中で外国人の男性から「ここは指定席ですか」と言ったようなことを英語で聞かれ、「Free、Free」と一生懸命答えていたら近くに座っていたサラリーマンが笑われた、というエピソードも教えてくれた。

母は私とちがって、人懐っこいから、声をかけやすいオーラが出ているのかな?

どこか対人恐怖的なところがあって、ひとりが落ち着く私は、そういう母がちょっぴりうらやましい。

今度いつ頼まれてもいいように、スマホカメラの練習をする、と言って、母が東福寺で私を撮ってくれた。その渾身の一枚→

晩秋の京都旅

2018-12-05

門の外から永観堂の紅葉を愛でる

12/2~4母と京都に行ってきた。

ここ数年11月末、母はわが家に来ていたが、「今年は来ないの?」と聞くと「行かない。京都なら行く」とのこと。で、京都に行くことに。

1日目昼に京都着、永観堂がある東山方面へ。2日目は、定期観光バスで嵯峨野、高雄方面昼食付き一日コース。3日目は東福寺に立ち寄って駅での昼食後それぞれの家へ、という予定。

思っていた以上に母の歩行能力が落ちていて、なかなか予定通りにいかなかったが、念願の「秋の京都」に行くことができてよかった。

ホテルにチェックイン後、最初の目的地真如堂までタクシーを使ったが、メインだった永観堂の拝観受付(午後4時)には間に合わず(^_^;)。すごい人ひと… 紅葉は門の外からでも美しかった↑。

2日目は乗っていれば連れて行ってくれる観光バスだったけど、やはりそこからお寺まではかなり距離があるところもあって、バスガイドさんの許可を得て、いくつかの目的地を飛ばさせてもらって集合場所近くで休んでいた。

「やさしくする」目的が果たせず、げんなり

母は、ストライクゾーンが狭く、思ったことを口に出すタイプ。

新幹線の途中駅でスーツを着た男性二人が前の席に座った時には、「あ~、タバコくさい」

永観堂からの混みあったバスでは、前にいた強面のお兄さんに「もっと前に詰めればいいのに」

ホテルの大浴場では、バスタオルを巻いたまま風呂に入る韓国女子に「あれ~、なんやろか」。

このご時世、余計なことを口に出さないほうがいいと思っている私は、ヒヤヒヤして母をつつくが、母は「だってぇ、あんた」と話を続ける。

今回の旅の目的は「母にやさしくすること」だったけど、私自身、段取りが上手いほうではなく、まずホテルにチェックインすべきか、あるいはコインロッカーの空きを探すべきか、経済的には電車で行きたいところだけれど、やっぱり母にはタクシーのほうがいいだろうかなど、頭をぐるぐるさせ、

気づくと予定をつつがなく進めることばかり気を取られ、やさしくするどころか、母の細かい要望や質問にいらいらしがちだった。

母と別れた新幹線で、あ~ぁ、せっかく行ったに(やさしくできなかった(-_-;))、とうなだれた。

半年で一段と老いた母、その母に子ども心のまま甘えたい老娘

若い頃は、今でいう“毒親”だと思っていた母を恐れ、表面的にはいい子をやりながら、内心許せなかった。

それが40歳になる頃は、「お母さんも嫁ぎ先で生きるのに必死だったんだな」と一人の女性として見るようになり、許せるようになった。そうしたらいきなり情が湧いてきた。

本当はただ母を慕い、やさしくしてほしかったのだ。

そうやって精神的に大人になりそこねたまんまの老娘の私。

絶大な権力をふるいモノを言う強者だった母は、庇護すべき弱者となっている。今はただ、“要求が多いちょっと面倒なおばあちゃん”だ。

お盆の頃と比べても、老いたな、と思う。体力的にも、認知機能も。

そう思うと、いずれ来るお別れまでも想像してしまって、いたたまれなくなってしまった。

お母さんがいなくなっちゃたら、私どうしよう。。。

冷静に考えてみれば、80歳すぎて健在で一緒に旅行できるだけで有難いことなのに。

許せても、赦せてない…

『奇跡講座(ACIM)』では、この世と神の両方を取ることはできないと言う。この世がリアルじゃないから、自分の「罪」も贖われるのだ。

私にとって、母はリアルで、今、神か、母か、どちらかを取れと言われたら、迷うことなく母を取る。

私の認知は間違っている。

旅行中はすっかりACIMから遠ざかり、その存在すら忘れていた。

私が母に感じているのは、ACIMが言うところの“特別の愛”で、神の子たる普遍的な愛とは異なる(いや、それ以前、お母さんがいなくなったら自分が寂しいという単なるエゴだ)。

母を許すのではなく、本当は赦すべきなのだ、と今朝になって思い出した。

それでも、やはり私にとって、母はいちばん大切なひとで、平成最後、節目の秋、ともに過ごせてよかったと思う。

今朝の、久しぶりのワークでは頭が混乱していて、旅に行けたことにただ感謝をささげた。

[caption id="attachment_5030" align="aligncenter" width="788"] 真如堂にて[/caption]

 

母と京都へ

2018-12-01

急だけど、明日から二泊三日で母と京都に行くことに。

私が今日ある講習を受けて、その足で夕方富山へ。

そして、明朝母と京都に向かう予定。

紅葉はどうなっているかな?

先週がベストシーズンだったと思うけど。

秋はすごく混んでいると聞くけど、どのくらいかな?

母は今はどれくらい歩けるかな?

そして、私は、間が悪くおとといあたりから膀胱炎気味。

いつもトイレが近いけど、さらに近い。

今日急に髪染め(白髪染め!)に行ったけど、そこでもトイレをがまんしてヒヤヒヤした。1度お手洗い借りたけど、2回目は借りにくい。

市販の薬を飲んでいるけど。。やや不安。

ともかく、講習に行ってまいります。

「病気」のはなしを最後にしておくのは気になったから、更新して出かけます。

いろいろもろもろありがとうだ。