レッスン163-死は存在しない。神の子は自由である。

2017-11-29

ワークについて最後に書いたのは、いつだっけ?

もともと時々しか更新できていないACIMブログだけど、最後にワークについ書いたのはいつで、レッスン何?と思い、見たら、11月10日のレッスン162だった。

じゃあ、レッスン163からだ。

そして、このワークはいつやったのか、とノートを見てみたら、11月9、10、13~15日だった。ずいぶん時間をかけたみたいだけど、あまり「ちゃんとできた感」がないから、何日もやったものか。朝だけはできても、夜はできなかったり、その逆だったり…もあったみたいだ。

自分が大事に思っていると言っているわりには、「瑣末なこの世のこと」に時間を使ったり、夜は疲れたりして、できないまま日を過ごすことがけっこうある。そして、そんな日も楽しかったりする。

…できの悪い学習者だ。

でも、他に行くべきところも、もっと頑張ってやるべきこともない気がする。

だからできれば、この世に生きている間ずっとACIMから離れずに学び続けたいと思っている。

レッスン163-死は存在しない。神の子は自由である。

死は存在しない。神の子は自由である。

この主題概念は、私にとって最も響くものだ。

なぜなら、私は子どもの頃からずっと「死」が怖いと思ってきたから。

小さい頃母に「死ぬってどんなこと?」と聞いたのを覚えている。母の答えは「寝て明日がないこと!」。

「お母さん、怖くない?」と聞いたら「そんな馬鹿なことを考えている暇ない!」だった。

成長し死の概念を理解するにつれ、死への恐怖は大きくなった。「死」に人生の根っこを抑えられており、常に「死」を背負って生きていて、生は「死刑宣告」までのつかの間の猶予、だから楽しめ、試せ、どうせ朽ちるのだから。そう言われているような気がしていた。

それは今思うと、まさにエゴの主張そのままで、エゴの罠にきれいに嵌っていた。

最初に『神の使者』と『奇跡講座』に惹かれたのも、意識はしていなかったものの、もしかしたら、死の恐怖から救いあげてくれるのではないかと感じたからだろうか。

レッスン163の冒頭には、「死とは一つの概念であるが、しばしばそうとは認識されない多くの形をとる。(L163-1-1)」とある。そして、悲しみ、恐れ、不安、疑い、そして怒り、不信、信頼の欠如、さらには肉体にまつわる心配や羨望といったものまで、その概念に含めている。

つまり、神の子にとって本来身にありえないことのすべてが「死」という概念だと言う。そしてその概念を象徴するものが、やはりこの世での「肉体の死」だ。

レッスン163にもあるように「死はその人質となっているすべての生命を間違いなく奪いにやってくる。(L163-3-4)」とある。

しかし、後半では、死は全的ものだから、神も含めてすべての者が死ぬか、あるいは命あるものはけっして死なないか、どちから一つであると言う。死が存在するならば神の死もありうる、それが誤りならば死はありえない、と説く。

「神の死という概念はあまりにもばかげていて、狂人ですらそれを信じるのは難しい。なぜなら、それは神がかつて生きていたが、どういうわけか今は死滅してしまい、おそらくは神の存在を望まない者たちによって殺された、ということを示唆するからである。」(L163-7-1,2)

こうした概念や理屈がちゃんとわかったわけではないけれど、ACIMの立場、「神は死を作らなかった。だから、死がどんな形をとろうとも、それは幻想であるに違いない。」(L163-8-6,7,8)は心強い。

死の恐怖から逃れるためにACIMを学ぶというのは本末転倒、原因と結果を逆にしてしまっているけれど、人間が本質的に持つ死の恐怖がなくなったら、それだけでこの世は平和でハッピーな場になるような気がする。

ワークをして

私はなぜそうも死が怖いのか。

死の何がもっとも怖いのだろう。

改めて感じてみたら、

「自分が無になるように思えるから」という答えが浮かんできた。

「自分」への執着…

その執着している「自分」だと思っているものが、エゴなのだ。

私は人一倍、「私」というエゴへの執着が強い。だから、怖いのだ。

エゴが自分が消えてしまう恐怖で大暴れしているのだ。

エゴへの執着を解き放とうとするのが、ACIMの学びだ。

私のACIM学習の目標は、「私」という檻から本当の私を自由にすることでもあるのだと思った。

ACIMからしばらく離れた、戻っていこう

2017-11-27

ひとりが身に染みる

たった四日間の母の滞在だったけれど、その後やや調子を崩していた。

ふだんひとり暮らしの私にとっては同じ空間にずっと誰かがいるというだけでストレス、それが非日常のワクワク感と相まって、ずっとテンションが上がったままだった。

その上がってしまったテンションが母が帰った後もすぐには通常に戻らず、またようやく気が抜け出すと、上がった後の揺り戻しなのか、ぼーっとして動きづらかった。

そして、心の内では、短い期間だけれど母とずっといることで、この世の現実感をいつもよりぐっと強く感じ、同時にACIMの世界観が遠ざかっていた。

すがすがしい晴天の空、母を新幹線で見送った帰り道、この東京で私はひとりなのだなと強く感じたのだ。

みんなが大切にして紡いでいく家族というものを、私は作れなかった。老齢の母はいつまで元気でいてくれるだろうか。私はこの人生で何をやっていたんだろう、何やってるんだろう、といった思いがぐるぐるした。

人生とは、愛する人と出会い子どもをなして、愛する子どもを育て家族を作り、その中で笑ったり泣いたり、いい事もそうでない事もあって、老いていずれ子や孫に未来を託してこの世を去る、そうした営み。

それがまっとうな人生で、私はやっぱりできそこないじゃないか…

おりしも、季節はクリスマス商戦の真っただ中。クリスマスソングがやけに身にしみる。

ACIMはこの世からの隠れ蓑?

私はこの世の現実から遠ざかりたくて、ACIMをやっているのではないか。時々思うこの疑惑がまた湧いた。

私はこの世で幸福の証明とされているものは何一つ持っていない。ACIMやACIMワークはこの世の価値観から身を引きたい自分のための言い訳のようなもので、この世で「勝ち組」で「幸せ映え」するものさえ手にしていたら、ACIMを見向きもしなかったんじゃないか。そう思えた。

だけど、今ようやく、ひとりの時間に慣れて平常心?になってくると、

ACIMの見方こそがやはり正しいと思える。

この世の楽しいことも、もちろん、味わっていい。私たちには五感があり感情がある。日々の小さな、あるいは大きな出来事もある。それを感じないでいるというのは不自然だ。

だけど、それはそれ。真の意味でリアルではない。やはり、私たちが回り灯篭に映している映し絵のようなものにすぎないのだ。

おいしいものはおいしい。お母さんは愛しい。私は気兼ねなく旅行できるくらいのおカネのゆとりが欲しい。健康で若々しくいたい。

これらはぜんぶ本音だ。

だけど、私の根幹にはもうひとつの、本音というか真実がある。

God is.

神は在る(それ以外はない)。

そして、私は神が創造したままの私である。

 

これを思い出しながら、また中断してしまったワークを再開したいと思う。

2017年秋、母との時間

2017-11-22

母が来た

先週土曜から三泊で母が上京していた。先月『日曜美術館』で運慶展の特集をやっていたのを見て、ぜひ生で見たいと興味をもったのだ。

母は好みがはっきりしていてストライクゾーンが狭い。私はなんとか母を満足させたいと、好きそうな建築や庭のコースを考えランチの店を予約し、わが家でのメニューを考え…、と段取りしていた。

しかし、来る前に足を痛めそれが回復していないとかで、杖をついてやってきた母は、私が想像していたよりかなり重症で50m歩くのも辛そう。ゆっくりゆっくり普通の3倍位のスピードで杖を頼りに歩く。

よく来たな。私だったら直前でも取り止める、と思う。筋肉痛だと思っていたものが良くならないどころか悪化したのだと言うが…

何とかランチを予約してあったお寿司屋さんまでは辿り着いたものの、観光できる状況とも思えず、予定変更し、連日、前回の上京でもお世話になった整体の先生に予約を入れて診てもらった。

そんな状態でも、「運慶展」だけは行くと、日曜、上野公園の国立博物館まで行って大混雑のなか40分待ちの列に並んで、見てきた。好奇心が強いというか根性があるというか…。あと、お茶のお稽古に持っていく○○という和菓子のお土産を買わねばならない、と見栄をはりたいあたりは、まだまだ生命力があると安心した。

母は私とちがって外交的でおしゃべり好きで、朝目覚めた瞬間から夜眠りにつくまで口を閉じるということがまったくない。ほとんどは「○○という番組に出ていたあの○○の弟って誰やったっけ?」みたいな質問、「この器の色、料理に合わないね、もっと○○だったらいい」とみたいな意見と「どの駅降りるの?」という類の質問だ。

私は、母に優しくしたい、満足してもらいたい、と思う一方で、目先の質問攻め、意見攻めにはたちまち辟易してきて、「さあ」「知らん」「そうやね」と流してしまう。引きこもりの私には、人との会話は3時間くらいが限界なのだ。

かつて憎んでいた母が今、小さくなって目の前にいる

その昔母は156㎝の私より10㎝も背が高い、色白美人だった。頭が切れ店を仕切るキャリアウーマンであり、母は私にとっては「私にまちがいはない、言うとおりにしなさい」と叱る絶対的権力者だった。私は支配的暴力的な母が大きらいだった。

在る日いきなり勉強部屋に現れた母が、なぜかわめきながら雑巾で私の顔を何度も拭いた。三世帯家族でたまったストレスを子どもにぶつけたらしい。

その時私は「覚えてろ。いつか私が大人になり力関係が逆転したらぜったいにこの仕返ししてやる」と心に誓った。子ども時代の記憶はほとんどないけれど、その瞬間のことは覚えている。

その母が、私より小さくなり皺くちゃのおばあさんになり杖をつき、歩くのもままならない様子で目の前にいる。

ふと「盛者必衰」という四文字熟語を思い出した。母だけでない、この世で移り変わらないものはない。

この瞬間、自分が母を憎んだり恨んだりしていないことが救いだ。無意識ではわからないけれど、私が感知できるかぎりは憎しみは消えている。

逆に、とてもとても愛しいと思う。

それだけで、私の人生はWINだと思える。それだけ自分のなかで母の存在と母への感情が大きかった。

母はわが身の投影

もちろん、ACIMを学んだ今、母はわが身の投影だとわかる。他のことと同じ、幻影でありゆるすべきもの、手放すべきものだ。手放すからこそ、私自身が贖いゆるされる。

しかし、この母への思いは何だ。恨み、怒りはない。あるのは、愛しさと強烈な執着心だ。

憎んでいたのは、叱られ甘えられない、認められないことに対する反応だったのだと思う。50も半ばを過ぎた今、「認めてもらいたい」「褒めてもらいたい」と幼い頃出せなかった気持ちを溢れさせている自分がいる。

その甲斐あってか、今回の滞在で

「どこで食べるより、あんたが作ったものがおいしい」と母。料理下手な私は、おいしいと評判の鍋つゆやあえ物のペーストを買いこみ、それで鍋や茶わん蒸し、春菊の胡麻和えを作っただけなのだけど、それでもとってもうれしかった。

また一方で「あんたに子どもがいたらよかったんだけど」とつぶやく母に、「ごめん」と心の中で答えて肩を落とした。

母への執着心とACIM

母の滞在中ずっとおしゃべりしている母に、ACIMのワークのことも、その考えもすっかり忘れていた。

私がACIMワークが細々とでも続けていられるのは、ひとり暮らしの孤独からで、家族がいて家族との生活があったらその必要性すら感じないのかもしれない。

家族と住んでいたらACIMワークをやりたいと思っても、自分だけの時間とスペースを保つのもむずかしいだろう。

私はACIMワークを続けACIMを細々とだけど学んできたと思うけれど、母をゆるせてはいない。許せてはいると思う。が、それはACIMのいう赦しとは異なる。

感情の向きが憎しみ・恨みから愛しさへと逆になっただけで、手放すどころか、強い情と執着心をもって、幻影をリアルにしてしまっている。

いつかその母とも、この世での別れが来る。今はそういうことを想像できないし、したくない。

今の私はまさにエゴトラップに引っかかっているのだと思う。

私が赦されるのは、こうした母への執着を手放すからだ。それがACIMの学びだ、と思いながらも、今は感情の波に翻弄されている。

そして、もう少しだけ、その波に漂っていたいようにも思う。

ゆるすことを勉強中

2017-11-13

当マンションで大型修繕工事案が計画中

私は今、住んでいる古マンションの管理組合の理事長だ。

役員は順番制だけど高齢化率が高く、賃貸に出して実際には住んでいない人は除かれるから、4年に2年くらいは役員が回ってくる。そしてなり手がいなくて、今は「理事長」。私だってヤだけど、拒みきれなかった(>_<)

もうすぐ築40年に手が届く古い建物で、前回の大型修繕からもう15年近く経っていて、そろそろ大型修繕が必要…

ということで、管理会社の勧めで無料建物診断をしてもらったが、やはり「早急な対応」が求められるとのことで、大型修繕工事の事案が上がっている。

排水管もしょっちゅうどこかで水漏れしていて、どうせなら大型修繕と排水管更生工事を両方やってしまおう、という方向に進行中だ。

問題は、修繕積立金がまったく足りないこと。概算で2,000万円以上借入が必要。住民のなかには、すべてにヒステリックに反対するタイプの方もいて、決まったとしても難航しそう…

役員以外は、無関心を決め込んでいるのか、建物の無料診断説明会や工事やその際の借入の必要性の説明会にも、役員とそのヒステリックな反対者以外はほどんど出席なし。

ただ管理会社の担当者は、他のことはなかなか動いてくれないくせに今回はやけに積極的。公募する修繕業者がなければ管理会社推薦の業者で進めることになるが、そうしたらよっぽどいいことがあるのか、、前のめり姿勢だ。

こんな多額の借金をするのに、表面的な形式だけは踏んでいるけれど、それでいいのかな?皆さん、説明会に参加されていないけれど、どれだけ理解し、納得しているのかな、と気がかりな私。

「見積もり参加業者の募集」!?私まだ確認してないよ

そんななか、「11月末までに工事業者を推薦ください」と理事長名(つまり、私の名で)業者募集がポスト投函されているのを見つけて、びっくり。管理会社の担当者の方が、作って出したものだ。

私は、なんとなく話はしていたものの、「11月末までに工事業者を推薦」の条件と締切はまだ話し合いをした上で進めるつもりだった。

なんかいやな気がした。何がどういやなのかはわからなかったけど、急にドキドキしてきた。

少し時間が経ってから考えてみたら、私に書類を確認することなく、物事が進められていることに、“強引さ”を感じ、それに恐怖と怒りを感じたらしかった。

恐怖は、形式上の手続きだけはとっているけれど、住民のみんなは説明会に参加もせず、どれだけ工事について理解し了承しているのか。充分に納得しないまま、私の責任で大きなおカネを借りることと、それで工事をすること…だった。

怒りのほうは、「見積もり参加業者の募集」書類は、やっぱり私に最終確認をしてからにしてほしかった。なんか甘く見られているのかな、と感じ、自尊心が少し傷ついた。

私が矢面に立たされているのに、自分のコントロールを超えて事が進む感じがいやだったのだ。

ACIMでは、この世の幻想性を見抜き、それを赦すことを学んでいるはずだったけれど、私はただこの世から逃避して、この世での力だけを弱めているようにも思える。実際に「問題」が起こった時、「これは幻想だから」と逃げているだけで、その対処法がわからない。

私の恐怖と怒りをゆるす

今朝のワークで、このことをイメージしてみた。

これも、またやはり幻想にすぎない。

何かがあって→ 私が恐怖と怒りを感じたのではなく、

私の心に恐怖と怒りがあって、それが存在を私に主張している。

…だから、このことが起こっているのだ。

だから、このゲンジツに対処は必要だけど、それは派生して出てきたこと。元である私の恐怖心と怒り(神からの分離という誤解に由来する)こそ、幻想だと見抜いて赦すことが必要なのだ。そう感じた。

私が恐怖と怒りをいただいたまま、管理会社にアプローチしてもうまくいかないだろう。

まだざわざわがあるけれど、それを治めてから、具体的な行動を決めたいと思った。

生きるのは、この地に足をしっかりつけて踏ん張るようなものだと思っていたけれど、今は自分の人生映画のスクリーンに現れてくることに「私が作っている映画だよ」を思い出すようなもの、になっている。

レッスン162-私は、神が創造したままの私である。

2017-11-10

レッスン162-私は、神が創造したままの私である。

たしか同じ主題概念があった…と思って、ワークブックの目次を見たら、レッスン110に同じのがあった。レッスン162の冒頭でも、次のようにある。

この一つの考えをしっかりと心に抱くだけで、世界を救うことができる。今後、学びの新たな段階に入る折々に、私たちはこの概念を繰り返すことになる。進歩するにつれて、この概念はあなたにとって、今よりもはるかに多くの意味をもつようになるだろう。(L162-1-1,2,3)

この言葉は強力だから、こう思い唱えるだけで、心に大きな変容をもたらすという。

心からこのことばを受け入れられるようになること、それがワークブックを通した目標といっていいだろう。

このワークではこれ以上の抽象的概念は用いずに、この強力な文言を改めて用いて、心の変容を促す。

ワークをして

「神はこの世を作らなかった。

 そして、私は神が創造したままの私である。」

これが真実。じつにシンプルだ。

私が神が創造したままの私なら、私には罪もその罪から受ける罰もなく、悲しみや悲惨なことも起りうるはずがなく、あるのは愛と喜びに満ちた世界だ。

自分がそう信じ、その信じたまま生きることで、同胞をゆるすことにつながり、贖い、救済できる。それが自らを購う道でもある。

この世では毎日いろんなことがある。大きな事件、身近なこと、いいこと、悪いこと、得すること、損すること、くっついて、離れて…、悲しんだり、喜んだり…

でも、すべては流れ、流れて、回り灯篭みたいに、過ぎていく。

今が、過去になっていき、そして新しいものが現れて、古いものは去って、そして新しいものが、今になり、古くなり、過去になり、新しいものが現れて…

その都度一喜一憂して…

生きているって、そういう時間のことだと思っていた。与えられた持ち時間のなかでなるたけ、「よい」ポジションに得て「よい」暮らしをすること、子孫を残すこと…

けれど、もうそういうやり方からは卒業したい。この世の「よい」は「悪い」と対だ。

「よい」をめざすのではなくて、この世で起きていることは見て、過ぎて、真実が見たい。真に在るものだけを見たい。

常に、私は神が創造したままの私だ。

だから、そんなときでも喜びに満ちており穏やかだ。豊かさで溢れており、光り輝いている。

そんなふうでありたい。

実際には、ほんの小さなできごとにも、いちいちカーッとしてしまうけれど。

ACIMにふれれば、真実を思い出すから、細々とでもワークを続けていきたいし、繰り返し繰り返し学びたい。

浮かんだことば

私は、神が創造したままの私である。あの人も、神が創造したそのままの同胞だ。

レッスン161-聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

2017-11-08

レッスン161-聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

11月に入り都内でも木の葉が色づいてきた。

昨日は立冬。こよみのうえでは冬。はやい。

せっかちな母に頼まれて、母用の年賀状のレイアウト案を作った。来週末母が上京することになって、その時、いくつかの中から選んで印刷したものを持って帰りたいらしい。

干支をイラストに、と来年は何かな、と思ったら「いぬ」だった。戌年、平成三十年かあ。おそらく平成最後の年だ。

急くこともないと思うけれど、ちらっと年末の気分になった。

      *            *            *        

レッスン161は、「怒り」をテーマとしている。怒りのそもそもの原因は、「神からの分離」がもたらす恐れと罪悪感だ(もちろん、これは誤解)。

私たちは、自分の奥底に居座る恐れと罪悪感を認めたくないばかりに、それを他者にかぶせる。心理学でよく言われる「投影」というやつだ。

嫌なことをしたり悪事をはたらいたりする他者がいる。だからその人に怒りを覚える。それは「正当」だと思う。だが、ACIMではそれは、私たちの恐れと罪悪感を他者に投影した結果、見えてくるもので、私たちは実は自分自身に怒っているのだと見る。

ひとりの兄弟はすべての兄弟である。(L161-4-1)

兄弟を肉体と見なす者は、兄弟を恐れの象徴として見ている。そして彼は攻撃する。なぜなら、彼が見ているのは自分自身の恐れであり、それが自分の外側にあって、攻撃の構えをとり、再び自分とひとつになろうとして叫んでいる様だからである。(L161-8-1,2)

このレッスンでは、現実的な一人の人を、他のすべての兄弟の代表として選び、その人に対して救済を求めるということを行う。「救済を求める」とは、すなわち怒りの感情を流しその人をゆるすこと。

その人が鏡となって見せてくれたものを、それは幻想であり、罪はなされていないとキリストの目でその人を見ること。

それこそが、自分の中の恐れと罪悪感から自由になる方法である。

具体的にこの世で私たちが感じている怒りや見ている罪を題材として、それを逆にして取り成すことによって、天国に戻るのだ。

このレッスンのワークの次の文言が普遍的な「怒りや恐れからの安全な脱出法」になる。

聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。私はあなたをキリストのまなざしで見て、あなたの中に私自身の完璧な無罪性を見たいのです。(L161-11-7,8)

ワークをして

怒りのテーマで選ぶ「ひとりの兄弟」とされるのは、親子や配偶者、恋人や友人、ご近所など、距離感や関係が近しい人が多いだろう。

そうでなければ、とっくに離れてそれでおしまいで、感情をこじらすこともそうないから。

私の場合、こういうワークで出てくるのは、元の夫が多い。すでに別れてかなりの年月。別れて20年後にひょんなことから偶然再会してすったもんだして…おカネを貸したり…返済がなかなか進まなかったり。今も強い感情を持っているわけではないのだけれど、今の人間関係が希薄だからか、こうしたワークの際には彼が浮かんでくる。

私がこじらせたのは、彼のことが好きだったけれど結婚という枠が嫌で、こちらから一方的に別れたことに端を発している。もう何十年も前のことなのだけれど…。

今回ワークをして新たに思ったことは、

彼に対して完璧であらねば…、二人の関係は完全なものじゃなくっちゃ、という若さゆえの(?)無意識のプレッシャーがあって、それに耐えられず自分から逃げた…というのも別れた要因のひとつだったんだと。

彼を擬似神として、神との一体性、完全性のイメージを恋愛に重ねたみたいだ。幼稚だけれど、親に甘えてこなかった分、恋愛で甘えを出した。

そして、神としてだけではなく、神との分離のイメージもまた重ねて、分離した「罪」をなすりつけている。

さらに、そのイメージに執着し、手放すことができないでいる。

そう思った(理屈っぽいかな?)。

そうではなく、私が真の心眼で神の世界、神との一体性を感じることができれば、そうした擬似的なものは必要ないはずだ。

代理の偽物のイメージを手放すことこそ、神さまに近づくことだ。

私が神さまを心の内にしっかり持てれば、この世に一時の神のイメージを求め、探しあぐねるのではなく、誰に対しても神を見ることができるようになるのだろうと思う。

浮かんだことば

心の中に神さまを持とう。そして、これも、あれも、その目をとおして見よう。

レッスン160-私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

2017-11-06

レッスン160-私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

I am at home. Fear is the stranger here.

このレッスン160の原文の「stranger」という語を、中央アート出版社版は「異邦人」と訳していたが、異邦人という言葉は若かりし頃ヒットした久保田早紀さんの歌のイメージしかなく(素敵な歌だった)、私には少し違和感があった。大畑学さんの訳のほうは「よそ者」となっていて、こちらの方がすんなり受け入れられた。

このレッスンが言いたいことは、ざっくり次のようなことだと思う。

神なるものと恐れは共存できない。

だけど、今は神の子である私たちの心の中に、恐れという「よそ者」がいる。

それは、私たちが自ら招き入れてしまった者だ。

私たちは本来の自分自身を否定してしまい、よそ者を住まわせ自分を明け渡し、今やそのよそ者に乗っ取られていることすら意識していない。幽霊に憑依されているようなものだ。

その状態では、自分が何者かを認識したくともできない。私たちは迷子になったままだ。

しかし、私たちの心の奥には真の自己がある。この自己は神とつながっている。よそ者を追い出して本来の自分を取り戻すには、この神を確信するだけで充分だ。

私は神の子であり、その私こそがここにいる。この私は恐れとは共存できない。

神の子を幻想から目覚めさせるホーリースピリットに感謝しよう。そして私も同じように見よう。

ワークをして

26、27、29、30日と足踏みしつつワークした。

夜はリサイクルセンターの抽選でゲットしたS字チェアで瞑想ワークをしていたけれど、いよいよ寒くなってきて長いこと座っていられなくなってきた。

最近感じるのは、やはり「感謝」が大事だということだ。神の愛とは、一般的に使われる愛というよりは感謝ではないか。神自体が感謝なんだろうと思う。

私は幼い頃から暴力的な母親に反抗心を持って育ち、感謝ということをしなかった。

表立って反抗することはできず心と裏腹に行動は従順に、という今から思うと可愛げのない内向的な子どもだった。心に反抗心を抱くばかりで育ててもらって、あたりまえと思っていたのだ。

だから、感謝ということばと形は知っているけれど、その実、よくわかっていないのかもしれない。

「ありがとう」と口に出すことが感謝ではないだろう。それは挨拶のようなものかもしれない。私は、感謝をしようと思ってはいるけれど、できていないのかも。ワークをしながら、そんなことを思った。

そうしたら、自分に感謝してごらん、と言われた気がした。

わからなくてもいい、ありがとうを、ここにこうしている自分に言うのだと。

それでそうしてみた。

なにかほころんでいく気がする。

普段は、知らず知らずのうちに体や心に力が入り緊張し(=不安)、劣等感や申し訳なさでコチコチなのかもしれない。

要するに、この世はプロジェクターで映されたスクリーンにすぎないのだから、いつ、だれにありがとうといっても、それは自分自身に言っているのと同じなのだ。

もちろん、自分に言うよりは目の前の同胞に言った方が自然でたやすい。

でも、わからなくなったら、なぜ「ありがとう」なのかもわからなくても、「ありがとう、私」と言ってみてもいい。そう思った。

くりかえし、いつもおんなじこと、言っているけれど。

浮かんだことば

ありがとう、わたし。ありがとう、ホーリースピリット。ありがとう、かみさま。

携帯会社をauからマイネオに変えて、固定費節約

2017-11-03

auからマイネオに

世間は三連休で、車も少なく町の空気が緩んでいる。

お天気もいい。

冬になる前のおでかけ日和…ドライブに最高の日だな。

携帯会社をauからマイネオに変えた(乗り換えっていうのかな)。新プランはデータ通信(3GB)+通話のプランで1,510円だけど11月9日まではさらに1年間毎月900円割引の大盤振る舞いキャンペーン中だから、向こう一年は基本の料金が410円になる!これは大きい。

auサイドには違約金を払わなくてはいけないけれど、もうすぐ2年間の割引きがなくなりぐっと電話料金が高くなる予定だったから、やっぱりマイネオの方がかなり安い。移行できてよかった。

ひとりでなんとかできた!

機械、通信関連にめっぽう苦手意識がある50代のひとり暮らしの女(あえておばさんとは名乗らない)が、あれやこれやネットで調べ、MNP(携帯電話番号ポータビリティー)の予約番号を取り、これを買えば事務手数料を無料にできるとかいうワザを使いエントリーコードを買い、自分でsimカードを交換して、カスタマーセンターに2回も電話して聴きつつ通信設定して…、と、四苦八苦する様はなんともキュートではないか、と自分で思う。

最後まで設定できて、電話、ネットともつながった時には、達成感を感じた。

わたし、ひとりでも、できた!

しかし、便利な世の中というかなんというか、こうした移転手続きやエントリーコードを買って受け取るのも含めて、家にいながらグーグル先生だけを頼みにしてできるのだから。

コミュニケーションにやや難ありの私には大助かりだ。本来ならば、コミュニケーションする相手もわずかなのだから、電話の機能だけでみれば私には必要ないくらいだけれど。これはもう電気や水道と同じく社会のインフラになってしまっている。ネットも地図もたいへん便利だ。そうそう、ACIMワークの時も、You Tubeの瞑想音楽をよく使っている。

ACIMから見たら節約はmeaningless

こうした「節約」は、ACIMから見ればまったく意味のないことだと思う。文字どおりmeaningless。

この世のゲーム内でうまくやることではなく、その幻想性を見抜いて、そこから抜け出すのがACIMの教えだから、ゲームの中のゴールドだか、ギルだかルピーが増えようが減ろうが、本来は関係ないはずだ。

それどころか、そのゲーム内のことに熱くなってしまうことは、それをリアルにしてしまうことだから、ACIMに逆行することだともおもえる。

でも、でも、今は、

自分で何とか手続きできたこと、と、

月々の携帯電話代が大きく節約できそうなことに、

ちょっぴりテンションが上がっている。

けさのウォーキングで

2017-11-01

自分のなかのホーリースピリットを意識する

さわやかな小春日和というのかな、空気はひんやりとしつつも空が澄んでいる。寒い、寒い、と体を堅くする前の穏やかな陽気。慌ただしい師走の前、心を旅させるのにもいい季節かもしれない。

私は最近のワークでは、主題概念のワークの前に、 自分の中の「死なない部分」とその性質をイメージするということをしている。

無限にやさしく…無限に感謝にみちて、無限に神聖で…無限に誠実で、無限に喜びにみちて…無限に穏やかで、無限に豊かで…。

「私の中の死なない、神聖なところ」…最初は短かったイメージが、長くなり最近は7つもの形容詞を並べるようになった。きれいごとに聴こえてもかまわない。この私ではなく、神の似姿のことだから。

「自分の中の死なない部分」とは、死を恐れている私が、実は私たちは体ではなく霊なのだと自分に宣言し、自分の心の奥底に住まうホーリースピリットを意識する、フックとなることばなんだと思う。

ホーリースピリットそのものを意識するより、こっちの方がイメージがしやすくて使っている。実際の私ではないから気がねなくイメージを飛ばす。

この世で住まう、体を持った私も、暗示効果で少しでもそうなったらいいな、という思いもある。

日常ではぜんぜん…まだまだ

でも、けさのウォーキングで、自分はその性質からはえらく遠いと、改めて気づかされることがあった。

一週間ぶりのウォーキング。車一方通行の狭い道で、黒い服の若い男性がふらつきながら向こうからやってきた。

お酒に酔っているのかな、そうじゃないのかな、千鳥足みたい、足元がおぼつかない。道の脇の家の門にぶつかったり反対方向に大きくよろけたりしながら、こちらに向かってくる。

ラリってる!? 危ない人?…と思った。

私の前には杖をついてとぼとぼ歩く小柄なおばあちゃん。

このままではふらついたまま、おばあちゃんを巻き込んで倒れてしまう!…私は、その男性とおばあちゃんの間に入ろうと歩幅を大きくした。

…、とそのおばあちゃんが、男性に話しかけた。

「だいじょうぶ、あーた。具合わるいの?」

私は、一見危なそうに見える男性におばあちゃんが話しかけるとは思っておらず、びっくりした。

男性は「あ、だいじょうぶ…コンビニすぐそこだし…」

おばあちゃん「シャッターに手を添えたまんま歩きなさい」

男性「は…い」

私は勝手に男性を見た目で警戒したことを恥ずかしく思った。そして、おばあちゃん、えらいな、と思った。

おばあちゃんと私は、目が合う。安堵の表情。

おばあちゃんの隣からお顔を覗いて「やさしいですね」と声をかけた。おばあちゃんは、「な~んも、だれんでもおんなじ」と。

その瞬間、向かいからフルスピードの自転車。おっさんが私に、

「前見て歩け、このあほーっ!」と罵声を浴びせて走り去った。

私はとっさに「すいません」と言ったものの、ただ並んで歩いていただけ。私のほうがすごく危ないことしてたわけないじゃん、と憮然としてしまった。

「な~ん、だれんでもおんなじ」と体から優しさがにじみ出るおばあちゃんと、人を見た目で警戒したり、ささいなことにも赦すどころかムッとしてしまう私。

日々のワークが日常に現れるには、まだまだ時間がかかりそう…と思うのだった。