クリスマス*コワイ

2016-12-19

クリスマス攻め !?

クリスマスイブの週を迎え、街の花屋さんは鮮やかなポインセチアに囲まれている。冬の赤って、若さや生命力を感じていいな、と思う。

一方でお店などで鳴るクリスマスソングや過剰な演出は実は苦手…。

近くの定食のお店は、ハロウィンが終わった直後からクリスマスソングがかかり、そのリンリンは今や盛りと大きく鳴り響いている。最近は近所のスーパーでさえ、レジの人がサンタの格好をしたりしている。

私はこうした街のクリスマス演出を密かに「クリスマス攻め」と呼んでいる。

こうした世を拗ねた呼び方をしているのは…、そう。クリスマス、ひとりだから。24日も25日も予定なし(>_<)

鳴り響くクリスマスソングや演出に「クリスマス、あなたはどう過ごしますか。もちろん、愛する人とパーティをしたりプレゼント交換しますよね」と煽られ、攻められているように感じてしまう。

いいえ、なんにも。ひとりです。

だから、クリスマスがコワイのだ。

クリスマスとの距離感がわからない

日本人にとってクリスマスというのは、西洋のお祭りであり、一種の“リトマス試験紙”みたいな気がする。家族であったり恋人であったり仲間であったり、自分にとってもっとも大事な人と幸せを確認するのだ。

とくにクリスマスイブの晩はもっとも大事な人と過ごす。それこそが今年の幸せ。そんなイメージ。

いつもは誰にも気を使うこともなく、好き勝手に楽ちんにやっている、独り者にとって、冬というのはなかなかシビアな季節だ。クリスマス、お正月、バレンタインなど、ぬくもりや愛を拠りどころとするイベントが目白押し。独り身には寒さが沁みる季節である。

もちろん、こういう気持ちは自由・楽ちんさを享受している私にとって「支払うべきコスト」とも言える。大変なことや面倒くさいこととセットで愛やぬくもりがあるのだから。

そして、私はすでに50代も半ばのおんな。世間のコマーシャリズムの権化みたいになっているクリスマスから“卒業”して、平生のままでいいのではないかと思う。でも、やっぱりチキンくらいはあった方がいい?いちごが乗ったケーキくらいは食べるべき?と、これまでの刷り込みに心が揺らぐ。

そう、クリスマスと自分との距離感がわからない。

定まらない感じが気持ち悪くもあり、さみしくもあり…。

クリスマスってなあに?

…とぐるぐる。

幼稚といえば幼稚だけど(^_^;)

さみしいのは、神と分離した世界を見ているから

そもそもクリスマスとはイエス・キリストのこの世への誕生を祝う儀式。そう原点に戻れば、まったく私と関係ないとは言えない。ACIMはキリストの声を口述筆記したもの。関係ないどころか、大ありだ。テキストにもクリスマスについて記述された項目があった。

…とすれば、大いにお祝いすべきだ。

でも、ACIMには「この世への誕生を祝う」という概念があったっけ?

そう考えると、またわからなくなってしまう。

ただ、わかるのは、私が「さみしい」と思うのは、「まちがい」だということ。

最近やったレッスン76には、「…別の肉体があなたの傍にいない限り、自分は孤独だと、本気で思っている。このようなことを考えるのは狂気である。…」と書かれている。

さみしいのは私がパートナーや家族もなくひとりだからではなく、神と分離した世界を見ていて、その世界にいるからだ。分離した世界というメガネで見て、その内なる世界をこの世に投影している。

そして、それは勘ちがいだ。神さま、聖霊と私は昔も今もひとつだ。

ここまで考えてくると、クリスマスは聖霊や神さまと心ひとつに厳かに過ごすべきなのかな、と思えてくる。

そして、それはさみしいことではないのだろう。

私は、ゆるゆるとだけど何年かACIMを学んできたつもりだけど、体感理解度は、この程度。

私が自身を赦し世の中を赦すレベルに応じて、世の中もちがって見えるのだろう。

今年の、私は、来たるクリスマスに身構えた、というおはなし。そして、おはなしはまだつづく。

レッスン78-奇跡がすべての不満と入れ替わりますように。

2016-12-12

レッスン78-奇跡がすべての不満と入れ替わりますように。

自分が下す決断はすべて、不満と奇跡のどちらかを選ぶ決断だということが、まだあなたには明らかではないかもしれない。」という文言からレッスン78は始まる。

どんな不満もその向こうにある奇跡を遮る。視点が不満にフォーカスされることによって、その向こうにある奇跡は見えなくなってしまう。奇跡の世界の住人となるためには、この不満のシールドを超えた見方を身につける必要がある。レッスン78はこのためのワークだ。

日常的に抱く不満がそんなに大ごとだとは、正直ACIMを学ぶまでは認識していなかった。ACIM一度目のワークをしている時「もう不満は言わない」という本を読み、やはり不満は止めようと決意したことがあった。この本では「ブレスレットを手にはめて、不平不満を言わないように21日間頑張ってみる」という実践を提唱していてブレスレットも買った。けど、21日間数える、というのが、できず、そのうちに忘れてしまっていた。

気づくと、奇跡か不満かの二者択一では、常に不満を選んでいる気がする。奇跡か不満かというより、心理状態によっては不満しかないという時さえある。

自分の不満はつい「正当」だと思いがちだけど、ACIMでは、幻想を見ているから不満が見えるのだという。その見方をを逆にして神なる真実を見るトレーニングをする。

ACIMの日常的な実践はこの自分の不満とどう関わるかということに、集約されるのかもしれない。もし、不満を抱かずにすべてを見通せる見方を身についていれば、学習はかなり進んでいると言えそうだ。それくらい「不満」というのは手ごわいものでもある。

日頃抱く不満の多くは、人が関わることだ。しかも大きな不満は近しい人に感じていることが多い。

レッスン78では不満の対象としてきた人をひとり選び、そうした不満を退けてその人を見てみる。

不満を抱く人は、嫌いな人とは限らず、「あなたが自分ではその人を愛していると思っているのに、そのあなたを怒らせた人」や「友人と読んではいるが、時には気むずかしく、扱いにくく思える人」なども例に挙げられている。

不満を抱く相手は、自分の救済者

その人は、私たちの救済者だと、ACIMは言う。

不満を持つその人の中に、神の子を見られるようになることによって、自分の内なる神を感じられるようになる。つまり、不満を抱く相手は、神の国に私たちを手を引いて導いてくれる、導き手その人だということだ。

ひとりの人を選び、まずはその人を今自分が感じているままに見る。欠点や厄介な状況や、自分に与えた傷とともにその人を見る。その後、そうした表面的なことを超えて、その人を見る。

そして、聖霊に対して次のように頼む。

この人の中にいる私の救済者を、私に見せてください。あなたはこの人を聖なる光へと導いてくれるよう私が頼むべき相手と定めました。私がその光の中にいるこの人とつながることができますように。」

そして、不満を超えたところにあるその人の中の光を、自分の心の中でみせてもらえるように求める。

ワーク、私の場合

私がワークの対象として選んだのは、結婚していた相手、元夫だ。彼とは若い頃短い結婚の後、20年経って偶然再会…。それから、また恋愛感情を抱くようになったが、いろいろあって会わなくなりもうすぐ2年になる。傷つけたし傷つけられもした。

会ってない今不満を持っているわけではないけど、こういうワークをするとなると思い出す。たぶん前回のワークの時も、彼を対象にしたのではなかったかな。過去の傷が疼く、というより、正直言って、まだ未練があるのだ。それはこの幻想の世のさらに幻想かもしれないけど。

彼を思い描きながら、「この人の中にいる私の救済者を、私に見せてください」と聖霊に頼むのは、最初はやはり抵抗がある。でも、それができたら、少しまたすっきりした。まだまだ完璧に「赦す」(感情を手放す)ことはできないかもしれないけど。

私が彼にざわつくのは、わかりにくい言い方かもしれないけど、彼に私の「罪」を投影して見ていて、その「罪悪感」が刺激されるからだと思う。

それは今世のことではないかもしれない。人間、この(仮初めの)ゲンジツの世では、ある時は男だったり、ある時は女だったりするという。そうやって何回も何回も輪廻をくりかえしているという(もちろんそれも幻想だけど)。

私、前世で男だった時、女の人に悪いことしたのかな?また女の時は、女の身ゆえに辛いことがあったのかな?仏教にも詳しいカルチャーの心理学講座の先生には「色情因縁」というのだと言われた。(これ、すごい字面だ)

うまく言えないけど、そういうことを思わせるイメージが自分の中にある。

不満を人に投影するのではなく自分に投影した場合は、病気など体に不具合が出るのかもしれない。

ものの見方の転換は頭では理解できる。人の話を聞いても、わりと客観的に判断できる。でも、こと自分のこととなると、つい感情に振り回されわけがわからなくなってしまう。

「21日間、不平不満を言わない」チャレンジも、もう一回トライしてみようかな。どうにか21日間数える工夫ができたら、できそうな気もしている。「不満を言わない、感じない」それはACIM実践の要だから、常に忘れないように、したい。

レッスン77-私には奇跡を受け取る資格がある。

2016-12-08

東京の冬の空

12月初旬の昼。空が青く澄んでいる。この空は冬の空だ。

高3の頃、初めて受験で冬の東京の空を見て、びっくりしたことを思い出した。私の故郷の北陸では、冬は雪が降るし晴れの日も、どんよりと薄グレーの空だった。

冬にこんなにお日さまが出て、ピカピカした光が届くなんて、なるほど「表日本」というわけだ。すごいな~、と思った記憶がある。

それから、東京は冬が最高、と思っている。

一方で、春が来る喜びはぼんやりとしている。北陸は冬に寒かった分、春の訪れとその気配が最高なのだ。東京の冬、北陸の春は日本の四季でもとくに好きだ。…気づいたら、窓から外を見て、とりとめないことを書いてた。

レッスン77-私には奇跡を受け取る資格がある。

さて、ようやく一昨日と昨日、久しぶりにワークをした。

レッスン77-私には奇跡を受け取る資格がある。

ACIMでいう「奇跡」とは、奇跡的なことが起った時に用いる、あのマジカルなパワーのようなものではない。幻想から目覚めた時おのずと現れる世界、ものの見方のようなもの。

と言っても、私自身わかったような、わからないようなで、奇跡を定義づけしたりできるほどには理解できてない。

わからないから、やっているのか。わからないのに、やっているのか。わからないけど、わかっているから、やっているのか。ようわからんが。

この長い方のワークでは、私には奇跡を受け取る資格があると、自信をもって自分自身に教えることから始める。…(中略)そして、

自分の要請は聞きいれられたという確信が訪れるのを静かに待つ

(中略)あなたは自分が求めている確信を受け取るであろう。

これを行うとき、あなたは実際には何を何を求めているわけでもない。否定しようのない事実を述べているだけである。

と心強い。

短いワークでは、「私には奇跡を受け取る資格がある」と頻繁に言い、この事実を思い出す。

あなたは自分に頼って奇跡を見つけようとしてはいないのだから、あなたがそれを求めるときにはいつでも充分にそれを受け取る資格がある。

と説明がある。この文言も「深い」と思う。

ただ 在ることに 自信をもて

一昨日のワークで、「私には奇跡を受け取る資格がある」と言い、要請が聞きいれられたという確信を待つ、その短い瞑想ワークをして感じたのは(このワークの本題と合っているのかずれているのかわからないけど)、

「自信をもて」ということだった。

何かしらから

「自信をもて」と言われた気がしたのだ。

~あなた(私のこと)は、パソコンに向かって猫背になって、いろんなものをはじいている。

自信をもて。

ただ(あなたが)在ることに 自信をもて。~

こう言われた気がした。

今の私の場合はそこから、なのかな?

ここまで書いて、ふと思い出したのは、昨晩のこと。

仕事でお世話になっている方とともに、元大手広告代理店の方々で作った会社の設立3周年パーティに伺った。同行した方以外は初対面で、皆さん、女性はキラキラして有能で美しく男性は立派なビジネスパーソンに見えた。気後れしてしまった。

もともと人見知り。世のトレンドも知らないし気のきいた話もできなくて、とにかく口角を微妙に上げて話される人に相槌をして…敵意のないことをアピールすることに専心してた。

その時「私って、だめだな。とても一般の会社とかではやってけない」と思ったのだった。

とくに、一人でいる時には、自信がないとも思ってないけど、人前では社会に迎合しがちになってしまう性質は子どもの頃から。

○○ができるから自信が持てる。○○がいいから自信が持てる。○○を持っているから自信が持てる。

私が持ってきた「自信」というのは、そういう社会的ツールみたいなものだったかもしれない、と改めて思う。

ああいう時、レッスン77を思い出し奇跡を求めればよかったのだ、とも、今思いついた。奇跡を求めることが習慣化したらいい。

ワークに合っているかどうかわからないけど、以上はレッスン77を巡って、思った雑感。

ただ自分が在ることに常に自信をもてるようになったら、それはすごいなぁ、とも思う。

レッスン76-私は、ただ神の法則のもとにある。

2016-12-05

レッスン76-私は、ただ神の法則のもとにある。

レッスン76は11月の終わり、母が東京に来る前にやっていた。

読み返すと、このワークもまた難しかったことを思い出した。

というのは、主題概念は「私は、ただ神の法則のもとにある。」だけど、私たちは産まれてからずっと、「神以外の法則」を学んできたように思うから。

ACIMワークブックの中でもレッスン76の説明は圧巻だと思う。

あなたは、山積みにした紙切れの束と大量の円形の金属がない限り餓死してしまうと、本気で思っている。小さな粒状の固体や、鋭い針で血管に注ぎ込まれる液体が、病気や死を寄せつけずにいられると、本気で思っている。別の肉体があなたの傍にいない限り、自分は孤独だと、本気で思っている。

このようなことを考えるのは狂気である。

いやいや、ほとんどの人はこう考えている。お金のテーマ、健康のテーマ、愛のテーマは私たちの3大関心事と言えるかもしれない。それが狂気であって、私たちの人生に影響力を持たない、とは、ACIMのワークであってもなかなかすんなりとは納得しづらい。

レッスン76のワークでは、「これまで私たちが従わなければならないと信じてきたさまざまな種類の『法則』をさっと振り返る」ことから始まる。

それはたとえば、栄養や免疫や医学の『法則』、そして肉体を保護するための数限りない方法についての『法則』が含まれるだろう。さらに考えてみなさい。あなたは友情の『法則』や、「よい」人間関係と互恵の『法則』も信じている。…

たしかに…

50も半ばとなると今や友だちとの話は健康話やエイジングケアが中心だ。どんなサプリ飲んでいるのか、とか、このメーカーのオイルがいい、とか。あるいは週に何回ジムに行ってどんな運動をしているかなどなど。

もちろん、これらに効果があると思って、それを期待してやっている。

青魚を食べる、動物性の油脂を控える、甘いものを食べ過ぎない、1日8,000歩は歩くべき。温活して体を冷やさない…

健康のことだけでもたくさんあって、、、

でも、、これらはまったく無意味なんだろうか。それとも私のACIMの理解の仕方がまちがっている?

肉体の苦しみは心がかぶる仮面?

私は、ただ神の法則のもとにある。

こう唱えると、やはり心がざわざわしてしまう。

このワークの説明では、こうも言っている。

肉体が苦しむ理由はただ1つ、心が心自体の犠牲になっていることを心に気づかせないためである。肉体の苦しみは、真に苦しんでいるものは何なのかを隠すために心がかぶる仮面である。心は自分が自分の的であることや、自分で自分を攻撃していて、自分が死にたいと思っていることを理解したくない。この事実から逃れるためのものである肉体を救おうとしているのが、あなたの「法則」である。…」

この説明も、すごい。とくに一行目。「肉体が苦しむ理由はただ1つ、心が心自体の犠牲になっていることを心に気づかせないためである。

こんなことはなかなか言えない。でも、もしそうであれば、私たちはまったく苦しむ必要はない。ACIMの教えどおりに、見方を変え、罪悪感を手放し赦しさえすれば、おのずと欠くことない世界、神の世界に住むことができる。

もちろん、その見方を変えるというのが、そうはたやすくないのだけど…

ワークから感じたこと

私がこのワークをやって感じたこと(聖霊さんからのアドバイス?)は、このワークのテーマに直接関係なさそうだけど、2つあった。

1つは「感情を向けるベクトル(矢印)の方向がまちがっている」ということだった。その矢印には2つあって、

1つは、もつ感情の中身の方向性…ネガティブな方向ではなく、赦し感謝しを、ということかな。

もう1つは、感情を向ける先(対象)。

つい仕事などで、たまにだけど、クライアントさんの欲求に対応するかたちで末端の私に理不尽なことが求められている、と感じることがあり、直接かかわる人に一瞬ネガティブな感情を抱いてしまうことがある。けど、それはまちがっている。ただただ、この状況をくれた聖霊に感謝あるのみ、と。

そのようなことを言われた気がした。そう、いろんな状況によく「困った」と思うけど、それは赦すべきことか、感謝すべきことしかない。巻き込まれてネガティブになるのは的外れだ。

それともう一つ。私は「自分で判断してはならない」という「服従」を刷り込まれている、と言われた気がした。

私に今与えられている選択はせいぜい「反応」なのだと。

その「法」=呪縛も解くべき。こう告げられた気がした。

これらが聖霊からのメッセージなのか、たんに私の直感的なものなのか、その辺りもまだ(勉強して何年も経つけど)、私にはよくわからない。

けど、こうした感じたことは実際役に立つことが多いからメモを残している。

今月、どれだけ進められるかわからないけど、また、次のレッスン77からリスタートしたい。

『コンビニ人間』

2016-12-04

でろりんとした週末

母が帰り、金曜の夜、仕事の納品を何とか終えて、でろりんと気が抜けていた。後で気がついたけど、新しいパンプスで長い距離歩いたためか、腰痛になっていたみたいだ。

なんか動けてないな~とごろごろしていたけど、よくよくわが身を振り返ってみたら、腰と右足に圧迫されたような鈍痛があった。身体の歪んみが原因なのか、痛みは一枚皮の身体のあちこちに動いていく。

母に整体院を紹介して治療を受けさせたけど、整体院に行って体を整えるべきは、私の方かもしれない。

やっと土曜の夕方少し動けそうと思い、外に出て、ブックオフに行って、本を買った。

『コンビニ人間』。第155回芥川賞の本らしい。

文芸作品には疎いけど、先月『アメトーーク』の「読書芸人」の回で紹介されていて、又吉、若林、光浦さんの3人がお勧め本として挙げていた。まったりを過ごしたい晩秋の週末(もう冬?)に読むのはいいんじゃないか、と思ったのだ。

『コンビニ人間』を読んだ

主人公古倉恵子は大学1年の18歳の頃から、ずーっと18年間同じコンビニでバイトをしている30代半ばの独身女性。子どもの頃からいわゆる「空気が読めない子」というか、もっと「変わった子」で、両親をハラハラさせている。

幼稚園の頃、公園で死んでいた小鳥を「焼き鳥にして食べよう」と言って、周りの目を気にした母親に強引にお墓を作って埋められ花を供えられた。その時の心情描写が、おもしろい。

「皆口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。『綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ』などと言っている光景が頭がおかしいように見えた」とある。こんなんじゃ、周りはやっぱり困ったかもしれない。

こうした類のことが何度もあって、親が学校に呼び出され、カウンセリングを受けさせられたりした。親を心配させまいとした主人公は、周りの人としゃべることを止めてしまった。

それはそれで人とまったく接しないわけだから、親を心配させることとなり、自分を「治さねば」と思っていた恵子が18歳で初めてバイトを試みた先が、コンビニ。

コンビニには、挨拶の仕方から身だしなみ、仕事の段取りなど数多くの細かいマニュアルがある。そのとおりにふるまうことによって、初めて「普通」の人間になれた、周りにおかしく思われずに済んだと感じる主人公。その後、その生き方を18年も続ける。お話は彼女が勤務しているコンビニを舞台に進んでいく。

狩りができる男と、男の子どもを産める女!?

私が反応したのは、お話の本筋とはずれるのかもしれないけど、コンビニの店長の「人間はさー、仕事か、家庭か、どちらかで社会に属するのが義務なんだよ」という言葉だ。

また35歳のダメ新人店員の白羽さんの「若くて可愛い村一番の娘は、力が強くて狩りが上手い男のものになっていく。強い遺伝子が残っていって、残り物は残り物同士で慰め合う道しか残されていない。現代社会なんてものは幻想で、僕たちは縄文時代と大して変わらない世界に生きているんだ。」というセリフ。

現代社会とは言いながら所詮は縄文時代のムラと同じ。狩りができる男とその男の子どもが産める女だけに価値があり、それ以外はムラのお荷物、という考えに、そっか~、確かに表面的には口に出さなくても、そういうのが本音での社会通念なのかもしれない、と感じた。

もちろん賛成しているわけではないしそれが正しいと思っているわけでもないけど、いろんなものを取っ払った根っこの社会通念はそうかもしれない。稼ぐか、繁殖するか…究極はムラの存続と繁栄なのだから。。。

結婚していれば、それに対して貢献意欲があると見なされ、まぁ子どもがいなくても「可」にはなる。年老いて貢献できなくとも子どもを育てた「実績」があれば「可」。小池都知事みたく女性で結婚もしておらず子どももいなくても、あれだけの仕事をして社会的立場があれば、それも「可」、というか「優」か…。

そうやっていくと、私は…。

このモノサシに自分を当てはめていわけではないけど…。

ダメ店員、白羽氏はまた主人公に対して、こうも言っている。

「古倉さんも、もう少し自覚したほうがいいですよ。あんたなんて、はっきりいって底辺中の底辺で、もう子宮だって老化しているだろうし、性欲処理に使えるような風貌でもなく、かといって男並みに稼いでいるわけでもなく、それどころか社員でもない、アルバイト。はっきりいて、ムラからしたらお荷物でしかない、人間の屑ですよ」

この言葉が私をある種「正気」にさせた。本の中で36歳の主人公がそうなら50半ばの私はもっともっとそう?しかも、毎日きちんと職場に通っている恵子はえらい。私には職場すらない。私が、「フリーランス」といいつつ、専門性もなく隙間家具のように社会にいられたのは、いくつか幸運もあって経済的に困窮しつつもかろうじて最終的な破たんをしなかったからだけ。それは正直、奇跡だ、と思えたのだ。

この世のゲンジツの社会通念とACIMの世界観とはまったくちがう。そして、ACIMの世界観から見た自分とこの世のゲンジツの社会通念から見た自分もまったくちがって見える。

私は人との交流も極めて少なくて人目を気にするということもなかったけど、『コンビニ人間』を読んで、一般社会通念から見た自分のポジションを教えられた気がした。こんなことは誰もわざわざ教えてくれない。無自覚で、まったり本でも読もうかと思ったけど、まったりするどころか目覚めさせられたのだった。

「免罪符」としてACIMを必要としたのか

そして、ACIMの世界観が必要だったのは、こうしたゲンジツからの逃避の意味もあったのかもしれない、と思った。この世が幻想ならば、「真っ当」であろうとそうでなかろうと、「可」だろうが「不可」だろうが、意味はないのだから。

本当のところは、どう世界を捉えていいのかわからない。

母が来るしばらく前から、またACIMから離れてしまっていて、少し離れると自分がいる世界と自分の立ち位置がわからなくなってしまう。

ACIMはこの世のゲンジツのムラのルールから外れてしまっている私の、「免罪符」のようなものなんだろうか。

そうしてはいけない、とも思う。

単なる「免罪符」だったら、3年以上もコツコツやらなかったのでは?でも最近はやれてないじゃない?。。。

などと、心の声がぐるぐるする。

ただ、結婚もせず勤めもせず、生きてこられたこと自体が「奇跡」のように思うのも本当だ。ダメ、あるいは社会的に屑だとしても、それを今さら容易に修正できるとも思えない。

なので、この「奇跡」をもうしばらく様子見しようかと思っている。