ACIMレッスン191-私は神ご自身の聖なる子である。

2018-05-25

半年に一度の通院へ

一昨日は、半年に一度の通院の日だった。

4年前手術を勧められた腫瘍の大きさは変化なし。また半年後検査となった。

正直ほっとした。

一方で血液検査が「ある病気の可能性あり」と引っかかり、その結果を郵送で知らせてもらえることになった。

住まいも人生も仕切り直したいと思っている今、病気になるスペースはないはずなんだけどな。

ACIMを学んできて、病は自分の罪悪感や恐怖心の投影で、本来なら必要ないものだと学んだ。

直前のレッスン190にも、

あなたに苦痛を引き起こすのは、あなたの想念だけである。」(L190-5-1)

この世界には、あなたを病気にしたり、悲しませたり、か弱く、脆いものにするだけの力をもつものは存在しない。」(L190-5-5)

とある。

私は、自分に病を課す必要はないんだ、と改めて思う。

転居届提出、引っ越し日決まる

引っ越しプロジェクトのほうでは、6月15日と引っ越し日が決まった。引っ越し業者さんに見積もりに来てもらい、近場のわりには若干高めかなと思ったが、まぁいいかと決めた。

現区役所への転出届と、新区役所への転入届を済ました(登記の関係で、転入届は引っ越し前に出すらしい)。たいしたことはしていないのに要領が悪く時間ばかりかかっている。

レッスン191-私は神ご自身の聖なる子である。

レッスン191は、自らのアイデンティティを高らかに宣言するワークだ。

私は神ご自身の聖なる子である!

これが認められさえすれば、私たちは救われ幸福である。しかし、このアイデンティティを拒否するなら、この世は魑魅魍魎の世界となる。

最近はテレビで、加計学園の獣医学部新設時の総理の関与問題や、レスリングのパワハラ問題、日大アメフト部員の悪質タックル問題などが、話題となっている。

上の人に忠実に従うのが徳とする文化がずっとあり、それがパワハラや忖度を容認してきたようにと思う。どれも形は違うけれど似たような構図に見える。この世で地位があがると、いつしか擬似神エゴを崇めその手下になってしまう危険がある。

ある種社会のダーティな部分を受け入れてこそ社会で「一人前」「大人」とされてきた。私の若い頃も「セクハラも仕事の内」と言われていた時代があった。今から思えば、なんじゃそれ、だが。

私が見ている世界は、やっぱり魑魅魍魎だな。

でも、昔は隠せたことが今は表面化しやすくなっている。私のカルチャー講座の先生は「浄化の時代なのよ」とおっしゃるけど、実際、そうなのかもしれない。

アイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム?

だがこれは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外の何だろうか。」(L191-4-1)

この文がしゃれていると思う。

ACIMを少しずつだけど時間をかけて学んでいくと、一見荒唐無稽なこの教えがほんとうに真実だと感じられてくる。

実際、この世の中はACIMの言うようなしくみで動いているのだ。

あなたにはこの世界を残酷に用いる必要はなく、だから世界の中にこの残酷な必要性を知覚する必要もない。」(L191-6-3)とは、心強い。

あなたは虚しい希望と荒廃した夢を抱き、涙を流し、痛みに苦しみ、ただ死ぬだけのために生まれ、自分をひ弱で壊れやすいものと知覚しているが、よく聞きなさい。あなたには地においても天においてもすべての力が与えられている。」(L191-9-1)

この「よく聞きなさい」がけっこう好き。直接導いてもらえている気がする。

ついていこうと思う。

感じたことは、

心を曇らすな」ということ。

…→「(欲で)心を曇らすな」

…→「(小欲で)心を曇らすな」

うーむ。

私は神ご自身の聖なる子である。

ダイニングテーブルの「第二の人生」と、あるうらやましさ

2018-05-22

ジモティでテーブル売る

先週末、地元の掲示板ジモティーで売れたダイニングテーブル、買主さんが引き取りに来られた。

ダイニングテーブルといっても、一度も食事に使ったことはない、もっぱら応接用(といってもお客もめったにないが)。なので、10年以上使っていたわりにはきれい。1,200円也。

どんな方が買主さんなのか、男性なのか女性なのか…、テーブルという大きなものだから、自宅に買主さんを招き入れねばならず、キンチョーした。

フタを開けてみたら、買主さんは女性で、だんな様が運転する車で来られた。商品を確認してもらい、分解して無事納品。聞けば、隣県千葉県からお越しになったとのこと。ちょっとした休日のドライブだったかもしれない。

真ん中にあったダイニングテーブルがなくなって、部屋は急にがらんと広くなった気がした。

取引後の評価欄に、「無事組み立てました。快適に使用しています。」とあって、ほっとした。

生まれた子猫でも引き取ってもらった気分だ。

業者さんに引き取ってもらうのもアリだけど、顔の見える方にもらってもらうと、テーブルの「第2の人生」が見える。

いい家族の一員になれて、よかったな。

夫に使役動詞を使う妻族に羨望

ジモティでの取引は二回目。前は、私が購入者側だったが、車で商品を届けていただいた。

その二度とも、私との会話で投稿者の女性が「夫にやらせます」「夫に運ばせますね」とだんな様に使役動詞を使っていた。

それを聞いて、いいなぁ(うらやましい)と思った。仕事は別として、プライベートでそういう言葉をさらっと使えるのは、やっぱり身内だよな~。

その夫はいそいそと妻の言うとおりに動いている。

週末に夫婦で、中古家具を取りに来るなんて、仲いい証拠だ。

「私はこのテーブル、一人で組み立ててひっくり返すの結構手間取ったなぁ」などと買った当時を思い出し、いつもは一人が気楽、と思っているけど、使役形で男性を使う妻という女族がうらやましくなってしまった。

かといって、それを受けて、どうしたいは、ないんだけど。

ひとつ、ジモティを使って取引を完結できた、ということが、ささやかな出来事ではあるけれど、小さな自信になった。

西城秀樹さん逝く…かー昭和がまた遠くなった

2018-05-20

昭和の大アイドルだった西城秀樹

16日西城秀樹さん逝く、というニュースが駆け巡った。

言うまでもない、昭和のアイドルであり大スターだ。63歳だったという。

テレビでは西城さんの若かりし映像をたくさん流していた。

アニメ『ちびまる子ちゃん』のなかではまる子のお姉ちゃんがヒデキのファンだが、私はちょうどお姉ちゃんと同世代。

今よりずっと歌番組が多かったし、アイドルは今より距離が遠い憧れの存在だった。田舎の中学でも、女子の間ではいつも、ひろみ、ヒデキ、ゴローの「新御三家」の話で盛り上がっていた。

中でも西城さんは、情熱と活力に溢れ、ほんとうにパワフルだった。映像を見ながら遠い昔のことなのに、ふっとこの前のことのように思い出した。

西城さんはここ10年位は病気とそれに立ち向かう姿が取り上げられていた。

昭和がまた遠くなったー年取ったんだ、私。

この世で変化は必然だ。

姿かたちあるもので変わらないものはない。

古いものが去って、新しいものが現れる。

新しいものが現れ、古いものはやがて去る。

そして、それらすべては、そもそも幻想だ。

そうなんだけど。

この幻想の昭和の時代に育った身としては、やっぱり寂しい気持ちになる。昭和がまた遠くなった。

自分がいる世の中がどんどん馴染み薄いものになっていく感覚。

新しく現れるものに付いていかなきゃならないけど、付いていけず置いていかれる感。

未来に夢を実現しよう、というフレーズに、首筋がすっとする。

高齢の方は、私以上にそういった感覚を感じているのかもしれない。

一言でいうと、年取ったんだな。

子どもがいない私は、自分の子どもを通して未来を見るという経験がない分、過去に引きずられているのか。

今週は、『サンデーモーニング』の締めのコメンテーターをなさっていた岸井成格(しげただ)さんや、浅丘雪路さんの訃報も入り、ジブリ映画の監督、高畑勲さんの「お別れの会」のニュースもやっていた。偉大で影響力があった方々だ。

年上の方がいてくれて活躍してくれることで、心強い気がしていた。

寂しさは未熟さか

別れに寂しさを感じる。これも、神との分離という誤解を、この世に見ているのだろう。

私がもっとACIMを身につけることができたら、寂しさという感情も減るのかな。

この世の、それぞれの人も、神の子を分離したものとして見ているものだ。

それでも、この世のひとりひとり、個性と思えるものが、私は好きだ。その人と、その人生と思える、その織り成していくように見えるものに惹かれる。

私は私という幻想を通してこの世を見ているのだから、それもあたりまえかな。

書いているうちに、何書いているのかわからなくなってきた。

秀樹が死んでしまった、そういう世界に生きてる。みんな死んでいくんだな。

死は幻想だ。だけど幻想の中ではいずれ、みんな肉体を離れる。

人生はその一過性のもの。そうしたなかで、「私」をどう生きるかな。

“世界一美しいスタバ”と、よろこぶ母によろこぶ私

2018-05-17

母と半日旅行

富山の実家で必要な手続きを終えて、東京に戻る日に母と出かけた。

行き先は、県庁所在地の富山市。所要時間4時間ほどだが、気分は旅行だった。

向かったのは、富山環水公園。美術館は休館日で、公園脇のイタリアンの店でピザのランチを食べ、“世界一美しいスタバ”とも言われる、スターバックス富山環水公園店でお茶をして帰ってきた。

母はなぜかスタバが大のお気に入りだ。「スターバックス」という名前が覚えられず、「スフィンクスみたいな女の人のマークの店」と言って、東京に来た時も行きたがる。

代官山のスタバでの母

前に母が上京したときは、代官山のスターバックスに寄った。店内がひどく混み注文にも長い列ができていたが、母は待っても飲みたいと言い、私が注文するのを柱の傍で待っていた。

15分位待たせただろうか。ようやく私がトレーにコーヒーを乗せて戻り母を探したら、若い人が大勢行きかうなかで、肩を小さくして不安げに立っていた。

私にとっては、怪獣より怖かったモーレツ母が、その瞬間愛しすぎて悲しくなった。

私は年を食っても大人になりきれず、いつまでも甘えているが、母はもういたわるべきお年寄りだ。その認知のギャップが、頭ではわかっているつもりなのに、未だに埋められない。

ダークモカフラペチーノに母よろこぶ

この日は富山も暑かった。「ハイカラなもん、わからんから、何でもいい」と注文を頼まれたけれど、わからないのは私も同じ。私はスタバでも「ホットコーヒー」しか頼んだこと、ないんだ。

でも、ここは、頑張っておしゃれで冷たくておいしそうなやつ、と思い、ダークモカチップフラペチーノと今年の新作チョコレートベリーマッチフラペチーノを頼んだ。母はダークモカチップフラペチーノをチョイス(写真:母は若い頃から髪が薄く、ずっと黒髪の鬘をかぶっている)。

おいしい…

と、母は大喜び。

私もフラペチーノって、こんなにおいしかったんだ、と遅ればせながら認めた。

池に面したテラス席には、外人の男性グループの方がサングラスをしておしゃべりしていて、絵になるな~と思った。

“世界一美しい”とのうわさに期待が膨らみ過ぎて、美しさは「そ~でもないかな」と感じた。

けど、母がおいしい、来てよかったと言っていたのが、うれしくて、私にとっては、“世界一ハッピーなスタバ”だったかな、と思う。

筋金入りのマザコン!?

今回の帰省には、図書館の予約本の順番がちょうど来て、オードリーの若林著のエッセイ表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬を携えてきた。

若林さんが、本の中で自身のことを、"筋金入りのファザコン”だったと告白していた。それが新鮮だった。

そして、はたっと気づいた。

私、もしかして筋金入りのマザコン!?

「マザコン」「ファザコン」という言葉は異性の親に使うのがポピュラーで意識していなかったけど、私が母に持つ少しねじれた複雑な感情こそ、コンプレックスにちがいない。

それは、ACIMでは「特別の関係」と呼ばれるものだ。いずれこの関係からは卒業しなければならない。

だけど、うれしそうだった母とスタバからの水辺の風景は、やっぱりしばし心の宝物にしておきたいと思う。

ACIMレッスン190-私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

2018-05-14

「母の日」に帰省した

北陸新幹線に乗って、きのう、実家に帰省した。マンション共有者である母の書類を市役所で取ったり、必要な書類にサインをしてもらったりといった手続きのためだ。

母は「母の日」に娘がやってきたことに喜んでいた。

手土産はカーネーションの替わりの蘭。

母曰く、葉っぱが左右対称なのが趣に欠ける、と。

実家の居間では、亡き父が微笑んでいた。

親というのは、つくづくありがたいものだ。

遅ればせながら、そう思える人生になって、よかった…。

親を憎んだまんまでは辛いから。

負のリアリティをそのまんま引きずってその見方で世の中を見続けても、いいことはない。

ただ自分のなかの自己像を鏡に映しているのだとは、なかなか気づかない。

実際このゲンジツ下では親の影響力と存在感は絶大で、今回の帰省でも朝から夜までずーっと話かけてくる母に、ACIMの教えはぶっとんでしまう。

とても、これが幻想だとは思えない。

深夜になってACIMをようやく思い出す。

家族と暮らしながら、ACIMのワークを続けるのは、本当にむずかしそうだ。私などはひとり暮らしだからやってたんだと思う。

レッスン190-私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

レッスン190は、好きなワークだ。

わかりやすいし、私には沁みる。

私はずっと無意識のうちに「(私なんぞは)幸せになってはいけない」と思っていたようだ。苦痛こそが自分にふさわしいものと思い込み、そのうえで、来たるべき苦痛にひどく怯えていた。

それを、レッスン190は「苦痛とは、間違った見方である。」(W190-1-1)と、一蹴してくれている。

その言葉にほどけていく私がいる。私は物心ついたころから、苦痛に対して防衛して身を固くしてきたのだった。

苦痛とは、神の子が自分が何であるかについて誤解していることを証言するものにほかならない。」(W190-2-3)

苦痛が実在するという考えには、「このような愚かしさに平安あれ!」(W190-4-1)

そうなのか。

そうなんだ。

そうなんだ!

よかった…

苦痛は間違った見方だと、このワークは言葉を変えて、何度も繰り返してくれる。

もし苦痛を感じているとしたら、それを引き起こしているのは、私の考えだけだ。

この世界には、あなたを病気にしたり、悲しませたり、か弱く、脆いものにするだけの力をもつものは存在しない。それどころか、自分の本性をただ認識するだけで自分が見ている一切を支配できる力をもっているのは、あなた自身である。」(W190-5-5,6)

これは私には救いの言葉だ。

私はこれを信じる。

そして、喜んで、苦痛のかわりに、神の喜びを選択する。

私が今、見ているこのゲンジツは結果の世界なんだ。

そこには、幻想を別の幻想に変える以外の力はない。

「神あり」とこの世で体現できる人になりたい。

最近感じるのは、恐怖心より罪悪感のほうが「やっかい」、ということだ。

恐怖心はわかりやすく手放そうと意識化しやすいけれど、罪悪感は気づきにくいし、それを手放すことにまた罪悪感を感じてしまうから。

人によってちがうのかな。

実家では、考えがまとまらずブログを書くのがむずかしい。

母のパソコンに、慣れないせいもあるかな。

母は会うたびに腰がまがっている。切ない。愛おしい。一方で、心のなかで「和解」し感謝できていること、いまここに居てくれること、それがなによりありがたい。

これはACIMの考えに依った感情かどうかわからない。

ACIMレッスン189-私は今、自分の中に神の愛を感じる。

2018-05-11

新しい町が気に入っている

おかげさまで、ようやく意識が「マンション売却」から「引っ越し」に移ってきて、引っ越しが実感できるようになってきた。

住まいを駅で選んだわけではないけれど、内見やらなんやらで行くにつれ、町に親しみが増してきている。商店街には八百屋さんや靴屋さんなど昭和の面影が残る店があって、ほっこりする。

今は「この町が好きだ」と思う。

この年になって、また心機一転の気分。あるいは、長い滞在型の旅をするかのようだ。

この世が幻想であっても、環境の影響って大きいと思う。

この世がすべて結果なら、私という原因がどこか変化したから、私が見る環境が変わったということだろうか。

体は、ぎっくり腰はよくなったけど、昨日からまだ膀胱炎っぽい。

こちらの幻想はこじらせる前にさっさと手放したいが。

レッスン189-私は今、自分の中に神の愛を感じる。

レッスン189は、「あなたの中には、世界が知覚できない光がある。この光を、あなたはこの世界の目で見ることはない。あなたは世界によって目が見えなくなっているからである。」(L189-1-1)から始まる。

この世界が知覚できない、内なる光とは、内なる神の愛の反映である。

この神の愛に意識を集中してこれを認めることが、この今回のワークのお題だ。

私たちが内なる神の愛を認めて感じるなら、その反映としての世界というスクリーンには、無垢性と祝福を見ることになる。

今、私の目に映る世界には恐れと怒りが渦巻いている。

これは、私の見方がエゴを通したもので間違っていると示す証拠だということだ。

見方の二者択一

見方は二つに一つ。神の愛を認めるか、否か。神の愛か、罪&恐怖か。どちかかが幻想でどちらかが実在する。

そのどちらもが在るということはありえない。

私はどちらを選ぶのか。

それは「『人は自らの内に感じているものを見ることになる』という知覚の法則(L189-5-2)」に従っている。

だから、

今日、私たちは幻想を通り越して、幻想を通り越し、自らの内にある真実なるものに到達しようと努める。」(L189-6-1)

そして、

愛と愛からのギフトである光を感じる視覚を感じることを試みる。

そのためには、既存のすべての概念を取り去って、心を空にする。

ワークで取り去るべき概念の中には、「この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手をまったく空にして、あなたの神のもとに来なさい。」(L189-7-5)とACIMでさえ忘れ、まっさらな心でいることが強調されている。

そして、ただ神に来てもらうことだけを願う。

神に至る道はただ神を神のままに在らせることである。」(L189-8-7)

「問題」「困りごと」はエゴのエネルギー源だから、今は忘れる

おそらくエゴが幻想であるエゴを保つには、エネルギーを与え続けることが必要だ。それが、私たちがこの世で目にする「問題」だ。

問題はこのレベルでは確かに解決すべきことだけど、この世界は結果にすぎないとしたら、その原因のほうを解決することが合理的だ。

その原因は、私(たち)の心の中の神の不在だ。神と私たちは切っても切り離せない。ただ神を認識すること。

そのために心の中のあれやこれや、とくに自分がもっとも問題だと感じていることを脇に置くこと。

神にお願いごとをしたり問題解決を願うのは、神を自分(エゴ)の望みで変形させようという試みだ。

そうではなく、それらを一時心から出して、ただ心を空にすること。

それが神を感じられるスペースを作ることであり、神に近づくことだ。

呼吸をするくらいに無意識にできたら…

ACIMブログを書いている時は、もちろん覚えているけれど、こういうことは渦中に入るとすぐわからなくなってしまう。

だから、くりかえしが必要なんだな、と思う。

前よりも、神さまが怖くなくなった。神の愛を素直に感じられるようになったと思う。

歯磨きくらい、呼吸をすることくらい、神の愛を感じることが習慣化されたら、この世界もまた違って見えるだろうなと思う。

『サラバ!』ー感動はしなかったけれど、問いかけてくる

2018-05-07

GW中『サラバ!』を読んだ

GWは美術館に行ったり、Webサイトデザインの講習を受けたり、マンション成約のおかげで緊張感が解け、気力、体力を回復することができた。

3年前の「アメトーーク」の「読書芸人」の回で、オードリー若林が絶賛していた西加奈子著『サラバ!』が読んでみたくなった。図書館に文庫化された本を予約していたら、何ヶ月か待ってGW直前に順番が来た。

上・中・下の3冊(単行本では上下2冊)に分かれた長編小説だ。描写が細かくて物語に入り込みやすく、上・中・下と一気に読んだ(中までは予約してあったけど、下は単行本の方で読んだ)。

主人公の歩(あゆむ)が生まれてから37歳になるまでを描く。過剰な自己承認欲求を持って常にトラブルを起こす姉と、母であることより女としての幸せを優先する母、静かに家族に尽くす父との4人家族を中心に話が進む。

上巻では、イラン、関西、エジプトと父親の赴任先が変わるが、子どもの目を通してみた世界がおもしろく、話に大きな展開がなくとも十分楽しめた。

うまく世渡りしてきた主人公の転落と再生

話が一気に転換するのは、下巻だ。これまで、イケメンで器用で何でもそこそここなし、学校でも常に「人気者の友人」というポジションを得て、「うまく」世間を渡っていた歩だが、頭髪が薄くなり出してから旗色が変わってきた。

強烈に主張しすぎる姉が世間で失敗ばかりしているのを反面教師として、自分は合格レベルをクリアしながらやってきたはずだった。それなのに「剥げ」という「マイナス点」を得てから、一気に自信を失い、フリーランスのライター業にも行き詰ってしまう。

一方で、歩から見てダメだったはずの、姉や母はもがきながらも自分なりの幸せを築いていく。

両親が離婚し家族がバラバラになった背景には、父が過去から引きずっていた罪悪感があった。父は償いとして出家した。

歩は、姉のアドバイスで、出家した父に会って過去の話を聞く。そして、幼少期を過ごしたエジプトに行き、そこで「サラバ!」を合言葉にしていた真の友ヤコブと再開し、小説を書くという自分の使命を見つけて再生していくーという話(自分なりの解釈)。

「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ」

歩が再生するきっかけとなったのは、ずっと馬鹿にしていたはずの姉の「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」というアドバイスだ。これが、このお話のキーフレーズなのだと思う。

この本が気になっていたのは、どちらかと言えばクールに見えた若林さんが、「10代のクズを救う小説はよくあるけど、30代のクズを救えるのもう西さんだけですよ、日本で」「(30代のクズが)ボロボロ泣くんじゃないですかね」「私、泣きましたから」と言っていたからだ。

最後にどんな感動が待っているんだ、どこからか、どこだ、どこだ、と思っているうち、終わってしまった…

あれ、感動ポイントって、どこだったんだろう?

すごくおもしろかったし、こんな長いストーリーを組み立てて臨場感あふれる描写で書くなんて、すごい!

歩が自分の心に従って再び歩み出す姿に、よかったと思った。でも、感動したり、泣く、というのはなかった。

私が感動しなかった理由は?

私が感動しなかったのは、なんでかな?と考えた。

それは、今の私が主人公の歩より社会的に「クズ」だからだと思う。

その上、それに対して歩ほどの焦燥感や後ろめたさは持っていないから。

30歳代半ばの男、無職。性格もいいとは言えなそうだけど、まぁ、いいじゃん。

人のことを言えた立場じゃないのだ、私。

私にも、もちろん、後ろめたさや情けなさはある。世間の常識も知ってはいるつもり。

だけど、それでも、まあ、いいじゃない、と。

歩の奈落の底から再生までの気持ちに共鳴はできなかった。

この、まあ、いいじゃない、は、ACIMワークのおかげで私の内なる罪悪感が前より軽くなっているからなのかな?(社会的にはどんどんダメになっていて、それに対する葛藤もあるにはあるけど)

そして、歩には信じるものがなくそれを求めてエジプトに発ったけど、私にはACIMという信じるものがある、というのが、「ちがい」なのだろうか?

ACIMが信じるものだとしても、その姿勢ってゆるいよなぁ

それにしても、私のACIMへの姿勢はゆるい。歩の父親が出家して業に励むような熱はない。あるいは、歩の姉が毎日ヨガに励むような習慣化もない。

ACIMは私にとって趣味のひとつなのか。ふぁ…。

「僕の神様は、サラバだ。

これ以上ふさわしい言葉が、あるだろうか。

僕は生きている。僕は信じている。

僕は神様に出会い、出会った瞬間、別れを告げることが出来るのだ。

…(中略)…

『サラバ!』

僕たちは、「サラバ!」と共に、生きてゆく。」(『サラバ!』下巻62より)

「サラバ!」って何かな?

どういう意味があるのかな?

サラバ!-で、どうなんだ?

「さらば」は順接の仮定表現だ。「そうならば?」と問いかけてくる。

では、

私の「サラバ!」って―??

 

信じるものがあるなら、旗を揚げねば…ってことかな?

もっと思うところを表現するってこと?

「God is(神あり)」を私はどれくらい大切にできるかな?

それならば?

それならば?

それならば!?

なんなんだ?

ACIMレッスン188-神の平安は今、私の中に輝いている。

2018-05-02

引っ越しはまさに断捨離のため?

家にある荷物を見ながら、「やっぱり断捨離しなきゃダメだな~」と思っている。

新居は押入れ一つ分の収納が減るし、本棚の置き場所も減るから、使わないものは捨てなきゃ。

「断捨離」って友だちがよく使うけど、「ものを捨てる」ってこと?ようわからん、と思っていたけど、

ネットでちらと見たら

  • 」=入ってくる不要なモノを断つ
  • 」=不要なモノを捨てる
  • 」=モノへの執着から離れる

という意味があるとか。

「例えば、モノが増えてきたから捨てればいい、ではなくて、自分にとって『本当に必要なものを見つめ直そうとするのが断捨離です。」とある。

それならば…!

私が、引っ越しすることになったのは、実際のところ断捨離したいからかも。

モノのだけじゃなくて、自分の在り方の。

自分という存在の“ぜい肉”を落とし、幹をしっかりと太く堅くしたい。今回初めて自宅に増えたものに気づいたように、引っ越しは手っ取り早くいろんなものを見直すきっかけになる。

メルカリ初出品

この前は初めて「メルカリ」に挑戦した。購入後返品しそびれていたウォーキングシューズを売った。

写真を撮ってちょこっと説明書いて、出品ボタンを押すだけだったけど、初めてのことってやはり気合いが要った。

むかしむかし若かりし頃、「おばさん」って、新しいものを使いこなせず、なんてとろくさいのだろう、と思っていたけど、自分が成長して、まさに、その生物になろうとは…(^_^;)

「メルカリ」では質問を受けただけじゃなく値引き交渉を受けたことも新鮮だった。まだわかっていない暗黙のルールもありそうだ。でも、初めて「ネットを通して売る」体験は、ほんのちょっぴり自信にもなった。

占いの本とかも、ブックオフに持ってくんじゃなくてメルカリに出品してみようかな。

レッスン188-神の平安は今、私の中に輝いている。

レッスン188でも、言葉を変えながら、神と自分がひとつであることを説いている。

悟りとは認識にほかならず、変化のことなどではない。」(L188-1-4)というのが、なんかいい。

認識できるようになる道程、それがACIM(A COURSE IN MIRACLES)だ。

今ここに光はある。

自らの内にある。

見えるものはすべて、内なる視覚で見られたものの影である。知覚は内なる視覚から始まり、内なる視覚で終わる。それ以外の知覚の源はない。」(L188-2-6,7)

だから、

神の平安は、今あなたの中で輝き、あなたのこころから世界中へと延長される。」(L188-3-1)

この光と平安を自らに認めるには、静かに座り、目を閉じて内に向かうこと。

あなたの内にある光で充分である。L188-6-2)

このフレーズも好きだ。

その光だけで、あなたに視覚の贈り物を与える力がある。」(L188-6-3)

忘れるのは仕方ない、なるたけすぐ思い出せるようになろう

こんなに、手を変え品を変え、ACIMは勘ちがいをとりなしてくれているというのに、ちょっとでも、ゲンジツに自分にとって不具合なことが起こると、すぐ心乱れてしまう。そして、わけがわからなくなってしまう。

私は新居を購入した不動産屋さんからあるはずの連絡がなく、不安に思いいらだちを感じていた。

そんなささいなことでさえ、心がさざめいてしまうのだ。

怒る必要があることなんて、この世にはない(正しい目で見れば)。

怒りの裏には恐怖、不安、見捨てられ感がある。

怒りは、それを赦せるために、そのことのために起っているんだ。

連絡がないことは、私自身のだらしないところを見せていて、それを赦すために現れているように感じた。

すべての不愉快な、あるいは理不尽なことには、赦しの機会だということを、なるたけ覚えていたい。

私たちは、世界が自分に為したと思っていたことについて全世界を放免し、一切を赦す。私たちこそ、自分が望む通りに世界を作り出す当事者だからである。私たちは今、世界が無垢であり、罪がなく、救済に向かって開かれたものとなることを選択する。」(L188-10-2,3,4)

意識に残ったところを書きだそうと思うと、どんどん増えて全部になってしまいそう。

ACIMの教え、日常生活のなかで、すぐ忘れてしまうのは仕方ないとして、なるたけすぐに思い出せるようになりたい。

タコが自分の足を食べて生きるような…

2018-05-01

住み替えの「おつり」

今回の「住み替え」の副次的利点は、新居物件の代金に仲介手数料や登記料、引っ越し代を加えても、現住まいの売却金額から少し「おつり」が来るということ。何ヶ月分かの生活費にはなりそう。

それだけ現住まいが、引っ越し先より都心に近くて「立地がいい」ということになるんだけど、今の私にとっては引っ越し先の方が「落ち着くし住みやすい」気がしている。

こういうのを、「タコが自分の足を食べるような」所業というのだと思うけど、態勢を立て直すのに精神的余裕になる。ありがたい。

ノートパソコン有償譲渡会へ

それもあって、昨日は「ノートパソコンの有償譲渡会」というものを覗いてきた。官公庁や大企業で使われ、セキュリティ強化のため買い替えられる使用頻度の少ないものを、初期設定済みで安く提供しようというもの。

私が今使っているパソコンはデスクトップ型で2009年に買ったもの。ずっとそろそろ買い替え時かな、と思いつつ使ってきた。今度は、故郷にも持ち運びできるようノートパソコンがいいかな、と思っていたところの、この有償譲渡会だった。

ホテルの宴会場を使った会場は人で溢れていた。展示機種は少なく5台位。初心者向け26,000円(税抜き)~。

最も性能が高い機種で、

液晶:15.6インチ、メモリ:4GB、CPU:コアi5、ストレージ:SSD128GB、ウィンドウズ10、マイクロソフトワード・エクセル等付きで56,000円(税抜き)

とてもよい買物なのかどうか判断できなかった。官公庁で使われていただけあって、ちょっとデザインが堅いよなぁ、とそのまま書店に寄って帰った。

買物って―むずかしい。とくに、自分がよくわからない領域の買物って。

過去2回のパソコンは人に選んでもらったけど、今は頼る人はいない。自分で勉強して決めていかなくちゃ。

これも加齢?判断のための心的エネルギー乏し

引っ越しとそこでの生活回転に向けて、決めること、たくさんある。

一方の私は、どんどん判断することが難しくなっている。判断というのは思いのほかエネルギーが要る。若い時はそれに気づかなかった。

選択肢を考えたり、スペックと自分にとってのその価値を判断したり。タイミングを考えたり。その情報集めや整理をしているうちに面倒くさくなって先延ばししてしまう。

どうしても決めるべきことは、一つの決心、一つの行動のために、自分のなかにエネルギーが溜まるのを待つ。そしてエイッと使う。それからまたエネルギーが溜まるのを待つ。

必然的に、時間がかかるし、いちいちもたつく。

これから歳を重ねると、もっともっとそうなるかな。

でも、70代後半の私のマンションの買主さんは、マンション即決だった。そういえば、私も新居は迷わなかった。

人や決めごとの内容に寄るのかな。

5月はすでに夏の陽気だけど、動きやすい季節だ。自分なりに前進したい。