ACIMレッスン191-私は神ご自身の聖なる子である。

2018-05-25

半年に一度の通院へ

一昨日は、半年に一度の通院の日だった。

4年前手術を勧められた腫瘍の大きさは変化なし。また半年後検査となった。

正直ほっとした。

一方で血液検査が「ある病気の可能性あり」と引っかかり、その結果を郵送で知らせてもらえることになった。

住まいも人生も仕切り直したいと思っている今、病気になるスペースはないはずなんだけどな。

ACIMを学んできて、病は自分の罪悪感や恐怖心の投影で、本来なら必要ないものだと学んだ。

直前のレッスン190にも、

あなたに苦痛を引き起こすのは、あなたの想念だけである。」(L190-5-1)

この世界には、あなたを病気にしたり、悲しませたり、か弱く、脆いものにするだけの力をもつものは存在しない。」(L190-5-5)

とある。

私は、自分に病を課す必要はないんだ、と改めて思う。

転居届提出、引っ越し日決まる

引っ越しプロジェクトのほうでは、6月15日と引っ越し日が決まった。引っ越し業者さんに見積もりに来てもらい、近場のわりには若干高めかなと思ったが、まぁいいかと決めた。

現区役所への転出届と、新区役所への転入届を済ました(登記の関係で、転入届は引っ越し前に出すらしい)。たいしたことはしていないのに要領が悪く時間ばかりかかっている。

レッスン191-私は神ご自身の聖なる子である。

レッスン191は、自らのアイデンティティを高らかに宣言するワークだ。

私は神ご自身の聖なる子である!

これが認められさえすれば、私たちは救われ幸福である。しかし、このアイデンティティを拒否するなら、この世は魑魅魍魎の世界となる。

最近はテレビで、加計学園の獣医学部新設時の総理の関与問題や、レスリングのパワハラ問題、日大アメフト部員の悪質タックル問題などが、話題となっている。

上の人に忠実に従うのが徳とする文化がずっとあり、それがパワハラや忖度を容認してきたようにと思う。どれも形は違うけれど似たような構図に見える。この世で地位があがると、いつしか擬似神エゴを崇めその手下になってしまう危険がある。

ある種社会のダーティな部分を受け入れてこそ社会で「一人前」「大人」とされてきた。私の若い頃も「セクハラも仕事の内」と言われていた時代があった。今から思えば、なんじゃそれ、だが。

私が見ている世界は、やっぱり魑魅魍魎だな。

でも、昔は隠せたことが今は表面化しやすくなっている。私のカルチャー講座の先生は「浄化の時代なのよ」とおっしゃるけど、実際、そうなのかもしれない。

アイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム?

だがこれは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外の何だろうか。」(L191-4-1)

この文がしゃれていると思う。

ACIMを少しずつだけど時間をかけて学んでいくと、一見荒唐無稽なこの教えがほんとうに真実だと感じられてくる。

実際、この世の中はACIMの言うようなしくみで動いているのだ。

あなたにはこの世界を残酷に用いる必要はなく、だから世界の中にこの残酷な必要性を知覚する必要もない。」(L191-6-3)とは、心強い。

あなたは虚しい希望と荒廃した夢を抱き、涙を流し、痛みに苦しみ、ただ死ぬだけのために生まれ、自分をひ弱で壊れやすいものと知覚しているが、よく聞きなさい。あなたには地においても天においてもすべての力が与えられている。」(L191-9-1)

この「よく聞きなさい」がけっこう好き。直接導いてもらえている気がする。

ついていこうと思う。

感じたことは、

心を曇らすな」ということ。

…→「(欲で)心を曇らすな」

…→「(小欲で)心を曇らすな」

うーむ。

私は神ご自身の聖なる子である。