新米でおにぎり

2016-09-30

先週、母から新米が届いた。

富山県魚津産だ。

富山県は最近発表された都道府県の「幸福度ランキング」で、堂々3位の豊かで住みよい県だ。

県東部の魚津市は母の実家がある町。

私は母の実家で産まれたから自分が生まれた地から送られてきたお米だ。

どんな家に住む、どんな人が植えて、どんなふうに育って、どんな感じで実っていたのかな。つい親しみを感じて想像してしまう。

ACIM的ではないかもしれないけど、新米、とくに故郷で実ったお米は私を力づけ応援してくれるような気がする。

さっそく炊いて、大きなおにぎりをつくった。

たらこ。しゃけ。うめ。

お米がとってもおいしい。純粋にお米の味を味わったのは久しぶり。いつもは玄米で、もちろん玄米もおいしいけれど、やっぱり白いやわらかいお米の味は格別だ。

そして、主食はとうぶん何とかなる、と思うと、妙に心強く感じる。

だいじょうぶだ、やっていける。と。

どんどんスピードアップして複雑になっていくような世の中でついていけていない感が強いけど、考えてみたら、必要なのものはそう多くはなかった。

毎日ごはんが食べられて、

何枚か着られる服があって、

雨風しのげる家があって、

心を喜ばせるものがひとつか、ふたつあって、

やりとりできる人が何人かいたら。

それだけでよかったんだ。

今はおカネがないと生きられない社会だけど、

食・服・家が何とかなれば、けっこう自由に幸せにできるんだよなぁ。

まあ、それがむずかしいんだけど。。。

。。。なんて、新米おにぎりを食べながら、ぼーっと考えてた。

白いごはんは、なんか自分を原点に立ち返らせてくれる気がした。

ごちそうさま。

ありがとう。感謝。

レッスン64-私が自分の機能(はたらき)を忘れずにいられますように。

2016-09-28

エゴの誘惑と戦略

「誘惑に陥りませんように」

冒頭に、今日の主題概念は言い換えるとこうだ、と書かれている。

そして、私たちの「肉体の目に見えているように思えるものはどれも、何からの形の誘惑にほかならない。なぜなら、それが肉体そのものの目的だったからである。」とある。

私たちが神から離れた(と思った)時、私たちはあまりにも恐ろしく罪深いことをしてしまった、と思った。きっと神から報復されるにちがいない…

そしてその恐怖から逃れるために、幻の偽りの人格、エゴを生み出した。そして、そのエゴが逃げ場として作ったのが、この宇宙である。一なる神の子は、さらなる「分離」によって個々の肉体をもった人間となった。

だから、肉体そのものの目的が、本来は幻想であり起ってはいない「分離」の世界を強調するものである。

そして、この世が一見「成功」のように見せて私たちの関心を引き付けるもの―大豪邸や高級車、権力、社会的地位、称賛、おカネ、美貌などなど…は、それを追求することが一時は人を幸せにしてくれるかのように見えるが、それは幻想にすぎない。

エゴは肉体とこの世の成功に執着させ、幻想に目覚めさせないようにする。それがエゴの誘惑であり戦略だ。

聖霊の使命

「エゴ」が幻の偽人格であるのに対し、神の元から私たちは一時も離れていないのだと教え今も「正気」を保った私たちの心の奥底にあって、神と私たちをつないでくれるのが、「聖霊」だ。

私たちの人格のほとんどは「エゴ」に支配されてしまっているが、だれもが「聖霊」とのつながりを持っている。聖霊はつねに私たちに今も本当は神と一体なのだと教えてくれている。

だから、私たちのエゴが作った幻想のこの世を用いながら、それを「赦す」ことによって、それをなきことに戻すことを使命としている。

それを示す、本ワーク中の

「聖霊にとって世界は、あなたが自分の罪だと思っているものについて自分を赦すことを学ぶ場所である。」という文言が好きだ。

聖霊はエゴがつくったこの宇宙や地球、個々の肉体というしかけを利用しながら、それを「赦す」ことによって正しい道に導く。

 赦せば⇒ 幻想は消える⇒ 神に近づく⇒永遠の幸せ 
 赦さなければ⇒ この世の幻想を強める⇒ 神から離れる⇒ 一時の幸せ&損失や不安感、恐れ

シンプルにいうとこうなるのか。

だから、本当の幸せのために

「私が自分の機能(はたらき)を忘れずにいられますように。」となるのだ。

生身の体をもって今ここに生きている、と思っている今の私にとっては、「まぁ、そうはいっても…」と思う部分も多いのだけど。。。

神さまと私をつなぐパイプのおそうじ

今朝は、年一回のマンションの排水管の高圧洗浄の日だった。

あっ、事前にそうじしとかなきゃ!、と思い出して、キッチン流し台の排水溝と、お風呂の排水溝を掃除した。奥の方はかなり汚れてた。

掃除しながら、自分の「エゴ」と「神さま」をつなぐパイプがあるとしたら、私、けっこう汚れていたりほこりがつまったりしているかもな~、見た目はそうじしてるように見えても…、とふっと思った。

そして、

この秋はとくに、

神さまと私をつなぐパイプをきれいにしたい、

そのために聖霊の声に耳をすまし、

自分を濃くしたい、

と思ったのだ。

レッスン63-世の光は、私の赦しを通して、すべての心に平安をもたらす。

2016-09-27

レッスン61では「私は世の光である」と告げられ、

レッスン62では「赦し」がそのはたらきであると学び、

このレッスン63では、その赦しが「すべての心に平安をもたらす」と、教えられる。

世の光が通る道筋が「赦し」と言っていいのかもしれない。そして「赦し」は、自分だけのものではなくこの世で共有されている。

私が見えている世界をすべて赦すことができれば、この幻のゲンジツの世は終わる。

神から分離したと思いこんだ神の子すべてが、それは勘ちがいだと気づいて赦せば、この世のゲンジツゲームは、ゲームオーバーだ。

私たちは、神と一体の神の子として今まさに愛と平和に満たされていると知ることになる。

 

私が、レッスン63でとくに好きなのが、最後の

「神の子が救いを求めてあなたに頼っているということを思い出しなさい。そして、あなたの自己をおいてほかに誰が、神の子でありえるだろうか。」という文言だ。

この言葉が、ついゲンジツに巻き込まれ感情的になりがちな私をクールダウンして、我に返してくれるからだ。

この世のゲンジツに現われる「イヤな人」「イヤなこと」は、「神からの分離」を無意識に責める自己嫌悪、自己批判の表れにすぎない。

それを、そもそもリアルではないんだ、と赦す。そうしたら、それは消える。

「イヤな人」「イヤなこと」は自分の分身だ。救いを求めて、赦され浮かばれるために、自分の元にやってくる。それを赦す―また別のものが現われる、それをまた赦す…。

つまり、すべての赦しは、自分が自分を赦すことなのだ。自分を赦せば、投影されて見える世界も変わる。

ただ、神との分離という誤解とともに生じたもう一つの誤った幻のアイデンティティ、エゴは狡猾だから、あの手この手でこの世がリアルだと信じ込ませるよう「誘惑」を仕掛けてくる。

それに引っかからないようトレーニングするのが、このACIMのワークなんだろう。

まさに心の筋トレ…。

そういえば、かつて習慣にしていた「ダンベル」気づくと完全に止まってる。。いつからやってないんだろう。。

習慣づけはなかなかむずかしい。時間がない、気力がない…と、2、3日やらないでいると、気づいた時にはすでにフェイドアウトしている。

最近、歯科衛生士さんの度重なる歯磨き指導によって、糸ようじと歯間ブラシがようやく習慣づいて、磨き残しチェックでも合格ラインがもらえるようになった。

「赦し」も歯磨き&糸ようじくらいあたりまえのことになったら、見える世界もちがうだろうな、と思う。

レッスン62-赦しは、世の光としての私の機能(はたらき)である。

2016-09-24

レッスン62-赦しは、世の光としての私の機能(はたらき)である。

レッスン61で、私たちの真のアイデンティティは「世の光」であると告げられた。

それはどのように獲得されるのか。どう実証されるのか。

そのこたえが、レッスン2の主題概念となっている「赦し」である。

「赦し」は、くりかえしになるが、世に言う「許し」とは別物だ。

「許し」が、「あなたには非はあるけど、それを許してあげよう」というニュアンスなのに対し、

「赦し」は、そもそも罪などない。このゲンジツの世は実は幻想であり、まちがった自己像を投影して見ているにすぎない。自ら作った幻想なのだから、そこに執着、頓着することなく、気持ちをゆるめて受け流そう、といったようなもの。

幻想は赦すことによって手離れ、それに振り回されることはなくなり、また一歩真の自己に近づくことができる。それは、もともと罪も恐れもない、満たされた世の光としての自己である。

私は、このレッスンの中の

「あなたは攻撃するたびに自分自身の弱さを招き入れ、赦すたびに内なるキリストの強さを招き入れているということを、思い出しなさい。」

というフレーズと、その後に続く

「そういうことなら、赦しが自分に何をしてくれるのか、あなたはもうわかり始めたのではないだろうか」

というフレーズが、なんか好きだ。

抽象的なACIMだが、この部分はわかりやすく感じる。とくに後半部分は茶目っ気というか親しみさえ感じる。

だから、なるたけ、攻撃したり怒ったりは慎み、赦そうと思うのだ。

ワーク中の電話にイラッ

しかし…実際には…

昨日レッスン62ワークの小さな瞑想中、電話が鳴った。

受話器を取ると、「国民年金機構から受託を受けました○○で…」と女性オペレーターの低い声。国民年金の未納分の催促の電話だった。

私は未納期間があって、数年前から2年近く前の国民年金を1ヶ月分ずつ追いかけて納めている。電話口のオペレーターの方は毎回ちがっていて、その情報が引き継がれていないため、

「2年分近い未納があるのをご存じですね」っと高圧的口調で言われるたびに、イラッとする。遅れつつも毎月納めている旨説明するが、

「月末までに必ず納めてください。約束できますね?」と言われると、

「早く宿題やりなさい」と言われ、「今、やろうと思ってたのに」と答える子どものような、いやぁ~な気分になった。

話がまだ続きそうだったのを、「お電話ありがとうございました」とそそくさ切ってしまった。むろんいやな気分のままだ。

しかし、ワーク中の電話とは…

今、私が赦すべきことは、これ!?なのね、まさに。

これなどは、そもそも私に落ち度があることだし、あまりに瑣末なことだけど、それでもイラッとしてしまう私。

自分に落ち度がまったくなくても、巻き込まれたり、理不尽な思いをしたりすることは、この世では日常茶飯事。

こんな私で、これから大丈夫なんだろうか…。

まさに赦すべきこととして与えられたこのことを、赦そう。。

2013年6月ワークを初めてから、大きな赦しの機会は3回位あった。

私は成長できているのか。

ワーク中の未納催促電話にイラついてしまうようでは、先はまだまだ長い…と思うのだった。

レッスン61-私は世の光である。

2016-09-22

レッスン61―私は世の光である。

最初の「エゴの解体」段階を修了し、レッスン61から、真のアイデンティティに近づく段階に入るのだなぁ。

               *   *   *

「あなたは世の光です」…こう言われたら、ふつうの人はどう反応するだろう?

「いえいえ、そんな…。」「御冗談を…」「何言ってんの?」

という感じだろうか。

ACIM、レッスン61は、「この主題概念はあなた自身についての真理を述べているにすぎない。」と言い、私たちは「謙遜」と「自己卑下」を取り違えているという。

エゴが「あなたは世の光」と聞いたら「褒められた」ように感じるかもしれないが、そうではない、これは私たちに神から与えられた真理なのだから、「真の謙遜は、あなたが今日の概念を受け入れることを要求する。」と。

では、「世の光」とはどういうことだろう。

これに思いをはせるのが、今日のワークだった。

小林麻央さんの生きる姿勢

私は、ふと小林麻央さんのことを思っていた。

小林麻央さんは2014年秋から乳がんで闘病中だと報じられていたが、9月1日にご自身のブログを開設された。

「なりたい自分になる」というタイトルで始まったブログは、病院の医師から「癌の陰に隠れないで」と言われたことで心を動かされ、ブログを開設しようと思ったとつづられている。 (さらに…)

復習Ⅰおわり-レッスン1~50

2016-09-21

ようやくレッスン1~50を復習する「復習Ⅰ」が修了した ♪

ワークブックの最初のこの部分は、「自分の現在の世界観の解体」に着手する部分だという。これまで自分が「世界」だと思ってきたものに揺さぶりをかける。

畑でいうと種をまく前の土壌を耕す段階―真実を受け入れやすくするための準備と言ってもいいのかな。

復習Ⅰのレッスン1~50の主題概念は下記のとおり(『奇跡講座ワークブック編より』。英語もシンプルだから、主題概念だけでも覚えたいと思っている。

 日本語 英語
1私の見ているものには 何の意味もない。1Nothing I see means anything. 
2私に見えて いるあらゆるものに、 私にとってそれがもつすべての意味を与えたのは私自身である。 2I have given what I see all the meaning that it has for me. 
3私に見えているどんなものも、 私は理解していない。 3I do not understand anything I see.
4これらの考えには何の意味もない。 4These thoughts do not mean anything. 
5私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。 5I am never upset for the reason I think.
6私が動揺しているのは、存在しない何かをみているからである。6I am upset because I see something that is not there.
7私は過去だけを見ている。 7I see only the past.
8私の心は過去の考えにとらわれている。 8My mind is preoccupied with past thoughts.
9私は、何も今あるままに見ていない。 9I see nothing as it is now.
10私の考えには何の意味もない。10My thoughts do not mean anything.
11私の無意味な考えが、意味の無い世界を私に見せている。 11My meaningless thoughts are showing me a meaningless world.
12私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである。 12I am upset because I see a meaningless world.
13意味のない世界は恐れを生み出す13A meaningless world engenders fear.
14神は意味のない世界を創造しなかった。 14God did not create a meaningless world.
15私の考えは、私が作り出した形象である。15My thoughts are images that I have made.
16私に中庸な考えはない。 16I have no neutral thoughts.
17私は中庸なものを見ていない。 17I see no neutral things.
18私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。18I am not alone in experiencing the effects of my seeing.
19私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。19I am not alone in experiencing the effects of my thoughts.
20私はぜひとも真に見たい。 20I am determined to see.
21私はぜひとも別な見方でものごとを見たい。 21I am determined to see things differently.
22私が見ているのは、復讐の一形態である。 22What I see is a form of vengeance.
23攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる。 23I can escape from the world I see by giving up attack thoughts.
24私は自分の最善の利益を知覚していない。 24I do not perceive my own best interests.
25私は私が何のためにあるのかを知らない。 25I do not know what anything is for.
26私の攻撃的な考えが、決して傷つくことのない私の強さを攻撃している。 26My attack thoughts are attacking my invulnerability.
27私は何にもまして、私は真に見たい。 27Above all else I want to see.
28何にもまして、私はものごとをこれまでとは違った見方で見たい。 28Above all else I want to see things differently.
29私が見ているあらゆるものの中に、神がいる。 29God is in everything I see.
30私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである。 30God is in everything I see because God is in my mind.
31私は自分が見ている世界の被害者ではない。 31I am not the victim of the world I see.
32私が、自分の見ている世界を作り上げた。 32I have invented the world I see.
33世界について別の見方がある。 33There is another way of looking at the world.
34私はこれを見るかわりに、平安を見ることもできる。34I could see peace instead of this.
35私の心は神の心の一部である。 私はとても神聖だ。 35My mind is part of God's. I am very holy.
36私の聖性は、私が見るものすべてを包み込んでいる。 36My holiness envelops everything I see.
37私の聖性が世界を祝福する。 37My holiness blesses the world.
38私の聖性にできないことは何もない。 38There is nothing my holiness cannot do.
39私の聖性が私の救済である。 39My holiness is my salvation.
40私は神の子として祝福されている。 40I am blessed as a Son of God.
41私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。 41God goes with me wherever I go.
42神が私の強さである。 ヴィジョンは神からの贈り物である。 42God is my strength. Vision is His gift.
43神が私の源である。 私は神から離れて見ることはできない。 43God is my Source. I cannot see apart from Him.  
44神は光であり、その光の中で、私は見る。44God is the light in which I see.
45神は心であり、その心と共に私は思考する。 45God is the Mind with which I think.
46神は愛であり、その愛の中で私は赦す。 46God is the Love in which I forgive.
47神や強さであり、その強さを私は信頼する。 47God is the strength in which I trust.
48恐れるべきものは何もない。 48There is nothing to fear.
49神の声は、一日中、私に語りかける。 49God's Voice speaks to me all through the day.
50私は神の愛によって支えられている。 50I am sustained by the Love of God.

レッスン60-レッスン46~50の復習

2016-09-19

敬老の日

今朝は母の電話で起きた。

朝刊を取りにポストを見たら、私が送った「敬老の日」ギフトがあったと。

ユニクロでベージュの薄手のセーターを買い、それにオレンジピールチョコを足してゆうメールをポストに入れたのが、土曜日の夕方。もう着いたんだ。

喜んでくれている。よかった♪

洋服はだれでもそうだけど、好き好きがある。とくに母はこだわりがいろいろ細かい。

過去も何度も“失敗”し、無駄遣いだと言われ、「もう服を買って送るなかれ」指令を受け取っていたから、止めようかなと思っていたけど、食べ物というのも同じくむずかしい。お菓子はひとり暮らしの私がもらってうれしい一方つい食べ過ぎて困るものだし…と迷っていたのだ。

ユニクロだったら、安いしシンプルだし、気に入らない場合は、私が引き取ればいいんだ、とそれにした。

小言を言われるの覚悟で送ってたから、「ありがとう、ちょうどよかった」と言われ、ほっとした。

幼い頃は「こわい」母が大きらいだった。早くから心のシャッターを下ろし自閉的に生きてきた気がする。

50代になった今。家族を作ってこなかった分自由で楽な一方、やはりさみしくもある。今は母がいてくれることがとってもありがたいのだ。

レッスン60-レッスン46~50の復習

ここ数日はレッスン60の復習をしていた。

主題概念は以下のとおり。レッスン46~50の復習。

46)神は愛であり、その愛の中で私は赦す。

47)神は強さであり、その強さを私は信頼する。

48)恐れるべきものは何もない。

49)神の声は、一日中、私に語りかける。

50)私は神の愛に支えられている。

               *   *   *

ワークブックのl60の説明文でとくに好きというか響いたのは、

「赦しは、私が自らの無垢性を認識するための手段である。それは神の愛が地上に反映されたものである。」(l46)

「私は、私自身の強さによって赦すのではない。私の中の神の強さによって赦すのであり、赦すとき私はその力を思い出している。」(l47)

「私が赦し、私を赦した世界の中に、恐れるべき何があるというのだろう。」(l48)

「私が赦すとき、神の子は無罪であることを、神の愛が私に思い出させてくれる」(l50)

気づいたらとくに「赦し」について書かれたところばかりだ。中でも「自分の強さによって赦すのではなく、神の強さによって赦す」という文言が響く。

なんでかな?

頑張って強くならなくていい、と思えるからかな。自分の中に「神」に通じるものを、ふっと、感じることができるからかな。

やさしくなった?

「赦し」という概念がどういうものかわかっているか、実行できているのかわからないけど、ワークを重ねてきて、

周りの人がやさしくなった、と感じることがある。それは、コンビニのやスーパーの店員さんが丁寧に接してくれる、とか、横断歩道で車がちゃんと止まってくれるようになった、とか、とってもささいな事。

そして親戚から、たまちゃんは「やさしくなった」と言われることが増えた。

自分が赦しによって自分を責めることが少なくなって肩の力が前より少し抜けたから、そう見えるのかな?

前にふと何かで見たのに、

「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」みたいな文があった。あれは…『なまけ者のさとり方』だっけ??

これを赦しで言うと

「赦すことがわからなければ、そのわからない自分を赦しなさい」となる。

わからない。

わからないけど希求している。それはわかる。

だから、ゆっくり導かれるままにやろう、と思う。

ポケモンGOとACIM

2016-09-16

この夏、ポケモンGO 大騒動

2016年夏はポケモンGOが大流行りだった。

まず、先行配信されていたアメリカの様子として、テレビキャスターがポケモンを追いかけて画面を横切る姿にびっくり!

「へ~!大のオトナがそんなに夢中になるものなのか…!?」

日本でも7月22日に配信されるやいなや、全国民を巻き込んだかのような大騒動。珍しいポケモンがゲットできる?とかで、東京墨田区の錦糸公園には夜が更けても大人も子供も大勢の人でにぎわう様子が映し出されていた。 (さらに…)

レッスン59-レッスン41~46の復習

2016-09-14

昨日、おとといはレッスン59をやってきた。主題概念は以下のとおり。レッスン41~46の復習。

41)私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。

42)神が私の強さである。心眼(ヴィジョン)は神からの贈り物である。

43)神が私の源である。私は神から離れて見ることはできない。

44)神は光であり、その光の中で、私は見ている。

45)神は心であり、その心とともに私は思考している。

               *   *   *

「神がいつでもともに行くというのに、どうして私がひとりになったりするだろう。神の中に完璧な確かさがあるというのに、どうして私が自分を疑ったり、自分に不安に思ったりするだろう… …自分についての幻想を大切にすることはやめよう」(l59)

主題概念のそれぞれの説明文が、いちいち私の心を揺さぶる。だから、とくに気になったところをもう一回書きたいと思うと、結局ぜんぶになってしまいそうだ。

ワークの内容はワークブックに書かれているのだから、私がそれを中途半端に抜粋したり言い換えたりしても、私には復習にはなるけどブログとしては意味ないな、と思っている。まあ、でも成り行きまかせにしよう。

上記のレッスンの主題概念の中で、もっとも好きなのが、l42の「神が私の強さである」というフレーズだ。

God is my strength.

God is my strength.

神が私の根拠だった…

この短い言葉を何度も心で唱えるだけで、なんとも言えない安らぎとなつかしさのようなものを感じる。なんとありがたいことよ!

だけど、一方で、ACIMに沿って生きられているかといえば、それはまた別のこと…になる。私の場合。

とくに誕生日月の今月、そして晩秋の11月あたりは、過去に思いが引きずられ、魂が旅をしたがる。

あの頃はああだった…

あの時ああしていたら…

ACIMには過去という概念はない。過去は幻であり後悔はエゴが仕掛けるトリック、心眼にはほど遠い。

そして5年に一度の免許証の書き換えのお知らせ…誕生日が過ぎたのにまた行けてない。

免許証に映る写真を気にしているのだ。更新手続きは誕生日後の一ヶ月ある。それまでに頬をちょこっと引き締めたいのだ(具体的にはフェイスストレッチ…今は顔ヨガというのか、をする、効果のほどは経験済み)。

姿かたちにこだわるとは、これもまた幻想への執着であってACIMの教えに反しているのでは…と思うけど、一方、少しでも若くと思うのも本音。

ワークを続けていたら、いずれ、私のこういう“煩悩”も薄れていくのだろうか。

何年後かにこのダイアリーを見て、「あの頃はまだ若く未熟だった」と振り返ることがあるか。それだったら、ダイアリーは軌跡として役にたつかのもしれないなぁ、と思う。

レッスン58-レッスン36~40の復習

2016-09-12

気温27℃。湿度が高く蒸し暑い。先週は一日の終わりの夜のワークがなかなかできず、レッスン58で足踏みしていた。

レッスン58の主題概念は以下のとおり。レッスン36~40の復習。

36)私の聖性は、私が見るものすべてを包み込んでいる。

37)私の聖性が世界を祝福する。

38)私の聖性にできないことは何もない。

39)私の聖性が私の救済である。

40)私は神の子として祝福されている。

               *   *   *

聖性とは、聖なる質を持った存在であるということ。私たちはもともと罪ある存在ではなく、無辜(むこ)であり無垢であるということ。

私たちは神から延長した神の子であり神と同じく聖なる存在である。それが私たちの聖性の根拠である。

このゲンジツの世では聖なるものとは対極なものばかりが目につくが、それは私たちが幻想を見ているからにすぎない。

自分の聖性を認め正しい見方を身につければ、「私に見えるのは世界の聖性だけである。なぜなら、私は自分自身について抱いている考えしか映像化することができないからである」(l36)

私たちが聖なるまなざしで見る時、私たちが目にする世界は祝福されたものとなる。

私たちの聖性を共有していないものはない。

「聖性の光の中で私が見るあらゆる人、あらゆるものが、聖性が私にもたらす喜びを共有する」(l37)

また「聖性は、その癒しの力において無限である」(l38)

そして、「私の聖性が私をすべての罪悪感から救うのだから、私の聖性を認識することは、私の救済を認識することである」(l39)

そして、ここがおもしろいというか気になるところなのだけど、「そして、私が恐れないからこそ、私の理解するところを誰もが必ず共有することになる」(l39)

「私が恐れないからこそ」なのだ。恐れなき状態でみんなの中にいること自体に大きな意義があるのだ。

そして、レッスン40では「私は神の子として祝福されている」と、一巡して締める感じ。神の子だから⇒聖性、聖性だから⇒世界を祝福する、私は神の子=祝福されている。

何より勇気づけてくれることばは、「すべてのよきものは私のものである」「私は神の子であるからこそ、何かを失ったり奪われたり、苦痛を被ったりすることはありえない」(l40)根拠は神の子たる私たちが幻想以外で神以外の特質を持ちえないから。

だから、必要なことは、ただこの世の幻想性を手放し、あらゆるものを聖なるまなざしで見ること。

はっきり理解はできないし正しい見方が身についているわけでもないけれど、私は、私たちがそもそも「何かを失ったり奪われたり、苦痛を被ったりすることはありえない(それは神の意図ではない)」と言われたことで、大いに気が楽になった。

漠然とだけれど、「こんな私が幸せになってはいけない」みたいな思いでずっと生きてきたから。ACIMから無辜だと言われたことで体から力が抜けて許されていくのだ。

だから私も赦す。

罪なき心に痛みはありえない。欠乏し痛んでいるとしたらそれは幻想を見ている証拠だ。それを赦す(手放す)よう努めるだけだ。

コツコツとくりかえしーACIMとパソコン

2016-09-11

土曜日3回コースの東京都主催のキャリアアップ講座「ドリームウィーバーによるサイト管理」が修了した~♪ ドリームウィーバーはホームページを効率よく作って管理するためのアプリケーション。ホームページづくりをとっても楽にしてくれる。

先生のパソコン画面を見ながら指示に沿って、一人一台パソコンを操作していく授業で、ちょこっと気をぬくと、「あれ、どのボタンをどう操作するんだっけ?」と付いていけなくなる。猫背でマウスを握りしめて1日6時間の講座の後には、肩がパンパンだ。帰り道のカフェでひと休みするのがささやかな楽しみになっていた。

実はこの講座、去年もおととしも受けている。だけど、講座中だけでその後使わないから、結局忘れてしまう(そもそもあまり得意じゃないのだ)。そうはいってももう何回もやっているから、今年はようやく全体の流れと操作が理解できた(と思う)。

実際自分で試行錯誤しながらホームページを作ってみるのがいちばん習得が早いんだろう。先生も「独学」だとおっしゃってたし。

なんとか、今年こそ習得したい、と思っている。

それとは話は変わるのだけど、

8月10日に「テキストを読もう」というダイアリーを書いてから、もう1ヶ月。宣言むなしく、あの日一日だけでテキスト読みが止まっている。

日本語で読んで、英語とその精訳版を見て…とやっていたけど、どうもそのやり方は私にとってはハードルが高すぎるみたい。「さあ、やるか」と手をつけることができなかった。

で、方針転換することに。

とりあえずは、英語の原文を見るのは置いといて、まず日本語でだけ読もう。これだったら、1ページずつでももっと気安く読み進められるかもしれない。

ACIMもホームページづくりの勉強も、得手不得手はともかく、関心があることなので、自分なりのペースでこつこつとやっていこうと思っている。

生来なまけもので根性なしだから、きらいなことを頑張ってやりとげたという経験がほとんどない。

でも、ACIMもホームページも勉強、続けようと思っているのは、関心があるから。関心がもてるっていうのはありがたいなぁ。

晩が涼しく過ごしやすくなってきた。ゆっくりでいいけど、なるたけ早く先に進みたい。

「ピーターラビット展」へ

2016-09-09

きのう、友だちに誘ってもらって渋谷Bunkamuraで開催中の「ピーターラビット展」に行ってきた。

友だちも私も「おとめ座」で、おとめ座期(8月23日~9月22日)に毎年、「おとめ座会」と称して、近況報告し合っている(おとめ座期でなくても会っているが)

今年はそれに「ピーターラビット展」が加わったかたち。会場は平日午前にもかかわらず、会場はけっこうな混雑。ほとんどが女性だ。一枚一枚の原画にそって、実際のえほんのおはなしが書き添えられているので、絵本を読んでいる感覚で見ていくことができる。

ピーターラビットについては「うさぎのかわいいやつ」くらいの認識しかなかったけど、想像以上にとってもおもしろく、また大いに刺激を受けた!

とくに魅力を感じたのは、次の3つの点だ。

①絵とおはなし

一つはやっぱり絵とおはなし。やっぱりまず絵がうまい。「動物がもし立って洋服を着たら…」という想定がかなり写実的に書かれている。

また、ほっこりとした絵と裏腹に話には、「お百姓さんのマグレガーさんとこの畑にだけは行っちゃいけませんよ。お前たちのお父さんは、あそこで事故に遭って、マグレガーさんの奥さんに肉のパイにされてしまったんです」に代表される、「え、そんな…」という怖いところがある。それがおはなし全体に深みを加えている気がした。

②著者の自己実現力と女子力

二つ目は、作者のビアトリクス・ポターさんの自己実現力と女子力の高さだ。

ピーターラビットのお話が誕生したきっかけは、病気の5歳の男の子を元気づけるために描いた絵てがみだったらしいが、それを自費出版して世に出したという行動力。その後、ピーターラビットがヒットした際には、知的財産意識が低かった時代にもかかわらずしっかりと商標登録して権利を守っているビジネスセンス。

また、美しく豊かな自然が「開発」によって失われることに反対し、ピーターラビットの印税で土地を買い続け、亡くなった際には、15の農場と4000エーカー以上(東京ドーム400個分!)の土地を自然保護団体に遺贈したという。その理念の実行力。

そして、土地売買の助言をしてもらった地元の弁護士と、47歳の時に結婚…って。すごい女子力というか、引き寄せパワーだな。

③「絵本ってこうやって作るんだ」

三つめは、ラフスケッチや草案が展示されていて、絵本づくりのプロセスがイメージできたこと。

私は、勝手に「ACIMをわかりやすく平易に表現すること」と「高潔なACIMと日常生活をつなげること」が自分のやくわりだと思っている。ACIMは完成されたものであり、加えることは何一つないが、日々忙しい現代人がワークを続けたり分厚いテキストを読み進めたりするのは、やはり一般的ではないというかハードルが高いのではないか。

だったら、なるたけエッセンスを保ったまま、平たくわかりやすく伝えることができないか。その一つが絵本とか童話じゃないかな、と思ったりしているのだ。そのためのインスピレーションをこのピーターラビット展でたくさんもらったような気がしている。

もちろん絵も描けないし、文も自信ないし、なによりまだACIMを理解できているとはいえないのだけど、でもベクトルは決まっている。そのベクトルにちょっぴり背中を押してもらったような気がする。

               *   *   *

私にとっては実りの多い「ピーターラビット展」だったし、もっともっと作者と作品について知りたいと思った。

友だちとのおしゃべりでは、気づけば相変わらずネガティブな話やグチを言ってしまっていて、帰宅後「私って、変わんないな」と反省した。でも、それもそれでよし。

誘ってくれた心の友に感謝。よい初秋の日だった。

レッスン57-レッスン31~35の復習

2016-09-06

初秋に思うこと

2013年の6月からスタートしたACIMのワーク。2015年12月にようやく365のワークを終えた。そしてその後今年5月から2巡目を始めた。

昔のノートを見て返してみたら、3年前の9月3日にレッスン57をやっていた。この頃は仕事がとても忙しく、その忙しさのなか必死にワークを進めていた様子が見える。途切れながらも頑張っていたが、秋半ばレッスン80あたりでとうとう中断、翌年3月にレッスン30から再スタートしている。

この3年と数ヶ月、私は成長しているんだろうか。

自分ではわからない。仕事が徐々に減り、とにかくワークを終わらせたいからむしろいいんだ、と思ってきたけど、気づくと元々ビジネス向けでない性格がさらに隠遁者のようになっており、むしろ社会的には後退というか、大問題になっている気もする。

父の介護が必要になってきたあたりから、故郷の富山に頻繁に帰省していたこともあって、忙しくなりすぎることを恐れていた。その頃から「東京にがっしり根付きたい」という意識が持ちにくくなり、故郷にいる両親のことが気になるようになってきた。

昨年父が亡くなり、この夏、一人で住まう母の姿を見て、ますます故郷が気になってきている。

でも、潔癖症の母と一つ屋根の下に暮らす自信はないし、東京での一人暮らしに慣れた身にとってご近所の目を気にする田舎は窮屈な気がして、決意ならず。宙ぶらりんな感じ。

もしいずれ母の介護が必要になったら、住まわざるをえないとも思う。だったら早めに舵を切ったらいいのではないか。でも、仕事はどうする?向こうで勤めるなんてこと、集団や組織が苦手な私には想像しにくい。

できたら、ノマド生活というか、どこでも働けるネットビジネス的なことができないかな~というのが、今の私の思うことだ。要するにワガママで選択肢があって恵まれている、ということなんだろうけど。

こういうぐるぐるした考えは、いかにもACIM的ではない。

ホーリースピリットからの導きは…?

ちゃんと受け取れているわけではなくなんとなくだけど、

ずっと前から故郷で住まうことを勧められているような気がする。

でも、じゃあどうやって?

気がするというけど気がするのは本物?

と、また考えは廻る。

レッスン57―レッスン31~35の復習

レッスン57の主題概念は以下のとおり。レッスン31~35の復習。

31)私は自分が見ている世界の被害者ではない。

32)私が、自分の見ている世界を作り上げた。

33)この世界について別な見方がある。

34)私はこのかわりに平安を見ることもできる。

35)私の心は神の心の一部である。私はとても神聖だ。

               *   *   *

私たちが住むこの世界は、自然災害がありテロへの恐怖があり、貧困があり、仕事で理不尽なことがあったり、病気になったり、思うにまかせない世界だ。もちろん夢がかなったり成功したり…もあるけど、それは一時的なことにすぎない。ACIMはこの世を自分が自分を囚われの身としている「牢獄」だと言っている。

ただ「この牢獄は私自身が作り上げたものだ」(l32)

「私を縛る鎖はゆるんでいる。私はそうしたいと望むだけで、鎖をはずすことができる。牢獄の扉は開いている」(l31)

「ここにとどまりたいという私の願望だけが、私を囚人としている」(l31) のだ。

この世を牢獄にしているのは私たちがエゴの見方でものごとを見ているからだ。エゴの見方の根底には、恐れと罪悪感があり、それが私たちを見えない牢獄に縛りつけ罰を与えている。

でも私たちは「すべてを逆さまに見ていて、私の考えは真理とは正反対になっている」(l33)

「私はこのかわりに平安を見ることもできる」(l34)

つまりエゴの見方を捨て、心眼(ヴィジョン)でものごとを見ることができれば、艱難辛苦のベールの向こうにある自由を感じ取れる。

そこにあるのはたしかに神の法則だ。

神の法則を見るためには、赦すこと。この世の幻想性を受け入れ、自分の心の奥にある神の世界のリアリティに立つ。

赦せば赦される。

私の偽りの罪が購われて、「自分を含めた生きとし生けるものの聖性、それらのものと自分との一体性を理解し始める。」(l35)

               *   *   *

私はACIMの美しい世界に憧れを感じるけど、それはまだ憧れレベルなんだな。それをこのゲンジツの世でどう生きたらいいのかは、まだわかっていない。

わかろうとするのを自分で邪魔しているのか。扉の外から「おいで」と声をかけられて牢獄の片隅で身を固くしているのだろうか。とも、ふと思う。

レッスン56-レッスン26~30の復習

2016-09-02

9月か…。まだ蒸し暑い。けど真夏の攻撃的な暑さじゃない。9月、10月はものごとを進めるのにいい季節だと思う。読書の秋、芸術の秋…こころに染みる秋の始まりだ。

ワークを進めながらダイアリー・ブログには何書いたらいいんだろう、と未だ迷走中だ。でも、どんなかたちでもアウトプットをすると、学んだことが定着する気がする。書くことで気づいたり理解できたりすることもある。

レッスン56は次の5つの主題概念を復習した。

26)私の攻撃的な考えが、決して傷つくことのない私の強さを攻撃している。

27)何にもまして、私は真に見たい。

28)何にもまして、私はものごとをこれまでとは違った見方でみたい。

29)私が見ているあらゆるものの中に、神がいる。

30)私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである。

レッスン26~28

神を自分の意志で離れた、と勘違いしている私たちは、神はひどく怒っており報復があるにちがいないと死ぬほど恐れている。その罪悪感と恐怖はあまりにも大きいため自分で意識することすらできない。だけど常に私たちの根っこにある。

だから私たちは「自分自身を常に攻撃にさらされている者」と感じ、「苦痛、病気、損失、老齢、死などが私たちを脅かしているように見える」(l26)

これがエゴの見方であり、まさに私たちが日々見ているのがこれだ。人生の前半は夢や希望や野心とともにポジティブに人生に挑んでいける。しかし中年期以降になると、夢を実現していようといまいと、おカネがあろうとなかろうと、自分の人生は自分ではコントロールできない何かに翻弄され脅かされ続けている、と感じることが多くなるのではないだろうか。

でも、ACIMは、まったくちがうという。私たちは真に神の延長であり、神の「完璧な安全と完璧な充足感」こそが私たちが神から賜ったものだという。「私自身の真の想念が、それが何であるかを教えてくれる」(l26)

だからこそ、「何にもまして、私は真に見たい」(l27)と思うことが第一歩だ。正しい見方、心眼(ヴィジョン)を得ることによって、真実を見ることができるようになりたいと自分を方向づけするのだ。

今、私たちが見ている世界は、エゴの自己像の投影だ。たとえ病気の世界が見えていても、借金だらけの世界が見えていても、いじめの世界が見えていても、それらはすべて自己イメージをこの世というスクリーンに自己像を映し出しているにすぎない。

今いるこの世界は、映し出された結果の世界だ。私たちはこれを「嫌だ」「困った」「ひどい」「許されない」などとみんなで言い会う。それによって幻想を支えあってリアルにしている。もちろん、一人ひとりの私たちにはそんな意識はないけれど。

罪悪感と恐怖に満ちた自己イメージを手放すことこそが、私たちを真理に導く。真理は失われたわけではなく私たちの心の奥底に息づいて、今もあるのだから。

ただまやかしの自分を幸せにしてくれる種をいくつ手に入れても、効果は一時的で心に奥底にある恐怖と罪悪感が返ってくる。

その間違った見方は、私たちを常にストレスにさらし不安にする。

だから、その見方を矯正したい、「何にもまして、わたしはものごとをこれまでとは違った見方で見たい」(l28)と心から願うのだ。

「今見ているように、世界を見ている限り、私は真理を自覚できるようにはならない。この世界の背後にある扉を、私のために開いてもらおう」」(l28)

「そうすれば、そこを通り越して、神の愛を映し出す別の世界を見ることができるようになる」(l28)それが、実相的な世界を見る心眼(ヴィジョン)だ。

レッスン29、30

私たちが住むこのゲンジツ世界は、真理を覆いかくすベールがかけられた幻影だが、「すべてのベールの背後で、愛の光は今も翳(かげ)ることなく輝いている」(l29)

私が見ているあらゆるものの中に、神がいる(l29)。

私たちが見ているこの世は、神が作られたのではない。これは勘違いした私たちが神の報復を恐れて作った間違った自分=エゴが作った偽りの仮想世界だ。

私たちが恐怖の自己像を手放し、心の奥に持っている神を呼び起こしさえすれば、私たちが目にするものは変わる。そして世の中は変わる。

私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである(l30)。私たちが自分の恐怖や怒り、罪悪感に気づいて赦すと私たちの心の奥にある神の存在に気づくことができる。そして、この仮初めの世に内なる神を投影できた時、目にするすべてのものは神を表すものとなりうる。

               *   *   *

結局、復習しつつ解釈して書き映しになってしまった。

エゴの見方から、実相を見る見方へ、日々訓練。

これって筋トレみたいだな。

最初は負荷が小さい、守られた静かな空間で。理屈が浸透してきたら、負荷をかけて人との関わりの中で。

秋…からだを動かすにもいい季節だな。

妹と甥っ子と私

2016-09-01

夏休み最後の日、妹宅へ

夏休み最後の日のきのう、ちょうど仕事が休みだという妹の家に、高校1年になる甥っ子の勉強を見に行ってきた。

妹の家へは電車を乗りついで1時間半。駅までは車で迎えに来てもらう。近くには大型アウトレットモールやシネマコンプレックス、ニトリなどがあって、お菓子の家みたいなピンクの家が立ち並ぶ一画。玄関に一歩入ると、黒い犬が飛びかかって迎えてくれる。

ひとり暮らし、殺風景で質素なわが家とは大ちがい、いろんな物に溢れていてファミリーの生活感もあって、そもそも家とはこういうものだったか、と思い出させる。

昨年妹が大泣きして電話してきたことがあった。もともと甥っ子は勉強ができないということは聞いていたけど、重要な宿題や提出物を何度も無視して先生の手を焼かせ、親ともども呼び出され叱られたらしい。

私立なのでなんとか高校にあがることはできたけど、友だちもなく適応力もなく今後が不安、という。微力だけど、英語の勉強くらいは一緒にできるかな?それで妹の話し相手にでもなれたら、と、中学英語の復習をしに行ったのが今年の春休み。

その時は「なんだ、できないっていうけど、理解力はあるじゃない」と思った。

そして今回。テキスト、ドリルを見せてもらって2時間位一緒に勉強したけど、「あ~、私、高校の英語を教えられるだけの力がない、先生役は無理だ」と痛感。午前だけで勉強はおいまい。

午後は妹の話を聴いてた。心理面で何かの障害でもあるのか臨床心理士さん監修の何とかというテストを受けさせた話、進路の適性診断の結果の話、数学が落第点でこのままでは留年だという話などなど。そこは親。何とか社会で一人前に生きていけるよう気を揉んでいる。

一方、甥っ子の方は…というと、一つずつやれば理解はできるみたいだけど、そもそも勉強する必要性や周りと競争したり頑張ったりする意義がわからないらしい、何事にも決定的に「will―やる気や意欲」というものが感じられない。危機感もなければ渇望感といったものも皆無。

「じゃあ、好きなタレントさんとかは?」

「…いない」

まさに、何を言っても「暖簾にうで押し」。テストができなかろうと先生や親に怒られようと、それをやり過ごせばなんとかなる、と思っているからか、反抗わけでもなく、ぼぅーっとしている。そしてすぐ飽きる。まあ、思春期だし、そういうものかもしれない。

つまり「困っている」のは親や教師で、本人は「困っていない」のだ。周りからダメ出しや指導、塾やなんやかんや与えられ過ぎて、その処理が追いついていないのかもしれない。

車で駅まで送ってくれた帰り道、これまでずっと叱りつけてきた妹も「さとり世代だからしょうがない」「学校さえ行ってくれれば」「犯罪を犯さなければ…」と、ずいぶん折れて歩み寄り?を見せていた。

ACIMは40代以降がおすすめ!?

帰りの電車で心地よく揺られながら、ACIMとは別世界だぁ~、と感じていた。あたりまえだけど、子育て世代は子どもの日々のことやPTA、仕事、人間関係、諸々のことで大忙しだ。物理的にもそうだし心理的にもそう。

そこにはひとり暮らしの空間と時間でACIMに向かっているのとは、まったくの別世界があった。

妹夫婦と甥の生活を垣間見て、「ACIMが万人向けではない」と言われるのももっともだな~と思った。

とくに自分の適性を知って進路を決めて…将来何になろうかという人生の段階と「神だけがあり他すべては幻想だ」と説くACIMの世界は目を向けているものがまったくちがう。

わずか半日だけど妹の身になって子どもの進路を考えていたら、社会から隔離されたような状態を作ってそこでACIMを勉強している自分がひどい変人に思われた。まあ、変人というのはまちがいないだろうけど。

個人的にはACIMというのは、40代、中年の転機以降に出会うべきものなのかな、と感じている。

人生の前半はエゴのもと社会的成功や夢や恋愛やいろんなものに興味を持って振り回されたり傷ついたりしたうえで、価値観が転換した中年期以降に出会うのが自然なんじゃないだろうか。

それとも、甥っ子はすでにこの世の幻想性を見越していて、それではなから執着がなかったりして。それも、またすごいが…。

夕方通勤客で込み合う渋谷でふとわれに返った。

16歳の甥っ子は迷走はするだろうが、若い、本人次第だ。心配無用。心配の必要があるとしたら、55歳になるわが身だ。気づくとACIMをタテに引きこもっている。

まあ、これもおいおい考えていこう…