レッスン60-レッスン46~50の復習

2016-09-19

敬老の日

今朝は母の電話で起きた。

朝刊を取りにポストを見たら、私が送った「敬老の日」ギフトがあったと。

ユニクロでベージュの薄手のセーターを買い、それにオレンジピールチョコを足してゆうメールをポストに入れたのが、土曜日の夕方。もう着いたんだ。

喜んでくれている。よかった♪

洋服はだれでもそうだけど、好き好きがある。とくに母はこだわりがいろいろ細かい。

過去も何度も“失敗”し、無駄遣いだと言われ、「もう服を買って送るなかれ」指令を受け取っていたから、止めようかなと思っていたけど、食べ物というのも同じくむずかしい。お菓子はひとり暮らしの私がもらってうれしい一方つい食べ過ぎて困るものだし…と迷っていたのだ。

ユニクロだったら、安いしシンプルだし、気に入らない場合は、私が引き取ればいいんだ、とそれにした。

小言を言われるの覚悟で送ってたから、「ありがとう、ちょうどよかった」と言われ、ほっとした。

幼い頃は「こわい」母が大きらいだった。早くから心のシャッターを下ろし自閉的に生きてきた気がする。

50代になった今。家族を作ってこなかった分自由で楽な一方、やはりさみしくもある。今は母がいてくれることがとってもありがたいのだ。

レッスン60-レッスン46~50の復習

ここ数日はレッスン60の復習をしていた。

主題概念は以下のとおり。レッスン46~50の復習。

46)神は愛であり、その愛の中で私は赦す。

47)神は強さであり、その強さを私は信頼する。

48)恐れるべきものは何もない。

49)神の声は、一日中、私に語りかける。

50)私は神の愛に支えられている。

               *   *   *

ワークブックのl60の説明文でとくに好きというか響いたのは、

「赦しは、私が自らの無垢性を認識するための手段である。それは神の愛が地上に反映されたものである。」(l46)

「私は、私自身の強さによって赦すのではない。私の中の神の強さによって赦すのであり、赦すとき私はその力を思い出している。」(l47)

「私が赦し、私を赦した世界の中に、恐れるべき何があるというのだろう。」(l48)

「私が赦すとき、神の子は無罪であることを、神の愛が私に思い出させてくれる」(l50)

気づいたらとくに「赦し」について書かれたところばかりだ。中でも「自分の強さによって赦すのではなく、神の強さによって赦す」という文言が響く。

なんでかな?

頑張って強くならなくていい、と思えるからかな。自分の中に「神」に通じるものを、ふっと、感じることができるからかな。

やさしくなった?

「赦し」という概念がどういうものかわかっているか、実行できているのかわからないけど、ワークを重ねてきて、

周りの人がやさしくなった、と感じることがある。それは、コンビニのやスーパーの店員さんが丁寧に接してくれる、とか、横断歩道で車がちゃんと止まってくれるようになった、とか、とってもささいな事。

そして親戚から、たまちゃんは「やさしくなった」と言われることが増えた。

自分が赦しによって自分を責めることが少なくなって肩の力が前より少し抜けたから、そう見えるのかな?

前にふと何かで見たのに、

「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」みたいな文があった。あれは…『なまけ者のさとり方』だっけ??

これを赦しで言うと

「赦すことがわからなければ、そのわからない自分を赦しなさい」となる。

わからない。

わからないけど希求している。それはわかる。

だから、ゆっくり導かれるままにやろう、と思う。

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