レッスン57-レッスン31~35の復習

2016-09-06

初秋に思うこと

2013年の6月からスタートしたACIMのワーク。2015年12月にようやく365のワークを終えた。そしてその後今年5月から2巡目を始めた。

昔のノートを見て返してみたら、3年前の9月3日にレッスン57をやっていた。この頃は仕事がとても忙しく、その忙しさのなか必死にワークを進めていた様子が見える。途切れながらも頑張っていたが、秋半ばレッスン80あたりでとうとう中断、翌年3月にレッスン30から再スタートしている。

この3年と数ヶ月、私は成長しているんだろうか。

自分ではわからない。仕事が徐々に減り、とにかくワークを終わらせたいからむしろいいんだ、と思ってきたけど、気づくと元々ビジネス向けでない性格がさらに隠遁者のようになっており、むしろ社会的には後退というか、大問題になっている気もする。

父の介護が必要になってきたあたりから、故郷の富山に頻繁に帰省していたこともあって、忙しくなりすぎることを恐れていた。その頃から「東京にがっしり根付きたい」という意識が持ちにくくなり、故郷にいる両親のことが気になるようになってきた。

昨年父が亡くなり、この夏、一人で住まう母の姿を見て、ますます故郷が気になってきている。

でも、潔癖症の母と一つ屋根の下に暮らす自信はないし、東京での一人暮らしに慣れた身にとってご近所の目を気にする田舎は窮屈な気がして、決意ならず。宙ぶらりんな感じ。

もしいずれ母の介護が必要になったら、住まわざるをえないとも思う。だったら早めに舵を切ったらいいのではないか。でも、仕事はどうする?向こうで勤めるなんてこと、集団や組織が苦手な私には想像しにくい。

できたら、ノマド生活というか、どこでも働けるネットビジネス的なことができないかな~というのが、今の私の思うことだ。要するにワガママで選択肢があって恵まれている、ということなんだろうけど。

こういうぐるぐるした考えは、いかにもACIM的ではない。

ホーリースピリットからの導きは…?

ちゃんと受け取れているわけではなくなんとなくだけど、

ずっと前から故郷で住まうことを勧められているような気がする。

でも、じゃあどうやって?

気がするというけど気がするのは本物?

と、また考えは廻る。

レッスン57―レッスン31~35の復習

レッスン57の主題概念は以下のとおり。レッスン31~35の復習。

31)私は自分が見ている世界の被害者ではない。

32)私が、自分の見ている世界を作り上げた。

33)この世界について別な見方がある。

34)私はこのかわりに平安を見ることもできる。

35)私の心は神の心の一部である。私はとても神聖だ。

               *   *   *

私たちが住むこの世界は、自然災害がありテロへの恐怖があり、貧困があり、仕事で理不尽なことがあったり、病気になったり、思うにまかせない世界だ。もちろん夢がかなったり成功したり…もあるけど、それは一時的なことにすぎない。ACIMはこの世を自分が自分を囚われの身としている「牢獄」だと言っている。

ただ「この牢獄は私自身が作り上げたものだ」(l32)

「私を縛る鎖はゆるんでいる。私はそうしたいと望むだけで、鎖をはずすことができる。牢獄の扉は開いている」(l31)

「ここにとどまりたいという私の願望だけが、私を囚人としている」(l31) のだ。

この世を牢獄にしているのは私たちがエゴの見方でものごとを見ているからだ。エゴの見方の根底には、恐れと罪悪感があり、それが私たちを見えない牢獄に縛りつけ罰を与えている。

でも私たちは「すべてを逆さまに見ていて、私の考えは真理とは正反対になっている」(l33)

「私はこのかわりに平安を見ることもできる」(l34)

つまりエゴの見方を捨て、心眼(ヴィジョン)でものごとを見ることができれば、艱難辛苦のベールの向こうにある自由を感じ取れる。

そこにあるのはたしかに神の法則だ。

神の法則を見るためには、赦すこと。この世の幻想性を受け入れ、自分の心の奥にある神の世界のリアリティに立つ。

赦せば赦される。

私の偽りの罪が購われて、「自分を含めた生きとし生けるものの聖性、それらのものと自分との一体性を理解し始める。」(l35)

               *   *   *

私はACIMの美しい世界に憧れを感じるけど、それはまだ憧れレベルなんだな。それをこのゲンジツの世でどう生きたらいいのかは、まだわかっていない。

わかろうとするのを自分で邪魔しているのか。扉の外から「おいで」と声をかけられて牢獄の片隅で身を固くしているのだろうか。とも、ふと思う。