お葬式

2017-04-08

ご近所さんのお葬式

マンションの上の階の方が亡くなり、その葬儀に行ってきた。ご夫婦の旦那様の方で、世帯数が少ないマンションで一緒に理事を務めたことがあった。若く見えたが聞けば80歳だったという。早すぎるという歳ではないだろう。

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ポストに葬儀の案内が入っていて、とくに親しかったわけでもないから、どうしようかと迷ったけど、かつて下の階の方が亡くなられたのを何年か知らず、後に知ってショックを受けたということがあったから、今回はそんなことは嫌だと思い、参列した。

お葬式ではなくお別れの会という形式だった。行ってよかった。元気だった頃の遺影を見て、懐かしく思えた。

散歩をなさる姿を時折お見かけしており、その方が逝ってしまわれたというのが不思議な気がした。病気になられてからは気落ちしておられる様子が痛々しかった。

当マンションはもう築35年を超える。私は越してきて14年になる。どんな一生だっただろうと思いを馳せた。昭和の高度成長期に若かりし血気盛んな頃を過ごし、小さいながら新築マンションを買った当時は希望に満ちていたかもしれない。

近しい人ではなかったくせに、とても切ない思いがした。ご家族も泣いておられないのに、友人代表の挨拶を聞いて泣けてきてしまった。

しかし、なんでこんなに悲しいのだろう。亡くなった方はいったいどこに行ってしまったんだろう。

これこそが神との別れの再現か

落ち着いて考えてみたら、これはまさに、父なる神との別離の再現映像なのかもしれない、と思った。私の見方はまさに二元性だ。死はないというACIMの教えに反する。

私たちはこのゲンジツの世で、神との別離―神の子の幻想の中だけの出来事で実際には起っていないのだけど―を、何度も形を変えて再現VTRのように見ている。

今のこの切なさ、悲しさこそが、別れへの反応だ。そしてこそれこそが今私が赦すべきことなのかもしれない。

私たちが見ているこの世はリアルではない。悲しみや別れはない。喜びと幸福、愛…神だけが在る。

ここで悲しんでいるのはエゴに支配された私の心だ。別離を本当のこととして捉え感情に飲み込まれている。

そして、ご近所さんのご葬儀にこんなに心が動いてしまったのは、故郷でひとり暮らしをしている同い歳の母とだぶるからなのかもしれない。いずれ迎える親との別れ。そしてやがては迎える自分の死。

ACIMを学んで、私が取りうるべき反応というのは、赦すことと感謝すること、愛すること、この3つだと思うようになった。だけど、実践の場ではなかなかそうはいかない。

思いっきり悲しいんだ。

玉ねぎの皮を一枚ずつ剥ぐように、ワークを繰り返していけば、エゴの見方を薄めていくことができるだろうか。

満開だった桜は昨日、今日の雨でかなり散った。今年の東京の桜もそろそろおしまいかな。桜の花は、はかなげで鮮やかで、あっぱれだ。まるで人の命のよう。

ああ、やはりこれもまたエゴの二元性の見方かな。まだまだ、まだまだだ。

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