ACIMワークブック346-今日、神の平安が私を包み込む。そして神の愛以外のことは、すべて忘れ去る。

2020-05-13

「時間に属するものを求めず、それらには目を向けません」

父よ、今日、私が目覚めるとともに、奇跡が一切のものについての私の知覚を訂正します。」(W-pⅡ.346:1.1)

そのようにして、この一日は始まります。今日は時間が脇に退いたので、いずれ永遠を共有するときのように、この一日をあなたと共有します。私は時間に属するものを求めず、それらには目を向けません。」(W-pⅡ.346:1.2-3)

今日、探し求めるのは、時間の法則も、時間の中に知覚されるものも超越したものです。あなたの愛以外はすべて忘れたいのです。」(W-pⅡ.346:1.4-5)

「時間」への執着

こちらはもう初夏の陽気。長い夏が始まった(一年の半分は夏になったと思う)。

首元の髪が暑いから、結べるくらいまで伸ばそう。

散歩コースの公園ではカモが子育て中… 

かわいい (^ ^) 

先週末遠方に住む友人と電話で話していて、それぞれが執着するものの違いに気づいた。

友人は、高価なものやブランド品には関心はないけれど、服やバッグなど「自分が気に入ったモノ」はとても大事で、人から「年齢相応にもっといいもの使えば?」と言われても自分なりのこだわりが強いと話す。買ったものはなかなか捨てられず、服などは何度も継ぎ当てして着ているものさえあるという。

「たまさん、そういうのない?」と私に問う。

私はモノ自体への執着はさほどない方かなぁ?捨てられないものはー?と考えてみたら、あった。

その昔、おばあちゃん(母方の祖母)がゆかたを縫ってくれた。何枚かたんすの奥にある。

それはもう着ることはない。でも捨てられない。

よくよく思い起こしてみたら、私は「過去の自分」への執着や「時間」への執着は相当なものだと気づいた。

人がふつう執着しがちな「物欲」的なものに向かわないため見落としがちだけど、これって物欲以上にやっかいでは?

「心理的財布」という概念では、人は自分が買う商品ごとにいくつもの財布を持っていて自分が価値を置いているものは安く感じられるという。過去を振り返ってみても、私はバッグに1万円は出せないが、目に見えない時間消費的なもの(セミナーや占い学校みたいな)には、どーんと気がでかくなる。

これも私が「モノ」より「時間」に価値を置いているからだろう。

そして「人生=時間」と思っていて時間をコントロールしたいという思いもわりかし強い。

幻想だとは知っているはずだけど。

なんかこの観念、赦すの手ごわそうだ。

他にも自分で意識していない固定観念っていっぱいあるなぁ、きっと。

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