ACIMワークブック第Ⅱ部‐13.奇跡とは何か

2020-04-18

奇跡とは何か

奇跡とは訂正である。」(W-pⅡ.13-1:1)から始まる本節。

「奇跡」という概念はこの世の一般的な意味合いとは違うし抽象的概念だから、私にとってはむずかしく、今もむずかしいままペンディングしている。もう少ししたら、テキストの第1章「奇跡の意味」をじっくり読んでみようかな。

私が親しみやすく一番読んでいる『神の使者』(3章)には著者ゲイリーの言葉として、「コースのいう奇跡は物理的なレベルとは無関係」で「それ(奇跡)は心で起こる認識の変化なんだ」とあるから、そうなんだな~と理解していた。

また、参考にしていた大畑学さんの『A Couse in Miracles Text精読』の導入部には、「奇跡とは幻想から実相 へ 目覚めること虚偽から真実 へ 目覚めることを意味している。」とあったから、これもなるほどそうか、と思った。

そして大畑さんの解説では「仏教的な言い方をすれば、悟りを開いて覚醒し、般若を得て、輪廻の輪から抜けることである。」と続いていた。

奇跡はただ信じることから始まる

腑落ちしているわけではないけれど、「13.奇跡とは何か」から奇跡の描写で気になったところを引用すると、

奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。それは誤りを取り消すが、知覚を超えるところまで進もうとせず、赦しの機能はたらきを超えようともしない。」(W-pⅡ.13-1:3-4)

それゆえに、奇跡は時間の枠内にとどまる。それでもそれは、超時性が戻って愛が目覚めるための道を開く。奇跡がもたらす優しい癒しのもとでは、恐れは必ず消えていくからである。」(W-pⅡ.13-1:5-6)

こうして、世界がその方法をまったく理解できないがゆえに従うことのない真理の法則を、奇跡は例証する。」(W-pⅡ.13-2:2)

赦しは奇跡の拠点である。キリストの眼は、それが慈悲と愛の中で眺めるすべてに奇跡を届ける。」(W-pⅡ.13-3:1-2)

奇跡ははじめはただ信じることから始まる。なぜなら、奇跡を求めるということは、心が自ら見ることも理解することもできないものを思い描く用意ができたということを示唆するからである。」(W-pⅡ.13-4:1)

奇跡は誤りを修正するものだが、知覚を超えるところまでは進もうとしない。

時間の枠内にとどまる。

世界が理解できない真理の法則を例証する。

というあたりが、今回、そうなのか~、と思ったところ。

奇跡ははじめはただ信じることから始まる。」とあるから、今は暗がりで手探りで奇跡に近づくと思える方向に向かうということかな。。。

それにしても奇跡に関しての文章ってどれも素敵だ。意味ははっきりとは理解できなくても惹かれる。最後の段落も。

奇跡は、飢えと渇きに苦しむ生き物たちが死ぬためにやってくる渇いた埃まみれの世界に、天から降り注ぐ癒しの雨のしずくである。今や、彼らは水を得た。…」(W-pⅡ.13-5:1-2)

自分の見方が変われば、この世が変わって見えるということだよね?

素敵だな、、、

い~つか体験できるかな。。。

天国へのハシゴの下段から果てしなく小さくなって続くハシゴを見上げる。。。

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