『奇跡講座』 ワークブック

ACIMワーク256-今日は、神だけが私のゴールである。

2019-04-18

テンションMaxから気が抜けて

ゲイリー・レナードさんのワークショップでいつになくテンションが上がってしまった翌日はぼわーんとしてしまっていた。

元々外交的なほうじゃない上に近年こもっているから、一人で初めてのところに出かけていくこと自体ハードルが高かったようだ。

その緊張と、本ではよく知っている憧れている人に会えた喜びと。

それらがまぜこぜになってMaxになった後、そこからストンと気が抜け日常に戻ろうとしていた。

自分が軽くなり空気に身を任せるのが心地よいという感じだった。

憧れの人を前に、教えをすっかり忘れ二元性のダンスに興じていたなぁという照れくささもあった。

公園に行くと1羽のハトが、仲間から離れて座り込んでいた。

春の日に何か考え事をしているような?

いや、何にも考えてないのか。

しかし、この世のリアリティの圧倒的なことよ!

赦して、赦して、玉ねぎの皮を剥くようにエゴを剥いで…この世を別の見方で見よというけれど、ちょっと動いただけでこの世のリアリティに飲み込まれてしまう。

私は理屈はわかったつもりでいても、この世で自分の配役でどう適用していくべきなのかは、まったくわかっていないのだった。

非常に圧がかかったゲンジツでも、軽やかにやさしくいられたらいいと思う。

ACIMワーク256-今日は、神だけが私のゴールである。

私たちは、罪悪感があるから、この世に出現している(かのように見える)のだという。

ここでは私たちはまるで夢遊病者のように五里霧中のなかをさまよい歩いているだけだ。

ただ目をつむり内なる神を見ることができれば、神の実在が感じられるはずだが。

この世は忙しいのだ。

二元性の世の中では私たちと神は分離しているように見え、神と神がもたらす死は最も恐ろしいものだ。忙しいのは、その神と死を忘れていなければならないからだろう。

…そうではなく!

私たちは今も神とひとつだ。何も心配することはない。

ただただ夢を夢と認めこじらさないことだ。

神への道はこの世では赦しを経由する。」(L256-1-1)

この世では、私たちは夢を見ることしかできない。しかし、本当はいかなる罪もない神の子を、私たちが赦したという夢を見ることはできる。」(L256-1-7,8)

どうせ見るなら、私たちが赦したという夢が見たい。

神が私たちのゴールであり、赦しは私たちの心が遂に神のもとに帰るための手段である。」(L256-1-9)

この世の出来事に関わらず、いつも正気でいられたらいいなと思う。

非二元性を受け入れながら、二元性に見えるこの世の中でどう在ればよいのか、まだ正直なところわからない。

だた、赦すべきが現れたら赦すだけ。(それがむずかしいが)

それがこの世での在り方を身に身に付けさせてくれるのだろう。

このロールプレイゲームの戦い方は、赦しなのだ。

まだまだ稚拙だけどそれしかないと知っているから、やろうと思う。

ACIMワーク255-私はこの一日を、完璧な平安の中で過ごすことを選ぶ。

2019-04-12

ACIMワーク255-私はこの一日を、完璧な平安の中で過ごすことを選ぶ。

私は、今日、自分が平安だけを選択できるとは思えない。それでも、わが神は私に、神の子は神ご自身と同じだと保証している。

今日は、私が神の子であると語る聖霊を信じよう。」(L255-1-1,2,3)

私は神の名にかけて、父が私のために意志するものを見出すことに、一日を捧げる。」(L255-1-6)

この「4.罪とは何か」の節では、繰り返し真実を思い出させ選択するよう促す主題概念が並んでいる。

まるで「正気にかえれ、思い出せ」と肩を揺さぶられているようだ。

明日ゲイリー・レナードさんのワークショップ

ゲイリー・レナードさん&シンディ・レナードさんご夫妻のワークショップが明日に迫った。

なんかまだキツネにつままれているようなぼわんとした気分で、心の準備がおっつかない。明日ちゃんと会場に行けるだろうか。

参加するまでにゲイリー・レナードさんの新書『イエスとブッダが共に生きた生涯』を読み終えたいと思っていたけれど、それもまだ途中。

この新しい本では、

奇跡講座(ACIM)を机上で学んだだけではACIMを理解したとは言えない、

赦しを実践してこそエゴを解体できる、

それこそが神と私たちを隔てているものを取り除く、

ことが強調されている。

私はACIMを学んでいるつもりで、実は赦しの機会から逃げていた。

『イエスとブッダが共に生きた生涯』を読んで、それではせっかくACIMに出会ったのに遠回りをしていると感じた。

またACIMの核となる純粋な非二元性が、眼前の人の存在を否定するような気がして、周りの人にACIMについて話すこともできなかった。

けれど、それではACIMを生きていることにはならない、堂々と非二元性を話せるようになろうとも感じた。

生身のACIM学習者に会うの初めてだ

私は2013年からACIMのワークブックをやっていて、大畑学さんのACIM解説本を読んだり、このブログにコメントをいただいたりしてACIMを学習されている方々の存在に触れることができた。

だけど直接ACIMに関心を持っていたり学習されている方を見る(へんな言い方だけど)のは、明日が初めてだ(あ゛~、私は同胞を肉体として見ている)。

おととい着た開講前のご案内メールには、

「当日の受付は混雑が予想されます。
 時間に余裕を持ってご来場ください。」とある。

『神の使者』を読みACIMに関心を持っている方がそんなに大勢いるのか!

その方々に会える。

それにもドキドキする。

きのうのワンコインイングリッシュ講座終了後、先生にゲイリーさんへ向けて作った短いメッセージを添削してもらった。これを伝える機会があるかわからないけれど…

「For me, your book "D.U" is the most important book I've ever read.

If I can take one thing with me to a deserted island,I would bring your book!

Thank you for writing it.」

(あなたの著書『神の使者』は私がこれまで読んだ最も大事な本です。もし無人島に何か一つだけ持っていくとしたら、この本を持っていきます。『神の使者』を書いてくださってありがとう。)

えっ、1冊持ってくなら、『奇跡講座』じゃないの!?

というツッコミがあるかもしれないけど。

私は自分にとってわかりやすい『神の使者』のほうかな~

今晩の思いーここまで導いてくれた聖霊さんにもっと素直になろう。

ACIMワーク254-私のなかで神以外の声がすべて静まりますように。

2019-04-04

春キャベツを買って…

春らしいよいお天気。早朝から開いているスーパーで買物。

春キャベツが100円。

安い。キャベツ、おいしいよね、からだにもいいし、とカゴに入れる。

他にもバナナやヨーグルト、納豆、ホッケの干物などぐるっと回ってカゴに入れレジでお会計。

商品を袋に入れながらふとレシートを見ると、あれっ、キャベツが180円になってる。

ちがうよ。100円だったよ。

そのお店はちょいちょいレジの間違いがある。またか。

で、申告する前に、キャベツの売り場に確認に行ったら、あら不思議。

値札はレシートどおり「180円」になっている。

でも、さっきはたしかに「100円」だった。

私が買い物カゴに入れた時より、キャベツがどーんと増えている。店員さんが今朝入荷分を店頭に並べ、それから「今日の値段」を付けたらしい。値札は何枚も重なっている。

あ゛、だったら、入ったばかりの新鮮な180円のをもらえばよかった…

…と。

こ~んなささいなことでも、一瞬「あ゛」と思う私。これはリアルではないのにね。

幸いキャベツと80円の差額だったからすぐ気を取り直し帰った。

けど、事故とかトラブルに巻き込まれたら、完全に『奇跡講座』を忘れ自分の目先の損得に固執してしまうだろう。

ACIMワーク254-私の中で、神の声以外の声がすべて静まりますように。

今日、私たちは、自分の言葉や行為が自我の考えに支配されないようにする。

そのような考えが生じたら、静かに後ろに退いてそれらを見つめ、その後、それらを手放す。」(ワークブックL254-2-1,2)

そうそう、自我の考えに支配されないこと!

でも何かが起こっているときにはしばしば何が自我の考えか、何がそうでないか(聖霊による見方か)、わからなくなる。

で、自分が「正しい」と思い込んで前のめりになる。

その時、この世のゲンジツをすべて自分が作っていることはまったく忘れている。

だれかが真実を教えてくれても、それを理解するスイッチがオフになっている。

私ったら、気づけば、

神さまを信じることが結果的にはすべてを満たすのに、自我の声を重んじて自分の邪魔ばかりしている、とよく思う。

脆弱なACIM学習者だ。今のところ。

何事も練習、訓練なんだろうけど。だからこうしてワークをやっているんだけど。。

ワークったって、気がはやって神を感じられるまで心を鎮めることができないことが多い最近。

これじゃあな。

どうか…

私の中で、神の声以外の声がすべて静まりますように!

ACIMワーク253-私の自己は、宇宙の支配者である。

2019-04-03

皇居近くでのお花見ランチ

新年号「令和」の発表翌日、友だちと皇居周辺でお花見&ランチした。

3月30日~4月7日まで皇居乾門通りの一般公開だったこともあって、皇居から千鳥が淵周辺はたいへんな人出だった。

昨日はあいにく曇り空で、色がつくかつかないかという微妙な桜のピンク色はくすんで見えた。

どちらかというと友だちとのおしゃべりがメインで桜を堪能するという感じではなかったけど、年に一週間だけの桜の花のいのち。帰宅後、もっともっと間近で見上げればよかった、と思った。

日本人のDNAなのか?…やっぱり桜が好きなのだ。

ゲンジツの刺激にすぐわからなくなってしまう私

私はひとりで静かに『奇跡講座』の世界に浸っているときは、穏やかで気分よく『奇跡講座』が指し示す神の世界こそリアルだと感じていられるのだけど、イベントや外出で刺激を受けたりだれかと長時間一緒にいたりすると、すぐこの世界の刺激の強さにのまれてしまい、わけがわからなくなってしまう。

妹が泊まりに来ていろいろ昔のことや母のことなどおしゃべりして無意識が動いたのか、あるいはイベントの人出に当たったのか、妹が帰った後疲れきってしまい、一日ぼーっとしていた。

『奇跡講座』を学んでいるといったところで、それは人里離れた一軒家のひとり暮らしみたいに外部からの刺激が少なく“守られた”環境でのみ言えることで(そこでも大いなる自然の刺激、影響がある)、普通の環境ではまったく身についていないのかもしれない。

赦しだって頭の中だけで考えていることで、実践はできていないのかもしれない。

…すぐ自分がだれだかわからなくなってしまう。

落ち着いてリズムを整え、自分が聖霊に導いてもらっている神の延長であることを思い出したい。

ACIMワーク253-私の自己は宇宙の支配者である。

私自身から招かれずに私のもとにくるものはない。

この世界においてさえ、私の運命を支配するのは私である。

私の身に起こることは、私が望んでいることである。

生じないものは、私がそれが起こることを望まないものである。」(L253-1-1,2,3,4)

そうなのだな~

すべて自分が見ているものは、自分が見せているものなのだ。

私はだれかや何かに巻き込まれているわけではない。

自覚はないが、すべて私自身が作って見せているゲンジツなのだ。

この真実もまたすぐ忘れてしまうから、ちょいちょい思い出すようにしよう。

『奇跡講座』を勉強している(思い出している)ときは、この世の今のささやかなことや瞬間的なことはリアルではないから…リアルを見ようと投げ打ってしまうことが多いけれど、もっと大らかでもいいかもな。

桜はやっぱり美しく心惹かれるし、新年号騒ぎはかわいくも見える。

そういう一つひとつが今からだをもって生きているってことだ。

そこを否定することが『奇跡講座』だと思っていたけど、それはそれ。執着さえしなければ、楽しんでいいのかもしれない。

ACIMワーク252-私のアイデンティティーは神の子である。

2019-03-27

主題概念から初めての占い体験を思い出す

また少しワークをやる日とそれをダイアリーブログに書く日にかい離が…。本来ならばワーク体験を記録できればと思っていたけど、たいしたメモもなくどんなふうに感じたのか思いだしづらい。

なので…

私のアイデンティーは神の子である。」この主題概念を見て、今思い出したこと。

むかーし、むかーし、18歳の頃、初めて高校からの友だちとラフォーレ原宿に行き、そこで初めての占いをした。

その頃のラフォーレはできたばかりで田舎育ちの私にはすごくキラキラして見えた。いくつかある占いブースのうち和風なおばさま占い師の前に座って、ドキドキしながら言われることを待った。

言われた(覚えている)のは、

・お母さんとの関係(相性?)に問題アリ

・非常に信心深い

の二つ。

友だちは「おっとりとして見えるたまちゃんに『お母さんとの関係が良くない』って見抜くってすごいね!」とコーフン気味だったのを覚えている(私は母親のグチをよく言っていたのだ)。

私は、「信心深い」のほうに「えっ?」とびっくりしていた。

18歳の女のコ(当時!)をつかまえて「信心深い」とは…!?と。

占い師さんは「宗教に入るとかそういうことじゃなくて、神さまに対する信心があるということですよ。」と補足された。

幼い頃や若い頃のことをほとんど覚えていない私がこれを覚えているのは、言われた内容が驚いたのとどこか刺さったからなんだろう。

そもそも占いを信じるかどうか、ってことがあるけれど。ラフォーレでの占い初体験は、なかなか衝撃的だった。

占いの答え合わせ!?

今40年近くたって、たしかに宗教組織に入ったことはないけれど、またキリスト教系短大で聖書の授業があったにも関わらずそれには全然なじまなかったけれど、『奇跡講座』に出会って今もつながっているということは、ある意味信心深いのかな~とも思う。

「お母さんとの関係に問題アリ」のほうはずいぶん改善した。

私の自己の聖性は、今の私が考えつくあらゆる聖性の概念を超えたものである。

そのきらめくような完璧な清らかさは、これまで見たどんな光よりもはるかにまばゆく輝いている。」(L252-1-1,2)

ゲンジツの私は自己チューで怖がりで…怠け者。

清らかさとはほど遠いけれど、そのカケラがどこかにあるならそこに手を伸ばしたい。

それにしても時間も錯覚だというけれど、40年の何と短いこと!

私を占ってくださった占い師さんは、当時すでに50歳を超えているように見えたが、今はどうしておられるだろう。

「深い信心があるのよ」…と時空を超えてもう一度言われたような気がした。

「私のアイデンティティーは神の子である。」かぁ…

まだ高らかに宣言するまでには至らないけど…

ACIMワーク251-私は真理だけを必要としている。

2019-03-25

桜満開直前

今朝のウォーキングでの桜。満開直前。

写真の撮り方ヘタで桜の色の美しさが伝わらないけど。

一年に一度、一週間の華麗で切ない桜ショーが始まる。

あの薄ピンクの薄い薄い花びらに生と死が凝縮されているから、こんなに人を魅了するんだろうな~

ACIMワーク251-私は真理だけを必要としている。

レッスン251ー「私は多くのものを探し求めたが、見つけたのは絶望だった。」(L251-1-1)から説明が始まる。

見つけたのは絶望、オンリー!? いや~、そこまでひどいとは思っていなかったけど。

奇跡講座(ACIM)が「一般向けではない」「万人のニーズを満たすものではない」と言われるのは、こういうところだろう。

大前提としてゲンジツの世の否定がある。

私たちはこの世と人間を、「いろいろあるけれど善いものだよ」と捉えることから、人生(と思えるもの)をスタートさせる。

その人生のなかで、「頑張れば報われるんだよ」と教えられ「だから頑張れ」と教育される。

あながちそうとは言えないことは大人になってわかるけれど、それを言っちゃあおしまいなのだ。

そうやって、この世の中と折り合いをつけて、幸せを見つけることが人間の命題なのだと思い込んでいる。

そして、学業を終え仕事を見つけ、伴侶を獲得し子孫をもうけ、映画や音楽を楽しみスポーツに興じ、旅をして自然を愛で、人生を豊かなものにしようと頑張っている。

そういうささやかな「大変な頑張り」を、ACIMは全否定しているかのように見える。

それだから、この人生に成功し満足している人より、そういうグループには入らなかった人のほうが、ACIMを学びやすい傾向にあると言われるのかもしれない。

人生に満足している人は、努力して頑張って手に入れたものがリアルではないなどという“たわごと”は、到底受け入れられないだろう。

私はうまく行っているほうではないし、ACIMの教えはすばらしいと思っているけれど、それでも「見つけたのは絶望だった」とバッサリ切られるとひっかかる。

桜の美しさもそうだし先週行われたフィギュアスケート世界選手権での頂上決戦での演技もそうだし(女子も男子も)、美しくて感動的なものもいっぱいあるよー、と言いたくなる。

真理とこの世の美しさは両立するのか

こう書いてきて、ふっと、前にくさちゃんがブログで言っておられたことを思い出した。

3月初旬に私がゲーリー・レナードさん来日ワークショップ発見の日記を載せた時、2年前京都ワークショップに参加された際のブログの感想を紹介してくださったのだ(くさちゃんのブログ:2017年5月7日の記事より)。

「外部の事柄として感覚化されているものは
心の投影と言われていて。

このワークショップと、会場の美しい背景が
自分の心の投影だとしたら。

それはステキなことだな、と僕も思うのです。」

…そう見たら、この世に絶望せずに何かを見て美しい、素敵だと感じられることは、やっぱり素敵なことだな、と思っていいのかな、と思えた。

私は真理を必要としている。

だけど、それはこの世の美しさをすべて投げ捨てなければいけないものではない。

真理の中ですべてがかわる。レッスン251にも、

今、私は自分に必要なすべてをもっている。

今、ほしいものすべてをもっている。

そして今、ついに私は心安らかな自分を見出す。」(L251-1-7,8,9)

とある。

やがてやがて、真理の見る術が身に付いたら、この世はすべて私の安らかさの投影となるのかな。私は安らかさと美しさしか感じられなくなるんだろうか。

そういう景色を見てみたい。

第2部-4.罪とは何か

2019-03-22

罪とは何か

罪とは狂気である。」(第2部、4-1-1)から始まるこの節。

罪とは狂気…。そう言われてもなかなか難しい。

私たちは神から離れたと思い込み(誤解)、そのことに深い深い罪悪感を感じているがために逃げ場所としてこの宇宙を作った。

それは単なる意識の産物であり「この世界ゲーム」という架空のものだ。

ただプレーヤーである個々の私たちはゲームに入り込んでいて、そのことを知らない。見えない。

この世界をよりよいものにしよう、自分の人生と思えるものをいいものにしたいと、このゲームを支えるだけだ。

『奇跡講座』(ACIM)はこの世界を支える根本原理が罪悪感であり、それが幻想を作り上げていると繰り返し伝えている。

幻想は真実ではない。

罪はないのだ。

しかし私たちはいつもいつも“罪人”を糾弾し続けている。

自分の外に見える罪と思えるもの。許しがたいと思えるもの。

それを、私が・心の中で赦して流すのだ。

ゲームを俯瞰して外から見たら、私たちの知覚は狂っているのだから。

狂人の夢はぞっとするほど恐ろしく、罪は身の毛がよだつほど怖いものに見える。

だが、罪が知覚するものは、幼稚なゲームにすぎない。」(第2部、4-4-1,2)

肉体の目的を変える

私たちの肉体は、宇宙と同様、分離した状態を表すイリュージョンの一種にすぎない。

肉体の目的は、存続のために努力することである。しかし、努力の目標は変わりえる。」(第2部、4-2-2,3)

虚偽だけでなく真理も、肉体の目的となりえる。」(第2部、4-2-6

分離の象徴である肉体を、真理に仕えるものとする。

これがこのワーク全体の目的なのだと思う。

赦しを知っていることとじっさいに赦せること

罪悪感… 自分は罪深いと思う気持ちは、なんと根深いものだろう。

まず自分の意識にすら上らないし、意識できたとしてもなかなか信じられない。

私たちは心の奥底で自分を赦してはいないのだ。

くりかえしくりかえし教えてもらって、たまーにかすかに信じることができるだけ。

神の子よ、あなたはいつまで罪のゲームを続けるつもりなのだろう。」(第2部、4-5-1)

罪は存在しない。」(第2部、4-5-5)

ああ、聖なる神の子よ、いったいいつまで、あなたはそれを続けたいのだろう。」(第2部、4-5-8)

私は、この考えに光を感じている。

だけど、概念的な罪ではなくて、自分の身に起きたことには、たちまちわからなくなってしまう。

こんなことが起こったから → 私はこんな思いになる。

この公式を手放さないかぎり、私はこの幻想ループから抜け出すことはできないんだろう~と思う。

罪はない。これは素晴らしい朗報ではないだろうか。

ACIMワーク250-私自身を、限られた者として見ることがありませんように。

2019-03-19

私自身を、限られた者として見ないためには、目の前の人を限られた者と見ないことが絶対条件だ。

分離を映し出す世の中では、自分と他者を切り離し「自分ではない○○が悪い」と考えることで、心の均衡を保っている。

それが無意識のくせになっていて、自分ではない「悪い」人を見つけて批判する。

その間だけは無意識の罪悪感を自分からそらすことができるから、楽になった錯覚がする。

だけどその作用は長くは続かないから、新たなターゲットを批判することが必要になる。

まるでドラッグやなんかの依存症のようだ。

批判依存。

それは他でもない自分がかかっている病で、遠くのことには観念的に考えられるが、自分自身が巻き込まれたことだと、ささいなことでも瞬時に批判の刃を持って身構えてしまう。

そうしたクセを治していくには、どんどん他者と触れ合って他者と自分を分けない、他者のなかに神の子だけを見る訓練をする必要があるんだろうなぁ、と思う。

奇跡講座についてのブログを初めて3年。かなり内向きな日々だったけど、そろそろちょっと外向きになってもいいんじゃ?

私は赦しどころか、奇跡講座の理くつだけ学んで脆弱なエゴをガードするスーパーエゴを作り上げてしまっているんじゃ…と、しばしば思う。

そして聖霊が導く正しい見方を学んだ自己の部分から、スーパーエゴとして“成長”したエゴが、そっちには行かすもんか、と引っ張っているんじゃ?

あ゛

私、ちぎれちゃうよ。。<(;゚_゚;)> 

 

考えすぎかな?これも頭の中での見解。

畳の上での水泳練習はそろそろやめて水に入らなきゃ。

とすれば、いろんな方と交わって、

彼の中の神聖な光を陰らせ、彼の強さが衰えて虚弱となるのを見ようとするのはやめよう。

また、彼の中に欠乏を知覚して、それを理由に彼の主権を攻撃しようとするのはやめよう。」(L250-1-2,3)

を実践することだ。

エゴが猛反発しないように、そろりそろり。徐々に徐々に。

ACIMワーク249‐赦しはすべての苦しみと損失を終わらせる。

2019-03-15

確定申告終えてほっ

何かにつけて体力気力が乏しい(と思っている)私には土日と講習が続くのは負荷がかかりすぎるみたい。ちょっと調子を崩していた。大量の花粉飛散(>_<)の影響…もあるかもしれない。

おととい確定申告を終えた。ほっとした。

今年はいつもにない不動産譲渡取得税(不動産を買った時よりも高く売った場合にかかる税金、これが関わってくるのはありがたいこと)の申告という作業があったから。

売買を仲介してくれた不動産屋さんはもう済んだ取引には親身ではなく、所轄の税務署も個別の相談までは受けられないとのことだった。

ネットで調べてたたき台を作り、他社の不動産税務無料相談会に申し込みいろいろ教わった。

相談会で対応してくださった税理士さんは、「これ、うちで仕事として受けたらお母様と二人分で40万円はいただきます」

それを無料相談会だからと親身に教えてくださった。おかげで、何とか自分で書類を作成して終わらせることができた。

ACIMでこの世の幻想性、おカネの幻想性を学んではいるものの、この世界ゲームに参加しているプレーヤーの私には、こういうことは圧倒的なリアルさを持って立ちはだかってくる(ように見える)。

もっともっと学習が進んだら、たいしたリアルさではなくなるんだろうけど、それにはまだまだ赦しの実践が足りない。

そうそう、カルチャー講座仲間からバレンタインチョコのお返しというわけじゃないだろうけど、ホワイトデーに手作りの肉じゃがをいただいた。



タッパーを新聞紙でくるみ、その気取らなさがあったかかった。

肉じゃが久しぶり、おいしかった!私よりうんと上品な味付けだな。東京の肉じゃがは豚肉だと聞いていたけど、これは牛だった。

ACIMワーク249‐赦しはすべての苦しみと損失を終わらせる。

赦しが描き出す世界では、苦しみは終わり、損失は不可能となり、怒りは意味をなさない。攻撃は過ぎ去り、狂気には終わりがくる。

そのとき、どのような苦しみがありえるだろう。

世界は喜びと豊かさと慈愛に溢れ、いつまでも与え合う場となる。」(L249-1-1~5)

書き映してしまった。

こういう世界をどこか知っているという記憶があるから、ACIMに惹かれたんだろうと思う。

私はACIMの理くつは素晴らしいと思っているけど、赦したくない、赦しの機会に直面したくないと思っている節もあるなと自己分析する。

赦しを実践してこそのACIMだ。

気が乱れがちな私の3月

このワークをやっていたのは3月の初めでその頃のワークメモを見てみたら、メモらしいメモはなく、

ただ「疲れていると思い込んでいるだけで、私は疲れてはいない。」という走り書きがあった。

ん?どういうことだ?

私は自分を身体だと見ているから、こんなに疲れやすいんだろうか。

「ゲイリー・R・レナードさんのワークショップ申し込んだ!」

「気が上がってしまい落ち着くことができなかった」

とのメモもあった。

そうそう、気が上がってしまったついでになのか、クレジットカード落っことした。再発行手続き…。あ゛~やはり私はマヌケだった。

もちろんこれも、この世界ゲームに参加しているプレーヤーの私の出来事で、大勢に影響はないことなんだろうけど。

疲れと支離滅裂。一回落ち着きたい。

ACIMワーク248‐苦しんでいる主体は、私の一部ではない。

2019-03-01

メルカリでペンタブ購入

昨日一昨日とほとんど休眠状態の自社の確定申告作業でばたついていた。嫌なことを先延ばししてぎりぎりにならないとできない性格は未だ直らない。

2月中旬ペンタブ欲しいと言っていたが、気づいたら買ってた。

メルカリで不用品を売った「売上金残」があり、ペンタブってどんながあるのかなと見てたら、ついポチっとしてしまったのだ。4,000円位。

メルカリで売ってメルカリで買う循環経済。売るのも買うのも手数料10%だからメルカリっていい商売してる。

ペンタブ使いこなせるかわからないのもを新品でまで買おうとは思えないし、もし新品買うならちゃんと検討しなきゃと買うまでには至らないだろうから、これでよかった。

でも、こういうものに、もはや使用説明書って付いてないんだな~(説明書はあるにはあるが設定の説明のみ)、

これ、どうやって使うんだろ?

私に使えるかな?

ACIMワーク248‐苦してんでいるは、私の一部ではない。

一年のうちでこの季節がもっとも苦手だ。

自社の確定申告で自分の無能さ、無力さ加減をを痛感するから。

こんなに豊かで自由でIT化に伴って無料で個人が使えるツールもたくさん出ているというのに、なんで何らか自分なりのプチ事業さえできないのか。。。

言ってみれば、なさけなさと罪悪感。

悩んでいる気もするし、悩んでいない気もする。

苦しんでいるは、私の一部ではない。

そう。

ACIMでは何かに苦しんでいる、悩んでいるなら、それはあなたの見方が間違っているという。

神の子である私たちには、本来愛と喜び、幸福以外はありえないはずだ。それ以外を感じているとしたら、それはあなたが幻想をリアルにしているということだ。

なので、私はここ数年「悩み」を大っぴらに言えない。

「悩み」はこれを「悩み」として相談してしまうと「リアル」にしてしまうと思っているのだ(ブログではついつい書いてしまうが)。

友達にはどうでもいい悩みしか口にしづらい。

苦痛を感じているのは、私の心の中の幻想にすぎない。」(L248-1-5)

今、私は自己概念や、聖なる神の子についての欺瞞や虚言を、放棄する。」(L248-1-7)

これを実践しようと思っている私と、

気づけば苦痛や悩み事について考えてしまっている私。

それをまたゲンジツに向けて自力で努力することはせず心の中で手放そうと試みる。

ああ、こんなんでいいのか。。。

この世をリアルにせずにこの世と絡み合わない生き方って、なかなか理解されないだろう。私もそれでうまくいっているとは言えないから人に言いづらいなと思っている。

ACIMを前進しているのか、

はたまた世逃げ度と怠け者度を増しているだけなのか。

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