レッスン32-私が、自分の見ている世界を作り上げた

 

2016-06-29

疲れやすい…

6月26日(日)レッスン32のワークに入ったが、先週からずっと出かけていたためか疲れがあり、どうも夜の瞑想ワークができず、停滞していた。ここ数年「疲れ」が私のウィックポイントになっている。フリーランスで体力・気力が乏しいなんて致命傷だ。

たいした用事でなくても誰かと会ったり○○講座に出たり、といったことが私にとって「オン」の日で、それが何日か続くとへたってしまって、回復するために誰とも会わない「オフ」の日が必要になる。こんなことを言っているオトナは周りにいないし、およそ人には理解できない感覚だ。たんに怠けグセがついてしまっているのかもしれない。私と同年代で週5日勤務している人や自営で店をやっている人などは、ほんとうにえらいと思う。

月曜日、数年ぶりに「会いませんか」と連絡が入った知人と会った。以前同じくフリーランスで経営関係の仕事に携わっていた男性だ。以前も久しぶりの面会の後ある学校の入学説明会に誘われたことがあり、今度はどんな「用事」なんだろ?とちょっぴりキンチョーして出かけた。60代も半ばになるが変化の波にうまく乗っかりながら頑張っておられる様子。

新宿駅の駅ビルでランチをしたが45分経つか経たないかといったところで「仕事がありますからそろそろ…」と言われ、「お元気で」と別れた。いったい何で呼び出されたのか。実に不可解だった。が、なんでもなくてよかったとヘンにほっとしたりした。

…と帰りにふらっと寄ったブックオフで『神の使者』を見つけた。新装版でなくグリーンの古い方だ。私はこの本を幾度となく節目ごとに読み返している。腰湯でお風呂にも持って入るからぼろぼろだ。家には「予備」もあったけど、さらにその予備も欲しくなり、また買った。とても新しい。1,260円也。これで家には『神の使者』(古いバージョン)が3冊になった。

そして、これをきっかけに『神の使者』を再読し始めた。疲れた時は、家にこもって『神の使者』を読む。これが私にとって一番の「自分たてなおし法」かもしれない。

レッスン32

さて、レッスン32―私が、自分の見ている世界を作り上げた。

これは前レッスン31の続きである。

私は自分が見ている世界の被害者ではない(レッスン31)。(なぜなら)私が、自分の見ている世界を作り上げた(のだから)(レッスン32)

私たちは「結果」の世界にいる。この世は「原因」から投射された「結果」の世界だ。もちろん、この世の中でも「原因―結果」があるように見えるが、本当の「原因」はこの世にはない。私たちの内側も、外側も結果の世界である。

そして本ワークでは「どちらの世界も自分の想像の中に存在しているという考えを導入するよう努める」。持って回った言いまわしだけど、世界は想像の中以外にはない、つまり“バーチャルリアリティ”だと言っているのだ。

自分を悩ます状況に出くわしたら

「私が、自分の見ているとおりのこの状況を作り上げた」と言う、とある。

これをいつも思い出していられたらいいんだけど、つい忘れてしまう。これを覚えていることをマスターできたら、けっこう強いんじゃないかと思う。自分が作り上げたと知れば、それを「容易に手放すことができる」ことも信じられるから。

いつもは深夜にブログを書いていたけど、夜なかなか書けず、今日は日中(今am 12:25)に書いた。やるべき仕事に手が付けられておらず焦る気持ちもあるけど、「私が、自分の見ているとおりのこの状況を作り上げた」

今日の残りの時間、いい日にしよう!

レッスン31ー私は自分が見ている世界の被害者ではない

2016-06-25

レッスン31

昨日と今日はこのワークをしました、いや、したというほどはできてないか…

このお題をテーマとした朝と晩の短い瞑想だけはした。そして日中思いだした時に、文言を心の中で唱えた。

「私は自分が見ている世界の被害者ではない。」

私が外側に見ている世界だけでなく、心の内側に見ている世界の被害者でもない。内界と外界はつながっている。

私たちは外界のできごとが自分に「ふりかかってくる」と思っているけど、エゴが否認した「恐怖」と「罪悪感」の映画を見ているだけだ。それは「私」と思っている者がプロデュースして見せているに過ぎない。被害者であるはずがない。

イギリスEU離脱!?

昨日、イギリスが国民投票でEUからの離脱派が勝利した。

まさか…!

本当に離脱派が勝つとは思わなかった。

自分のことを、ACIMの勉強が大事な世捨て人のように書いているけど、私の数少ない“趣味”は、株投資である。頻繁に売買するでもないけど、株を見るのはけっこう好き。決算などを見ていい会社だなと選んで買った株が上がると楽しい。

昨日は、「離脱なんて、あり得ない。せめぎ合いながらもぎりぎりで残留派が勝つのでは…」と思っていたから、びっくりしてしまった。もちろんかなり含み損を増やした。

『神の使者』『不死というあなたの現実』には、この外界での様々なできごとを「神からの分離という状況の象徴」だとしたうえで、「だけど、神からの分離なんてあり得ません。神だけが存在し、ほかのすべては偽りです」(『不死というあなたの現実』p71パーサの言葉、他にももっとベターな箇所があると思うけど、すぐ出せない…)と書いてあるが、ふとイギリスのEUからの離脱も「神からの分離」の夢の別バージョンなんだろうかと思った。私は、ここでも分離という幻想を見ているのだろうか。

EUからの離脱はこれからの世界、日本にどんな影響があるだろう。そして私には株価暴落のほかにどういうふうに影響が出るのか。世界は絡み合って動いていくからよくわからない。ただ、「起こらない」と思っていたようなことが「起こる」ようになった時代なんだな。これからも、どんどん変化の降り幅が大きくなるのか。

いやいや。あれこれ言っているけど、根っこは「私は自分が見ている世界の被害者ではない。」私が選んで見ているのだ。

私は自分が見ている世界の被害者ではないはずだ。

レッスン30ー私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである

2016-06-23

レッスン30

昨日と今日の二日間、このワークをやりました。

…といっても、本ワークは何分で何回といったしばりがなく、「今日の概念は、一日を通して、できる限り頻繁に使う必要がある」との指示。

「私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである。」これを一日の中でくりかえすのである。気がつくと忘れていてかなりの時間が経っていたような気も??

このお題は前レッスン29からの続きであり、29のお題が成立する理由にもなっている。

私たちはこれまでエゴの見方をしていた。それは自分の内なる恐怖や罪悪感を否認したがために、否認したものを外の世界に投影することとなり、その結果を見るという見方であった。しかしここではそのメカニズムを逆に利用して「自分の心の中にあるものを世界に見ようとする」

私の心の中には神がある(実際には神しかなく神以外はすべてメタファーである)のだから、私が外なる世界に見るものも神が現われたものとなる。これが完璧にできれば、この世にいながら天国に住まうことができる。

ワークの主題概念は、もともとは英語で描かれたものだから、日本語で読むより英語で読んだ方がしっくりする場合が多い。

本ワークも、一日中頻繁に唱えるとなると日本語より

「God is in everything I see because God is in my mind.」と言った方がシンプルでわかりやすかったりする。

中学英語で話せるようになる会

4月から月2回、区のサークルで英語を始めた。

「中学英語を学びなおし話せるようになる会」である。

私は短大の英語科卒なのでかろうじて辞書を調べながら文章の意味をつかむことはできるけど話すほうはさっぱりダメ(-_-;)  ACIMのワークを始めてから原文で読みたくて、英語版の本も買って日本語版と並べて読んだりしていたけど、さらに、いつか英語圏の方とACIMについて話せたらいいなぁと思い始めていたところ、ひょんなことからこのサークルの主催者の方と知り合い声をかけていただいた。

日常会話がなんとかできるレベルが目標。いつになることかわからないけど、まったく何もしないよりは、一応「矢印」を目標に向けておけば近づくんじゃないか、と思っている。しかし、今のところは英語の話し相手も皆無なのだけど。

最近、私が住んでいるところも外国人の方が増えていて、外国人が集まるカフェとかもあるのだそう…だけど、人見知りの私にはとても行けそうにない。英語の問題というよりコミュニケーションの方に難あり、かも!?

そういえば、むか~し、ちょこっと通勤前の朝の時間を利用した英会話教室、というところに顔を出したことがあったけど、アメリカ人の男性講師に「You  are too shy.(内気すぎ!)」と言われたっけ。ふと思い出した。

う~む、英会話をマスターすること以上に、内気・人見知りを直すことが鬼門か。この歳で今さらながら英会話…と思っていたけど、この歳で性格を変えることのほうが、よりむずかしいような気がする。。

 

レッスン29ー私が見ているあらゆるものの中に、神がいる

2016-06-21

梅雨らしくない晴天が続いていたが、今日は雨だった。九州では数年に一度しかないような記録的な大雨で、熊本では土砂災害も起きており亡くなられた方もいる。地震からようやく気を取り直して田植えをしたのに…と茫然とされている方の姿も厳しいものがあった。

ずっと家にこもって仕事をしていたので、ほとんど誰とも口を聞かずずっとパソコンに向かっていた。だのに、仕事も終わらない。

今日は、レッスン29をやった。

「私が見ているあらゆるものの中に、神がいる」

このテーブルの中に神がいる。

この扇風機の中に神がいる。

あのコンビニの看板の中に神がいる。…

と約2分のワークを6回やった。

「今日の主題概念が、心眼(ヴィジョン)のための土台のすべてである」とある。「たとえば、今あなたが見ているとおりのテーブルの中に神は存在しない。「今日は、どうすればすべてのものを愛と感謝と開かれた心で見ることができるかを学び始めよと努めなさい」

神とはものの見方なのだろうか。

「神」という言葉は、なかなか難しい。「神」は特定の宗教と結びつきいろんなコンプレックスが付きやすく自分がこれまで経験した「神」をイメージして逆に引いてしまう人も多いのではないだろうか。

私は「神」という言葉が好きだ。

買物に出た際も、ワークの言葉が頭に浮かんできて、目にしたものを、

この自転車の中に神がいる。

このおじさんの中に神がいる。

この空き缶の中に神がある。

…と心の中で唱えながら歩いていたら、意味もなく楽しくなってきた。私はだいじょうぶだろうか。

たしかにすべての中に神があると思えたら、私自身が神の国におり、神の中におり、安らぎしか感じられないかもしれない。

そして一瞬だけどほんとうに安らかに感じた。

とにかく仕事を仕上げて提出してしまおう。

 

 

 

レッスン28-何にもまして、私はものごとをこれまでとは違った見方で見たい

2016-06-20

今日は父の命日でした。

昨年の今日の旅立ちから丸一年かぁ。げんきんなもので、昼ごろまですっかり忘れてた。ずっと離れて住んでいたから、まだどこか実感が持ててないようなところもある。これからどんどん「なつかしい思い出」になっていくのかな。ACIMの「特別な関係」は、他の人にとってもそうだと思うけど私にとってもかなり手ごわい。ぎゅっと握りしめたままだ。

仕事で心に余裕がなくなっているけど、一応今日の約2分のワーク×6回を行った。

レッスン1~50までは、これまで自分から見える世界観の「解体」で、今日もその続き。

「『何にもまして、私はこのテーブルをこれまでとは違った見方で見たい』というとき、あなたはそのテーブルについての自分の先入観を撤回して」「あなたは真の見方で見ることに献身すると誓っているのである」

「実際、もしテーブルに関する自分の観念のすべてを取り払い、完全に偏見なく見るなら、あなたはそのテーブルだけからでも心眼(ヴィジョン)を得ることができる」

私は、昨年末一度365のワークを終わらせているけれども、まだ心眼というものはわからない。自分なりにはまじめにやってきたつもりだけど、まだまだ。2度目のワークは、私にはとても役に立っていると思う。

一度目はとにかく自分なりにワークをやって進めることしか余裕がなかったけど、2度目は少し視野を広げ、もっとテキストを読み込んだり関連本を読んだり、勉強会みたいなのがあったら参加してみたりしても…と思っていたけど、今のところただワークをやっているのみである。

そんなに先を急ぐこともないんだな。でも、ワークという「ニンジン」を与えられた馬みたいに、脇目をふらず、なんかやっとこさだけどワークを追いかけ、学習ブログを振り落とさないようにしてる。。かんじ。

(あ、今日中に更新、と思っていたけど、また12時を回ってしまった)

レッスン27-何にもまして、私は真に見たい

2016-06-18

何にもまして、私は真に見たい

今日のワークは、「あなたの欲求の中で心眼(ヴィジョン)を最優先させる」という決意表明だ。

この世の幻ではなく真実を見ることを選ぶ、そのために自分の在り方を変えるというコミットメントと言ってもいいだろう。

ワークブックには、少なくとも30分に一回、できれば15~20分に一度、主題概念を唱える間隔をはっきり決めてくりかえすこと、と指示がある。「ほかのことで忙しくしるときでも、これを行うのは難しいことではない」とクギを刺されている。

私は、30分に一度「0分と30分にやろう」と決めた。

今日は自宅から1時間のところで一日パソコンのワード、エクセルの講座。朝家を出た時に唱え、電車でも唱え…「あ!忘れてる」と思い出したのが、パソコン講座中の10時45分。

パソコン講座は、講師の先生の指示にしたがっていっしょに操作していくので、付いていくのが精いっぱい。この簡単な概念さえ、「0分、30分」を意識して唱えるのはむずかしかった。合間、合間に思いだしては唱えた。

「真に問うべきことは、あなたがどれくらい頻繁に思いだすか、ということである」「また、あなたはどれほど今日の概念が真実であることを望むのか、ということでもある」

どうかなあ、けっこう忘れていたし、講座が終わってからもどっと疲れて、ふにゃふにゃとこの短い文言を言っただけかも。

AKB総選挙

帰宅してテレビをつけたら、AKB総選挙の開票イベントというのをやってた。今年は新潟でやっているらしい。なんかすごいな。同じグループでファンによる選挙で順位付けされるこのシステム。それが次のシングル曲を歌うメンバーを決めるのだとか。

下位から順位が発表され一人ひとりが挨拶してこの選挙にかけた思いや感謝を言う。多くの子は泣いている。アイドルとそれを支えるファンと。いや一人ひとりの人とそれを精神的に支えているアイドル…なのかな?

発泡酒を飲みながらぼーっと最後まで見てしまった。

同じグループ内で順位が決まり、一つでも上に行きたいと願い、その願いをファンがかなえようと応援する。AKBグループが10代~20代前半だからか、その思いはピュアで真剣。順位に一喜一憂しているのが、なんかすごいよ。なんかだまされてないか、と思うけど、何が何に(だれが、だれに)だまされていると思うのかは、よくわからなかった。

若さとひたむきさ、なのかな、惹きつけるものは…。みんな、頑張ったら成長できる、上に行ける、って思っているみたいだけど、そういうふうに動くものかな?

指原莉乃さん、24万票獲得して初の二連覇!とかやってた。得票数が2位の渡辺麻友さんと7万票近く差がついている、とはすごい。彼女の魅力というのは何かな?かわいいのはみんなそれなりにかわいいから、容姿の差とは思えない。そこで大量票を集めるのは何かな?

こうやっていろいろ書いているということは、私もちょびっと巻き込まれているのかな。

この世は幻、心眼を得たいと思っている私。アイドルは幻のなかのさらに幻だ。アイドルが旬な時期は一時だろう。幻の世界のなかとはいえ、こう人を揺さぶるのには何かあるのかな。真実のカケラが含まれたりしているのかな。

心眼ではないと思うけど、つい「若さっていいな」って思った。

 

レッスン26-私の攻撃的な考えが、決して傷つくことのない私の強さを攻撃している

2016-06-17

誰かに対して攻撃的な考えを持つということは、自分自身を攻撃していることと同じ

晴れ。急に暑くなってきた。

その日やったワークの概要を書くだけでは、ACIMを知らない人にとっては、ちんぷんかんぷんだし、逆にACIMを知っている人にとっては何をいまさら、かもしれない。

そもそも、だれに向けてどんなメッセージを、が設定できていないブログだ。いったい私は誰に向けて何を書きたいのか…。でも、とりあえずは日々のACIMの学習のふりかえりになれば、それでよしとしよう。ともかく続けてみよう。

私たちは、実相の世界に今も神とともにいる。完璧に満たされた世界だ。だけど、神から離れた、と誤解している私たちは、「自ら神から離れてしまった」ことを恐れ、いつか神から懲らしめられるのではないかと思っている。その思いは私たちの無意識にずっとある。

そして、このゲンジツの世はその無意識の恐怖を投影して見ている世界だ。そもそも存在していない懲らしめられるという恐怖を私たちがあると思っているから、実際に作り出してしまう。そして、「正当防衛」として攻撃的な考えを身につけてしまう。

それが今日のお題になっている。

「あなたを通して結果をもたらすものは、あなたに対しても結果をもたらすはずである。」

私たちが、誰かに対して攻撃的な考えを持つということは、自分自身を攻撃していることと同じである。

とどのつまり「あなた自身の考え以外の何ものも、あなたを攻撃することはできない。」

私たちのものの見方が、本来傷つき得ない存在であるはずの私たちを傷つきうる者にしてしまっている。でも、それは正しい眼でみれば、実際には起こっていないのだ。

今日のワークでは、心の中に「結果が気になっている未解決の問題」-「憂鬱感、心配、怒り、強要感、恐れ、いやな予感、気がかり」といった感情を見つけ、それに名前をつけて、

私は     について気にしている。

といい、そのあと、そのことに関連して起こりうる結果をいろいろ思い起こし、

私は    となることを恐れている、ということを複数あげる。

そして、最後に

こうした考えは私自身に対する攻撃である。と言い、今日のお題を唱えて終える。これを6回やった。6回ともなるとけっこう慌ただしく感じた。

私は母が老いていくことが怖い…それは自分自身に対する攻撃

私のワークでは、

母が胃の調子が悪いと先週細胞を採って検査を受けたところだったので、

私は母の胃の検査について気にしている、となった(6回のうち1回)

そして、

私は、母が悪い病気だと言われることを恐れている。

   お母さんがどんどん老いてしまうことを恐れている。

   私がこうしていつまで東京でひとり暮らしを続けられるか、故郷に戻らざるをえない状況になってしまうことも恐れている……等

といったようなことが出てきた。

こうした考えは私自身に対する攻撃である。

         *

ふだん何気なく抱いている憂鬱感、心配、怒り、強要感、恐れなどはすべて「攻撃的な考え」であり、実はそれは自分自身を攻撃しているのだ。

母からは夕方「大丈夫でした」とのメッセージが入った。「でも株は下がりました」。株なんて下がったっていいじゃないか、とほっとした。私がほっとしたのは母のことを思って、というより、精神的に未熟で母にはずっとお母さんのままでいてほしいという甘えからだけど、それは今掘り下げないでおこう。

 

レッスン25-私は何が何のためにあるのかを知らない

2016-06-16

昨日は15日の夜書いているうちに日をまたいでしまい、16日の日記になってしまった。昨日のワークでは、自分の経済的な「問題」が頭に浮かんできたけど、一方では、それは私自身が、罪悪感や恐れをこの世に映し出して作り出している問題だとも知っている。ACIMではこの世は幻のようなもので実在していないことをくりかえし説いている。しかし、そのこの世に生きている私たち(と思っている私)は、この世のリアリティを否定しては何事も進まないから、そこをこの仮想現実でどうふるまってよいのか、よくわからなくなる(わけがわからないことを書いていないか…(・・;))

今日はレッスン25。

このワークの中心は「自分が自我だという誤った自己認識によって、あなたは何が何のためにあるのかを理解ができなくなっている」というところじゃないかな。

私たちが「私」と認識しているのは「自我」だけど、それは「本当の私」ではない。私たちは自我の観点からものを見てよかれと思う方向に向かっているけど、「本当の自分」から見たら完全に方向性を誤っている。

だから、「すべてについてあなたが自分で設定したゴールを自ら進んで放棄しようという気持ちになることが、あなたの学びにとって決定的に重要なことである」

言うは易し…だけど、これは当然ながら大きな自我の抵抗をもたらす。ワークを始めた最初の頃、多くの者を「あきらめるよう」促されるような気がするのはそのためだ。あきらめるのではなく、ただ意味がないものだと気づいていく、ということなのだけど。

『神の使者』ではゲイリーが、

「ぼくがあきらめたくない物質的なことやこの世の欲望は、真実の代用品として―ぼくが追いかけ崇拝するように―置かれている、すべてが現実だと思い込ませるための偽りの偶像じゃないかな」(2010年発のp212)と言っている。私もそう思う。

今日のワークは、手放すこと自体には踏み込まず、そこへ向かうための第一歩だ。

周囲を見渡して、目に入った対象に対して各々にひとつひとつ目を向け、

私はこのペンが何のためにあるのか知らない。

私はこのパソコンが何のためにあるのか知らない。

…と言っていく。

約2分のワークを6回やった。

レッスン24-私は自分の最善の利益を知覚していない

2016-06-15

ワークの概要を大雑把に書くだけじゃ、意味ないな~と思うけど、それよりとにかくなるたけ毎日ブログを更新するというところに意識が行ってる。

今日は強気に見えた舛添都知事が一転、辞任を表明したニュースが走った。そして次の知事はだれになるのかに話題は移っていった。時や場所は変わっても、こうした権力の移転とそれに対する世間の関心というのはずっとあったんだろうな~

日経新聞には「舛添都知事おごりが生んだ退任劇」という記事が出ていた。舛添え都知事の退任の原因がおごりなのかはよくわからないけど、おごりから生じた「隙」で、権力の座を奪われた人というのも、また古今東西、きりがないんだろうな~と思う。権力も名声もない者は失う心配もない。

今日はレッスン24をやった。

すごくざっくりまとめると、私たちがどう行動するかはどう感じるか(知覚するか)にかかっているが、その感じ方は誤っている。

だけど、そのことに気づいていないから、そのことを正す必要性すら感じていない。今日は、学べるようになるためまず心を開こう、というような感じ。

まず2分心の中を「現在憂慮している未解決の状況」を見つけ、それに対して、「その解決時に実現を望む目標をできる限りたくさん、注意深く」ランダムにあげる。

そして、そのあと、

「この状況において、私は自分の最善の利益を知覚していない」と締める。

これを1日5回。そのたびにワークブックを読んだりメモしたりしていたら、1回に10分位かかった。なかなか慌ただしかった。

私の憂慮は、やはり生活費がきちんと稼げてないこと、が浮かんだ。

そのことについて詳細に書く根性もないのだけど。フリーランスで働いているが、ACIMのワークを初めてから仕事が激減。だけど、それだからこそ時間に余裕ができてワークが続けられたともいえる。なんとか首の皮一枚つながって生活してきたけど、この先このままでは続かない。

ワークでは、まずそのことが浮かんできた。

「私が生活費を稼げてない状況において、

私は十分な収入を得たいし、それは私がミッションを感じることであってほしいし、実際に私ができることであってほしいし、できればフリーランスのままでいたいし、株や不動産といった投資からも収入が得られるようになりたいし、故郷で一人暮らしをしている母とももっと一緒に過ごしたいし、ふりかえって後悔しない(これ以上)人生を送りたいし…

この状況において、私は自分の最善の利益を知覚していない」

最後の一文を加えるとき、「そうなのかな?」と不思議な気分になる。

だれも見てないだろうと思うから、こういうことを書いているけど、かなり恥ずかしいものがある。

 

レッスン23-攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる

2016-06-14

これは、昨日のワークの流れの続。

私たちは、自分の怒りを投影してこのゲンジツ世界を見ている。この世は「あなた自身の攻撃的な考えが映像として表現されたものである」

すなわち、私たちが生きている世界は映し出された「結果」の世界だ。だから、「世界を嘆いても無駄である」

ではどうするか。この現実の「原因」である「攻撃的な考え」を手放すのだ。

それが今日のワークの目的だ。

また自分の心の中を約1分間探して「攻撃的な考え」を見つける。

それについて、

    についての攻撃的な考えを放棄することで、私は自分見ている世界から脱出できる」とその考えを1つずつ心にとどめ、それから手放す。

ここでは、攻撃する考えと攻撃される考えを同じ攻撃的な考えとして扱っている。

今日も何とか約1分の心の探索とワークを5回できた。

ワークの概要を書いただけで日記にはなってないな。

4月からひょんなことから、色えんぴつ画の月1クラスに通うことに。今日はその日。紫陽花の写真を見て、先生に教わりながら、1枚の小さな絵を描き上げた。うまくはないけど、でもそれなりにできるのがうれしい。

これから画家をめざす―!ってわけじゃないから、妙な気合いもプライドも要らず、ただその時間に集中できるのがいいみたい。けっこう疲れるけど、我を忘れられるのがいいのかな。

レッスン21、22

2016-06-13

ブログなかなか毎日は書けないな~

でも1日休むと次の日、また少し「敷居」が高くなっている気も。ほんの1行でもいいから、毎日ブログにアクセスした方がいいのかもしれない。

Wordpressの使い方も勉強したいのだけど、手がつけられていない。

ブログを書いておもしろいのは、これを書こうとか、こういう構成にしようとか考えることなく書き始めて、気づくと何かしら書いていることだ。その成り行きみたいなものが新鮮だ。

もっと写真とかも入れたりしたいんだけど、今は写真を入れてもトップページでは消えてしまう。どう設定したらいいんだろうか。

レッスン21-私はぜひとも別な見方でものごとを見たい

昨日は、レッスン21をやった。

これは、前ワーク「私はぜひとも真に見たい」の続きである。

自分の心に怒りの感情を見つけ出し、それについて、

私はぜひとも、別の見方で(人の名前や具体的な状況)を見たい。

と言う。激しい怒りもささやかないらだちも区別しないで対象とする。毎回約1分のワークを5回。

善意の友人のちょっとしたおせっかいな行動に対するいら立ちや、先日のセミナーで受けた「ダメだし」に対するいらだち、昔好きだった人に対して未だ思いだす腹立たしさ、いい歳をして安定収入を稼げていない自分への情けなさなど、5回もワークするといろいろ出てきた。

心の中を探索していくと、終いには、人間がいずれは死ぬ存在であること、その死の前には(たいがい)病いがあることにも、怒りというか恐怖や理不尽さを感じているのだということがわかった。

死も病いもACIMの視点から見たら幻想であり実在しないことだけど、今の私はそれに怯え腹立たしさまで感じている。

ひと昔前、「勝ち組」「負け組」なんて言葉があって、「勝ち組」はうらやましがられ持てはやされていた頃があった。だけど、私に言わせれば、どんなに「勝ち組」であっても、いずれはみんな老いて病んで苦しみいずれは死んでしまうじゃないか。オセロで買っていても最後に両端を取られて一気に逆転されるみたいに、結局みんな「負ける」んじゃないか。こう見えてしまっていた。

これはどう考えてもACIM的な見方じゃないし、学んでいるつもりで、教えが身についてないということだ。私は、とくに老い、病、死が怖いんだろうか。怖いと思うから、幻であるそれらをリアルにしてしまっている気がする。

レッスン22-私が見ているのは、復習の一形態である

私たちは、自分の怒りをこの世に投影するがために、「今にも自分に襲いかかろうとしている復習を目にする」という。そしてその「復讐」を前に「自分の攻撃が正当防衛として知覚される」のだと言う。

つまり、私たちが今見ているこの世のゲンジツは、復讐に満ちており、その復讐には怒りを持って攻撃するのが正しいかのように見える。

でもこれは大きなまちがいであり、「残酷な空想」である。

今日のワークは、その「残酷な空想」から目を覚ますための訓練の第一歩だ。

周りを見渡しながら、

私は朽ちてゆくものしか見ていない。

私は永続するものは何一つ見ていない。

私が見ているものは実在しない。

私が見ているのは、復讐の一形態である。

と言う。

そして練習の最後には、

これが、私が本当に見たい世界だろうか?

と自問する。

この短いワークを5回。

「私が見ているものは実在しない。私が見ているのは、復讐の一形態である」「これが、私が本当に見たい世界だろうか?」

これが、私が本当に見たい世界だろうか。これが、本当に見たい世界だろうか。…このフレーズが心の中でリフレインする。

ちがう。これは私が本当に見たい世界ではない。もっと別の世界があるはずだ。

そう思っているからこそワークをしているんだ。でもまだまだエゴの世界にいる。なんか心もとなくて、こわい。

 

レッスン20-私はぜひとも真に見たい

2016-06-11

私たちが「真に見たい」のは「心眼(ヴィジョン)」である。

そして、「心眼に必要なのは、見ようとする決断だけである」

私は365のワークを終えたが、まだ心眼というものが見えていない。

今日たまたま『ミッチェル・メイ・モデル』という本を再読していたら、その本のなかに、

「物質界というのは、スピリチュアルな世界、神秘的な世界が目に見えるような形として存在しているものです。その逆ではありません。ですから、私たちがこの物質的なものを解釈するときに、肉眼とか自分の頭だけで解釈しようとすると、本当にそこに在るものが見えない。「幻」なわけですよね。でも、あなたがその本来の姿、本質を見ることができるなら、それは幻ではなくなる。本当の姿が見えてくるのです」(p141)とあった。

心眼と同じようなものを記述したのだろうか。

レッスン20では、「今回、私たちは練習に初めて枠組みを導入する」とある。それは一日を通して、「少なくとも1時間に2回、ほぼ30分間隔で、ゆっくり『私はぜひとも真に見たい』と今日の主題概念を繰り返すことである。

30分ごとにタイマーをかけながら、やった。そのうちに30分経たなくても前倒しして、主題概念を唱えるようになっていた。

だけど、こういう種類のワークは平日働きながらだとけっこう難しいかもしれない。

そして、これはまだ序の口でもっと時間とエネルギーを注力しなくてはならなくなる。

まあ、毎日かならず1つ進めなければならないというものでもないから、ゆったりした気持ちでいこう。

 

 

レッスン17-19

2016-06-10

水曜日深夜、東京の家に帰宅。

遠距離を動くと、ここ10年位だけど、とても疲れてしまい、なかなか動けない。なんとか既にある予定だけこなして、後はごろごろしてた。この“動けなくなる症”には慣れていて、キンチョー状態が長く続くと決まってそうなってしまう。

ただ動けないだけで動かないでじっとしていると回復するから、楽といえば楽。まるで携帯電話の充電みたい。単に怠け者なのかもしれないけど。おとなしく動かずにいたら、少しずつチャージされてきた感じがして、動ける感じがしてくる。今回も、かなりチャージできてきて、あと少しだ。

ブログの更新はできなかったけど、ACIMのワークは毎日した。

レッスン17-私は中庸なものを見ていない。

レッスン18-私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

レッスン19-私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

父の一周忌のため帰省した故郷では、こころに仕舞ってあるいろんな思いがうずいたけど、それはまた機会があれば…。

とりあえず、ブログから離れてしまわないように、更新。なんとかできた。

私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。すなわち、私の考え、心の持ちようによって、私が見るこの世のゲンジツが変わる。「原因と結果は分離しないので、思考とその結果は実は同時に起こっている」(レッスン19)

つい生前の父を思い、また父にもっと幸せを感じてもらえたはずなのに、と過去の世界に入り込んでたそがれたり、後悔を感じた週だった。故郷の町のひと気のなさに昭和時代にぎわっていた商店街の活気はどこに行ったんだろう、みんな、生まれて成長しパワーを謳歌するもそのうち老いが来てそのパワーを失いいずれ死ぬ、この人生のサイクルにどんな意味があるんだろうと思った。

この世のゲンジツは私のエゴの投影であり幻想の中にしかないと頭では知っているけど、父や母のことや故郷のことでは、すぐに幻想に浸かってしまう。執着があるんだな。

親が亡くなると、やっと子どもは精神的に大人になれると聞いたけど、私は、まだまだ子どもで、いい歳のおばさんなのに、精神的には大人になりそこね、途方に暮れて一人立っている感がある。

この世のゲンジツからは浮いているし、一方、実相を感じられるまでにも至らず。

レッスン16―私に中庸な考えはない

2016-06-07

昨日、iphonからダイアリーを更新できたつもりでいたけど、ミニ旅行から実家に帰宅してパソコンを覗いてみたら、できていなかった。今度またやってみよう。

金沢、加賀温泉の母との小さな旅は、ささやかながらもとっても楽しかった。

旅の道中、土曜日行ったセミナーについて新担当者の方とメールでやりとりし、この前のセミナーはやっぱりお客さんである主催者を満足させたものとは程遠かったんだ、と思い知ったのはピリッときたけど。

今日の主題概念は「私に中庸な考えはない」

気になったフレーズは、

「あなたが見ているすべては、あなたの考えがもたらす結果である」

「あなたの抱く考えの1つひとつが、真理か幻想かのどちらかを助長する」

「救済のためには、自分が抱く考えはどれもが平安か争いか、愛か恐れかのどちらかをもたらすと認識することが必要である」

「恐れの想念については(中略)まずは、それらが等しく破壊的であると同時に等しく実在性がないということを認識することが肝心である」等。

また1分ほど心の中を探索することからワークを始めるのだけど、私の心の中心を占めていたのは、

次回7月のセミナーに対する不安感(今度、ちゃんと満足していただけるものができるか不安だ、こわい)と、

高齢の母がさらに年老いていずれは別れを迎えることに対する恐怖、抵抗感(お母さんにはいつまでも元気でいてほしい、お父さんみたいに死んじゃったらどうしよう?)だった。

前者はこんな心根では「プロ失格」とも言えるし、後者は幼児のような気持ちだけど。

「セミナーに対する不安ついてのこの考えは中庸なものではない」

「いずれは迎えるであろう母に対する恐怖についての、この考えは中庸なものではない」…と ワークした。

いずれも「恐れ」をもたらす考えだ。破壊的で実在性のないものだ。幻想をさらに増幅させるものだ。

恐れを愛に変えたい。恐れを愛に転換する。私は実在するものを選びたい。でも、こわい、いま。

とくに母の死は恐怖から想像することもできず思考停止になってしまう。

「実在性のないこと」なのだけど。

母にはゆっくりゆっくり生きてほしい。

レッスン15ー私の考えは、私が作り出して形象である

2016-06-06

せっかく故郷に帰省したのだから…と母のお疲れさま会を兼ねて 隣県の片山津温泉に来ました。金沢でミニ観光…妙立寺、通称 忍者寺は敵の侵入を欺くための建物のからくりが見事でした。

にし茶屋街のお茶屋さんは、現在も御座敷席として使われているそうです。

夜 食後、温泉ホテルでiPhoneから投稿。iPhoneからの投稿は初めて。タッチパネル 押すのヘタだ。

ワークのほうはまだそんな時間がかからないので、無事レッスン15を終えました。

母とこうして過ごせる時間、愛おしくありがたいです。

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