レッスン14-神は意味のない世界を創造しなかった

2016-06-05

レッスン14

「あなたの見ている世界は、実相とは何の関係もない。それはあなたが作り出したものであり、存在していない」

レッスン14のこのフレーズが、ACIMを言い表す核心のひとつではないかと思う。

これはつまり、私たちがいるこの世界を「存在していない」と、この世の実在性そのものを否定しているのだ。それを受け入れる人がごく少数派なのは当然といえば当然だし、ACIMが「万人向けではない」と言われるゆえんでもある。

私は、これを直観的にだけど、真実だと思っている。だからこそ、このフレーズには安心感を感じる。

今日のワークでは、目を閉じて思いつくままに世界のあらゆる恐怖を思い浮かべ、

「神はあの戦争を創造しなかった。だから、それは実在のものではない」

「神はあの大地震を創造しなかった。だから、それは実在のものではない」

と、それぞれの恐怖に名前を付けて、その実在性を否定する。

個人的な心配や不安についても、その「惨事」に名前をつけて、その実在性を否定する。

そして、「神は意味のない世界を創造しなかった」と繰り返し、練習を締めくくる。このわすか数分のワークを3回した。

父の一周忌

今日は父の一周忌で、朝の新幹線で故郷の富山県に帰省した。朝のワークは新幹線の中で行った。

去年北陸新幹線が開通したおかげで、前より東京と行き来がしやすくなった。

法要にはお坊さんを含め17名が参加。近況などを語り合った。

一年前までは生きていた父が、今この世にはいなくなっている。そして、一年もたつとそれはあたりまえのこととなる。法要の席でももう父のことはあまり話題にならない。月日が経つのは早いね、お天気よくてよかったね、という話。そして今のこと。

人の命ははかないな。

夜、江戸時代のドラマをやっていた。200年前江戸の人々がこんなふうにもめたり恋をしてたりしたんだ、と思う。でも、みんなもういない(あたりまえだ)。100年後には現在いる私たちもほとんどがいなくなってるだろう。それが不思議なようにも思える。みんなどこに行ったんだろう。どこ行くんだろう。でも、200年前や100年後を持ち出さなくても、今だって実在はしていないだって!!

私の中には、現世の非実在性を説くACIMを信じる私と、父が亡くなってしまったことを切なく感じ人の命をはかなく思う私が、矛盾しつつも矛盾なく同居している。

神との分離イメージの再現

ACIMをごくごく大雑把にいうと、私たちは本当は一度も神と離れてはおらず今も神とともにある。だけど、「もしここを離れたら」とふとした瞬間にふと思ったことから「神から分離した」と勘ちがいしているのだという。その誤解からきっと神は怒ってお仕置きをするだろうと、無意識に(神への)恐怖と罪悪感を感じている。そして、その「恐ろしい神」から逃げるために、分離したエゴが宇宙という隠れみのを作り上げたのだという。実際には、エゴも宇宙もない。

私たちが「ある」と思って幻想を支え続けていること、分離したエゴの視点からものごとを見ていることが、幻想を支えている。そして、「この世」の中で、この実際には起こっていない「神からの分離」のイメージを投影して何度も何度も見ているのだという。

今週末は、北海道七飯町の林道で父親に“しつけ”のため車からおきざりにされ行方不明になっていた7歳の男児が、6日ぶりに見つかったというニュースが日本だけでなく世界中を駆けめぐった。

幸運が重なって、自衛隊の駐屯地内の宿泊施設で見つかったとのこと。ほんとうによかった。

不謹慎かもしれないけど、これもまた神からの分離というイメージの再現であるかのように感じた。

その子は父から見捨てられたと感じ暗闇の中ですごい恐怖だったことだろう。

その恐怖感は、無意識の深い層にあってふだんはそう意識はしていないかもしれないけど、私たち一人ひとりの中にある原初的恐怖でもある。

でも、それは、私たちが分離した見方で見ているからで、本来の見方で見ることができれば、恐怖はありえず無限の愛しか感じられない。

ACIMは幻想から目を覚まさせ、本来の見方を回復させるための解説&実践書である。

私はそれがしっかり身についているわけではなく、今回の人生でどれだけ身につけられるかわからないけど、「三歩進んで二歩下がる」式で精進したいと思っている。

 

 

レッスン13ー意味のない世界は恐れを生み出す

2016-06-04

レッスン13

私たちは「意味のない世界」「じっさいには存在していない世界」を実在するかのごとく知覚している、と思っている。

無意味だと感じることは、神から分離している者にとっては強烈な不安を引き起こす。

自我は実在しないがゆえに、自分の無能さと非実在性を証明されてしまうことを恐れ、空白に何らかを書きこもうとする。私たちはその書きこまれたものに、意味を見出している。そして、その意味を手放すことができないでいる。

「きわめて重要なことは、あなたが意味のないものを認識して、それを恐れずに受け入れられるようになることである」と記されている。

私は2年半かけてワークをやってきたけど、まだまったく「意味のないものを認識して恐れずに受け入れられるようにはなっていない」と、改めて思う。

世界がなくて、私が自分と思い見えているものが、本当はないのだということは、やっぱり心もとなく思う。私は、この私、見える私にしがみついているんだ。たとえ、どんどん変わっていく一時の存在だとしても。

2分位のワークを何とか3回やった。

キンチョーしていたセミナーの仕事当日

今日の午後は、ずっと前からキンチョーしていたセミナー講師の仕事だった。

時間をかけて準備したし、真摯に務めたとは思う。

だけど、内容を詰め込みすぎて、受講者の方々がワークをしたり意見を交わしあったりといった時間があまり取れず、私ひとりがしゃべっているかたちになってしまった。レジュメに盛り込んだ内容を終えるのに一生懸命で最後の質問の時間さえ取れなかった。

こんなに盛り込みすぎたのは、セミナーで空白の時間が生まれてしまうのが、怖かったからだと思う。

この1冊でテーマ全体を網羅して理解しやすいものを作ろう、と思ってレジュメを作ったことは本当なのだけど、全体で3時間半という時間の中ではやっぱり盛り込みすぎだった。

まるで今日のレッスンの中に書かれている「自我は、その空白が自分の無能さと非実在性を実証するために使われるかもしれないと恐れて、大急ぎで自らの考えをそこに確立しようと躍起になる」を地でいっているようではないか。

私なりにまじめにやったけど、また受講者さんにも真剣に聴いていただけたけど、帰り道「やっぱりだめだ」「私はこの役に十分な力を持っていない」とがっくり重い足をひきずって帰った。ひどく疲れた。こういう知覚も「分離している者」の感じ方なんだろうな。

明日、早朝、父の一周忌で故郷に帰省する。

ちゃんと起きなきゃ。

2度目のワークが意味があると思う。「やっぱり分離しまくっている私」はかなり残念だけど、それとわかるのもワークを通してなのだから。

 

 

レッスン12-私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである

2016-06-03

レッスン12

この主題概念は、昨日のワークと同様に、外の世界が私たちに何らかを感じさせるのではなく、その逆で、私たちの考えが外に見えるものを決めるという事実がベースになっている。

周囲を見渡しながら、私たちがいるこの世界にふさわしいと思う形容詞を付して、

「私は自分が恐ろしい世界、危険な世界、狂った世界を見ていると思っている」

といったように表現する。形容詞には「楽しい」「成功者としての」などポジティブなものも含める。そして、その後で

「けれども、私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである」とつけ加える。

このわずか1分位のワークを3回やった。

私たちがこの世界を意味のないものとして受け入れることができたら、私たちが自分たちで覆っている偽りの雲を払うことができたら、「それは言葉に尽くせないほどあなたを幸せにすることだろう」と記されている。

今日のワークも、私たちが空虚を恐れて自分で自分を邪魔している偽りの知覚を、それと認識するためのものだ。

明日はキンチョーしていたセミナーの仕事だ

明日、たま~にあるセミナーの仕事。多くの人の前で話すことに自信が持てず緊張感があり、かなり前から文字どおり「動揺」している。

かなり前から意識していたけど、前日になって、やっぱり準備のための時間が「足りない」と思い、「なんでもっと早く手をつけなかったのか」と後悔の念が湧いている。

朝、瞑想した際、こうした動揺を自分より大きなものに預けた。

私は『神の使者』やACIMで説明されている聖霊の声が聴こえるわけではないしうまくキャッチすることもできないのだけど、そこで、なんとなく感じたのは、

『自分が信じている世界を信じろ』ということだった。そして、「そろそろ『ない世界』から『ある世界』に来てもいいのでは?」と。

私は、いつも「(時間やお金や能力やその他いろんなものが)足りない世界」に自分を追いやっている。これは私に似つかわしい「足りない」という思いが投影されて見えている世界だ。そして、いつも「だから(完璧には)できない。つらい」という世界の「住人」でいる。

それについて、もう私はそのからくりを知っているのだから、それを手放しでもいいのでは?と感じたのだ。

いつも、足りない、不足している、できない、と感じ、同じパターンをくりかえしているけど、そこに「安住」している必要はないのだ。

瞑想では、ただ「鎮まって立つこと」だけを意識するよう求められた気がした。もちろん、これはちゃんと準備ができて可能なことなんだろうと思うけど。

実際に、どうなるかはわからないけど、「足りない」状況に追い込んでから、それを言い訳にして、「だめだ、だめだ、やっぱり」のゾーンに後悔や自信のなさとともにいるのは、卒業してもいいのかな。

もう、よる11時過ぎだけど、今ここから、真摯につとめようと思う。

 

レッスン11-私の無意味な考えが、意味のない世界を私に見せている

2016-06-02

私たちは、外のできごとが自分の感じ方に影響を与えている、何からのできごとが自分を喜ばせたり、不快にさせたりしていると思っているが、ACIMはそれは逆さまだという。

「自分の考えが自分に見せる世界を決定する」のだ。

今日は、思考を逆転して真の世界に近づく訓練の第一歩だ。

目をつぶり、心の中でこの主題概念を唱えたのちに、目を開き目にするすべてのものに視線を向けながら、この概念を自分に向かって繰り返す。約1分程度を3回。

「この主題概念の中に赦しへの鍵がある」と記されている。

とりあえず、今日もワークができた。

仕事がなかなか進まず焦りあり。

これも外のできごとじゃなくて、私の心が見せているんだけど(^_^;)

 

レッスン10-私の考えには何の意味もない

2016-06-01

今日の主題概念は、レッスン4の「これらの考えには何の意味もない。それらは、この部屋に見えているものと同様である」をさらに進めたものである。

ワークは、今日の主題概念をゆっくり繰り返すところから始める。次に、

「この概念が、私が今信じているすべてのことから、私を解放してくれる」と付け加える。

そして、約1分間、心の中に浮かんでくる考えを見つけ、それにこの主題概念を当てはめる。それを1日5回。

朝いちばんのワークでは、昨日やりとりした友人の家族の病気がなんとなく気になっていたらしく、内観時にそのことが浮かんできた。

また週末にあるセミナー講師の仕事が緊張しいの私にはどうも気がかりで、それも心に浮かんだ。

そしてこれらを主題概念にあてはめた。

―Aさんの家族の病気についての私の考えには何の意味もない。

―土曜日のセミナーについての私の考えには何の意味もない。

自分が考えていることはふつう「意味がある」「考える価値と必要があることを考えている」と思っているから、このワークにはちょっとした抵抗感を感じる。

ワークブックには、

「あなたが自覚している考えは無意味」⇒「こうした『考え』の存在は、あなたが真に思考していないことを意味する」と書かれている。「そして、これは以前に述べた、あなたの心は本当は空白であるということを、別の言い方で繰り返しているにすぎない」とも。

う~む。考えている(と思っている)⇒しかし真には思考していない⇒心は空白。

考え=自分、と思っているようなところがあるから、それを意味がない、とするのは、かなりむずかしい。

とりあえずは今日のワークも終了。

でもだんだん難易度が上がってくることを知っているから、ワーク、いつまで順調にいくかな。

また、ブログには、今はなんとなくワークの要約めいたことを書いているけど、しばらくすれば、ボリュームと深さがありすぎて、要約しきれなくなるだろう。中途半端な要約に意味があるかどうかもわからないけど。

まあ、とりあえず今は、ブログを書くこととワークをすること対になっていて、私にとっては促進力になっているから、しばらく続けてみようと思っている。

 

新しい記事を見る→