『奇跡講座』 ワークブック

ACIMレッスン234-父よ、今日、再び私はあなたの子です。

2019-01-11

連続晴れ、乾燥注意報。うつ抜け?

東京は晴れ。乾燥注意報。

12月24日以降、雨や雪が観測されず明日も晴れ予想で、これは歴代3位の記録だとか。

私は東京の冬の空が好きだ。18の時初めて受験で2月の東京に来て、空が明るく澄んでいるのにびっくりしたのを、また思い出す。

あの時は父が付き添ってくれたのだった。

北陸の冬は日照時間も少なくセロトニンも出にくい。うつになりやすいと思う。

うつ…といえば、数年前とっても動きづらい時があって、メール1通出すにもエネルギーを溜めて頑張って出すといった時期があった。

医師に診てもらったことはないのだけど、あれはやはり抑うつ症状と言うのだろう。何年もちょいちょい動けなくなったいたから、いわゆる更年期と関係することか。

エネルギー不足は変わらないけど、それがすこーし回復している気がする。

外出した日は帰宅後2時間位動けないことも多かったけど、その時間が少しだけ短くなったような?

膨大なエネルギーを使う引っ越しなんて無理かと思っていたけど、それも何とかできたし。

更年期もそろそろ抜けようとしているのか。

もう少しアクティブになれたら…

ACIMワーク234‐父よ、今日再び私はあなたの子です。

レッスン234はちょうど年末年始やっていたワーク(一応やってた)。

父よ、今日、再び私はあなたの子です。

これは、自らのアイデンティティを高らかに宣言する主題概念であり、「私が私になる」というテーマだ。

去年からワークの終わりに「祈りの祭壇」をイメージして、そこにお願いというかたちではなく「自分の問題や目標や偶像を贈り物として祭壇に捧げる自分を想像する(『神の使者』13章より)」ということをしている。

そこで捧げているものの一つが「私の新しい人生」だった。あまりに漠然としていて、どう新しいのか自分でもわかっていないのだけど、そう捧げていた。

このワークをして、その「新しい人生」には、まずレッスン234の「私が私になる」(神の子としての自分になる)ということが不可欠で、それが先だと感じた。

常に、神の子なる自分を忘れないこと。

まあ、たいがい忘れているけれど。

1月3日のメモには、

「すべては私が見せているものである。

怒りの対象は、怒りではなく赦しを求めている。

赦しが出口だ。

挑発に乗らない。

怒らないこと自体が目的。」と書いてあった。

帰省後、数日過ぎて私も母もお互いに地が出て、リズムが合わなくていらいらしていたのだろう。(一人の時間が欲しい私は誰といても疲れてしまうのかもしれない)

私ってー、いる場所、いる時間、一緒にいる人たちによって、すぐに自分が誰だかわからなくなってしまう。

わからなくなっても、神の子だということだけ覚えていられたらいいのかもしれないが、そうはいかずエゴで固めた自分をどうにか思い出そうとあがく。

今も少しそう。しゃべればしゃべるほど、堕ちていく…気分の今。

まあ、ぼちぼちいこう。

ACIMレッスン233-私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる。

2019-01-04

友人との癒しのランチバイキング

昨日は30年来の友人と久しぶりに会い、ホテルのランチバイキング行った。

90分食べ放題だったけどおかわりすることも忘れおしゃべり夢中で、気づいたら残り時間30分を切っていた。

デザートだけは食べなきゃ。慌ててプチケーキを取りに行った。

レストランを出ても、ホテルのロビーで話し込んだ。

話の内容はたわいもない近況。健康話とITやスマホなどの“世の中に付いていけてない”話が増えたかな。

気が合っておしゃべりできるって、幸せ!

友は私が『奇跡講座』に関心があることも学んでいることも、もちろんその内容も知らない。

私たちは、生きている間この世の幻想のあれこれで忙しい。話をすることで、確認したり気を慰めたり。

次会う時には、今日の話の内容は忘れていて、またその時の話になっているだろう。

それでいい。

女子ならではの習性?、結果や成果を求めるためじゃなく、ただ純粋におしゃべりすることが楽しかった。

ACIMワーク233-私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる。

レッスン233では、「私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる」が主題概念だ。

神の導きにゆだねるには、まず心穏やかであらねば。

心静かであることも大事。

今朝は、母が家そばの接骨院に行っている30分の間にワークをした。そこまでは健やかでいい出だしだと思ったけれど、振り返れば母にいらいらしてしまっていた一日だった。

実家に滞在中は、気づいたら『奇跡講座』が意識から遠のいてしまっているが、今回もやっぱりそうだ。

母からの絶え間ない刺激に反応するも、そのうちだんだん疲れてきて何が何だかわからなくなる。

ACIMの教えはどこへやら。

ずっかり自分人生ゲームの主人公になりきって登場人物と組み交わして、実のプロデューサーが自分自身だということも忘れてしまっている。

自分の中での母とACIMの共存が、意外とテーマだったりするかな?

 

私のゲンジツ世界の中では、母が大きな仏像のように鎮座している。

それでも、昔より関係性が良くなっていると思うから、よしとしよう。

母にいらいらしてしまうのは、私が自分のエゴに固執しているからでもあるのだ(おそらく)。

私は、ただいらいらしたくてしているだけなのだ。

本来赦しの対象であるものと、戦おうとしている。

それは、どこか赦すまじと思っているから。

父よ、今日、私は自分の考えをすべて、あなたに差し出します。

私は、自分の考えを何ももたずにいます。私の考えのかわりに、あなたの想念を与えてください。」(L233-1-2,3)

こういうことがちゃんとできたら、そんなにいらいらしないんだと、今ダイアリーを書いていて思った。

本当は今夜帰京予定だったが、母のパソコンがどうしたことかExcelもWordもプリンターも使えなくなっていて、それを直す(再インストール)ために、帰京日を一日遅らせることとなった。

これも意味あること(自分が作っている幻想)。

私は心が弱くまた狭く、すぐいっぱいいっぱいになってしまうけど、できるだけ優しく親切でいたい。

漠然としているけれど、それが2019年のなりたい自分かな。

 

ACIMレッスン232-父よ、一日中、私の心の中にいてください。

2018-12-31

故郷での大晦日

紅白歌合戦聴きながら、ブログを書いている。横では母がテレビに逐一反応して声をあげている。

昨日から、買い出し、掃除、神棚や床の間、仏壇、玄関に花を活け、1月2日にはお寺から読経に来られるからその準備。おせちの支度…。

全部母主導で私は言われたことをやるだけ。

わが家のお雑煮は、(富山県内はみんなそうなのかな)醤油ベースのけんちん汁みたいななかに焼いた鯛の身を入れたもの。

魚屋さんで焼いてもらった鯛から骨を取って身をほぐす料理以前の作業は、例年私の役だ。

亡き父はお雑煮にはどんな細かいものでも骨が入っていることを嫌ったから、どんな細かい骨も見逃さないことが重要だった。今日も骨を見逃していないか二度チェックする。

鯛から骨を外していく作業をしていると、ああ、命をいただいているんだなぁと思う。

故郷ならではのお正月。

こうした風習も母がいてこそだ。

私ひとりだったらやらないだろう。

東京にいるなら、なおさら。

お雑煮さえも作らないのではないかと思う。

幼い頃はあたりまえだった風習。母に付き合うかたちでやっているけど、私の中にはもはやないものだな。

それはなさけなく寂しいことかもしれないけれど。

『絵本つくりかた』

帰省直前に、Amazonで『絵本つくりかた』という本を手配して届いた。

12月12日や12月19日の記事にも書いたけどACIMワークをしているとき、何度かこの本のイメージが浮かんできて「買ったほうがいいかな」と気になっていたのだ。

絵本に関心はあるけど具体プランがあるわけではないし、買いたい本なら他にあるから、と買えないままきた。でも、勘違いかもしれないけれど、聖霊さんからの何かヒントなのかもしれない。

暮れも差し迫った今、聞いておいたほうがいいんじゃあ?

そう思って買ったのだ。

中はまだ見てない。

来年は聖霊の声がもっと聴けるかなぁ。従えるかなぁ。

まあ、私次第なのだけど。

ACIMワーク232-父よ、一日中、私の心の中にいてください。

レッスン232も短いけれど、根幹となるいい教えが書いてあるなぁ。しかも平たい言葉で。

1分、1分があなたとともにいる時間となりますように。」(L232-1-2)

そして、あなたがともにあり、私の呼びかけを聞き、私に答えるために常にそばにいてくださることに、毎時間、感謝を捧げるのを忘れずにいられますように。」(L232-1-3)

今日、恐れの終わりを練習しなさい。

あなたの父である神を信じなさい。

すべてを神にゆだねなさい。

神にすべてを明らかにしてもらいなさい。

そして、あなたは神の子なのだから、うろたえずにいなさい。」(L232-2-1,2,3,4,5)

とくに心に染み入る言葉を書き出していったら、全部になりそうだ。

 

このブログ、この世のあたりまえに立っているかのかと思うと、次の瞬間にはACIM的価値観に立っていたりと(ACIMにちゃんと立つとすべてはメタファーで何にも書けないけど)、意味不明で思いやりに欠ける。

それにもかかわらず、

立ち寄ってくださった方、どうも どうも ありがとう。

たくさん素敵なことが来ますように!

ACIMレッスン231-父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

2018-12-29

故郷へ帰省、雪が降っている

昨夜、故郷の富山に帰省した。

東京は空気が乾燥して風が冷たいが、こちらはしーんと体に染み入る寒さ。寒さの種類がちがう。

でもやっぱり富山のほうが格段寒い。

母はいつもこの季節、郷土料理のかぶら寿司を漬ける。それも業者が使うような樽で大量に。それを親戚や近所の方に配るのだ。

今日はそれをおつかいで、配って歩いた。

いっつも、いっつも「今年はかぶらの質がいま一つだった」とか「ブリの塩がきつすぎて」など、“言い訳”を添えて配るのだ。

親戚から晩に「手間暇かかるものありがとう。今年のもおいしかった」と電話があり、母は上機嫌だった。

親戚のおばちゃんは、私に「たまちゃんもかぶら寿司作ることできるんでしょ?ちゃんとお母さんに習ってね」とプレッシャーをかけてくるが、私は一回も習ったこともないばかりか、作る場面に立ち合ったこともない。

手料理で周りの方に喜んでもらうのが好きだという母の性質は素晴らしいと思うけど、そういうところは受け継がなかったみたい。

私は一見優しげにいるけれど、実際に人に尽くしたり役に立ったりといったことが苦手だ。手料理や手仕事が上手な人、人に尽くすことができる人に引け目を感じている。

あ~、思えば、今年もあとわずか。

一年の区切りに意味があるような、ないような、でもやっぱり影響あるような。

大晦日から新年は、日本国民みんなで大縄跳びをしているみたい。一緒にその大縄を飛べなければ新しい一年に乗れない気がする。

混んだ新幹線での大移動、面倒だと感じる反面、行ける故郷があるのがありがたいとも思う。

ACIMワーク231-父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

富山は、私にとってACIMから遠くなる場所だ。もちろん私の錯覚のなかでのことだけど。

一日中話しかけてくる母に反応しているうちに、ACIMの世界がどんどん遠くおぼろげなものになっていくのだ。

とりあえず、ワークブックだけ持ってきた。

朝晩のワークだけできればいいけど。

家族と密な時間を過ごしていると、神より家族が近く感じ、そもそも私は家族なるものの代わりに神を求めているのかなという気分になってくる。

家族や愛に恵まれていると、ACIM的なものに意識が向かわないのも無理はないのかもしれないと思う。

私は神さまもよくわからないのだけど、ただACIMの言っていることは理が通っている、と思う。

先が通じている。

ほんものだと感じる。

だから、どう行っても出口のないと感じるこの世のやり方ではなく、ただ幸せと感謝に満ちているACIMの教えに重きを置きたい。

ワークのメモを書いていたノートもちょうど新しいノートへの切り替わりで古いのは置いてきてしまったから、L231ワーク時にどんなことを感じたか(あるいは感じなかったか)思い出せない。けれど、母が寝静まった今の私の気持ちはL231のとおりだ。

父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

あなたを思い出させてください。自分自身についての真理のほかに、何を望むことができるでしょう。」(L231-1-5,6)

第2部-2.救済とは何か

2018-12-27

白いバラへの執着

クリスマスが過ぎると街は一気に年末モードになる。

お正月へと一直線だ。

ぼーっとしている私は土曜日のXmasシャンソンライブの帰りにもポカをした。

毎年ライブ出演者の方から帰り際、造花のバラを1本プレゼントされるのだが、帰り道そのバラを落としてしまったらしい。紙袋にさしていたのだが、枝の部分が長かったから何かに引っかかって落ちたのか…。

道中立ち寄った薬局で気づいて、あ゛~となった。

そのバラは、私のお気に入り。

本物みたいに優美。初めてもらった時は生花だと勘ちがいして半月くらい水を換えていたくらいだ。

過去3年間ライブに行ったから家には3本のバラがある。これまでは深紅だったけど、今年は白で、白も清らかでいいな~と喜んでいたのだ。

あ゛~(>_<)

造花のバラ1本のことだけど、お店には売ってないもの(過去ネットで調べたけど同様のものが見つけられず)。私は来た道を逆にたどって探したが、交番で聞いても、駅の事務室で聞いても、乗換駅で聞いても届け出なし(忙しい時期に瑣末なことごめんなさい!)

その後会った友人にも相談して、シャンソンライブのお店に、在庫がまだあれば譲っていただくことはできないかと聞いてみることにした。

ずうずうしいけど、あればラッキーだ!!

それで、おととい改めていただいてきた。おカネは要らないとの有難いお言葉…菓子折りだけ置いてきた。

それで、家には赤3本、白1本のバラがある。

我ながらたいした執着心だと思う。けど、心が華やぐ。うれしい。

救済とは何か

救済とは、最終的には神への道を歩むことができるという、神による約束だと説明されている。

最初神から分離して離れてしまった。それは勘ちがい。誤解だ。今も神の子は神とともにある。

だけど勘ちがいしたまんまの神の子の心は、離れてしまったままの世界にある。

だから、救済とはその勘ちがいの取り消しである。

それは、何もしないことにより、夢と悪意の世界が維持されずに消えていくという意味で、取り消しである。」(第2部、2-3-1)

こう書いてあるってことは、私たちの世界では常に勘ちがいと幻想を維持するために、「何かをしている」ということになる。

それが、この世の出来事に対する判断や、自分を含めた誰かしらを非難することや、恐怖感や罪悪感をもつことなんだろう。

赦しによって勘ちがいと間違った知覚を取りなすことが、救済なのだ。

幻想を維持しないことで、それがただ静かに塵と消えるままにする。そうすれば幻想が隠していたものが顕わになる。」(第2部、2-3-3)

正気を思い出すために、心の中の聖なる場所に訪れる、そのきっかけがワークなのだ。

できない自分を責めてしまったら、エゴの思うつぼ。いい、悪いと既存の価値観で判断することなく、鷹揚に構えていられたらいいんだろうなぁ(むずかしいけど)。

ゲンジツの世界で忙しくなると、心の中の聖なる場所なんて何言ってんだ、ってことになるから、忙しさがずーっと続く状況に陥らないということも大事かな。(こう書いていながら、怠け者の戯言…とツッコミたくなる私もいる。)

ACIMレッスン230-今、私は神の平安を求め、それを見つける。

2018-12-24

色彩サークル“自主研究”

おとといの夜久しぶりに徹夜した。

きのう参加している月一の色彩サークルの年内最終回で、各自の“自主研究”の発表がありその資料づくりのためだ。

少人数のゆるい会だし、最近は「色」のことは優先順位も低くなっていてまったく手がつけられないまま前々日になっていたのだ。

自主研究といいながら一夜漬けとはなさけないと思ったが、手ぶらでは行けない…。

にわかだけどテーマは、「企業webサイトと使っている色の分析」みたいなこととした。

結婚情報サイトはやはり「愛・幸せ」をイメージさせるピンク系だし、老舗和菓子店は「和の伝統」を示すような茶系…といった話。男性化粧品はスタイリッシュ感を出すため、黒に渋めの青、緑。こじつけ感もあるけど。

資料をまとめるの久しぶりで、途中からちょっと楽しくなった。

綺麗な色でプリントアウトするために、午前4時にコンビニに行ったら、シニア世代の店長さんが黙々と品出しをしておられた。コンビニ経営、負荷がかかるたいへんな仕事だと頭が下がった。

シャンソンXmasコンサート

おととい昼は、四谷にある蟻ん子というシャンソンライブハウスで、しますえよしおさんのXmas コンサートだった。

お客さんは元気なシニア女性が大部分。みんな自らの一年の労をねぎらう意味もあるのかな。

お弁当の写真しか撮れなかったけど、しますえさんの生歌の迫力がすごかった。朝吹タツヤさんの歌にはいつも愛を感じる。

心を鷲づかみにされて揺さぶられた。

歌で人の心を動かせるってすごいと思った。

ACIMワーク230-今、私は神の平安を求め、それを見つける。

私は『奇跡講座(ACIM)』から離れないことが大事だと思い、とりあえずはワークを続けてきた。

でもそれは、やはり自己流で自己都合で捻じ曲げられたものだと感じた。

最近なおざりにしてきた『奇跡講座テキスト』を読んで、ありゃ…と気づいたのだ。

ACIMを勉強している(つもりだ)けど、ACIMを生きてはいない。

左足をACIMにかけ右足はこの世の価値観に置き、股裂き状態なのだ。

頭はACIMで心はまだこの世…

それが「わかっている」ということはどういうことなんだろう…

なぜACIMで価値観でもっと生きられないのかというと、執着しているものを手放さなければならないように感じそれが受け入がたいのだ。

またACIMの考えはやはり突飛な感じもするから、全てを託しきるまでは達せていないのかもしれない。

今、私は真の自己でいることだけを求める。L230-1-5)

私はあなたに創造されたままの私です。あなたから授かった平安を見いだすためには、私はただあなたに頼めばよいだけです。」(L230-2-4,5)

ACIMから離れないでさえいればいずれはその心に近づけるのではないかなぁというのが、今のきもちだ。

L230ワーク時のメモには、

「ひとつの扉を開かなければ、次の扉は開かない。

全部に確実性を求めることは不信の態度を表す。」と。

今日の一日なんだな、まず。

今日一日、神さまと聖霊さんとともにいたい。

あっ、MaryXmas

ACIMレッスン229-私を創造した愛が、私の本性である。

2018-12-19

「おもてなし英語講座」受講決まる

11月22日に応募した区のおもてなし英語講座の結果が来た。

「定員を大幅に上回る応募があり、厳正に抽選を行いましたところ、次のとおり結果が…」という文言の後に、太字で、

「当選」と。

おー、当選してる!

大幅にって、どれぐらいだったのかな。かなりの倍率とかだったらありがたみが増すよ。何はともあれ無料英会話講座、ありがたい。

私が案じていたとおり、初日は「自己紹介」で時間が30分長くなっていた。

英会話より、講座でのコミュニケーションを怖れていた私。

みんなに(わかりやすく)紹介すべき自己がないし、ひとり者っていうのも若干引け目。こういうところに来る人はテンションもコミュ力も高めの人が多そうだなー、と。

これも、もちろん赦しの対象だ。

誰も対して私を攻撃しようとしているわけではないのに自己防衛が先に立つ。

差し出し人は区の「人事課 人材育成課」となっていた。あー、ごめんなさい、私でいいのかな。

来年1月開校。ともあれ「旅の恥はかき捨て」くらいの気合いで参加しようと思っている。

ACIMワーク229-私を創造した愛が、私の本性である。

レッスン229は、12/5~9母との旅行から帰ってきた頃にやっていたワーク。

旅の余韻がありこの世の方がACIMの世界よりリアルに感じられ、いろいろ母への思いが湧いていた。

たいしてワークのメモもしていないなかで、ここでも『絵本つくりかた』買おうか、と書いていた。

最初にこの本を知ったきっかけは何だっけ?

絵本が気になっているんだな、私。

私がつくるとしたら、おとな向けの本だ。

おはなしの案も、具体的なイメージもない。

けど、気になっているんだな。

レッスン229をいま改めて読んだら、「私を創造した愛が、私の本性である。」とある。

愛が私の本性…?

何日間かそのワークをしていたはずなのに、なんか新鮮に感じた。

愛が私の本性…

ACIMレッスン228-神は私を咎めなかった。もはや私も咎めない。

2018-12-17

かぜひいた

かぜひいた。

先週土曜パソコン講習日。午後3時までは何ともなかったたが、3時過ぎから喉が痛くなり始め、講習が終わった5時にはしっかり風邪引きになっていた。

電車でもらったかな。空気乾燥しているし。

免疫力少しついたかと思っていたけど、そうでもなかったか。

昨日は一日中だるく、なんでか眠くて仕方がなかった。早めに寝た。

これ以上悪化させないようにしよう。

ACIMワーク228-神は私を咎めなかった。もはや私も咎めない。

『奇跡講座』は病気(と病人)には厳しい。

レッスンL136では「病気は真理に対抗する防衛である。」という主題概念を掲げ、「病気は偶発的なものではない。すべての防衛と同じように、病気も自己欺瞞のための狂気の仕組みである。」(L136-2-1,2)と説明している。

レッスンL140では、「罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。」(L140-4-3)と言っている。

また「病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」(L140-4-4,5,6)とも。

単なる風邪でも、「寒かったから」とか「空気が乾燥していたから」が原因ではなくて、私に罪悪感があるからなのかな。

罪悪感なら、、、やっぱりある、と思う。

昔から引きずっているものもあれば、現在進行形のものもある。他の人はみな頑張って働いているけど私は…、と思う気持ちだ。自分を咎めたくなる。

だけど、罪悪感をこじらせて(新たな)病気を作りたくはない。

自分を咎めるのは止めよう。

この世の価値観と『奇跡講座』の価値観の中で揺れている。開き直っていると思う。けど、やはり揺れている。

2018年の世相を表す漢字に「災」が選ばれた。私の場合は引っ越しの「転」かなと思っていたけど、迷走の「迷」かもしれない、と思う。

あるいは猶予の「猶」かな。

ACIMレッスン227-これが、私が解放される聖なる瞬間である。

2018-12-12

冬だ、冬。一年て、早い。

4日ぶりのブログ。

急に冷え込み、すっかり冬になった。

手がかじかむ。

そうそう、こんなだった、去年も。冬の寒さを思い出した。

あ゛~、引っ越しの時、加湿器じゃまだと思って、リサイクルショップに引き取ってもらったんだ。ミスった。

今年の冬だって乾燥するー。他区だって乾燥するー。

気が大きくなっていたのか、、、。あの時は、ただ物を減らしたい衝動にかられてた。

年末が見えてきて、、一年ってなんて早いんだろうと、焦る。

体内時計(リズム)がトロくなっているから、周りが早く感じられる。

感覚的なもの=錯覚なんだろうけど。

自分が不十分感をもっているから、早く感じられるんだろうな。

自分のブログでさえも、間が空くと、来るのに気合いが要る。

ちゃんとできない時には、できない自分を赦すこともワークのひとつだっけ。

ACIMワーク227-これが、私が解放される聖なる瞬間である。

レッスン227をやっていたのは、11月23~26日頃。

やっていたと言っても、文章を読み、朝晩15分くらい瞑想ワークするだけだけど。

少しでもACIMワークを離れると、この世とこの世の価値観がリアルになる。

やっぱり私たちは肉体で、肉体の死とともにすべてが終わる。それまでの間いかにこの世で自己実現すべきか…と。

それに並行してACIMが奇想天外、荒唐無稽なものに感じられる。

これは現実逃避のもので、気休めだな。。と。

私と神さまのつながりは、これくらい薄いものなんだな、と思い知る。

ACIMワークに戻って、そういえば、そうだった…となり、遠くなっていた神を思い出す。

神さまは探さなくても、そこに在る。

自分の感受性を取り戻すだけだ。

それには赦すことと感謝すること。

このシンプルなことを、覚えている時はなるたけ、やろう。

これは、ACIMを生きようとそうでなかろうと、「実際に」役立つことだから。

ここ最近のワークで「絵本つくりかた」という本が出てくる。

それが聖霊さんからのアドバイスかどうかわからないけど、目を閉じて静かにしていると、その本が出てくる。

だけど、買えてない。

差し迫って必要なものじゃないから、2,030円が高く思える。

だったら、「Webデザイン」の本が欲しいな、などと思っているとポチっとできないのだ。

今日のワークでも、その本のことを思い出していた(一回イメージに出てくると連続するのか)。

さっきブログを書くために、レッスン227ワーク時のメモをを見たら、すでに、

「『絵本つくりかた』買おう」とメモしていた。

いつから、そう感じているんだろう。

その「メッセージ」が本物かどうかわからなくても、「2,030円」投資をしてみることは価値があるだろうに。。

一方で、それ買ってどうなるっての?受けとるのも面倒なんだよな、と、ぐだぐだしぶる自分もいる。

神の子は今日、自分の夢を放棄する。神の子は今日、罪から解放され、聖性に包まれ、ついに正しい心を取り戻し、再びわが家に帰る。」(L227-2-2,3)

↑改めて今読んで、気になったところ。

はたして「絵本つくりかた」は年内に買えるか。

ACIMレッスン226-私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。

2018-11-26

幼馴染と会う

故郷にいる、小学校から高校までずっと同じ学校だった幼馴染が上京、東京に住んでいるもうひとりの幼馴染と三人で食事をした。

赤坂見附。20代の初め1年間、専門学校に通っていた町。

久しぶり。来ることないもんな~。

お店はほぼ満席で、みんな楽しげだ。都会の人はこうやって夜を楽しんでいるのか、とやけに明るい店内をキョロキョロ見回してしまった。

3人で会うのも数年ぶり。一人は故郷で専業主婦で男の子二人を育て、もう一人は東京でシングルマザーとして女手ひとつで娘さんを育て上げている。二人とも大人でえらい。

久しぶりだけど久しぶり感がないのが、幼馴染のいいところだ。

話が健康や病気の話になったり親の介護の話になったりするのが、不思議な気さえした。変わらないつもりでも仮初めの世で変わらないものは何もない…。

それぞれけっこうな人生の旅をしてきたなぁ、と感慨深かった。

おすすめのサラダを頼み、レタスやトマトにドレッシングがかかったものが来るのをイメージしていたら、見慣れない野菜が乗っかったカラフルな皿が出てきた。

「おー!最近のサラダはこうなっているのか」と驚いた。これは店に拠るんだろう。

おいしかった。

二人がそれぞれゲンジツ生活の中で努力を重ねて人生を築いているなかで、ふっと自分だけ迷子になっているような気もした。

別れてから、サラダの写真を撮るより三人で写真を撮ればよかった、と思った。

ACIMワーク226-私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。

私たちは、この世か、神か、そのどちらかしか手にできない、という。

私は神を選びたいと思った。

でも一方では、生まれてこのかた、この世しか知らないと思っているし、「自分自身」という個の存在にも執着がある。どっちつかずの状態にいる。

この世で頑張っている人を見ると、自分がただリトリートしていて肩身が狭く申し訳ないような気分になる。

あるいは、思いはそれなりのものであっても、やり方が間違っているのでは、となる。

昨晩は、この世の色のコントラストが濃く見えた。

そして、それはとても魅力的だった。

私は、この世に対して、ぼわーんとした反応の鈍い人間になっているな、と思う。

人から見たら、さそかしつまらない人間だろう。

もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。」(L226-1-1)

私はこの世を完全に立ち去りたい、とは思っていないのかな?

この世はきらきらして見える。

一方で、私はこの世が天国につながるものではないことを知っている。

天国がこのようにたやすく私のものになるというのに、虚しい願望や打ち砕かれた夢しかない場所に、どうして長居をする必要があるでしょう。」(L226-2-3)

そう、たしかにそうだ。

自分がその気になれば、そばにおられる存在に気づけるのだから、ただ見ることを志せばいいだけだ。

私の家が待っている。寄り道をせずわが家に帰ろう。

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