久しぶりに本屋さんで新しい本を買う

2019-03-29

ショーケンも逝く…か

新年号の発表間近の昨夜。ショーケンこと萩原健一さんが亡くなられたとのニュースが流れた。

自分が子どもの頃から輝いていてすごいと思っていたスターが亡くなるのは寂しいものだ…最近そういうことが格段に増えた。

やはり一つの時代の終わりを迎えたのだ…

それは新しいものを迎える際の必然だ。そうやってこのゲンジツの世は回っているのだから。

いくらこの世は回り灯篭から映される絵のようなものだと言っても、寂しいな。。

歳を重ねるって、なじみのある人や物、やり方が消えていって、なじみが薄い人や物、やり方が増えていくことなのね。時代の変化についていけてない…(>_<)

新しい本でWordpressの勉強をします

このブログはWordpressというサイトづくりのシステムを使って作っているけれど、よくわからないまま書籍に付いていたテンプレートを使って作った。

Wordpress自体が更新されていくしこれからも使っていくなら、そしてネットでこれから収入を得ることを考えるならやはりWordpressの勉強しなきゃと参考本を買うことに。

それで大きな本屋さんに出かけた。

新しい本を買うということも、本屋さんで本を買うことも、久しぶり。最近は本もメルカリとかで買っていたのだ。

今回ばかりはどれが今の自分のレベルやニーズに合っているか、中身を見て比較検討しなきゃ、と大型書店に来た。

で、4,5冊の中身を見て、選んだのが、

『はじめてのブログをワードプレスで作るための本』

Wordpressでブログを作り始めて4年目だというのに、いろいろ見た挙句、今の自分のレベルに合う本がこれだなんて…、なさけないものがある。

図書館にないのか(2019年3月1日発売の本でなかった)、本の最初に記載してある設定とかはもう済んでいるんだけど。。

う~む、と迷ったが、他の本と見合わせて、今の私はここからだという結論にいたった。

最初は、ざっと見てメルカリで売っちゃおうかな、と折り目をつけないように丁寧にページをめくっていたが、

「えーい、めんどくさい、こんな他人行儀じゃ勉強にならん」と、ガッツリ折り目も付けて向き合うことにした。

もともと機械的なことに弱いうえに、家族もいないしコミュニケーション下手で若い層との接点もなく、更新したわいいけど新機能の使い方がわからないだの、バックアップしたのをどう戻すだの、一人で悪戦苦闘している。

これでネットというものがなかったら、完全にお手上げだ。

取っ掛かりの先生はやっぱりGoogle先生。

ネットにいろんな情報載っけてもらって、えらい助かっている。内気なひとり暮らしには欠かせない。

かといって、商品をリアルに見ることができるお店もやっぱり大事。久しぶりの本屋さんはどこか懐かしくもあり楽しかった。

聖霊さんに導かれながらも、身体の私はここで今日も一喜一憂したり試行錯誤したりしている。

これもまた楽し。

ACIMワーク252-私のアイデンティティーは神の子である。

2019-03-27

主題概念から初めての占い体験を思い出す

また少しワークをやる日とそれをダイアリーブログに書く日にかい離が…。本来ならばワーク体験を記録できればと思っていたけど、たいしたメモもなくどんなふうに感じたのか思いだしづらい。

なので…

私のアイデンティーは神の子である。」この主題概念を見て、今思い出したこと。

むかーし、むかーし、18歳の頃、初めて高校からの友だちとラフォーレ原宿に行き、そこで初めての占いをした。

その頃のラフォーレはできたばかりで田舎育ちの私にはすごくキラキラして見えた。いくつかある占いブースのうち和風なおばさま占い師の前に座って、ドキドキしながら言われることを待った。

言われた(覚えている)のは、

・お母さんとの関係(相性?)に問題アリ

・非常に信心深い

の二つ。

友だちは「おっとりとして見えるたまちゃんに『お母さんとの関係が良くない』って見抜くってすごいね!」とコーフン気味だったのを覚えている(私は母親のグチをよく言っていたのだ)。

私は、「信心深い」のほうに「えっ?」とびっくりしていた。

18歳の女のコ(当時!)をつかまえて「信心深い」とは…!?と。

占い師さんは「宗教に入るとかそういうことじゃなくて、神さまに対する信心があるということですよ。」と補足された。

幼い頃や若い頃のことをほとんど覚えていない私がこれを覚えているのは、言われた内容が驚いたのとどこか刺さったからなんだろう。

そもそも占いを信じるかどうか、ってことがあるけれど。ラフォーレでの占い初体験は、なかなか衝撃的だった。

占いの答え合わせ!?

今40年近くたって、たしかに宗教組織に入ったことはないけれど、またキリスト教系短大で聖書の授業があったにも関わらずそれには全然なじまなかったけれど、『奇跡講座』に出会って今もつながっているということは、ある意味信心深いのかな~とも思う。

「お母さんとの関係に問題アリ」のほうはずいぶん改善した。

私の自己の聖性は、今の私が考えつくあらゆる聖性の概念を超えたものである。

そのきらめくような完璧な清らかさは、これまで見たどんな光よりもはるかにまばゆく輝いている。」(L252-1-1,2)

ゲンジツの私は自己チューで怖がりで…怠け者。

清らかさとはほど遠いけれど、そのカケラがどこかにあるならそこに手を伸ばしたい。

それにしても時間も錯覚だというけれど、40年の何と短いこと!

私を占ってくださった占い師さんは、当時すでに50歳を超えているように見えたが、今はどうしておられるだろう。

「深い信心があるのよ」…と時空を超えてもう一度言われたような気がした。

「私のアイデンティティーは神の子である。」かぁ…

まだ高らかに宣言するまでには至らないけど…

平成のおわりにー 生前退位という天皇の大きな功績

2019-03-26

来週新元号発表、平成もいよいよフィナーレ

いよいよ来週月曜日に新年号が発表される。

「平成」もいよいよフィナーレのカウントダウン。

平成から新元号へ。そして翌年の東京オリンピックへ、と世の中全体が郷愁と期待感が入り混じりややハイになっている気がする。

私も寂しいような感慨深いような気分。歳を重ねた人ほど期待より感慨のほうが大きいのかもしれない。

元号というのは、リアルではないゲンジツのなかのさらにリアルではない記号だ。

何かの本で権力者は時を支配する、と読んだ。今の時代天皇は権力者ではないが、天皇や年号が人々の無意識やイメージに大きな影響を与えそれが社会を動かすというは想像できる。

天皇家は日本の国民の投影の大きな受け皿なのだ。

国民に敬愛されている天皇、皇后陛下

現天皇皇后両陛下は国民にたいへん敬愛されていると思う。

私も齢を重ねられて被災地慰問や海外への訪問を始めたくさんの公務に当たられている映像を見て、頭が下がり心を打たれる。

それは天皇だから、というより、自ら象徴を背負いエゴを排して国民(他者)に尽くされ国民(他者)の幸福を祈っておられる、その姿に感銘しているのではないだろうか。

それでもやはり天皇という身分(立場)があってこそのありがたさなのだが。

生まれながらにして「国の象徴」としての生き方が決められるというのはたいへんなことだ(まず、国自体が見えないものでその象徴って何だ、と悩む)。

それを祈りをもって見事にまっとうされた。私なんかの想像をはるかに超える大変さ、辛抱、葛藤や苦しみがあったのではないかなと思う。

退位されてすこしゆっくり休めるのだろうか。そうだといいのだけど…

生前退位という天皇の大功績

私は現天皇のたくさんの功績(この言葉遣いが妥当かわからないけれど)の中でも、生前退位なさったことが最も大きな功績の一つだと思っている。

退位するということによって、天皇というのはその人にぴったりくっついた「身分」なのではなく、「役割」や「仕事」のようなものだと社会に認知させたから。

「天皇」=象徴という役割があって、それを私はやってきましたよ~、私=天皇ではないんですよ~という宣言のようにも感じる。

これは天皇制という慣習の世界にあって、きわめて「民主的でリベラル」とも言えるのではないだろうか。

天皇は生まれながらにして「天皇」に定められている。それって「職業選択の自由」とか憲法に反しているんじゃ、、と検索してみたら、「天皇制は憲法上、憲法が認めた例外」とされているとのこと。

だから天皇の人権は多少制限されてもやむを得ないとされているのだそう。「憲法上、憲法が認めた例外」っていうのも突き詰めるとよくわからない。

『奇跡講座』学習者が天皇について書くのは

自分の身体も含めてこの世のすべてを幻想として見る『奇跡講座』の学習者として、この社会の中での幻想とも言える天皇や天皇制について感じることを書くのは、夢のなかで夢のはなしをしているみたいに変な感じだ。

天皇制って正直よくわからない。一方、私は現天皇にとても尊敬を感じる。

そういえば、、私が「天皇」を初めて意識したのは、幼稚園の時。

昭和天皇、香淳皇后が富山県内の国道8号線を車で通られるからとお見送りをした時だった。

園児みんなが旗を振って車を見送ったのだ。

車が通りすぎるのを見るために幼稚園を挙げて道端でずっと待機しているのは、幼い子に「身分」を教えこむのに有効だった。

私は昭和天皇崩御の日会社に喪服(黒いワンピース)を着ていき、同僚に驚かれた。

日本という国に生まれ物心ついた時から親しんでいる天皇や天皇制は私の無意識にもしっかり根付いていると感じる。

ACIMワーク251-私は真理だけを必要としている。

2019-03-25

桜満開直前

今朝のウォーキングでの桜。満開直前。

写真の撮り方ヘタで桜の色の美しさが伝わらないけど。

一年に一度、一週間の華麗で切ない桜ショーが始まる。

あの薄ピンクの薄い薄い花びらに生と死が凝縮されているから、こんなに人を魅了するんだろうな~

ACIMワーク251-私は真理だけを必要としている。

レッスン251ー「私は多くのものを探し求めたが、見つけたのは絶望だった。」(L251-1-1)から説明が始まる。

見つけたのは絶望、オンリー!? いや~、そこまでひどいとは思っていなかったけど。

奇跡講座(ACIM)が「一般向けではない」「万人のニーズを満たすものではない」と言われるのは、こういうところだろう。

大前提としてゲンジツの世の否定がある。

私たちはこの世と人間を、「いろいろあるけれど善いものだよ」と捉えることから、人生(と思えるもの)をスタートさせる。

その人生のなかで、「頑張れば報われるんだよ」と教えられ「だから頑張れ」と教育される。

あながちそうとは言えないことは大人になってわかるけれど、それを言っちゃあおしまいなのだ。

そうやって、この世の中と折り合いをつけて、幸せを見つけることが人間の命題なのだと思い込んでいる。

そして、学業を終え仕事を見つけ、伴侶を獲得し子孫をもうけ、映画や音楽を楽しみスポーツに興じ、旅をして自然を愛で、人生を豊かなものにしようと頑張っている。

そういうささやかな「大変な頑張り」を、ACIMは全否定しているかのように見える。

それだから、この人生に成功し満足している人より、そういうグループには入らなかった人のほうが、ACIMを学びやすい傾向にあると言われるのかもしれない。

人生に満足している人は、努力して頑張って手に入れたものがリアルではないなどという“たわごと”は、到底受け入れられないだろう。

私はうまく行っているほうではないし、ACIMの教えはすばらしいと思っているけれど、それでも「見つけたのは絶望だった」とバッサリ切られるとひっかかる。

桜の美しさもそうだし先週行われたフィギュアスケート世界選手権での頂上決戦での演技もそうだし(女子も男子も)、美しくて感動的なものもいっぱいあるよー、と言いたくなる。

真理とこの世の美しさは両立するのか

こう書いてきて、ふっと、前にくさちゃんがブログで言っておられたことを思い出した。

3月初旬に私がゲーリー・レナードさん来日ワークショップ発見の日記を載せた時、2年前京都ワークショップに参加された際のブログの感想を紹介してくださったのだ(くさちゃんのブログ:2017年5月7日の記事より)。

「外部の事柄として感覚化されているものは
心の投影と言われていて。

このワークショップと、会場の美しい背景が
自分の心の投影だとしたら。

それはステキなことだな、と僕も思うのです。」

…そう見たら、この世に絶望せずに何かを見て美しい、素敵だと感じられることは、やっぱり素敵なことだな、と思っていいのかな、と思えた。

私は真理を必要としている。

だけど、それはこの世の美しさをすべて投げ捨てなければいけないものではない。

真理の中ですべてがかわる。レッスン251にも、

今、私は自分に必要なすべてをもっている。

今、ほしいものすべてをもっている。

そして今、ついに私は心安らかな自分を見出す。」(L251-1-7,8,9)

とある。

やがてやがて、真理の見る術が身に付いたら、この世はすべて私の安らかさの投影となるのかな。私は安らかさと美しさしか感じられなくなるんだろうか。

そういう景色を見てみたい。

第2部-4.罪とは何か

2019-03-22

罪とは何か

罪とは狂気である。」(第2部、4-1-1)から始まるこの節。

罪とは狂気…。そう言われてもなかなか難しい。

私たちは神から離れたと思い込み(誤解)、そのことに深い深い罪悪感を感じているがために逃げ場所としてこの宇宙を作った。

それは単なる意識の産物であり「この世界ゲーム」という架空のものだ。

ただプレーヤーである個々の私たちはゲームに入り込んでいて、そのことを知らない。見えない。

この世界をよりよいものにしよう、自分の人生と思えるものをいいものにしたいと、このゲームを支えるだけだ。

『奇跡講座』(ACIM)はこの世界を支える根本原理が罪悪感であり、それが幻想を作り上げていると繰り返し伝えている。

幻想は真実ではない。

罪はないのだ。

しかし私たちはいつもいつも“罪人”を糾弾し続けている。

自分の外に見える罪と思えるもの。許しがたいと思えるもの。

それを、私が・心の中で赦して流すのだ。

ゲームを俯瞰して外から見たら、私たちの知覚は狂っているのだから。

狂人の夢はぞっとするほど恐ろしく、罪は身の毛がよだつほど怖いものに見える。

だが、罪が知覚するものは、幼稚なゲームにすぎない。」(第2部、4-4-1,2)

肉体の目的を変える

私たちの肉体は、宇宙と同様、分離した状態を表すイリュージョンの一種にすぎない。

肉体の目的は、存続のために努力することである。しかし、努力の目標は変わりえる。」(第2部、4-2-2,3)

虚偽だけでなく真理も、肉体の目的となりえる。」(第2部、4-2-6

分離の象徴である肉体を、真理に仕えるものとする。

これがこのワーク全体の目的なのだと思う。

赦しを知っていることとじっさいに赦せること

罪悪感… 自分は罪深いと思う気持ちは、なんと根深いものだろう。

まず自分の意識にすら上らないし、意識できたとしてもなかなか信じられない。

私たちは心の奥底で自分を赦してはいないのだ。

くりかえしくりかえし教えてもらって、たまーにかすかに信じることができるだけ。

神の子よ、あなたはいつまで罪のゲームを続けるつもりなのだろう。」(第2部、4-5-1)

罪は存在しない。」(第2部、4-5-5)

ああ、聖なる神の子よ、いったいいつまで、あなたはそれを続けたいのだろう。」(第2部、4-5-8)

私は、この考えに光を感じている。

だけど、概念的な罪ではなくて、自分の身に起きたことには、たちまちわからなくなってしまう。

こんなことが起こったから → 私はこんな思いになる。

この公式を手放さないかぎり、私はこの幻想ループから抜け出すことはできないんだろう~と思う。

罪はない。これは素晴らしい朗報ではないだろうか。

「クマのプーさん展」に行ってきた&絵本『光のテーブル』

2019-03-21

「クマのプーさん展」に行ってきた

きのう渋谷文化村で開催している「クマのプーさん展」に行ってきた。


私が絵本づくりに興味があると話したこともあって、チケットを持っていた友だちが誘ってくれたのだ。

「クマのプーさん」は、イギリス人の作家A.A.ミルンが1920年代に発表した児童小説。挿絵はE.H.シェパードで二人の共同制作によるものだ。

英国ヴィクトリア&アルバート博物館からの原画が多数展示されていて、ディズニーと契約する前の最初のプーさんのデッサンや主要な登場人物、森の地図なども展示してあった。


登場人物を8名(匹)と人間が一度に認識できると言われる7前後に合わせ、その中にネガティブキャラのロバを加えるあたり、最初からある意味“戦略的”にうまく設計されていると感じた。

最初のキャラクターのデッサンは鉛筆でのラフスケッチで、そうやっておはなしができていくんだな~ととっても参考になった。

プーさんの後ろ姿、とくにおしりの丸みがとってもかわいくて、やっぱり丸いって魅力だよね、小熊のサイズ感もいいよね、と話しあった。

展示会後ランチを取りながら、近況や最近の関心事などいろいろ話した。

友だちは私が『奇跡講座』なるものに熱心なのは知っているが、その内容まではよく知らない(私が話していない)。

私は『奇跡講座』を素晴らしいものだと思っていてそれを伝えたい気持ちがあるけれど、難しいし万人向けとは言えないので、そのエッセンスみたいなものを含んだ易しいおはなしみたいなものを作りたいと思っているんだけど、と話した。

友人はいろいろ質問してくれたりアドバイスしてくれたりした。

私は話しながらも、絵も文も自分でつくるのはパワーの要ることだし、私には未だ『奇跡講座』を伝える覚悟もない。何かやるとしても『奇跡講座』とは関係しないおはなしからかな、などと考えていた。

貴乃花の絵本「光のテーブル」、おおっー

その夜ご飯を食べた後何気にテレビを見ていたら、「今日貴乃花があらたな職を発表する」とかやっていた。

見るでもなしに見ていたが、その職業はなんと「絵本作家です」と発表され、

えっ、絵本作家!?

とびっくりした。

今後の夢で番組上のネタみたいなものかな、と思っていたら、その後すでにできあがっているという絵本が発表され、貴乃花さんが自ら朗読、という流れになった。

『光のテーブル とっても大切なカエルのおはなし』という本。

絵を担当したのは、あのパラパラ漫画で有名なお笑いタレントの鉄拳さんだという。

今、ネットで検索したら絵本がそのまんまYoutube、鉄拳公式チャンネルに載っていた。

飛ぶのが得意なカエルの子が、自分の力を見せたいと母の反対を押し切って、隣の国のカエルとびコンクールに向かうお話。

すごくすごく頑張ってカエルとびコンクールで優勝するまでになり、欲しいものはすべて手に入れた。だけどだけど満たされなくて…。

おはなし、すごくいい。

鉄拳さんの絵もすごい…素敵。

聖書の「放蕩息子」のお話と被る部分もあり、私がそういう見方で見るからか、神の家に戻るという『奇跡講座』のエッセンスが含まれているようにも感じた。

つい15歳で相撲界に弟子入りした貴乃花さんの人生と重ねちゃって泣けてきちゃうところもある。

「絵本作ってみたいな」と漠然と思いつつなーんにもしていない私。

なーんにものしていないのに、敗北感。

いやなーんにものしていないから、敗北感なのか。

何に敗北している気がするかというと、やっぱり「表現する」ということに対してかな。

絵本のつくりかたやその可能性について、いろいろと刺激を受けた一日だった。

ACIMワーク250-私自身を、限られた者として見ることがありませんように。

2019-03-19

私自身を、限られた者として見ないためには、目の前の人を限られた者と見ないことが絶対条件だ。

分離を映し出す世の中では、自分と他者を切り離し「自分ではない○○が悪い」と考えることで、心の均衡を保っている。

それが無意識のくせになっていて、自分ではない「悪い」人を見つけて批判する。

その間だけは無意識の罪悪感を自分からそらすことができるから、楽になった錯覚がする。

だけどその作用は長くは続かないから、新たなターゲットを批判することが必要になる。

まるでドラッグやなんかの依存症のようだ。

批判依存。

それは他でもない自分がかかっている病で、遠くのことには観念的に考えられるが、自分自身が巻き込まれたことだと、ささいなことでも瞬時に批判の刃を持って身構えてしまう。

そうしたクセを治していくには、どんどん他者と触れ合って他者と自分を分けない、他者のなかに神の子だけを見る訓練をする必要があるんだろうなぁ、と思う。

奇跡講座についてのブログを初めて3年。かなり内向きな日々だったけど、そろそろちょっと外向きになってもいいんじゃ?

私は赦しどころか、奇跡講座の理くつだけ学んで脆弱なエゴをガードするスーパーエゴを作り上げてしまっているんじゃ…と、しばしば思う。

そして聖霊が導く正しい見方を学んだ自己の部分から、スーパーエゴとして“成長”したエゴが、そっちには行かすもんか、と引っ張っているんじゃ?

あ゛

私、ちぎれちゃうよ。。<(;゚_゚;)> 

 

考えすぎかな?これも頭の中での見解。

畳の上での水泳練習はそろそろやめて水に入らなきゃ。

とすれば、いろんな方と交わって、

彼の中の神聖な光を陰らせ、彼の強さが衰えて虚弱となるのを見ようとするのはやめよう。

また、彼の中に欠乏を知覚して、それを理由に彼の主権を攻撃しようとするのはやめよう。」(L250-1-2,3)

を実践することだ。

エゴが猛反発しないように、そろりそろり。徐々に徐々に。

『奇跡講座のメリットって?』に、やはり即答できず(・・;)

2019-03-18

Tokyo Wordpress Meetupというイベントに参加


土曜日、友だちに誘ってもらってTokyo Wordpress Meetupというイベントに参加してきた。

Wordpressという無料のサイトやブログを作るしくみに興味がある人が集まって、自分のノートパソコン持ち込みで作業したり教えあったりする会だ。

今回第5回とのこと。全国各地月1ペースでやっているらしい。

この「奇跡講座ダイアリー」というブログもWordpressで作っている。「これならつくれる!おしゃれなホームページ」という本で提供されていたテーマ(テンプレート)を利用した。

かわいい雰囲気が気にいって選んだのだけど、ブログ用に作られたものではなく、また4年前に発刊された本のまんまで古くなっているから、Wordpressのカスタマイズの仕方とか学びたいと思っているのだ。

Wordpress Meetupは具体的なレクチャーを受けるような場ではなかったが、なかなか刺激的でおもしろかった。

まず、受付もなく出入りも自由なのかな?とてもオープンなところ。

そしてその人のやりたいことや習熟度に合わせて、机を配置してにわかグループや進行役を決めて進めるところなど。

そもそも無料のイベントで善意に乗って進んでいくので、ニーズが満たされないと不満を出す人もいない。新しいことをやりたい人の気に充ちていた。

「奇跡講座をやるメリットは?」

私が入ったグループは9名で、その中の5人でランチに行った。私と友人以外は起業している男性だった。

戸惑ったのが、やっぱり「奇跡講座って?」という質問。

ランチに向かう途中一人の方に聞かれたけど、端的にどう説明するべきか。普段からひきこもっている私には、初対面の方と話すだけでもハードルが高い…

「あえていえばスピリチュアル系のなかの一つかな?」と私。

「それをやるメリットは?」と男性。

そうだよね、そう聞くよね、ふつう。

メリットねえ-と一瞬固まる私。

この世でのメリットを期待してなら、

Nothing. 何もないー(赦しの結果映し出されるゲンジツも変化するだろうけどそれはメリットという狭い定義には入らない)。

でも、真実を言えばEverythingだ。

これをどう説明しよう?

「あ…、怒ったりしなくなるかな」と私。

「たしかに見るからに穏やかそうですもんね」と男性。

あ゛…。ウソだ。

表情に出にくいだけで、私は未だ気が短いほうだし、

奇跡講座を字面で学んでいるだけど、実践のほうは決して進んでいないから。

でもこれはまた別のはなし。

これをちゃんと説明する器量は私にはない。

奇跡講座を軽い会話で説明するのはむずかしい。とくにこれから社会に自らの力を発揮して天下を取ってやろうなどと思いがちな若い男性には。

「この世でのいろんな執着心を手放していくの。それで心が穏やかになるの」とやっと答えたけど、回答になっているか。

相手の方だって、すごく興味があって知りたいわけじゃないから、テキトーに楽しく答えればいいのに、そのコミュニケーションスキルに欠け距離感もわからず、戸惑ってしまった。

でも、籠りがちな人間にとってはこういうところに行くことがまずチャレンジだから、私にとってはこれは大きな一歩なのかもしれない。

何も持っていなくても幸せそうな謎の人をめざす!?

いま、ふっと思った。それに即答できなくても、

な~んか魅力的な人になれればいい。

若さもなく美しさもなくキャリアもなくおカネもなく、結婚もしておらず子もなく、

どこからどう見ても“人生の負け組”(死語?)…でもあの人なんか幸せそうだよね、感じいいよね、秘訣って何かな?と思ってもらえるようになるのだ。

そしてその秘訣を聞かれたら、「奇跡講座よ」とにっこり答える。

こういう風になれたら、最高だな。

しかしこれはこれでさらにハードル高し!?

ACIMワーク249‐赦しはすべての苦しみと損失を終わらせる。

2019-03-15

確定申告終えてほっ

何かにつけて体力気力が乏しい(と思っている)私には土日と講習が続くのは負荷がかかりすぎるみたい。ちょっと調子を崩していた。大量の花粉飛散(>_<)の影響…もあるかもしれない。

おととい確定申告を終えた。ほっとした。

今年はいつもにない不動産譲渡取得税(不動産を買った時よりも高く売った場合にかかる税金、これが関わってくるのはありがたいこと)の申告という作業があったから。

売買を仲介してくれた不動産屋さんはもう済んだ取引には親身ではなく、所轄の税務署も個別の相談までは受けられないとのことだった。

ネットで調べてたたき台を作り、他社の不動産税務無料相談会に申し込みいろいろ教わった。

相談会で対応してくださった税理士さんは、「これ、うちで仕事として受けたらお母様と二人分で40万円はいただきます」

それを無料相談会だからと親身に教えてくださった。おかげで、何とか自分で書類を作成して終わらせることができた。

ACIMでこの世の幻想性、おカネの幻想性を学んではいるものの、この世界ゲームに参加しているプレーヤーの私には、こういうことは圧倒的なリアルさを持って立ちはだかってくる(ように見える)。

もっともっと学習が進んだら、たいしたリアルさではなくなるんだろうけど、それにはまだまだ赦しの実践が足りない。

そうそう、カルチャー講座仲間からバレンタインチョコのお返しというわけじゃないだろうけど、ホワイトデーに手作りの肉じゃがをいただいた。



タッパーを新聞紙でくるみ、その気取らなさがあったかかった。

肉じゃが久しぶり、おいしかった!私よりうんと上品な味付けだな。東京の肉じゃがは豚肉だと聞いていたけど、これは牛だった。

ACIMワーク249‐赦しはすべての苦しみと損失を終わらせる。

赦しが描き出す世界では、苦しみは終わり、損失は不可能となり、怒りは意味をなさない。攻撃は過ぎ去り、狂気には終わりがくる。

そのとき、どのような苦しみがありえるだろう。

世界は喜びと豊かさと慈愛に溢れ、いつまでも与え合う場となる。」(L249-1-1~5)

書き映してしまった。

こういう世界をどこか知っているという記憶があるから、ACIMに惹かれたんだろうと思う。

私はACIMの理くつは素晴らしいと思っているけど、赦したくない、赦しの機会に直面したくないと思っている節もあるなと自己分析する。

赦しを実践してこそのACIMだ。

気が乱れがちな私の3月

このワークをやっていたのは3月の初めでその頃のワークメモを見てみたら、メモらしいメモはなく、

ただ「疲れていると思い込んでいるだけで、私は疲れてはいない。」という走り書きがあった。

ん?どういうことだ?

私は自分を身体だと見ているから、こんなに疲れやすいんだろうか。

「ゲイリー・R・レナードさんのワークショップ申し込んだ!」

「気が上がってしまい落ち着くことができなかった」

とのメモもあった。

そうそう、気が上がってしまったついでになのか、クレジットカード落っことした。再発行手続き…。あ゛~やはり私はマヌケだった。

もちろんこれも、この世界ゲームに参加しているプレーヤーの私の出来事で、大勢に影響はないことなんだろうけど。

疲れと支離滅裂。一回落ち着きたい。

“『奇跡講座』の効果”

2019-03-09

SEO講座に行ってきた

全3回のSEO講座の最終日。風は強かったが日差しは暖かかった。

公園の鴨のカップルもいくぶん緩んでいる気がした。

SEOの話は知らないことだらけで、これはこれで奥が深そうな話だった。

検索サイトにサジェスト機能というのがある。ある検索語を入れたら「次の検索語はこれではないですか?」とそのワードを表示してくれる親切な機能だ。

どの検索サイトか忘れたけれど検索窓に「奇跡講座」と入れたら、次にサジェスト機能で「効果」と出てきた。

「奇跡講座の効果って何だ」と検索している方が多いのだろう。

これはおもしろい、と思った。

それだけ奇跡講座が広まってきたということだろうか。

実際に奇跡講座(ACIM)を学んでいる人は、その効果を改めて検索しようとは思わないのではないか。

効果というのは、この世での効果、効用。

奇跡講座を学ぶ → こんな効果がある、という関係が成り立つ。

奇跡講座は、この世を映画のように内側から見せられている幻想だと見る。その真の因果が成り立たない世界での結果と見えるものに執着せず赦すことが、その中核だと思うから、「奇跡講座ってどんないいことがあるの?」という発想は真逆だと思う。

結果を求めるものではないのだ。でも、その学びの姿勢によって副次的にこのゲンジツでの結果も付いてくる。

説明がヘタだけど、そんな気がする。

私が感じた“奇跡講座の効果”

でも、この機会に改めて、“奇跡講座の効果”を考えてみた。私だけの狭い経験だけど。

1.まずひとつめは、スピリチュアルや自己啓発関連の本を読まなくなったこと。効果と言えることかどうかわからないけど。

これまでいろんな本を読んで、ふーむなるほど、と思い、またしばらくして他の本を読んで、ふーむなるほど、と思う。その繰り返しだった。

『奇跡講座』の考えを知って、わからないながらも、「これこそ真実」と感じ、他書に答えを求めることがなくなったのだ。ACIMの本を読むだけで精いっぱいでその時間もない。

2.死への恐怖が和らいだ

私は死への恐怖が強い人間だ。今も怖い。

しかし自分を肉体とは見なさない教えが浸透するにつれて、死への恐怖が少なくなってきた。本来の私は神の子であり死ぬことはない。不死だ。

3.ネガティブな感情を人にぶつけることが少なくなり、自分に嫌なことも起きにくくなった

これまでは、何か嫌な気持ちになると、それはこんな気持ちにさせた○○のせいだと被害者的に感じていたし、その感情をそのまま相手にぶつけてしまうこともあった。

けれど、今はそれは自分自身の内側にあるものを鏡のように相手にかぶせて見ているのだという理屈を学んだ。

渦中にいるときにそれを思い出すのは難しいこともあるが、いったん落ち着いて赦してから行動すると、負のスパイラルに陥ることもなく周りの人との関係性が良くなった。

思いつくまま3つ挙げた。

他にもいいこと、たくさんある。

人生が生きる価値のあるものになった、とか。

一生を懸けられる喜び!とか。

こんなに素晴らしいと思っているのだけど、実践はなかなかむずかしい。

けっこう、すっ転んで感情大爆発させちゃうこともまだまだある(>_<)

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