『Journey through the Text of ACIM』(79)-8章5節 教えることと学ぶこと

2021-05-11

自我か聖霊か、どちらを教師とするか

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。8章5節、教えることと学ぶこと。

自我か聖霊かー教師としてどちらを選ぶかーというテーマはこれまでも様々なところで様々な表現を用いて論じられてきた。

私たちには常に選択の自由があり、その結果がある。

抑えておくべき前提は、私たちはニュートラルな状態ではなく元々自我を教師として自我のカリキュラムを取っているということだ。

そのため私たちは意識的には罪悪感や痛みを避けつつ無意識では惹かれてしまう。間違った思考システムにどっぷり浸かり、しかもそのことに無自覚なので、自分たちだけで選択を見直すことは難しい。

奇跡講座を学ぶ動機

あなたの過去の学びは、それがあなたを幸せにしなかったという単純な理由から考えても、間違ったことをあなたに教えてきたに違いない。このことのみを根拠として、その学びの価値が問われるべきである。(後略)」(T-8.Ⅰ.4)

「覚えておいてほしいのは、私たちがこのコースを学ぶ動機は純粋な利己主義だということです。イエスは、私たちがこれを学べば気分が良くなるから学ぶようにと言っているのであり、崇高だからとか美しいから真実だから、あるいはイエス自身が勧めているから学ぶのでははないのです。」とワプニック先生。

自分が気分よく幸せを感じるため。これが私たちをコースに向かわせる誘因であり、心地よく幸せを感じる状態こそがめざすところなのだ。

自我のカリキュラムは習得不可能

学ぶ者にとって、自分が習得できないカリキュラムほど苛立たしいものはない。彼の適性の感覚が損なわれ、重苦しい気持ちにならざるをえない。」(T-8.Ⅶ.5:1-2)

学ぶことが不可能な状況に直面することは、世界で最も陰鬱なことである。実は、これこそが、この世界そのものが重苦しいものであることの究極の理由である。」(T-8.Ⅶ.5:3-4)

私たちは、習得不可能な自我のカリキュラムを勉強中なのだという。

自我曰く「私に従え。そうすれば幸せになれる」。

しかし、これまでも見てきたように自我の提示する方法はどれもうまくいかない。

私たちは「今度こそは…」と気を取り直して励むものの、この世には本当の意味で私たちを満足させるものや永続的な平和をもたらすものは存在しない。

「世界が陰鬱なのは、この世のすべてのものが私たちを裏切るからです。」(ワプニック先生)

「それでも私たちは個人的にも集団的にも努力し続けていますが、この世がわざわざうまくいかないように作られていることは忘れています。」(同)

この世の目的は自我の想念である分離、罪悪感、責めを強化することにある。うまくいくはずはないのだ。

このどこにも行きつかない自我の思考システムを明るみに出し、私たちに選択肢を提示することが、ACIMの目的なのだ。

聖霊が教えるシンプルな事実

(前略)聖霊が教えるレッスンとは、あなたの意志と神の意志はひとつのものなのだから、それらが調和していないことはあり得ない、というレッスンである。これは、自我が教えようとすることのすべてを取り消すことに他ならない。(後略)」(T-8.Ⅱ.3)

聖霊のレッスンは、分離は幻想で一体性は真理だというシンプルなものだ。

分離は、心(決断の主体)が選んだ幻想上の想念に過ぎない。

ここを自覚できれば、選択できる力に気づくことができるようになる。

それが、夢から覚めて「実際には一度も離れたことがない家に帰る」というテーマにつながっていく。

自我のレッスンは自分の自由の侵害

自我は、あなたが神の意志に反対することを望んでいると、教えようとする。この不自然なレッスンは学びようのないものである。そして、それを学ぼうとする試みは、あなた自身の自由の侵害であり、それにより、あなたは自分の意志を、それが自由であるからこそ恐れるようになる。(後略)」(T-8.Ⅱ.4:1-3)

私たちが選択力を回復したら真理を選ぶだろう。

自我はこのことを恐れ、これを未然に防ぐために、私たちを自我の思考システム-罪悪感と投影、特別な愛と特別な憎悪ーの内に幽閉し気づかせないようにする。

それでも同じことを繰り返すうち、私たちはいずれは気づいて選び直すことになる。

聖霊のカリキュラムと自我のカリキュラムは相互排他的

贖罪のカリキュラムは、あなたが自分のために編成したカリキュラムとは対照的なものであるが、その成果も同様である。もしあなたのカリキュラムの成果があなたを不幸にしているなら、そしてもしあなたが異なった成果を望むのであれば、明らかにカリキュラムの変更が必要である。(後略)」(T-8.Ⅰ.5:1-5)

自我の教えと聖霊の教えは相互排他的で、自我と聖霊を同時に教師とすることはできない。

しかし自我は巧妙にこの2つが両立しうるとする。

自我は私たちがイエスから学べば聖霊を選ぶことへとつながり自我自身が消えてしまうことを知っているので、イエスを「自我のイエス」へと変えてこの世に組み込もうとするのだ。

事実上イエスはこの点について注意喚起しており、「この世での問題の解決の手立てを求めてはならない。そんなことはできない」と言っている。キリスト教や他の形式的宗教がしていることは、自我に加担しこれが可能だと説くことだ。

混ぜるな、危険

ワプニック先生は、「残念なことに、これはコースの学習者にもあてはまることです。」とおっしゃっている。「霊を物質に取り込み絡め合わせようとしても、“正反対の考え方”を統合することは不可能なので、学習は失敗に終わるはずです。」

もしそれが二人の教師によって同時に実行されるなら、互いに邪魔し合うだけである。(後略)」(T-8.Ⅰ.5:6-10)

真の方向転換が可能になるには、その前にまず、このようなカリキュラムがまったく無意味であることが充分に認識されなければならない。あなたはあらゆることについて全面的に見解を異にする二人の教師から同時に学ぶことはできない。(後略)」(T-8.Ⅰ.6)

自我は私たちに学ばせたくないので、この「学べない課題」こそ自我の狙いそのものなのだ。

形態と内容、肉体と心、結果と原因を混同させることによって、自我はイエスを自我の思考システムに組み入れようとする。

これは自我の「スクランブルエッグ作戦」なのだとワプニック先生は説明なさっている。

「(この比喩を続けるならば)聖霊を二元性と特別性のフライパンともいえる閉ざされたマインドレスな世界に引きずり込みます。」

そして、「さらに悪いことには」と続け、「この失敗が学習がうまくいっているという錯覚をもたらし、私たちは自分ではコースの優れた学習者だと思っていますが、実際に行ってることは知らず知らずのうちに自我の思考システムを強化し育んでいるにすぎないのです」と、その危険性について触れられている。

やはり立ち返るべきはイエスと聖霊で、常に道を外れないよう助けを求めることが重要なのだ。

ちょこっと感想

最後の自我の教えと聖霊の教えを混ぜて自己流の解釈をしてしまう危険性のところが気になった。

聖霊の教えには妥協はない。

聖霊を選ぶということは「個としての特別な私」を選ばないことだが、自分がそうできているとは思えない。「私」には特別な思い入れがある。たとえ不出来でも。

やはり自我おすすめのスクランブルエッグを“鋭意調理中”なんだろうか。二元性と特別性が二重にコーティングされたフライパンで。

どうしたって難しいコースだ…。

完璧にやるべきだけど、そうしようとしたら逆に自我に足元救われそうだから、ゆっくりぼちぼちで行こう。おそらく自我は緩慢さに弱い。

(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)

“『Journey through the Text of ACIM』(79)-8章5節 教えることと学ぶこと” への2件のフィードバック

  1. utaka より:

    「知らず知らずのうちに自我の思考システムを強化し育んでいるにすぎない。」

    日常生活の没頭しながらも、ACIMを取り入れてるようにしてますが、難しいと感じてるので、ここが怖いですね。思い込んで学習し続けているかもしれないので。

    • タマソニア より:

      utakaさま

      読んでくださってありがとうございます。
      本当にむずかしいです。
      個としての自分への執着は強くて自我はどんどん巧妙になっていってるのを自分でも感じます(^-^;

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