『Journey through the Text of ACIM』(80)-8章6節 イエス①

2021-05-18

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。8章6節、イエスから。

本節は奇跡講座テキスト8章4節と5節からの引用を用い、イエスが歌う一体性の歌を題材にイエスとの一体性に目を向けている。二つに分けて、まず前半を。

個としての自分、孤独感、分離は同じシステム上

一切が拒まれている世界へ、私は光としてやってきた。」(T-8.Ⅳ.2:1)

世界は、単にそれ自体を一切から解離させることにより、自らに一切を拒んでいる。したがって、世界とは孤立という幻想であり、それは、同じく幻想である孤独感を恐れることによって、維持されている。」(T-8.Ⅳ.2:2-3)

「この文章は自我の世界を見事に表現しています。」とワプニック先生。

すなわちこの世は、心の中の分離という幻想を外に描いたものであり、神から分離したと思ったことから生じた孤独はこの世ではこの世からの孤独感や孤立感として体験されるという。

留意すべき点は、孤独感、分離(という幻想)、個としての自分は、同じ思考システム上にあるということだ。

すなわち分離、孤独感がなくなれば、「私」もいなくなってしまう。そのため、イエスとつながることには恐怖が伴う。

そこで私たちは、イエスを自分(自我)に都合がいいイエス像にすり替えてそのイエスにつながろうとしてしまうのだ。

闇は優しく光を当てれば消える

あなたがひとりではないのなら、孤独感という幻想は維持できない。」(T-8.Ⅳ.2:7)

ということであれば、私の目的は依然として、世に勝つことである。私は世界を攻撃しないが、世界の本質のゆえに、私の光がそれを必ず一掃する。」(T-8.Ⅳ.2:8-9)

光を当てれば闇は消える。イエスが「救う」のは、幻想を実在すると信じている私たちの心だ。赦しという心の変化は、罪悪感という心の闇を優しく消し去る光となる。

「ここでのキーワードは“優しい”(gentle)です。」とワプニック先生。

攻撃することとは現実にはないものを見てそれを打ち負かそうとすることだが、幻想を克服するためにはイエスの光で照らしながらただ見ることだとされている。頑張って戦うべき相手などいないのだ。

一なる子はひとり

一なる子の一部分により神の意志が完全に行われるまで、あなたは闇の中にいた。これが行われたとき、それは全員により完璧に達成された。他にどのようにして、それが完璧に達成されるだろう。」(T-8.Ⅳ.3:1-3)

重要な点は「一なる子はひとり」ということだという。

イエスが立ち上がり「世を救い始めた」(C-6.5:5)ときも心は繋がっているので私たちも共にいた。

イエスは、「神の意志からの分離は一度も起こっていない」という贖罪の表徴である。

ただ赦しを実行しなければ、無意味なものになってしまう。

この世の真の問題とその救済

私はあなたにこの自覚を与えるために来た。そして、それを受け入れることができないというあなたの問題は、この世界の問題でもある。」(T-8.Ⅳ.3:5)

それを一掃することが救済であり、この意味において、私は確かに世界の救済である。」(T-8.Ⅳ.3:6-7)

問題は、神からの分離は一度も起こっていないというイエスが差し出す贖罪の原理を拒否しようとする私たちの心だ。

その拒否しようとする心を一掃することが救済である。

イエスを「有」とするならこの世もこの世の特別性も「無」になっていまう。

自分の特別性=自分とするなら、イエスもコースも、神の愛も拒絶していることになってしまう。

イエスにこの世で「何か」してもらうのを期待するのは間違っている。

イエスには存在しない世界を救済する計画があるのではない。イエス自身が計画なのだという。

イエスと私たちは同じ

あなたが私のようでありたいのなら、私たちが同じだと知っている私は、あなたを助けよう。あなたが違ったものになりたいのなら、あなたが心を変えるまで、私は待とう。」(T-8.Ⅳ.6:3-5)

イエスは私たちが同じだと知っている。私たちは知らない。

もしイエスが私たちに何かを強いたり要求しているように感じるなら、それは自我のはたらきなのだという。

イエスは私たちの選択の力を尊重している。

神の子の意志の対等性

(前略)自由が、何らかの圧政によって学ばれるということはあり得ない。そしてすべての神の子らの完璧な対等性が、一つの心による別の心の支配を通して認識されることもあり得ない。神の子らはみな意志において対等である。(後略)」(T-8.Ⅳ.6:6-9)

同じというだけでなく、神の子の対等性についても触れられている。

戦争によって平和がもたらされると考えるのは権力者にありがちな狂気だが、圧力によって他者をの心を征服しようとするのは権力者に限らない。自分のほうが知っていると思いそれによって人を動かそうとするなら、実は何も知ってはいないのだと説明があった。

自由⇔幽閉

もしあなたの意志が私の意志でなかったなら、あなたの意志は私たちの父の意志でもないことになる。このことが意味するのは、あなたは自分の意志を幽閉してしまっており、それを自由にさせていないということである。(後略)」(T-8.Ⅳ.7)

イエスは幾度となくキリスト教の修正をしているが、「神の子はただひとり」という前提に立たないのならば「イエスは神の子ではない」という。

つまりイエスが神の子なのは、私たちが神の子なのと全く同じなのだ。

イエスの意志と私たちの意志は統一体であって、それは神の子全員を例外なく含むものだ。誰かを除外するとしたら、それは分離の視点に立っており、すなわち自らの意志を幽閉している。

私たちは形態のレベルで違いはあっても、私たちは同じ分離した(と思っている)心を共有している。

私たちの間には特別性や違いはない。

こうしたテキストにあるイエスの歌のメッセージは、自分の自我思考の信念を捨てるために用いられなければ、美しいメロディに乗せられたきれいな言葉に過ぎない。これは「いくら強調しても足りません。」と言葉を重ねておられる。

ちょこっと感想

「イエス」の箇所をまとめるのは、もともとキリスト教のことを知らないからか、なんとなくくすぐったい。

ワプニック先生のこの解説書を読むようになって二年、ようやく『奇跡講座』はイエスの言葉なのだと腹に落ちてきた。

ずっとイエスには心理的な壁があり遠い存在だったのだ。

奇跡講座の文章は美しいと思うけれど、芸術的な表現や比喩的な表現もあって、どこまでを「真に受けて」いいのか悩む。

この世の幻想性についてずっと学んでいるけれど、ここでは毎日ご飯を食べて肉体を維持しなきゃなんないし、魚はどっちのスーパーがいいか、洗剤を買うのはネットかスーパーかと考えているとき、まさしく幻想の世界に“生きている”。

イエスの言葉を実践しなら無意味…といった記載が何度かあったけど、教えられている本質をどうこの世に生かすかがイマイチわかっていない。もしかしたら全く実践できていないのかもしれない。

自分のモチベーションの度合いがよくわからないけれど、とりあえず続けよう。

(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

← 戻る