『Journey through the Text of ACIM』(78)-8章4節 赦し

2021-05-04

“旅”のようす

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。

今年は1月末8章から読み始めた。8章を3つに分けて前半は2月12~27日に、中盤は4月7~20日にブログ上のまとめをした。そしてこのGWようやく8章後半のまとめへと入る。

時間がかかっているなぁ。先が長いなぁ。果たして最後までたどり着けるか…。

正直言うと強いモチベーションがあるわけではない。だけど、せっかく出会えたのだしAmazonレビューを見ると海外学習者も本書の価値を認めていることが伺える…。そして今奇跡講座と私を継続的につなげているものはこの本読みだけ。これを止めてしまってはいけない…何とか続けたいとは思っている。

しかし時間がかかりすぎている。先は見えないなぁ。

「赦し」の前提となる2つの原理

さて、今回は8章4節「赦し」だ。

冒頭「本章3節の『神聖な出会い』では、イエスは「赦し」という言葉は使わないで赦しについて語っています。」というワプニック先生の説明から始まる。

そして続いて、「赦しとは何か」が説明されている。ギュッと短く言うと「分離の信念を取り消すプロセスに与えられた名称」となる。

そしてそれはどのように達成されるかというと、「私たち全員が、神の子としての生まれながらの一体性を反映した、共通の目的を共有しているのだと認識することを通して」とある。

最初のテキスト引用文は3節からの次の文章だ。

誰に出会うときも、それが神聖な出会いであることを思い出しなさい。あなたは、彼を見る通りに自分自身を見る。彼を扱う通りに自分自身を扱う。彼について考える通りに自分自身について考える。このことを決して忘れてはならない。なぜなら、彼の中で、あなたは自分を見失うことにも、自分を見出すことにもなるからである。二人の神の子が出会うときはいつでも、両者に救済のための新たな機会が与えられる。(後略)」(T-8.Ⅲ.4)

この文章は、奇跡講座の中核をなす次の2つの原理を抑えて初めて理解ができるという。

①想念はその源を離れない

②投影が知覚を作り出す

私たちは自分自身を見るように他者を見ており、そこに「客観性」はない。

罪悪感を心に押し込め自分では無意識的に投影したところで、それは心に残っている。

しかし、私たちがそれを知覚する(できる)のは、他者を通してだ。

イエスに助けを求めることによって、外側に見ているものを自分の内に見るという新しい視点が形成され、投影の引き戻しが可能になる。

それによって、他者の性質だと思えていたものが自分の中にあるのだと気づくことができるのだという。

「神の子はひとりであり、この無垢な自己は真理においても幻想においてもかねてより兄弟とつながっています。」(ワプニック先生)

自分だけを見ているなら、自分自身は見い出せない

(前略)誰もが自分自身を探しており、自分が失ったと思い込んでいる力と栄光を探している。誰かと共に居るときはいつでも、あなたはそれらを見つける新たな機会を手にしている。あなたの力と栄光は彼の中にある。それらはあなたのものだからである。」(T-8.Ⅲ.5:1-5)

自我はどこを探せばよいのかわからないので、それらをあなただけの中に見つけようとする。聖霊は、あなたが自分だけを見ているなら自分自身を見出せないと、あなたに教える。なぜなら、それは本来のあなたではないからである。あなたは兄弟と共に居るときにはいつでも、自分が何であるかを教えているので、自分が何であるかを学んでいる。

あなたがどちらの教師に従っているかによって、兄弟は苦痛か喜びかのどちらかをもって応答する。あなたの決断によって、彼は幽閉されることにもなれば、釈放されることにもなる。そして、あなたも同様である。」(T-8.Ⅲ.5:6-10)

私たちは「自分が失ったと思い込んでいる力と栄光」について、それは誰かに盗まれてしまった、だから奪い返さねばならないと思っている。

しかしこの誤った考えに対する“治療法”は、「すべての人々が例外なく栄光を持っている」という認識にあるという。盗まれることなどあり得ないのだ。

ただ、それは他者に対する知覚を通してでなければ体験できない。

「自我はどこを探せばわからない」とあるが、実は見るべきところはわかっている。

何度も繰り返し述べられているが、すべては心の中にある。ただ自我は心を見てほしくはないので、常に肉体と外界へと注意を向けさせる。

幽閉と自由

第7章では、聖霊と自我の性質について、痛み(pain/自我)と喜び(joy/聖霊)を用いた説明があったが、8章では神聖な出会いの文脈の中で、幽閉(imprisonment/自我)と自由(freedom/聖霊)を用いた説明がある。

自由は共通性の認識から、幽閉は個々別々の利益という認識からもたらされるとある。

幽閉は他者の行動に原因があるのではなく、私たちの選択にある。

答えは常にイエスと聖霊を選ぶことの中にある。

イエスは私たちの正しい心の象徴なので、イエスを思い出すことは神の子としての私たちのアイデンティティを再確認することにつながる。

ちょこっと感想

ここはテキスト8章3節に対応し、赦しという言葉を使わずに赦しについて説明しているとあったが、赦しを「分離の信念を取り消すプロセスに与えられた名称」と書かれていたところがわかりやすかった。

「赦し」という言葉は「赦す」という動詞を名詞化したものだけど、どうも「赦す」という動詞に引きずられ、そして似て非なる「許す」の意味が強いことから、ついどこかで何か「する」ことのように思ってしまいがちだ。

だけど、ここで「赦し」はプロセスなのだ、それに付けた名称なのだと明記してくださっているのですっきりした。

まあ概念がわかったところで、実践しなければ“絵に描いた餅”だけど。

まあ小さな一歩を続けていくしかないかなぁと思う。

奇跡講座を学ぶには、ジンセイは短い…。

(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)

 

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