『Journey through the Text of ACIM』(84)-9章1節 贖罪の原理に対する自我の恐れ①

2021-06-11

ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。

9章1節 贖罪の原理に対する自我の恐れ。自我の恐れのテーマはこれまで何度も様々な視点で繰り返し論じられてきたが、ここでもテキスト9章を用いて説明されている。それだけワプニック先生が強調しておられる重要点なのだろう。

この節は長めなので3つに分けることにした。まずはテキスト9章1節からの引用をベースとした箇所を見ようと思う。

私たちは何に恐れを抱いているのか

神に対する恐れのように見えているものは、本当は、あなた自身の実相に対する恐れである。」(T-9.Ⅰ.2:2)

「この極めて重要な考えはここでは簡潔に述べられています。」とワプニック先生。これは後の方で「救いに対する恐れ」(T-13.Ⅲ)として何度も触れることになるのだという。

ここでまた「あらまし」のお話があった。自我が私たちに吹き込んで受け入れているストーリーだ。

私たちは創造主に逆らって分離するという罪を犯してしまった。

→怒り狂った創造主は報復に来る。

→心に留まっていては滅ぼされる。

→「心を離れろ。肉体となり心を持っていたことを忘れろ。」…で、私たちは言われたとおりにした。

→肉体を持ったこの世の存在となる。

→心にある否認された恐怖心は投影され、この世の物事や人に見るようになる。

…というおなじみのやつ。

「しかしイエスは、問題は私たちの神への恐れではなく実相への恐れであり、それは実は心がこの実相を選んでしまうことに対する恐れなのだと言っています。」とワプニック先生は説明される。

「小さな狂った想念(tiny mad idea)」が生じたか…という瞬間、私たちは自我を選んだ。そして分離をゲンジツのものとした。

つまり「何も起こっていない(贖罪)」に逆らう選択を採択済みなのだ。

本当は、私たちは神に創造された愛の存在のままで、それこそが私たちの実相だ。

しかし自我の解釈を選んだ私たちの部分は、私たちが心変わりをして選び直すことを恐れている。(…と、これは夢の中でのお話なので自我の見方から聖霊の見方へと目覚めていけば見るものすべては変わる…はず)

奇跡講座に対する恐れ

もしこのコースの目的があなたが自分の本性を思い出すのを助けることであるなら、そしてさらに、もしあなたが自分の本性は恐ろしいものだと信じているとしたら、当然、あなたはこのコースを学ばないという結果になる。だが、このコースは、あなたが自分の本性を知らないからこそ提供されているのである。」(T-9.Ⅰ.2:4-5)

(ACIM:私たちの本性を思い出させるもの)+(私たち:自分の本性を恐ろしく思っている)⇒(私たち:ACIMを遠ざけたい)というのは、わかりやすい。

こうした背景があるために、形而上学としてのACIMを学ぶのが難しいだけでなくイエスの言う内なる平和を体感するまでになかなか至らないのだという。

前の段落からの続きになるが、この世にいる私たちはニュートラルな状態ではなく(何の訓練もしていない状態では)自我と一体化していて自我の見方をしている。

奇跡講座(ACIM) は私たちの本性を教えているが、私たちの方は、自我と一体化して自我の思考システムを構築、さらにこれを隠す「世界」を作り本性を否定する努力をしているのだ。

こうした経緯を踏まえれば、ACIMを習得するのが一筋縄ではいかないのは当然といえば当然のことといえる。

この世の願望の正体

自我に由来している願望はどれも無を求める願望であり、それを求めることは要請ですらない。それは単に、願望の形をした拒否にすぎない。」(T-9.Ⅰ.10:2-3)

この世での願望は無を求める(対象はない)ものであり幻想を求めるものだという。

「言い換えるなら、この願いは要求という形で現れ、このように言っているのです。『私は自我と自我の欲求が本物だと信じています。ですからこれを叶えたいのです。イエス様、どうか私のために叶えてください』」(ワプニック先生)

聖霊にこの世レベルの具体的な助けを求めることは、自我とその思考システムを前提としている。それは私たちの霊としての在り方を否定するものなので、コースが教えていることに反する。

しかしコースでも聖霊に具体的な助けを求めるべきだと記載されている箇所も数は少ないがある。それは、「イエスが、私たちが肉体として存在しているのだと信じている“梯子の下段”で私たちと会っているから」だと説明されている。私たちのレベルに合わせて便宜的に受け入れやすい形にしてくれているのだ。

その梯子を登るには、私たちが「世界には私たちが助けを必要とすることは何もないのだ」と認識することだ。

本当の意味で必要な助けは、私たちが自分の自己は決断の主体なのだと認識することと、そもそもの問題の在り処(罪悪感)とその解決法(赦し)を思い出すこと、その助けだけなのだという。

私たちは真理の否定に尽力中

あなたは、自分が真理を否定することで浪費している膨大なエネルギーを認識していない。」(T-9.Ⅰ.11:1)

「数年前から私は『世界は存在しない問題に対する用をなさない解決策である』という表現を使っています。」とワプニック先生。

自我は真理を隠す煙幕としてこの世界を作った。そして私たちをそこでの問題解決に当たらせている。

私たちは実は存在しない罪悪感という問題を「ない」と認めるかわりに抑圧して投影、実在するかのように感じ日夜問題解決に当たっている。

それは、実のところ自我が真の問題に向かわせないためのものだ。

私たちは真理を否定するために膨大なエネルギーを使いながらそれと認識せず、自分でもどこが間違っているのかわからないまま自我に加勢し続けている。

この世の成功と幸せ

不可能なことをあくまでやり続け、それを達成することが成功だと信じている者について、あなたは何と言うだろうか。」(T-9.Ⅰ.11:2)

不可能な何かを手に入れなければ幸せになれないという信念は、創造の原理とはまったく矛盾する。」(T-9.Ⅰ.11:3)

ざっくりいうと、この世は“失敗するしくみ”なのだ。

一時的には“成功”を示すニンジンがあってそれを追いかけ充実感を感じるが、その幸せ感や満足感は一時的なものにすぎない。

「特別な何かを手にしれなければ幸せになれない」とは特別性のことを言っているのだという。

正しい見方をすれば、真の「特別な何か」とは、「愛」でありそれは平等に共有する以外手にすることはできない。

愛を受け入れること

(前略)神が愛であるという事実は、信じることが必要なのではなく、受け入れることが必要である。あなたが事実を変えることは不可能であるが、事実を否定することはまさしく可能である。」(T-9.Ⅰ.11:4-6)

(前略)もしあなたが愛を否定するなら、愛を知ることはできない。その理由は、あなたからの協力が、愛の実存の法則だからである。(後略)」(T-9.Ⅰ.11:7-9)

これは贖罪の原理についての記述だという。

神が愛であるという事実は変わらないが、それを受け入れなければ事実を知ることはできない。

私たちの特別性への欲求が神の愛の不変性という事実の理解を妨げている。

しかしそれでも神は愛であるという事実は心の内にある。

そしていま心は無力だと思い込んでいても本当に無力なのではなく、その力を忘れているだけなのだ。

ちょこっと感想

自我の恐れのところは、私にとっては最も理屈が理解しやすい。

自分が自我と一体化していることは棚に上げて客観的にみると、そういう展開はありうるなぁと思う。

ただ、私はまさしくこの世でのプレーヤーだ(と思えている)から「この世のことは幻想だからどっちに転ぼうと大したことではない」などとはとても思えない。

やっぱり自我と一体化してゲーム中なのだ。ぜったい勝てないゲーム…勝とうと思った瞬間に負けるゲーム。

勝ち負けを超えたところに真理があるのだと言うけれど…

そうは言ってもね…

まだまだこの世レベルの些細なことが幸せに大いに関わっていて、いわゆる梯子の最下段にへばりついているのだと気づく。

(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)

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