2016-09-24
レッスン62-赦しは、世の光としての私の機能(はたらき)である。
レッスン61で、私たちの真のアイデンティティは「世の光」であると告げられた。
それはどのように獲得されるのか。どう実証されるのか。
そのこたえが、レッスン2の主題概念となっている「赦し」である。
「赦し」は、くりかえしになるが、世に言う「許し」とは別物だ。
「許し」が、「あなたには非はあるけど、それを許してあげよう」というニュアンスなのに対し、
「赦し」は、そもそも罪などない。このゲンジツの世は実は幻想であり、まちがった自己像を投影して見ているにすぎない。自ら作った幻想なのだから、そこに執着、頓着することなく、気持ちをゆるめて受け流そう、といったようなもの。
幻想は赦すことによって手離れ、それに振り回されることはなくなり、また一歩真の自己に近づくことができる。それは、もともと罪も恐れもない、満たされた世の光としての自己である。
私は、このレッスンの中の
「あなたは攻撃するたびに自分自身の弱さを招き入れ、赦すたびに内なるキリストの強さを招き入れているということを、思い出しなさい。」
というフレーズと、その後に続く
「そういうことなら、赦しが自分に何をしてくれるのか、あなたはもうわかり始めたのではないだろうか」
というフレーズが、なんか好きだ。
抽象的なACIMだが、この部分はわかりやすく感じる。とくに後半部分は茶目っ気というか親しみさえ感じる。
だから、なるたけ、攻撃したり怒ったりは慎み、赦そうと思うのだ。
ワーク中の電話にイラッ
しかし…実際には…
昨日レッスン62ワークの小さな瞑想中、電話が鳴った。
受話器を取ると、「国民年金機構から受託を受けました○○で…」と女性オペレーターの低い声。国民年金の未納分の催促の電話だった。
私は未納期間があって、数年前から2年近く前の国民年金を1ヶ月分ずつ追いかけて納めている。電話口のオペレーターの方は毎回ちがっていて、その情報が引き継がれていないため、
「2年分近い未納があるのをご存じですね」っと高圧的口調で言われるたびに、イラッとする。遅れつつも毎月納めている旨説明するが、
「月末までに必ず納めてください。約束できますね?」と言われると、
「早く宿題やりなさい」と言われ、「今、やろうと思ってたのに」と答える子どものような、いやぁ~な気分になった。
話がまだ続きそうだったのを、「お電話ありがとうございました」とそそくさ切ってしまった。むろんいやな気分のままだ。
しかし、ワーク中の電話とは…
今、私が赦すべきことは、これ!?なのね、まさに。
これなどは、そもそも私に落ち度があることだし、あまりに瑣末なことだけど、それでもイラッとしてしまう私。
自分に落ち度がまったくなくても、巻き込まれたり、理不尽な思いをしたりすることは、この世では日常茶飯事。
こんな私で、これから大丈夫なんだろうか…。
まさに赦すべきこととして与えられたこのことを、赦そう。。
2013年6月ワークを初めてから、大きな赦しの機会は3回位あった。
私は成長できているのか。
ワーク中の未納催促電話にイラついてしまうようでは、先はまだまだ長い…と思うのだった。