2018-09-29
秋風にさそわれてバスに乗る
昨日は秋風が吹くさわやかな快晴だった。翌日からはまた雨模様だという。ふっと出かけたくなった。
心がどこかに行きたがってるだけで、具体的にここに行きたいというのはない。考えたり段取りする気力もなかった。
もうすぐ4時。出かけるなら出ないと。
…で、ない気力を集めて考えて、外出先に選んだのが、バスに乗って行ける、おいしいと評判のパン屋さん。
これだったら、ちょっとした気分転換になる。おカネも使わないし電車よりも気負わなくていい。
…と、バスに揺られて初めての街へ。
けど、そのパン屋さんの住所を訪ねるも、見当らず。ビルはがらんどう。中を覗くとコンクリートがむき出しになっていた。
あれっ、まちがえたかな?と住所を確認する。
合っている。外観写真も間違えない。
スマホで「○○(パン屋さんの名前) 閉店」と入れて検索してみたけれど、情報はない。「食べログ」にも「おいしい」のレビューだけで「閉店」の文字はなかった。
キツネにつままれたみたい。でも、わざわざ訪ねた店がなくなっているというのが、今の自分に合っているんだ、と思った。
どこか、行きたかった。そのどこかはここだった。
仕方なくうろうろしていたら、ダイソーがあった。
おー、ダイソー!
ダイソーは旧居の近くにあってよく買物していたが、今は近所になくて、ダイソーがあればなぁ、と思っていたんだ。
うれしくなって、食器洗い用スポンジやお掃除シート、ホットケーキミックス、黒糖ピーナッツなどなど15点買った。
気づくと外はまっくら。買物袋を抱えてバスに乗った。3時間足らずの旅。
また台風が来るらしい。被害がないといい。
秋のうちに、本1冊持って一日どこかに行きたい。
レッスン210―レッスン190の復習
「(レッスン190)私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。」
レッスン190には心強さを感じる。
私はどこかしら、苦しまなくてはならないと思っているところがある。で、苦しいのはヤダな、とも思っている。
それを「苦痛とは、間違った見方である。」(L190-1-1)「苦痛は自己欺瞞の証しである。」(L190-1-2)と言ってくれるから。
もしかしたら、苦しんでこそ、その分幸せになれる(なっていい)という観念は、私だけではないかもしれない。
世間にも苦労を美化する価値観があり、学校でも苦と楽はセットだと教えられてきた気がする。
でも、
「苦痛とは、罪悪の想念が形となって現れたものであり、それがあなたの神聖な心をひどく傷つけている。苦痛とは、自由にならないためにあなたが喜んで支払った代償である。」(L190-8-1,2)
とACIMは言う。
罪なき心は苦しむことはできない
この世は想念を映した結果の世界。
原因の世界で、この世の喜び、幸せを妨げているものを取り除く。
元々が神のしあわせ、喜びの中にあったものを、自らの間違った想念で苦しみを掴んでいるわけだから、
一言でいうと、「自分で自分の邪魔をしない」ということか。
「無罪の心が苦しむことはありえない」(テキストV-5-1)のだから、罪悪感さえ手放すことができたら、もっともっと喜びに満ちた世界を創りだせるかもしれない。
わざわざ、“苦しさ”“痛み”の重りをつけたくはない、と思う。
その一方、そういうことを考えている私って、人から見たら、すごくわがままな甘えた人間だよなぁ、と思う(これって罪悪感かな?)。とっても人に言えないーとも、思っている(こっちは恐怖感か…)。