ACIMレッスン202-レッスン182の復習

2018-09-04

朝のコーヒーが占う心模様

毎朝自作のマグカップに、プラスチックのドリッパーを乗せてひとり分のコーヒーを入れる。

マグカップは昔むかし区の陶芸講座で作ったもの。講座中作ったもののなかでいちばん不格好だ。でもそれでか逆に癒される。ドリッパーがぴったり収まってコーヒーを入れやすいところも気に入って、もう15年以上毎日使っている。

コーヒーを入れる時、自分の心理状態がわかる。

小さな鍋から少しずつお湯を注ぐのだけど(やかんは持っていない)、自分でも気づかないうちに、心ここにあらずだったり不調な時は、お湯を入れ過ぎて溢れさせてしまうのだ。

今日がその日だった。

あ゛…しまった、こんなに。

気をつけよう。

非常に強い台風21号が来ているというから、それも影響しているのかな。

もはや外は風がびゅーびゅー鳴っている。ベランダのものは全部家に入れた。

7月の豪雨や台風20号のダメージがまだ残っているところも多いだろうに…、なるたけ被害が少なく通り過ぎますように。

レッスン202-レッスン182の復習

(レッスン182)私は、一瞬の間静まり、家に帰る。

レッスン182は、お盆が終わって東京に戻ってきた頃やっていたワーク(ワークと日記が離れすぎ)。その頃は台風19号と20号がいっぺんに近づいていた。今年は台風多い…。

私たちは、この宇宙のなかの地球のここがわが家だと思っているけれど、ここは私たちが本来いるところではない。

遠い記憶のどこかで、私たちはそのことを知っている。

だけど、ここでうまくやるには、そんなことに係ってはいられないとも思っている。だいたいに忙しくてそんなこと考えている暇などない。

でも、心の中には幼子がいて離れた親を探すかのように「ここじゃない、お家に帰りたい」と訴えている。

その子は、私たちの内なる無垢性の象徴だ。

その子は、私たちが急ぐ道がどこにも行きつかないことを知っている。私たちがこの世で役立ちそうな道具ばかり集めるが使わずじまいで身動きが取れなくなっていることも知っている。

内なる子どもの声を聴くには、スペースが必要だ。空間と時間。

そして心。

空いた時間と場所と心があれば、無垢な幼子はいつでもどこでも顔を出す。

思い切ってこの子に道案内を任せよう。

…と、そんなことを言っている(ような気がする)。

「防衛しないことの強さ」が欲しい

幼子の無垢性は素晴らしい。

そして、私が憧れるのは、その子が象徴する「防衛しないことの強さ」だ。

防衛しなければならないと思うがゆえ、常に周りを気にしテンパっていてエネルギーが無駄に必要だった、しかも自分から遠ざかっていた気がするから。

私が防衛するということは、裏を返せば、私には攻撃する気があるということだろう。

その攻撃性を少しずつ減らしていきたい。

その攻撃性は自分に向けられているものでなんの役にも立たないものだと知っているのだから。

自分のなかにいる無垢な幼子を安心させたい。

その幼子が手を引いていくところに向かうとしたら、その子は私をどこに連れて行こうとするだろうか。

欲しかったものが降ってきた

2018-09-03

「欲しいと思っていたものだ、これ」

欲しかったものが目の前に降ってきたという体験をした。

先週のこと。

朝、住宅街をウォーキング中、何かが上から降ってきて頭に当たり足元に落ちた。

ん?

小枝だ。

どこから?道の脇に植えてあった木から落ちたのかな?と見上げる。

2,3秒して気づいた。

あ~、これ!

私が欲しいと思っていたものだ!!

カフェカーテンのポールに使えるんでは?

私は今の家で、流し台に向かいあうような形でキッチンボードを置いている。キッチンボードの裏をリビングに向けることになるが、梁があるからそこしか置けない。

そのキッチンボードとキッチンの壁の40㎝くらいの隙間に、目隠しとなるカフェカーテンみたいなものを付けたいと考え、ホームセンターで生地を買ってきていた。

一緒にカフェカーテン用のポールも買ったが、ほんの狭いスペースに存在感ありすぎた。太めで手持ちのフックにも収まらない。

もっと華奢でナチュラルなものがないかーと思っていたのが、まさに前の日。

そうそう、この枝!

これがちょうど使えるんでは?

私は小枝を拾い、小学生の男子がするようにぐるんぐるん回しながら、家まで帰った。

そうして、カフェカーテン用の布に通してみた。

うん、細さはちょうど。ナチュラル感もある。

ちょうどよいみたい。ラッキー♪

イメージしたものが得られたことが自信に

たった小枝ごとき。

人から見たら、単にゴミみたいなもんが頭に落ちてきた出来事だけど、私には自信になった。

おカネが介在しなくても、イメージしたものがまさに手に入った経験。おそらくこんな枝はホームセンターで探しても見つからない。

これから、どうやって収入を得ていこう?

どうやって生きていけば?

不安を感じていた私に、「必要は満たされる」とのメッセージのように感じたからだ。

勘ちがいかもしれない、おめでたいかもしれない。でもいいのだ。ラッキー、満足。感謝!

そして、ふと、人工的なものはたいがい直線でできているけれど、直線ばかりだと不自然で緊張度を増してしまうのかな?

直線は、うまい曲線の組み合わせが難しいから直線となっているだけで美しい曲線の代用品なのでは?とも感じた。

前住人の方のお家と思って遠慮がちだった空間…ふと見回せば自分になじむものになってきている。

若さへの執着というより、自分への執着を捨てなさい

2018-09-02

「自分は捨てなさい」とメッセージ?

昨日は、久しぶりにパソコンの講習だった(Dreamweaver)。9時~16時半までという長丁場だったけど、刺激を受け楽しかった。今度こそ使いこなせるまでになりたい、と思った(去年もそう思った)。

帰り道、急な土砂降りとカミナリに見舞われた。今年は本当に天気が極端だ。幸い日傘を持っていたので、日傘をさしバッグを抱えて家路を急いだ。

今朝は雨が上がって曇り。少し涼しい。秋だ。

今朝のワーク中、「私は、若さや美が幻であるにも関わらず、そこに執着しそれをリアルにしているんだろうか(参考日記:『奇跡講座』学習者らしからぬ!? 買物)」と自問した。

そうしたら答えのようなものを感じた。メモしておこうと思う。

     *    *    *    *    *    *    *

「すべてを捨てても、あなたは美しい。

“問題”があるとすれば、あなたの若さや美への執着というより、

自分自身への執着だ。

「自分」は捨てなさい。

小さな「自分」があるから、人の反応や言動が気になる。

あなたは「神」より「自分」に執着している。

そして個として、神に近づきたいと思っている。

だが「神」と「個としての自分」は両立しない。

個として立つ自分はいない。

自分じゃない、神なんだ。

自分という個から、自由になれ。」

そして最後に

God is.

という余韻を感じた。

自分を捨てるとはどういうことだろうか。

果たして、そういう感じにまでなれるものだろうか。

「自分を捨てる」これがこれからの私の大きなテーマなのかな?

「この世で神を見る」ゲームに意識的に参加する

またこうも感じた。これは感じたというより、私が思ったこと。

現代はゲームが大人気で、多くの人がゲンジツから離れて様々なゲームを楽しんでいる。社会全体がゲーム化しているとも言える。

「2022年 アジア競技大会」では、コンピュータゲームの腕を競い合うeスポーツが正式なメダル種目になるとかならないとか?

でも考えてみたら、この世界自体すでにゲームなんだ。リアルじゃない。

だとすれば、趣味でサバイバルゲームに参加する人みたいに、もっと意識的にこの世を徹底的に巨大ゲームだと思ってやってみたらどうだろう?

自分を取り巻く社会や環境で、

神以外のものをやりすごし、

神を見つけ、神を感じ、愛し、感謝する。

そういうゲームだって。

この世は、まがいもんに足を救われず、神を見つけるゲームだ!

そして、私は分厚い玉ねぎみたいな衣装を着て参加しているけど、まがいもんに足を救われず、そこで神だけを見ることができたら、その皮を一枚剥くことができる。

そうして、少しずつ軽く自由になりながら、個の身体を離れるまで身軽になる…

また残暑がぶり返すかな?

短い秋を楽しみたい。

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