『奇跡講座』学習者らしからぬ!? 買物

2018-08-31

表情筋を鍛えるPAOを買った~

ふだん質素に暮らしている反動か、引っ越しのどさくさに紛れて財布のひもが緩み、いくつか引っ越しとは関係のない買物もした(実は浪費グセもある)。

それの一つが、これ、

PAO(パオ)

バーの真ん中あたりにマウスピースを付け、それを口に加えて振ることで顔の表情筋を鍛えるという、フィットネス器具だ。

私は、ブランド品も貴金属もまったく持っておらず着飾ることには関心がない方だが、一方中身の体のアンチエイジングには、かなり関心がある。

前はビデオでフェイスストレッチングしていた

特に顔の筋肉を鍛えることには関心が高く、何年も前からフェイスストレッチングのビデオを見ながら一緒にストレッチをしていた(今は、顔ヨガっていうのかな?)。

約30分のこの時間は、顔の筋トレ&ストレッチをしながら英語の勉強をしたり、一日を振り返ったり、なかなかリラックスできる時間だった。

世はDVD&ブルーレイ化。以前「このビデオをDVD化したいのですが」と専門業者に問い合わせるも、「著作権にかかわる」ということで拒否され断念。地デジ化に移行したのちも、家のテレビデオでせっせとストレッチしていた。

しかし、ついにビデオが壊れて、できなくなりー。

そんなおり久しぶりに会った母の一言

あんたも、ぽっぺた弛んできたね

ガーン(´・ω・|||)

そぉ、やっぱり?

家族ほど正直なものはない。

加齢はあたりまえ。だけど、もう少し若さにしがみつきたい。

PAOの存在は発売当時から知っていたけど、1万円を超える価格はやっぱり高い…。

口に加えて振るっていうのも、なんか滑稽?、いくら若さって言ってもねぇ、と思っていた。

だけどフェイスストレッチングビデオに代わるものが欲しい。

で、買った。

そいで、毎朝ぷるぷるしている。

なんか鍛えられている感はある(フェイスストレッチングの方が好きだけど)。

若さと肉体への執着&『奇跡講座』の学習で、分裂中

しかしー。

なんという若さと肉体への執着!

『奇跡講座』学習者としてあるまじき買物では!?

最近やっているワーク復習Ⅵには全体を貫く機軸の概念があって、それは、

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」というもの。

この概念を朝、夜、そして毎時きっかりにくり返す、とある。

PAOでぷるぷるしながら、

「私は肉体ではない。」

もー、完全に分裂しているヾ(- -;)

私は、この世は幻想であり、自分の肉体もまた幻想で、別の所からの投影で見ている(と思っている)ことを知っている。

だけど、だけど、

同じ幻想なら、こぎれいな幻想でいたい。

…あっさり手放すことはできない。

エゴの思う壺にはまっているのか。

あ゛~

私の道(My Course in Miracles)は果てしなく遠そうなのだ。

復習Ⅵへ & ACIMレッスン201-レッスン181の復習

2018-08-29

復習Ⅵへ

復習Ⅵは、レッスン181~200の復習。

毎日1つずつ主題概念を取り上げ、それをできる限りたびたび練習する。」(復習Ⅵ序1-1)

朝と夜にそれぞれ少なくとも15分を捧げ、1日を通して1時間ごとにそれを思い出し、その合間の時間にもできるだけ何度も使用する。」(序1-2)

…とある。

最近の20の想念を一つずつ丁寧に染み込ませていく。

よく理解され、練習され、受け入れられ、一日を通して生じるかに見える出来事のすべてに適用されるなら、それぞれの概念にはこのカリキュラムのすべてが含まれている。」(序2-2)

そして、前回の復習時と同様、軸となる概念があり、各レッスンの前後は次の概念で終わるようにとされている。

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」(序3-3,4,5)

一日をこの概念とともに始め、それとともに終える。そして私たちは毎時きっかりにこの概念を繰り返す。」(序3-6,7)

練習には形式は設けないとしながら、例外として、

雑念をそのままにしておかないこと」(序5-2)という留意点が示されている。

誘惑があるときには、

この考えを私は望まない。そのかわりに、こちらを選択する__」(序6-2)

と解放を宣言する。

…読み返しながらポイントと思うところを書きだしていたら、冗長になってしまった。

レッスン201-レッスン181の復習

(レッスン181)私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。

このレッスンはお盆帰省中とそれから東京に戻ってきた時にやっていた。

復習Ⅵを貫く機軸となるテーマ「私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」には、どちらかというと苦手意識がある。

個としての「肉体」と「私」に執着があるから。

私はずっと自分を体だと思い、その「私」の自己実現に関心があった。

関心があるのは「私」であって、同胞-この世の兄弟姉妹―にはあまり関心がなかったのだ。

でも兄弟姉妹と自分はひとつで、出会いに偶然はなく、自分の無意識にあるものを見せてくれている、と知る今…。

自分の中の「束縛されてしまう」という恐れに気づく

ワークをして感じたのは、このワークと直接関係がないようにも思えるのだが、「(制約を設けず)この世でしたいことをすればいい」ということだった。

しかし、果たして、それは何?

気づいたことは、私の中にはずっと「束縛されてしまう」という恐れがあること。

「束縛」自体ではなく、「束縛されてしまう」恐れに支配されている。

根底に対人恐怖があるのだろうか。周りが怖くて、学校でも職場でもその他の場でも、いつもその場の何かに孫卓してしまう。よく言えば「空気を読む」なのか?

そして、八方美人になり、過剰適応してしまう。

いわゆる「いい子」をやってしまい(できているかどうかは別)、そのことに自分自身が疲れてしまい、その場を去りたくなってしまう(それで、旧居も逃げ出した?)。

そういう自分が好きじゃない。つまらないなぁと思う。言いたいことがちゃんと言えて、したいことができている(ように見える)人に憧れる(なんでか、ホリエモンの顔が浮かんだ)。

恐れを手放し兄弟姉妹を信頼するという、私のお題に気づく

いい子になろうとして自滅するパターンは、長男長女に多いかもしれない。

その心理の根底にはやはり「恐れ」があるのだと思う。

私は、物ごころついた頃から、常に恐れているのだ。

もう気づいた頃には、周りに受け入れられるだろう「キャラ」を身につけていた気がする。それは、膨大な無駄なエネルギーが要った。

もう、そんなエネルギー使う気がしない。

でも、でもー。

自分が本当に「やりたい」ことならば、恐れなくてもいいのではないかー

今、そう思う。

私は自由でありたい。

どこにいても、ゆったりにこにこしていて、いいんだ。

そういう自分でいたい。

そのためには、レッスン181の「私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。」(L201-1-1)は不可欠なのだ、と改めて気づいた。

女ひとり暮らしの限界を感じた日

2018-08-28

本棚の上に、転倒防止グッズの代わりに棚を入れることにした

今年の夏、とくに7月は、今思い返しても暑かった。6月中に引っ越しが終えられて、本当によかった。

引っ越しの荷物の片づけ中に、圧倒的にひとり暮らしの限界!を感じた日があった。

7月収納棚を本棚の上に乗せた日だ。

仕事スペースに置いた本棚に地震対策の転倒防止ツッパリ棒みたいなのが要るかと思っていたが、どうせ収納が足りないのだから天井までぴったりの高さの収納家具があればいいのでは?

そう考え、本棚から天井までの高さ(58.3㎝)に入る棚を探してみたら、、、あった!

山善(YAMAZEN) フリーボックス ホワイト(3,125円:購入時)

「幅が58㎝」とあるから、これを横にして使えば、ぴったりの計算。

おー、ラッキー。

注文したら翌日すぐに届いた。そして組み立てた。ここまでは順調だった。こういうのは、けっこう得意なのだ。

思ってたより重くて、持ち上げられない

しかーし!

問題はここからだった。

思ったより、すごーく重い!!

どうせ木か紙のチップでできているのだろうし、普通のカラーボックスくらいならお茶の子さいさいだと思ったいたが、とんでもない重量感だ。単に私の筋力が衰えたためなのか(後で見たら11㎏とあった、もっと重く感じた)。

一人ではまったく持ちあげられない。なんとか2秒くらい、片っぽをえいっ、と上げるくらいが限界。

でも、本棚転倒防止のために買ったのだ、乗せるのだ、と管理室から、脚立を持ってきて、うんにゃ、うんにゃ、と棚を引きずり上げようと試みた。

エアコンを付ければいいのにまだ自分の家という感じがしなくて、エアコンに触りづらく、汗だくになりながらひとり棚と格闘した…、これではぎっくり腰も完治しないわけだ。

脚立の上まで引きずり上げたけど、にっちもさっちもいかなくなった

えっさえっさとなんとか脚立の上まで引きずり上げた。頑張ったぁ。

だけど考えてみたら、この棚と棚を置く隙間はぴったりだ。片っぽをえいっと持って引きずり上げる方法は使えない。ぴったりすぎて水平にしないと入らないのだ。

あ゛~(*_*;

もう、棚を置くの諦めたい。

しかし、今となっては脚立に乗せてしまった棚を下ろせない。自分の力では支えられないから、ドスンと落とすしかない。

この重い物を脚立の上から落としたのでは、床に傷が付くこと必至。下の階の方は何事かと思うだろう。ここに至るまでにも、壁紙、タンスとすでに傷つけているのだ。

上げることも、下ろすこともできない。

もー、泣きたい(>_<)

地元の掲示板ジモティで家具を売った際、引き取りに来た女の人はみな連れの夫や男性を手足のように使っていた(ように見えた)。

「35億」と「あと5000万」この地球上に男性がいるというではないか、でも、

この窮地に助けてって言える人、

私にはひとりもいないんだぁ~~~!!(自業自得)

頼れる人はいない、ひとりでなんとかしなくっちゃ

うんと暑くて、そして情けなくって、汗と涙を同時に出さんという時、ん?とひらめいた。

水平にしなきゃ、入らないんなら、脚立の上で水平にしたらいいんじゃ?私は、1,2という2秒だけは片っぽ持っていられるから、その間にここにある本を挟んだらどう?

とりあえず、やってみた。

 

そ~っと、そ~っと、右側に、そして次に左側に、脚立と棚の間に本を差しいれる。大きめのパソコンの本にした。

それで、1冊ずつ入れて、本棚と同じ高さにした。

それから、えいやぁと渾身の力を入れて、本棚の上に滑らせた。

バランスを崩しそうになったけど、なんとか入った!

なんとか乗せられた。

我ながらすごい…

しかし、なんともいやはや…

力尽きた。

 

言われるまでもなく、ひとりでできることには限界ある。

身を持って知った7月だった。

ACIMレッスン200-神の平安のほかに平安はない。

2018-08-27

暑さが終わったら、今年もおわり~!?と、焦る

お盆を過ぎた頃ふっと涼しい日々があり、「また暑くなるんでしょうけど、私的にはもう夏は終わったと思ってます」と言っておられた方がいた。

私もそれに習って、お盆後「夏終わり、もう秋」とした。

だけど、ここ数日猛暑がぶり返していて、暑い…。

また、暑い、暑い…と言って、そのうち涼しくなったと思ったら、今年もあと○○ヶ月ですね、となって、ハロウィーン、クリスマス…と商戦で町が賑わい、あ゛~、今年も終わり…だ

…と、焦る(*_*;

なぁ~んにも、してない、、、私。

時間なんて、意味ないはずなんだけど。

暑くても、できることやろう。

ACIMワーク200-神の平安のほかに平安はない。

レッスン200は、私たちは常に平安を求めているが、それを探す場所を間違えている、と言っている。

世間的に、平安につながると思われている、社会的な成功や達成、名声、権力、おカネ、美貌、魅力…、そうしたものは、一時的な快楽や喜び、興奮を与えてくれるかもしれないが、私たちが心から求める永続的な幸福感や平安をもたらしはしない。

平安は神に拠らねば満たされない。

…と言っている。

なぜなら、そうとは見えなくても、神以外はすべて幻想だから。錯覚にすぎないのだから。エゴの煙幕にすぎない。

だから、そうしたものに惑わされて無為にさまようのではなく、ダイレクトに平安の源である神に拠りなさい

そのために、赦しなさい

幻が、本来ではありえない不安や恐怖、罪悪感、嫉妬、怒りが自分の心の内にあるのを見せてくれた時には…。

それが、錯覚から正気を取り戻す唯一の道なのだから。

常に同じ中身だけど、たぶんこういうことを伝えているのだと思う。

要は、渦中でも赦しを思い出すこと

やはり、要は赦しなのだ。

赦しは何をするのだろうか。真理においては、それは何の機能もなく、何もすることもない。なぜなら、赦しは天国では知られざるものだからである。

それは地獄においてのみ必要とされ、そこでは強力な機能をする。」(L200-6-1,2,3,4)

神だけが確かであり、神が私たちの歩みを導く。」(L200-9-4)

神様だけが現実。そのための赦し。

この考え、自分としては「わかっているつもり」だけど、それも「何かが起こるまで」。

何かがあると、不思議とこの世が幻想とは思えなくなる。

一瞬で圧倒的ゲンジツ感の渦中に巻き込まれ、神さまはぶっ飛ぶ。

そして、その時の自分の感情が正当なものと感じられる。

そして、ワークの中身が遠くおぼろげになる。

不思議。

だからこその、ワークであり、練習なんだろうけど.

今ここでは、まず「暑さ」を赦すことかしらん?

「忙しさ」について感じたこと

このワークをやっていた時、「忙しさ」についても感じるところがあった。

忙しくしないこと。

「忙しくするのは、電車の中で走っているようなものだ。」と。

これも、社会的な一般論とは異なるから言いにくいところはあるけれど、忙しさをよしとする背景には、神を忘れる、死を忘れる、罪悪感を晴らす、といった無意識の目的があるのかもしれない。

平安でいいのだ。

頑張らなくても、忙しくしなくても、ありのままで平安でいいのだ。

これを実践してみたい。けど、まだ怖くもある。

「存在感の美しいひと」

2018-08-25

「存在感の美しいひと」を具体的にイメージしてみたら

昨日「存在感の美しいひと」への憧れがある…、と書いたけれど、それはどんな人なのか改めて考えてみたら、イメージがあるだけで具体像はよくわからなかった。

私は、昔から、きれいな人やかわいい人が好きで憧れがあり、それと重なる部分もあるような、別物のような?

好きな本『アナスタシア』(響きわたるシベリア杉 シリーズ)の主人公、アナスタシアはそのイメージに近いかな?

この話は二元論のこの世をベースにしてはいるものの、アナスタシアの在り方が『奇跡講座(ACIM)』の考えに近いように思えて、勝手にACIMの副読本のような位置づけにして、時たまだけど、くりかえし読んでいる。

何日か前のコメントで、トベさんが「アナスタシア好きです♡」と下さって、そっかぁ、とうれしくなった。

以前親しい友だちにこの本をあげたことがある。読んでくれた友人は「これはファンタジーで、アナスタシアは実在しないと思うわ」と言っていたが、私は実在すると考えている。

アナスタシアのメッセージはとっても素敵だ。ただ、書中に「素晴らしく美しい若い女性」と描写されていることが、やはり影響力を何倍にもしているなぁと思う。

人(私)は、見た目に左右されるのだ。

憧れのソニアさんにはシカゴに会いに行った

40代に入ったばかりの頃は、いわゆるスピリチュアル本をたくさん書いている直感の先生ソニア・ショーケットさん惹かれた。

少し魔女っぽくて、女性的で、華やかさもあって、ポジティブで。

私はシカゴの彼女の自宅にリーディングを受けに行ったくらいだ。もう15年も前のことになる。

素晴らしいメッセージをくれて、大いに背中を押してくれた。そして、その晩シカゴ市内で開催されたワークショップにも飛び入り参加の招待してくれ、とてもエキサイティングな体験をくださった。

 

日本人の方ではどんなだろう

日本の方でイメージに近い人は誰かな?と思ったら、吉永小百合さんが浮かんだ(ちょっと大御所感があり過ぎるか?)。

清楚でやわらかいが、弱さとはちがう圧倒的な美しさ、存在感がある。しかし、出演作等は見たことがない。

どこに存在感の美しさを感じるのか。出演作、たくさんあるのだから、見てみようか。

綾瀬はるかさんも、きれいな人だな、と思った。

いわゆる美人ではないのだけど、透明感(美白ゆえ?)、存在感の美しさが際立っていた。

今は市場で引っ張りだこで消費されている感を感じるが、消耗せずにずっと輝き続けてほしい。

そう書いていたら、前に小林麻央さんのことも、このブログの中で「存在感が美しい」と書いていたことを思い出した。

きびしい闘病のなか、お子さんのこと、ご自分のこと、日常を細やかに見て前向きに愛情豊かにブログを続けられ、その姿勢に頭が下がった。

あたりまえと思っている毎日がとても尊いものだと気づかせていただいた。

憧れの…存在感の美しいひとはみな女性?

わかったような、わからないような?

あ、今、気づいた!

みんな女性だ!!

自分にとってあたりまえすぎて、気づかなかった。

もちろん、男性にも「存在感が美しいひと」たくさんいる。

でも、自分が女人間だから(この世では!)自然と憧れも女性になったのかな?

たとえ、神の子はひとりで個々の存在は幻想だとしても、憧れがあるのは楽しい。イメージしているだけで気分が良くなるから。

ACIMレッスン199-私は肉体ではない。私は自由である。

2018-08-24

祝準優勝、金足農業が見てた人みんなの「ひたむきスイッチ」押した!?

第100回の高校野球決勝が終わって三日。

やっぱり、高岡商業を破った(三回戦:3-1)大阪桐蔭は強かった。史上初の二度目の春夏連覇だという。すごい…

しかしながら、ニュースなどで報道され注目を集めているのは、むしろ敗れた秋田の金足農業の方だ。

日本人はえてして判官贔屓だ。全国49の参加校の中で公立高はわずか8校、その中でも唯一の農業高校に肩入れしたくなるというものだ。

[caption id="attachment_4154" align="alignleft" width="300"] 金足農業、吉田輝星投手(撮影:杉山ヒデキ氏)[/caption]

 ピッチャーが3人が分担して投げた大阪桐蔭に対して、金足農業は吉田君ひとりが予選から頑張って投げ抜いたという。

決勝まで知らなかったけれど、見れば吉田君は爽やかイケメンだし、名前が「輝星」というのもまんま。絵に描いたようなヒーローだ。

努力と根性が報われた昭和時代のノスタルジーも喚起させ、みんなが深層心理で求めるひたむきなストーリーにばっちり嵌っていた。

勝負の世界は二元性の代表だし、勝ちもあれば負けもある。だけど、勝負を超えて人々の「ひたむきスイッチ」を押したのではないかな?

同校には寄付金が1億9000万円も集まったという。そのひたむきスイッチを押してくれた善意のお礼ではないのかな。

スポーツオンチだけど、そして、これもまたこの世の幻想の一つだと知っているけれど、スポーツが生み出すストーリーには惹きこまれる。

ACIMレッスン199-私は肉体ではない。私は自由である。

さてさて、レッスン199。

お盆帰省前にやっていた。

私は肉体ではない。私は自由である。

短いフレーズだが、これも極めて重要な、ACIMの根幹の考え方だ。

肉体は本来はひとつであった神の子が分離した(という誤解の)結果の幻であり、

肉体は一つの制限である。」(L199-1-2)

心が自由になれるのは、自らを肉体の中に存在するものと見なさなくなったときであり、自分が肉体にしっかりと固定され、肉体の存在によってかくまわれていると思わなくなったときである。」(L199-1-4)

スポーツは肉体をベースにして高みをめざすものだから、スポーツ自体、自我のものなんだろうか。

それを言ったら、この世にあるすべてがそうなのだけど。

このワークは私には特に難しく感じられる。

私は人一倍自分と自分の体に執着がある方だと思うから。

その性質がACIMの学びを阻んでいるのは気づいている。

そうは言ってもなかなか… 。

学習が進むにつれ、聖霊に従いたい自分の部分と、肉体をまとった自我(エゴ)チームが先導する部分と、両方の自分がせめぎ合っているのを感じる。ある時は聖霊に委ねようとしているが、おおむねエゴが牛耳っていると感じる。

肉体に執着したい私は、死を恐れる私でもある。

まだまだ私には、赦しの経験が必要だ。

この概念が自我にとってはまったく狂気だということは気にかけずにいなさい。

自我は肉体の中に住み、自分が作り出した家と一体化して生きているので、肉体を非常に大切にする。」(L199-3-2,3)

ここに自我は隠れており、ここに自我の正体が見てとれる。あなたの無罪潔白を宣言しなさい。そうすれば、あなたは自由になる。」(L199-4-1,2)

私がACIMの道を進むためには、ここをちゃんと超えていかなければならない…

「存在感の美しいひと」への憧れ

ACIMの教えとは逆行するのかもしれないけれど、私は、ずっと「存在の美しいひと」「存在感の美しいひと」に憧れがあり、そこには見た目の美しさも入っている。

具体的にどんなふうかとなると、よくわからないのだけど、余分なものが削がれていて、細部まで神経が行き、聖なるイメージ。

自分の中の「存在の美しいひと」と、ACIMは相反するものなんだろうか。

また改めて考えてみようと思う。 

「『奇跡講座』ってなぁに?」

2018-08-22

ブログはナイショのプロジェクト!?

私は、機械オンチながら、なんとかホームページを自分でサクサクと作れるくらいになれたらいいなぁ、と思い、年に数回、東京都主催のHTMLやCSSの短期講座に通っている。

その講座で何度か一緒になり、たまにメールのやりとりをするようになった友からメールが来た。

なんでも、「WordPress悪戦苦闘中」らしく、私のサイトを参考にしたいからもう一度アドレスが知りたいと言う。

一瞬だけためらったけど、「『奇跡講座ダイアリー』といいます」、と返信した。

そう、前の講座で一緒になった際、「WordPressでブログを作っている」と話していたんだ。

参考にといっても、これは本の付録として付いていたテンプレートそのまんま使っているもの。古くもなっているのに自分では編集もわからず、往生しているところなのだ。

実は、私はブログをやっていることを、近しい友人2人にしか話したことがない。

「Facebookやってないの?」と聞く人はいるが、「ブログやってないの?」と聞かれることはまずないから、積極的に話すこともなかった。

「奇跡講座ってなに?」

ほどなく、「素敵に作っているね」と返信をくれた。

あ、ありがとう(・・*)ゞ(作ったのはデザイナーさんだけど )

そして、その後、

「ところで、奇跡講座ってなに? 宗教なの?

と。

そうだよね~、あやしいよね。

私は、

「教祖も組織もないから、宗教とはいえないかな?」

と言い、そういうタイトルのテキスト、マニュアル、ワークブックから成る本があること、それを独学していることを伝えた。

まったく自分本位なブログ

そうそう、そうなのだ。

このブログ!

普通、私が関わっていたビジネス支援の仕事では、事を起こす際、真っ先に「ターゲットを想定する」ということが定石中の定石だ。

しかしー。このブログー、まったく自分本位な学習ブログで、読者が念頭にない。

『「手帳ブログ」のススメ』という本を読んで、日々の記録をブログで綴ることの素晴らしさに共感して、作りたいと思った。

今は、自分の道(My couese in Miracles)の一里塚、あるいはワークのスタンプラリーシートみたいな位置づけでモチベーションアップに繋がっている。記録や復習としても役立っている。

だけど、世の中に晒しているのを考えたらー、

ACIMのことを知っている、ワークをやったことがある人というのは、いったい人口の何%だろう?

圧倒的多数の知らない人にとっては、なんのこっちゃ??、だ。

知っている方に対しても、特段のメッセージ性があるとも思えないし。

それは最初から感じてはいた。

手帳ブログだとしても、なんとも不親切なのだ。

『奇跡講座』のエッセンスをまとめて、伝えてみたい

そういえば、最初に、『奇跡講座(ACIM)』のことを知らない方にもわかりやすいように、ACIMのエッセンスをシンプルにまとめようかな、と思っていたっけ?

しかし、その作業はもっとちゃんと理解しないとできないや、間違った解釈を書いてしまってはいかがなものよ、と思い、手をつけることができなかった。そのまま放置している。

そのことを思い出した。

「ちゃんと理解しないとまとめなんて無理」と思っていると、一生できないだろう。

解釈が違うかも、は、それぞれ異なるのは避けられない。「私による」でいいんじゃ?

学習ブログという位置づけはよしとして、周りにもう少しやさしく、親切でもいいんじゃないか。

いくら内向きな性格で(^_^;)と言い訳しても、本当にそうだったら、そもそもブログなんて作ってないんじゃね?とも思うし。

ACIMレッスン198-私の咎めだけが私を傷つける。

2018-08-21

ACIMレッスン198-私の咎めだけが私を傷つける。

レッスン198は、とても力強いメッセージだ。

傷つくということはありえない。

しかし、自分が咎めをリアルにするなら、それはありうる。

自分から咎めを取り除くことが、自らを赦し癒す。

真理に咎めはないのだから。

これを受け入れて、咎めを手放すことができれば、楽になる。

だけど、それには「赦し」という訓練が必要だ。

それが、ひどく難しい。

あっという間に何かが起こり、感情の渦にいる。

毎度。毎度。

どうして、咎めにしがみつきたくなるんだろう。

やはり、赦し

特に気になったところは、赦しの重要性を述べたところ。

咎めるなら、あなたは幽閉される。赦すなら、あなたは解放される。」(L198-2-1,2)

幻想は幻想を作り出す。だが例外が一つだけある。赦しは幻想ではあるが、ほかのすべての幻想への回答となる幻想である。」(L198-2-8,9,10)

赦しはほかのすべての夢を一掃すると同時に、それ自体は夢であっても、ほかの夢を育てはしない。」(L198-3-1)

ナビゲーターは、エゴか、聖霊か。ひどく長そうな道のり。

赦しを実行するためには、聖霊とのつながりを保ち続けることだ。

事あることに聖霊の言葉に耳を傾けること。

聖霊の言葉には効果がある。聖霊の言葉は救済する。」(L198-6-1)

私は、聖霊の言葉に耳を傾けること自体に、長いこと恐れがあった(今もある)。

不都合なことを聴いてしまいそうだから。

誰にとって?

私。

その私とは?

私のエゴ。

でも、エゴと一体化する方法では、すでに行き止まりだと知っている。

エゴか、聖霊か。

二者択一で、その中間はないんだ。

私の中では、未だエゴの圧勝、かな?

今日は、あらゆる形の苦しみは、必ず、赦そうとしない想念を隠しているということを忘れてはいけない。

そしてまた、赦しが癒せないどんな形の苦痛もないということも、忘れてはいけない。」(L198-9-5,6)

神の子の中にはどんな咎めもないと宣言するこの一つの幻想を受け入れなさい。」(L198-10-1)

私は、聖霊の声を受け入れる練習をするところからだ。

ひどく長そうな道のりに、気持ちも萎える。だけど、だからといって、エゴがおすすめする成功万歳、とは思えないところにいる。

「うまくあれ」から卒業したい

2018-08-21

額装した色えんぴつ画をグループ展会場に持っていったら、すでにたくさんの絵があり、みんな、すごーく、うまい。

はーっ、すごいな~(・-・`* と、いくぶん気落とされ圧に飲まれて帰ってきた。

採点されるわけでも、競っているわけでもないのにね。

帰り道、

しかしー、「うまい」とは何ぞや、と自問する。

写実性をうまいとするなら、写真の方が上だろう。

じゃあ、私にとっては、どうだったらうまいのかな?

幼稚園の頃は好き放題に絵を描いていたのに、その自由さを失ったのはいつからだろう。

私、仕事でも人生でも「うまく」あろうとし、でもどうだったら「うまい」のかもわからずに、何かに忖度してきた気がする。

でもその何かと本質的に合わなくて、40すぎたあたりから、落ち着きどころを模索しているような?

だったら、もう「うまくあれ」から、卒業したらいいのにね。

いつも、周りの顔色が気になって、自分であることを手放してしまう。

それこそ、クリアしたらいいのに。

もしかしたら、その自己表現の力をつける、そのために絵を描いているのかな?

見えないものを描くのはむずかしいな

2018-08-19

帰省は“昭和”というくにへの心の旅!?

一昨日、金沢を経由して友だちと会って東京に戻ってきた。これが近年のお盆、お正月帰省のパターンになりつつある。

たった数日母と実家にいるだけで、すっかり東京の自分を忘れてしまう。東京―実家は、他国に行くより遠いような気がする。そんな私にとって金沢は緩衝地帯でもある。

友だちと夕ご飯を食べながら、近況をあれやこれや話すうちに、元の自分の感覚を思い出していく(大げさか(^_^;))。

上野着。深夜12時の山手線には、たくさんの東京人の顔があった。ふだん見慣れているはずの、その顔、顔…。それがちがって見える。

どういったらいいんだろうか。刺激に晒され、順応している顔だ。疲れているだろうが、ぬぼわぁ-んとはしていない。夜の飲み会などの後だからだろうか。

東京と実家はなんて異なる世界なんだろう

私が行っていたところは、富山県の中でも“昭和”というくにだったのかもしれない。私にとって、遠くて近い、近くて遠いところなのだ。

どこかにある…神が降りる場所

昨日は、趣味の色えんぴつ画の生徒作品展のための絵を仕上げていた。

以前、黒部峡谷のトロッコ電車の車窓(といっても、開放車両で窓はない)から撮ったうなうなづき湖が題材だ。

うなづき湖は、黒部ダムのためのダム湖、つまり人造湖なのけど、深い森とエメラルドグリーンの湖水に神聖さを感じて心惹かれた。

8月の色えんぴつ講座はお盆帰省中で、実家にいた私に「先に作品名を知らせて」とLINEが来た。

タイトル…、私の心の中では、「神が降りる場所」「神が遊ぶ場所」なのだ。もちろん、あくまで私のイメージ。

神は物質ではないから、神性を感じる場所、自分の中の聖霊の存在を感じる場所という意味だ。

だけど、とても、そんな大仰なことは言えない。「『うなづき湖①』『うなづき湖②』でお願いします」と返した。

聖霊が喜ぶ、神聖な、というイメージはあるのだけど、それをどう表現したらいいのかわからなかった。

お気に入りの本に『アナスタシア』(響きわたるシベリア杉 シリーズ)があるが、その女神のような主人公、アナスタシアが湖畔に姿を現しそうなイメージを描きたかったんだけど…。

見えないものを肉眼で見えるように描くのは難しいな。

根気が続かず、「なんか違うけど、まぁ、いっか」と額装に世界堂に向かった。

絵を見て、自分が聖霊を思い出せばいいわけだから、目的は達成されているかな。

わりと涼しくて過ごしやすい。天然の風が心地いい。

実家でもエゴトラップにまんまと引っ掛かる

2018-08-17

実家でワークブックを開くも…

帰省前は、家でACIMワークを進めようと、ワークブックをコピーして持ってきた。

しかし、実家では、ほとんどできなかった。

意志が脆弱なためか、実家の空気に飲まれてしまい、その気がなくなってしまう。

母は半分独り言のように、床に就くまで話しかけてくるから、自分の考え自体がまとまらなくなる、というのもある(これを私は「脳ジャック」と呼んでいる)。

今朝こそはと「仕事をするから、しばらく話しかけないでね」と、物置として使っている部屋に入ってドアを閉めたが、まもなく「ちょっと~」と声をかけられて中断。

「なぁに~?」と声を上げると、

化粧をしながら部屋に入ってきて、「日焼け止めって、化粧した後から塗ってもいいかな?」ときて、ずっこけた。

「どっちでもいいんじゃない?」

「そうやね、わかった」と部屋を出ていった。

4,5日ならいいけど、母と一緒にずっと住むのはやっぱり難しい、と思う。

赦すべきお題はちゃんと提示されていた

そうして、再びワークに戻ろうとした時、ようやく気づいた。

母の横やりは、私のエゴの横やりに他ならないと。

それに対して私はいつもイライラしてしまって、まんまとエゴトラップに引っ掛かっているのだ。

それこそが、今ここで赦すべきお題として出てきていたのだった。

実家が、私のACIM(A couese in miracles)から遠いと思っているのは、ACIMをコントロールしたい私のエゴなのだ。神は常にそばにいる。

今朝は猛暑から一転、初秋を含んだひんやりとした東風が窓から入ってきた。

その風の感覚が、生まれてから18年、この地に住んでいた記憶を呼び起こした。

体の細胞に眠っている無意識が揺り動かされる感じ。

ここにも、まだまだたくさん赦すべきことが、眠っている。

老母と老娘、水族館へ

2018-08-16

高校野球、高岡商業、第3回戦

今日は、高校野球、富山県代表の高岡商業の三回戦があった。

テレビの前で手に汗にぎって応援した。

これまで関心も持ってなかったくせに、「ベスト8に入って」と願った。

が、惜しくも3-1で、大阪桐蔭(北大阪)に敗れた。

ざんねん!

でも、よく頑張った。とくにピッチャーの山田君が印象的だった。すっかりファンになった。

高校野球というのは、何しろ球児たちの顔がいいんだな。邪気のない前向きな表情を見ているだけで、心が洗われる。若さはピュアで美しいと感じた。

こういうふうに惹きこまれたのも、富山県勢が活躍していたからかな。

母と、水族館へ

富山市で最高気温38.1度を記録した昨日、母と小さな遠足に出かけた。

県内唯一の水族館、魚津水族館に出かけたのだ。

規模が小さな古い水族館だし、寂れているのかと思ったら大違い。お盆シーズンだけあって、小さなお子さんを連れた親子連れでずごく賑わっていた。

飼育員さんたちの手描きのPOPや心がこもった接客がいい感じ。

おしゃれじゃなくって、こういう、ふつうの、昔ながらの水族館がいいんだよな。

珍しい海の生き物に、母はいちいち驚いている。

大水槽ではダイバーさんが潜っての餌やりタイムがあった。

エイは右利きのダイバーさんが餌の小魚を口に入れやすいように、左サイドから体を傾けてダイバーさんに近づく。

それを見た母は、

「エイってなんて賢いがー、頭いいね」(ただ口を開けてやみくもに泳ぐブリとは大違い)と、しきりに感心していた。

子どもの頃、親とこういうところに行ってこういうことがしたかったんだな。当時は両親とも自営業で忙しかったし、親と出かけたよい思い出がない。

友人たちに孫ができるような年齢にもなって、私はまだ満たされなかった子ども心を埋めようとしている迷子みたいだ。

最近は、童心に帰ってはしゃぐ母に、ふと自分が親のような気持ちになっていることもある。

老母と老娘という場違いな二人連れではあるけれど、昔ながらの水族館で和やかなひと時が過ごせて、癒された。

所要時間約4時間。それで50年前に願っていた時間を拾い集め、私の内なる子どもがうれし涙を流さんばかりに喜んでいる。

ありがとう、お母さん

今朝、お墓からお花やお供えものを撤収。2018年のお盆も終わった。

母はお墓に向かって、

「お父さん、私まだそっちには行かんちゃ。まだまだ元気でこっちにおるわ」と声をかけた。

私はほっとし、心強く感じた。

今回の帰省では、母に感謝を伝えたいと思っていたけれど、なかなか口には出せない。

一回ごとの家事や、気遣いに対して、「ありがとう」と言うのが精一杯だ。

ほんとうは、もっと大きな「ありがとう」を感じている。

子どもの頃は、厳格で怖い母を嫌い憎んでいた。だからこそ、そう思えるようになったことが、なにより、ありがたい。

ACIMから最も遠い場所、実家でお盆を過ごす

2018-08-14

実家でお墓参り、高校野球

日曜夜から富山の実家に帰省している。

お墓参りをして、仏舎利塔にもお参りに行ってきた。家の仏壇に精進料理をお供えし、お寺さんの和尚さんが家に読経にも来られた。昔ながらのいろんな風習が残っている。東京とは別世界だ。

昨日は、高校野球、富山県代表の高岡商業の第二回戦で、長野県代表の佐久長聖との対戦を観た。にわかに郷土愛を刺激され、母とテレビの前で手に汗にぎって応援した。

5-4で競り勝った時は、「やったー!」と高揚した。富山県勢が二回戦突破できるのはそんなにはないことだ。第3回戦は、史上初2回目の春夏連覇を目指す大阪桐蔭(北大阪)。勝ったらすごいな。気合が入るなぁ。

普段、勝負事は二元性の最たるものだと思い、わりとクールでいるけれど、そんなことはすっかり忘れ、純粋に「勝てー」となり、それが楽しかった。

夕ご飯は、お刺身や煮物を食べながらお酒を少し。

母と二人だけではあるけれど、なんだか「真っ当なお盆の過ごし方」だな、と感じた。

実家…最もACIMから遠い場所!?

私にとって実家は、最もリアリティがあり、最もACIMから遠い場所だ。

ふだんACIMのワークブックで繰り返し唱えているようなことはすべてぶっ飛び、朝から夜まで話しかけてくる母が私の世界になる。

そして、普段遠ざけている罪悪感と恐怖が浮かび上がってくる場所でもある。

結婚もせず孫の顔を母に見せることもなく、家やお墓を継ぐ人も残せないことに対して、後ろめたさや情けなさを感じてしまうのだ。そして、もっと別の選択肢を選んでいたら、今頃もっと母を喜ばせられたのではないか、と後悔の念が湧いてくる。

高齢の母は、ここが痛い、あそこが辛いと言い、年々小さくなっていく。年の割には元気な方けど、いずれは別れがあるのだ。普段遠ざけていることを思い、そのことに不安や言い知れない恐れを感じてしまう。

いずれもエゴの大好物だ。

東京でひとり暮らしをしている時には、ワークをやって頭で理解できたつもりのことが、ここでは曖昧になりわからなくなってくる。

罪悪感も恐怖も幻想だし、「神からの分離」というお決まりのテーマの、私バージョンを見ているのだと知ってはいるつもりけれど、事が母のことになると、あっという間に複雑な感情に巻き込まれて訳がわからなくなってしまう。

家族、とくに親は、最も神様を投影して見ているのだと思う。だから、恐怖と罪悪感が近いのだ。

たとえ幻想であっても、母にはなるたけ長く元気でいてほしいし、できるなら喜ばせたいと思う。

こんなふうに実家に来たら、ふにゃふにゃになってしまうから、少しは勉強が進んだつもりでも、まだまだまったく机上だけだったな、と思う。

何しろ、いい歳をして、私の心はまだまだ甘えたりない子どものようで、年老いた母を前にしても、そういう感情が出てしまう。

やれやれ、なのだ。でも、こうやって過ごしたお盆に幸せだなと感じているのも、また正直な気持ちだ

ACIMレッスン197-私が得られる報酬は、自分自身からの感謝のみである。

2018-08-11

昔からの友人とのパフェは青春の味!?

汗かぶれは、専門の塗り薬「アセムヒEX」を塗ったら、劇的に改善、かゆみが気にならなくなった。ほーっとひと息。

昨日、20代からの友だちと3年ぶりに会った。

入ったのはフルーツパーラー。高価だから、ふだんの私の脳にはない選択肢だ。

桃のパフェとコーヒーのセットで、1,400円。フレッシュな桃がとってもおいしかった!

何層にもなったフルーツとクリームがきれいで、二人とも思わずスマホを取り出して写真を撮った。

「20代の頃、インスタあったら、私たちもやったよねー」と私。

「うんうん、ぜったい。」と友人。

そして、「今のコは、仲いい友だちが自分にぜんぜん声かけないで、別の友だちといろんな所に遊びに行っているのとかも、Facebookやインスタで丸見えで、それもなかなか大変だね」という話になった。

確かに。

またSNSを通して自分を見せるのも自分活動の一環で、神経使いそうだ。私なんかも、インスタにアップするためにどこかに出かけたり何かしらのイベントに参加したりしてしまいそうだ。

今や、そんな見栄を張るエネルギーは残っていない。

暑い中出掛けて戻った後は、2時間くらい動けず横になっていた。

何年ぶりかで会っても一週間ぶりぐらいな感じで話せる。お互いの若い頃を知っている友だちって貴重だなと思う。

ACIM197-私が得られる報酬は、自分自身からの感謝のみである。

この世は、自分の想念の映し鏡のようなもの。

この世で、自分が何かしらしていること、すること、その相手は、実はすべて自分だ。

相手と自分はひとつなのだから。

リアルには神の延長である私たちしかいない。

この世という想念フィールドの中で、私たちは、それぞれの考えを投射して見ている。

レッスン197には、この世で捧げる感謝やギフトについて書かれている。

面白いと感じたのは、最初のほうの「あなたは親切になって赦そうと試みる。けれども、外側に感謝の気持や、あふれんばかりの謝意を見いださない限り、再びそれらを攻撃に変えてしまう。」(L197-1-2,3)というところ。

この世で私たちが言う「思いやり」や「ギフト」や「感謝」は、大概これだ。

気づかいや感謝に対し、同じような気づかいや感謝で応えられないと怒りだしてしまい、すぐさま撤収してしまう。

なんとも身勝手だけど、そうだ。

でも、「ほかの人があなたの贈り物に価値がないと思ったとしても、それは問題ではない。その人の心の中には、あなたに感謝してあなたの心とつながっている部分がある。」(L197-4-1,2)

すべての贈り物は唯一あなた自身に与えられるので、神に捧げられ、神はあなたが捧げるすべての贈り物を祝福する。」(L197-5-1)

相手の反応は気にかけず、結局は自分に与えているのだから、安心して与えなさい、という。

自分の幻想を赦す時、私は感謝を循環させ、その感謝は自分に返る

あなたが自分の幻想からこの世界を解放するとき、世界は必ずあなたに感謝する。しかしこの世界の解放は、あなたの解放を反映することしかできないので、あなたの感謝もあなたのものである。」(L197-3-1,2)

すごく抽象的で、説明が難しい。でも感覚的にわかる、と思う。

自分が与える贈り物を取り下げるなら、あなたは自分に与えられたものが撤回されたと思うだろう。そうではなく、自分の外側に見えていると思っている罪を、赦しに取り去ってもらうことを学びなさい。

そうすれば、神からの贈り物を、死によって取り上げられるまでのわずかな間だけ貸与されるものだとは、決して思わなくなる。」(L197-6-1,2)

心に響いたところを書きだそうとしたら、全部になってしまいそうだ。

要は実践。

この概念を決して信じてないわけじゃないけれど、いざ場面に遭遇するとまだまだ躊躇してしまう。

ACIMレッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

2018-08-08

今晩から明日にかけて台風13号が関東にも上陸するだろう、要注意とのニュース。ここ数日と打って変わって涼しい。

異常気象が続いているなかでも、今年はその異常さが際立っている。何事もなく過ぎてほしい。「無事」が有難い時代になった。

レッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

レッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

この世は、神から造反したと思い込んでいる私たち神の子が、エゴから唆され、怖ろしい神からの隠れ家として作り出したものだ。しかし、それは勘ちがいにすぎない。

この世は、自らが上映している映画にすぎない。

一見ばらばらの身体を持っているように見える私たちは、実はひとつであり、ただ神の延長である。

神に対するすさまじい恐怖と罪悪感パニックから、本当のアイデンティティ-罪なき神の子であるという-を取り戻す訓練が、このACIMだ。

この理屈に従えば、レッスン196もすんなり理解できる。

私たちは常に、自らの罪悪感を投影できるスケープゴートを求めている

ただ頭で理解しても、水面下にある氷山のごとく私たちから知覚できない無意識には、計り知れないほど深い恐怖と罪の意識が眠っている。

私たちは、これを見たくない。

あまりに怖いから。意識の上にあげるのを拒む。

無意識にあるものは、否認するがゆえに、自分以外のものに投影される。

だから、私たちには常に「責めるべき悪い人、悪い事」を無意識のうちに求めている。

テレビのワイドショーやニュースは、次々と私たちが、私たちの恐怖と罪を投影できる対象を提供する。

それを見ている時は、私たちは、正義の味方でいられるし自分の罪を直視しなくていいから。

でも、様々な悪に見える根源は、私たちの心の中に気づかれずに在る神への恐怖心と罪悪感だ。

これが、心の表面に出てきた時、つまり嫌なことに出くわしたり、誰かに許し難いことをされた時に、「これは本当ではない」と気づき、赦すこと。

理屈を理解した上で、その機会が訪れた時に、赦すこと。

これだけが、恐怖を減らして真実に近づく方法なのだ。

過去ノートを開いてびっくり、一回目のレッスン196は修羅場の渦中だった

今日、ふと、1回目にこのワークをした時はどんなだったのかな?と、古いノートを取り出してみた。

で、びっくりした。

私は修羅場の渦中にいた。

私にとっては長い話で、端折ると、

20代の頃に結婚してすぐに別れてしまった元だんなさんが、

私が当時書いていたブログを発見して(もちろん名前も住所も書いていなかったが)、ここら辺りにいると当りをつけて会いに来た(私から一方的に別れ、未消化の感情があったのかもしれない)。

そして偶然(私はそう思っていた)、20年ぶりに再会。

その後、短いあいだ再び恋愛関係に。

その後疎遠になるも(振られた)、ある時再び現れ、私はおカネ(大金)を貸してしまう。

私は彼に未練があって、その下心もあって貸したのだ。

でも、思うように返済されず、当然のことながらそれで恋愛がうまくいくはずもない。

私には、軽んじられて利用されている感があって、その怒りの感情を彼に爆発させたのが、2015年1月末、レッスン196のワークの日だった。

その日のノート。

「大爆発してしまった。すごく責めてしまった。

ACIMと真逆のことをした。

自分で自分の首を絞めた。」

と乱暴な字で書いてある。

もっとも大きな赦しの機会

そして、

「私は赦す、だからこれは消えていく」

ともあり、マーカーで囲んでいる。

あ゛~、あの時…。

頭と感情が真っ二つだった。

あれは、ACIMを学び始めて、もっとも大きな赦しの機会だった。

今だって全部赦せているかどうかわからない。それほど感情を揺さぶられる相手であり出来事だった(おカネはその後全額返してもらった)。

でも、考えてみれば、彼は私の内なる罪悪感の投影の引き受け人で、彼がいなくては無意識はそのまんま温存される。

私にとってはソウルメイトであり、感謝すべき人なんだ。

レッスン196の最近のワークについて書くつもりが、たまたま過去ノートを見て、よみがえった感情。

これも偶然じゃないんだろう。

未だ赦すべきものがあるからだろう。

赦すべきことに気づいたら、なるたけ赦そう。

レッスン196の締めの文

あなたの心が十字架に欠ける対象とすることのできる相手は、あなたしかしない。しかし、あなたの贖いもまた、あなたから訪れる。」(L196-12-5,6)

 

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