ACIMから最も遠い場所、実家でお盆を過ごす

2018-08-14

実家でお墓参り、高校野球

日曜夜から富山の実家に帰省している。

お墓参りをして、仏舎利塔にもお参りに行ってきた。家の仏壇に精進料理をお供えし、お寺さんの和尚さんが家に読経にも来られた。昔ながらのいろんな風習が残っている。東京とは別世界だ。

昨日は、高校野球、富山県代表の高岡商業の第二回戦で、長野県代表の佐久長聖との対戦を観た。にわかに郷土愛を刺激され、母とテレビの前で手に汗にぎって応援した。

5-4で競り勝った時は、「やったー!」と高揚した。富山県勢が二回戦突破できるのはそんなにはないことだ。第3回戦は、史上初2回目の春夏連覇を目指す大阪桐蔭(北大阪)。勝ったらすごいな。気合が入るなぁ。

普段、勝負事は二元性の最たるものだと思い、わりとクールでいるけれど、そんなことはすっかり忘れ、純粋に「勝てー」となり、それが楽しかった。

夕ご飯は、お刺身や煮物を食べながらお酒を少し。

母と二人だけではあるけれど、なんだか「真っ当なお盆の過ごし方」だな、と感じた。

実家…最もACIMから遠い場所!?

私にとって実家は、最もリアリティがあり、最もACIMから遠い場所だ。

ふだんACIMのワークブックで繰り返し唱えているようなことはすべてぶっ飛び、朝から夜まで話しかけてくる母が私の世界になる。

そして、普段遠ざけている罪悪感と恐怖が浮かび上がってくる場所でもある。

結婚もせず孫の顔を母に見せることもなく、家やお墓を継ぐ人も残せないことに対して、後ろめたさや情けなさを感じてしまうのだ。そして、もっと別の選択肢を選んでいたら、今頃もっと母を喜ばせられたのではないか、と後悔の念が湧いてくる。

高齢の母は、ここが痛い、あそこが辛いと言い、年々小さくなっていく。年の割には元気な方けど、いずれは別れがあるのだ。普段遠ざけていることを思い、そのことに不安や言い知れない恐れを感じてしまう。

いずれもエゴの大好物だ。

東京でひとり暮らしをしている時には、ワークをやって頭で理解できたつもりのことが、ここでは曖昧になりわからなくなってくる。

罪悪感も恐怖も幻想だし、「神からの分離」というお決まりのテーマの、私バージョンを見ているのだと知ってはいるつもりけれど、事が母のことになると、あっという間に複雑な感情に巻き込まれて訳がわからなくなってしまう。

家族、とくに親は、最も神様を投影して見ているのだと思う。だから、恐怖と罪悪感が近いのだ。

たとえ幻想であっても、母にはなるたけ長く元気でいてほしいし、できるなら喜ばせたいと思う。

こんなふうに実家に来たら、ふにゃふにゃになってしまうから、少しは勉強が進んだつもりでも、まだまだまったく机上だけだったな、と思う。

何しろ、いい歳をして、私の心はまだまだ甘えたりない子どものようで、年老いた母を前にしても、そういう感情が出てしまう。

やれやれ、なのだ。でも、こうやって過ごしたお盆に幸せだなと感じているのも、また正直な気持ちだ

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