2016-09-12
気温27℃。湿度が高く蒸し暑い。先週は一日の終わりの夜のワークがなかなかできず、レッスン58で足踏みしていた。
レッスン58の主題概念は以下のとおり。レッスン36~40の復習。
36)私の聖性は、私が見るものすべてを包み込んでいる。
37)私の聖性が世界を祝福する。
38)私の聖性にできないことは何もない。
39)私の聖性が私の救済である。
40)私は神の子として祝福されている。
* * *
聖性とは、聖なる質を持った存在であるということ。私たちはもともと罪ある存在ではなく、無辜(むこ)であり無垢であるということ。
私たちは神から延長した神の子であり神と同じく聖なる存在である。それが私たちの聖性の根拠である。
このゲンジツの世では聖なるものとは対極なものばかりが目につくが、それは私たちが幻想を見ているからにすぎない。
自分の聖性を認め正しい見方を身につければ、「私に見えるのは世界の聖性だけである。なぜなら、私は自分自身について抱いている考えしか映像化することができないからである」(l36)
私たちが聖なるまなざしで見る時、私たちが目にする世界は祝福されたものとなる。
私たちの聖性を共有していないものはない。
「聖性の光の中で私が見るあらゆる人、あらゆるものが、聖性が私にもたらす喜びを共有する」(l37)
また「聖性は、その癒しの力において無限である」(l38)
そして、「私の聖性が私をすべての罪悪感から救うのだから、私の聖性を認識することは、私の救済を認識することである」(l39)
そして、ここがおもしろいというか気になるところなのだけど、「そして、私が恐れないからこそ、私の理解するところを誰もが必ず共有することになる」(l39)
「私が恐れないからこそ」なのだ。恐れなき状態でみんなの中にいること自体に大きな意義があるのだ。
そして、レッスン40では「私は神の子として祝福されている」と、一巡して締める感じ。神の子だから⇒聖性、聖性だから⇒世界を祝福する、私は神の子=祝福されている。
何より勇気づけてくれることばは、「すべてのよきものは私のものである」「私は神の子であるからこそ、何かを失ったり奪われたり、苦痛を被ったりすることはありえない」(l40)根拠は神の子たる私たちが幻想以外で神以外の特質を持ちえないから。
だから、必要なことは、ただこの世の幻想性を手放し、あらゆるものを聖なるまなざしで見ること。
はっきり理解はできないし正しい見方が身についているわけでもないけれど、私は、私たちがそもそも「何かを失ったり奪われたり、苦痛を被ったりすることはありえない(それは神の意図ではない)」と言われたことで、大いに気が楽になった。
漠然とだけれど、「こんな私が幸せになってはいけない」みたいな思いでずっと生きてきたから。ACIMから無辜だと言われたことで体から力が抜けて許されていくのだ。
だから私も赦す。
罪なき心に痛みはありえない。欠乏し痛んでいるとしたらそれは幻想を見ている証拠だ。それを赦す(手放す)よう努めるだけだ。