妹と甥っ子と私

2016-09-01

夏休み最後の日、妹宅へ

夏休み最後の日のきのう、ちょうど仕事が休みだという妹の家に、高校1年になる甥っ子の勉強を見に行ってきた。

妹の家へは電車を乗りついで1時間半。駅までは車で迎えに来てもらう。近くには大型アウトレットモールやシネマコンプレックス、ニトリなどがあって、お菓子の家みたいなピンクの家が立ち並ぶ一画。玄関に一歩入ると、黒い犬が飛びかかって迎えてくれる。

ひとり暮らし、殺風景で質素なわが家とは大ちがい、いろんな物に溢れていてファミリーの生活感もあって、そもそも家とはこういうものだったか、と思い出させる。

昨年妹が大泣きして電話してきたことがあった。もともと甥っ子は勉強ができないということは聞いていたけど、重要な宿題や提出物を何度も無視して先生の手を焼かせ、親ともども呼び出され叱られたらしい。

私立なのでなんとか高校にあがることはできたけど、友だちもなく適応力もなく今後が不安、という。微力だけど、英語の勉強くらいは一緒にできるかな?それで妹の話し相手にでもなれたら、と、中学英語の復習をしに行ったのが今年の春休み。

その時は「なんだ、できないっていうけど、理解力はあるじゃない」と思った。

そして今回。テキスト、ドリルを見せてもらって2時間位一緒に勉強したけど、「あ~、私、高校の英語を教えられるだけの力がない、先生役は無理だ」と痛感。午前だけで勉強はおいまい。

午後は妹の話を聴いてた。心理面で何かの障害でもあるのか臨床心理士さん監修の何とかというテストを受けさせた話、進路の適性診断の結果の話、数学が落第点でこのままでは留年だという話などなど。そこは親。何とか社会で一人前に生きていけるよう気を揉んでいる。

一方、甥っ子の方は…というと、一つずつやれば理解はできるみたいだけど、そもそも勉強する必要性や周りと競争したり頑張ったりする意義がわからないらしい、何事にも決定的に「will―やる気や意欲」というものが感じられない。危機感もなければ渇望感といったものも皆無。

「じゃあ、好きなタレントさんとかは?」

「…いない」

まさに、何を言っても「暖簾にうで押し」。テストができなかろうと先生や親に怒られようと、それをやり過ごせばなんとかなる、と思っているからか、反抗わけでもなく、ぼぅーっとしている。そしてすぐ飽きる。まあ、思春期だし、そういうものかもしれない。

つまり「困っている」のは親や教師で、本人は「困っていない」のだ。周りからダメ出しや指導、塾やなんやかんや与えられ過ぎて、その処理が追いついていないのかもしれない。

車で駅まで送ってくれた帰り道、これまでずっと叱りつけてきた妹も「さとり世代だからしょうがない」「学校さえ行ってくれれば」「犯罪を犯さなければ…」と、ずいぶん折れて歩み寄り?を見せていた。

ACIMは40代以降がおすすめ!?

帰りの電車で心地よく揺られながら、ACIMとは別世界だぁ~、と感じていた。あたりまえだけど、子育て世代は子どもの日々のことやPTA、仕事、人間関係、諸々のことで大忙しだ。物理的にもそうだし心理的にもそう。

そこにはひとり暮らしの空間と時間でACIMに向かっているのとは、まったくの別世界があった。

妹夫婦と甥の生活を垣間見て、「ACIMが万人向けではない」と言われるのももっともだな~と思った。

とくに自分の適性を知って進路を決めて…将来何になろうかという人生の段階と「神だけがあり他すべては幻想だ」と説くACIMの世界は目を向けているものがまったくちがう。

わずか半日だけど妹の身になって子どもの進路を考えていたら、社会から隔離されたような状態を作ってそこでACIMを勉強している自分がひどい変人に思われた。まあ、変人というのはまちがいないだろうけど。

個人的にはACIMというのは、40代、中年の転機以降に出会うべきものなのかな、と感じている。

人生の前半はエゴのもと社会的成功や夢や恋愛やいろんなものに興味を持って振り回されたり傷ついたりしたうえで、価値観が転換した中年期以降に出会うのが自然なんじゃないだろうか。

それとも、甥っ子はすでにこの世の幻想性を見越していて、それではなから執着がなかったりして。それも、またすごいが…。

夕方通勤客で込み合う渋谷でふとわれに返った。

16歳の甥っ子は迷走はするだろうが、若い、本人次第だ。心配無用。心配の必要があるとしたら、55歳になるわが身だ。気づくとACIMをタテに引きこもっている。

まあ、これもおいおい考えていこう…