2016-05-28
「私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。」
またこれまでのように、心の中に、怒りや恐れ、心配ごと、憂鬱感などとして感じられる「動揺」とその「原因」を探索する。
それから、それらについて今日の主題概念を、
私が、 について腹を立てているのは、存在しない何かを見ているからである。
私が、 について心配しているのは、存在しない何かを見ているからである。
といったふうに、当てはめる。
今日は、このワークに3回意識を向けるのが、やっとだった。
最初の十数個のワークは、時間もかからず生活への「負荷」も小さい。進むにつれ、次第にワークの内容が深くなりボリュームも大きくなり、ACIMを生活の中心に据えなければならなくなっていく。
今回はもう、やっとこさ、ワークをやっているという感じだ。この先、大丈夫か。
3年前のレッスン6では
ふと思いついて、2013年6月の初回ワークのレッスン6のメモを見てみた。
「私がおカネを稼げないことを不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」(‘_’)…なんか、今と変わんない。逆に言えば、同じような状態で生き延びていることが奇跡的にも思えてくる。
「私が高齢になった故郷の両親のことについて心配しているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについては、父は昨年亡くなり、状況は3年前とは大きく変わった。父との別れは私が存在しない何かを見ているからにせよ、私には大きな動揺であり出来事だった。それは今も続いている。
「私が今の生活が前進なのかそれとも退化なのか不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについても、今と変わらないというか…「前進」と「退化」が対義語になっていない気がするけど、この感覚そのものは、わかるような気がする。こつこつとACIMのワークをやっていても、それがゲンジツの誰かに役に立つことではないし、おカネにつながることでもないし、人には理解されないだろうし、私は、もしかしたら、現実逃避の言いわけにワークを使っているだけなのではないのか、という気持ちになることがある。
3年前の自分に比べたら、感情的に穏やかになったように思うけど、目に見えて変わったとも思わない。だけど、やっぱり進化している、自分にとっては前進だ、と思っているからこそ、また改めてやろうとしているんだろうな~
他の道はないし、無視して生きることはできないし。
これからもたびたび3年前の私のメモを見返して、変わったところ、変わらないところを見つけたい気がしている。3年ひと昔だな~