2016-05-31
レッスン9
今日の主題概念は、前の2つから導き出される結果である。
私は過去だけを見ている。(レッスン7)
私の心は過去の考えにとらわれている。(レッスン8)
⇒だから、私は、何も今あるがままに見ていない。(レッスン9)
この主題概念については、現時点では理解は求められていない。ただ、練習することが求められている。
私は、この本を、今あるままに見ていない。
私は、この扇風機を、今あるままに見ていない。
私は、このカレンダーを、今あるままに見ていない。
目についたもの全部を対象としようとはしない一方で、特定の何かを除くことも避けることという注意がある。
iphonのストップウォッチで2分に設定して、4回やった。
主演 兼 監督・脚本家
最近は何か心をかき乱すものがあると、「これは現実ではない。私の一部が見せている幻影にすぎない。これは私自身が見せているのだ」と心の中で唱える。
いらいらしたり不安になったりした際に唱えると、そのゲンジツに巻き込まれずにすむ。
私は大丈夫なのだ。なぜならこれは私が作っているのだから。真の世界には私を脅かすものはありえない。私が不安に思ったりいらだっているのは、私が幻影を見ているからだ。そう言い聞かせる。
私がひとりでいる時には、これはたいがいうまくいく。困った時でも、対象を客観視できるくらい心理的距離感がある時はOKだ。
だけど、病気の家族を憂う友だちから何度もメールを受けて、「私だったら、こうするけど…」と返信してしまった。アドバイスをすることは悪くはないだろうけど、繰り返しの泣き言に「私にどうしろと言うの?」とつい反応してしまったのだ。友人はおそらくただグチを聴いて心を慰めてもらいたかったのだろう。翌日気になり「ごめんね、余計なこと言っちゃったかも」とメールを入れた。
自分だけのことならば、これは現実ではない、と思い出すことは比較的しやすくなってきた。けど、人と関わるとすぐ巻き込まれてしまう。
もちろん友人がとっても悩んでいる時に、「それは現実じゃないんだよ」なんて言ったら、「こいつは何を言っているんだ?」となるだろう。もちろん共感することは大事だけど、それと、私自身が感情的にリアルでないものに反応して、それをリアルすることは別だ。それはエゴのものの見方だ。
厳密にいえば、この世界に、見えるままの「私」もいないし、「友人」もいない。友人もその悩みもまた私の中の「映画」の一部だ。
私は、この映画の主演俳優であり、かつ本映画の監督・脚本家でもある。映画の中の主人公はそれが映画と知らされた。でも物語は進みささやかながらもいろんな出来事に遭遇する。
起こってくることに主人公として対処しながら、ときに、これは映画、映画…、リアルじゃない、私が監督・脚本を描いた結果を中に入り込んで体験しているのだ、と思いだす毎日だ。すべてはゆるすために。
こういう生活している人、他にもいるかな~
独学だから、学び方、まちがったりしているのかな。