日々のこと・きもち

私にとってのサンタ

2017-12-27

クリスマスが過ぎると街(私にとっての街=スーパー)は一気に年末モードになる。

昨日までは、シャンパンやチキン、ケーキが主役だったところに、正月飾りやおせち材料が並ぶ。

そのたった一日での変化が鮮やかだ。日本の国民がみんなで、大縄跳びを飛んでいる感じ。

そんなクリスマスムードが一掃された昨日、ポストに赤い封筒を見つけた。

見れば、時々一緒にランチをする友人から。何かな?と見たら、クリスマスカードだった。

飛び出す絵本式にツリーが三重になっていて、小さなサンタさんがたくさん。そのサンタさん、ひとりひとりが「ありがとう」と言っている。

てっぺんのサンタは、

「なかよくしてくれてありがとう」

その下のは、

「そばにいてくれてありがとう」

それから、

「助けてくれてありがとう」

「話を聴いてくれてありがとう」

「やさしくしてくれてありがとう」

「はげましてくれてありがとう」

「見守ってくれてありがとう」

「あそんでくれてありがとう」

「ありがとう」

「ありがとう」

「ありがとう」…

 

ありがとうがいっぱいあった。

ひとり身の私はいわゆるクリぼっち。いつもクリスマスはちょっぴり心がさみしくなる季節だった。でも、今年はさみしさも感じなかった。

チキンとケーキとお寿司とピザとお酒を並べてひとりの夕ご飯。本を読んだりテレビを見たり、気楽で自由にしていられて、ハッピー♪ 強がりというのではなく本当にそんな気持ちだった。

でも、26日口々に「ありがとう」「ありがとう」と言ってやって来たたくさんのサンタさんを見て、やっぱりほっこりした。心が和んだ。

さみしかったというわけじゃない、ほっこりがたくさんになったのだ。

ありがたいな。。

サンタさんがみんな笑っていて、ピンチになったり落ち込んだ時に見たら、脱力してふっと笑ってしまいそう。

今年は、「感謝」が自分にとってのキーワードだった気がする。

感謝するということができなかった私が、ACIMワークを通して感謝することを改めて学んでいたような気がする。

だから、締めの時期になって、サンタがたくさん「ありがとう」をもって訪ねてきてくれたことが、ことのほかうれしかったのだ。

土を耕して種を植えていたことが、芽を出しちょっと育ったのかな、という気持ち。

もちろん、まだまだだけど。

でも旅の途中の一里塚としては悪くないんじゃない?と思う。

ありがとう、サンタさん。

そしてありがとう、わが友よ。ありがとう、あなた!

見た夢のはなし

2017-12-18

夢のはなしをした

「今年も残すところ二週間」とテレビのキャスター、アナウンサーさんが言っていて、「あぁ、そうなんだな~」と思う。「今年最後」の場で、「よいお年を」と挨拶を交わすことも多くなった。

今年最後のユング心理学講座では、私が見た夢を聴いてもらった。この講座では前半が秋山さと子著『ユング心理学』の読み合わせ、後半が受講者が見た夢を話す「夢分析」の時間となっている。

私は見た夢をはっきり覚えておれる質ではなく、断片的だ。

〈11月某日見た夢〉

女性(そんなに親しくはない感じ?仕事関係?)の女性とホテルに宿泊している。部屋に何か不具合があったらしくホテル側からしばらく部屋を移ってほしいと言われ、私たちは大きな荷物を置いたままで代わりの部屋に行く。

新たな部屋ではいつの間にか女性の彼氏が加わり、3人になっている。

ホテルサイドに何か事件があったらしいけれど、それが何かわからない。

なぜかその部屋にはトイレがなく、外に出たところにあるトイレを使うが、鍵が甘くて、何度か外から人に開けられてしまう。何度かめに思いっきりドアを引っ張ったら、ガチャンと音がして安心して用が足せた。

この鍵をちゃんとホテルが直すのを確認するまで帰らないぞと思う。ヘンな障害物ができていたりして元の部屋には戻れず、だったら荷物を持ってくればよかったと思っている。

カップルの方は困っていないらしく楽しそうにやっている。

先生の解釈やアドバイス

先生は私の夢を聴いて、

「自分の意志で部屋を代わっているわけじゃないのよね?」と確認し、自分の意志ではない移動が起こったというのは、私の心の中の何らかの不安要素を表すのだとおっしゃった。

そして「自分の意志じゃなくて場所を変わらなくてはならない」ってことで、思いつくことない?予知夢ってこともあるけど」とおっしゃった。

また、トイレの鍵が甘いというのは、個人生活の境界が甘くなっている、守りが不確か、夢でトイレが落ち着かない状態というのは自分の感情がうまく流せない状況を指すのだという。

私は、母が足が痛み出して歩行困難で、最近脊柱管狭窄症と診断されたことを思い出して、そのことを話した。

父が亡くなり高齢の母がひとり暮らしとなって一段と実家のことが気がかりになっている。そして、ACIMのワークの際、聖霊のメッセージを受け取る際などに、「故郷に戻れ」とアドバイスされている気がしていた。

それが聖霊の声なのか、あるいは私の罪悪感を反映したものかはよくわからなかった。しかし何度か聖霊さんのアドバイスを受けたような気がしていた。そして「実家に行っても、それで引きこもるわけではない、そこから発信もし、いろんな場所を巡るし今以上に活動できるのだ」とも、アドバイスされた気がしていた。

ただ私は、母が朝から晩までしゃべりっぱなしで個の空間がほとんどない実家に戻る決心ができなかった。また保守的な田舎でひとり身はきつい、隣近所のつき合いが濃い地域は苦手…などとマイナス要素を挙げ、「まだお母さんひとりで大丈夫、…まだ大丈夫」と先延ばししてきた。

講座で、内なる自己からのメッセージとして「実家に戻れ」と言われているような気がすること、でもそのアドバイスは自分の意に沿うものではなく耳をふさいでいるような状態なのだということを話した。

先生いわく、一緒に泊っていた女性は、私のシャドウ(もうひとりの自分)、具体的には母を指すのだろうとおっしゃった。そして部屋を移ったということは、私が親元へ移ったということの暗示。部屋を移ってから、女性の彼氏も加わったということは、活発な母の男性性が活性化しているのだろうと。

「でも、荷物は前の部屋にあるのよ。夢は東京生活の全部を引きはらえと言っているわけではないのよ」と先生。

そして、新しい部屋にはトイレがないという夢の状況から、「感情を安心して出せる個人空間は確かに整っていないようだけど、最後にガチャンと鍵をかけられているのだし、それを直すのだと言っているから大丈夫なのよ」とおっしゃった。

解釈のポイントと私の意識

私は途中から先生がおっしゃったことをメモしたけれど、少ししか書きとれず、またどうしてそういう解釈になるのかわからないことも多かった。

けれど、おっしゃった解釈のポイントは、

・もうすでに母の介護が始まっている。

・一緒に住んでも、環境を整備しつつうまくやれる。

・母のパワーを恐れるなかれ。

・ただ母は男性と女性の2倍の心パワーと心づもりして対峙せよ。

・東京の拠点を引き払う必要はない。

ということらしかった。

おそらく大事なのは、このアドバイスをどう私が受け取るかという点なんだろう。

私にとって何より大きかったのは、聖霊さんからのメッセージなのか?と感じていたことを、講座の中で話したことだ。これまでは「いや気のせいだ」と言えたけど、「よくわからないけれど、内なる心の声はこういうんです」とみんなの前で言ってしまった。

だから、まったくそのメッセージは、私の潜在意識から意識へとはっきり移ったし、先生や講座仲間にも共有された。

かといって、母とひとつ屋根の下に住む決心は未だつかない。近くにアパート等借りて住むことは母には意味不明らしく、それも今は選択肢にはない。

来年はどうなるかな?変化が大きな年を迎えようとしているのかな?

いずれにしてもACIMの学習者であることは変わらない。ほんとならば、それが変わらないのなからば、どこにだれといようとOKのはずだけど。

『奇跡講座(ACIM)』について話すのはむずかしい

2017-12-15

ワンコインイングリッシュ、今年最終回

ACIMのワークブックを始めてから、改めて英語に興味が湧いた。できるなら原書で読みたい。それに加えていつか海外のACIMのコミュニティの方と話をしてみたいという思いがあるから。

運よくNPO法人が主催している1回500円の英会話講座を見つけ、今年の4月から月2回通っている。先生は東ヨーロッパ系の美しい女性で、幾度も丁寧に日本人の発音のくせを直してくださる。月2回ではペラペラ話すというところまではいかないけど、少しずつ英会話に対する苦手意識が少なくなっている。いい講座と出会えた、ラッキー!~と思っている。

きのうはその英会話の今年最後の回だった。たまたまある受講者の方に声をかけてもらって、先生と私を含めた受講者と4人、隠れ家風レストランに行ってランチをした。

「神さまで戦争がなくなる?」

その日の学習テーマが「自分について語る」でそれぞれ自分の関心や経験についての英作文を発表したことから、その流れで、先生に「あなたが今一番関心があることは何なの?」といった質問をされた。

私は少しためらったけれど、iphonでACIMのサイトを見せた。

A Couese In Miracle.奇跡講座。

でも、ACIMについても「奇跡」についても、まったく説明ができなかった。

先生から「それは神さまと関係ある? あなたは神さまを信じる人?」と聞かれ(先生の日本語はややカタコト)、「はい」と答えたら、

「私、神さまを信じる人きらい!あ、ごめんね。でも、神さまに祈っても何も解決しない。神さまで戦争がなくなる?すべては自分と自分の努力よ。自分の力で切り開いていくものよ」と言われた。

私は「そうですね。私も自分の中の神さまを頼みにするのでOKだと思います」と答えるばかりだった。

母国を離れ7ヶ国もの国で仕事をしてきた先生には、特別に強い自負心(と、もしかしたら神さまへのアレルギー?)があるようだった。

私もはなから議論するつもりもないのだけれど、まじめに答えようと思ったところで、「この世は実際はリアルに見えるけれど、自分を映している投影であって、私たちは個々人であるかのように見えるけれど、ひとつであり神の延長であり…赦すことが何より大事で…」なんてことを、どこからどう説明してよいかもわからない。

人と場面を選ばないとやっぱり「頭は大丈夫か」と言われてしまうだろう。

奇跡ってなんだろう?

返りに日本人の受講者の方と二人になりフォローのつもりか、「奇跡ってどういうことだろう」と振ってくださった。けれど、「奇跡」という言葉の意味も、ものの見方の変容をさすACIMのそれと、「信じられないことが起こる」といった一般の「奇跡」ではまったくちがう。

それを説明しようという意欲すら持ち合わせず、ただ「『奇跡講座』の「奇跡」の意味も一般のそれとはちがうんで…」と、もごもごとつぶやき、言葉のキャッチボールのボールをぽとんと足元に落とすだけだった。せっかく話題を振ってくださったのに申し訳ない。

やっぱり『奇跡講座』のことを世間で話すのはむずかしい、と思った。(やっぱり、というけれど、これまで一度か真剣にトライしてみたわけじゃない。友だちに『神の使者』を勧めて読んでもらうところまでいったことがあるのが一度だけ。)

先生の反応は、自分の中のもうひとりの私のACIMに対する思いで、それを見せてくれたのかもしれない。

返り際に私に「奇跡ってどういうことだろう?」と言った方が、「量の質への転換かな?」とご自身の考えを言われた。それが哲学的でおもしろかった。

量の質への転換…。10回では何の変化もない。100回でもわからない。10000回でも変化せず。だけど、10001回で変化が起きる。それって奇跡ってたしかに言うかもしれない。

そういう意味では、一般でいう奇跡も、『奇跡講座』の通じるものがあるかも。

来年2018年のお題は、「奇跡講座を自分を通していかに一般向けにもっと広く表現していくか」というところかな、とふと思う。

早めのクリスマスギフト !?

2017-12-04

昨日、少し早目のクリスマスシャンソンショ―に行ってきた。

風邪気味でおまけに膀胱炎も併発したらしくトイレがやたらに近く、体調面はイマイチだったけれど、おいしいお弁当とケーキ(高級弁当、ケーキ&コーヒー付き!)をいただき、美しい生歌でぜいたくなひとときを過ごせた。

メンバーは、あるカルチャー講座の先生と受講生仲間。前回から一年ぶりにお目にかかって、「一年ってあっという間だね、年々短くなるね」と話した。歌い手のひとりの方も、肺炎にかかって1ヶ月も入院されていたとかで酸素チューブを手にしながらの熱唱。時の流れとそれぞれの変化を感じた。

去年は参加されたけど今年は都合で参加できなかった方とコンサートの前日にメッセージのやりとりをしていたら、「買い置きしておいた栗で栗ごはん作ったから、少しですが送りますね」と言ってくださった。

その宅配便が今朝届いた。

栗ごはん、きんぴらごぼう、かぼちゃ煮、八宝菜風の煮物、焼きそばなどなど。なぜかくまモンのおせんべいも入っている。テレビドラマの「田舎のお母さんの宅急便」みたいだ。

さっそく夕ご飯にお惣菜をいただいた。

栗ご飯も、きんぴらも、かぼちゃ煮も、お店の味とはちがう、家庭のぽっこりする味だった。

ほんとにおいしい。

風邪で自分で自分の世話のが面倒だと思っていたタイミングで届いたごはん。体にも心にも栄養が与えられ、ありがたかった。

ひとり身に冬の寒さと寂しさが染みると思っていたけれど、そうじゃないな。

人の優しさが染みる… だ。

クリスマスコンサートをご一緒した方からは、入浴剤やハンドクリーム・ヘアワックスといったプチギフトもいただいた。気が効かない私は、いただくばかりだった。

今年は、ひとり身の12月は苦手だとは言わないようにしよう。せっかく与えられている時間を楽しもう。

私もなにかお返しができるといいな。

おひとりさまは12月が苦手!?

2017-12-02

風邪引いた

昨晩電車で風邪をもらったのか、帰宅後のどがいがいがして、熱っぽい。体内で、風邪ウィルスと免疫システムがせめぎ合っている感じ。夜中にトイレに起きた時には、風邪ウィルスの方がのどを征服しつつあり、痛みと腫れがひどくなっていた。

明日3日は、私にとって唯一のクリスマスらしいイベント、クリスマスシャンソンショ―がある。すでにチケット代は同行者におカネを建て替えて購入してもらっている。何としてでも治さねば…と、薬を飲んで、ハチミツ生姜レモンを飲んで、朝からこっぽり布団に入って寝ていた。

目をさますと2時間くらい経っている。また目をさますと2時間。眠れる、眠れる。うつらうつらしながら、いよいよ熱が出ても食べ物を気軽にお願いできるような友だちも知人もいないな~とか、高齢、ひとり暮らしの母は雪が降る冬にもっともっと心細いだろうなどと、考えるでもない考えごとをしながら、寝ていた。

おかげさまで午後3時過ぎには、のどの痛みは少し治まり、明日出かけられそうなくらいにはなってきた。よかった、ほっとした。

クリスマスはストレス!?

昔見た表に、ストレスがもっともかかる人生イベントみたいなものがあり、1位が「配偶者の死」で、2位が「離婚」だったが、その中に「クリスマス」も入っていた。当時若かった私にはイマイチぴんと来なかったけれど、40歳すぎてひとり暮らしを再び始めてからは、「わかる」と思う。

大人になりきれず、わがまま、気楽に生きている私は、常日頃ひとりは楽だな~と思っているけれど、冬は寒さがしみて、やはり寂しい。街は、赤々とクリスマス色に彩られ賑やかで、みんなが家族や恋人に囲まれ豊かでハッピーそうに見える。その中であたかも自分ひとりが取り残されているかのようだ。

クリスマスの日に幸せな人とそうでない人の踏み絵が行われるかのようである。その幸せの基準は、恋人や家族の有無と豊かさ、健康なのかな?もちろん、それは私自身が思っているモノサシだ。

明日行くクリスマスシャンソンショ―は、そういう私の「自衛策」だった。一昨年から同じメンバーで行っているが、私にとっては、チケット代12,000円は高額だけど、クリスマス期に聴くシャンソンは物悲しくも癒しであり、おひとりさまのクリスマスを、えいっ!と飛び越えるための目くらましみたいなものでもあった。

一昨年は24日、昨年は21日だったけれど、今年は会場の空きとメンバーの都合の兼ね合いで、3日。クリスマスストレスの自衛としては、やや早すぎるかな?第4週あたりに、別の目くらましが必要かな?

ACIM学習者にとってとくべつな日

クリスマスといえば、『奇跡講座』を伝えてくださったイエス・キリストの誕生日ではないか。「誕生日」という概念が特別視されるものではなくても、クリスマスはやはりとくべつの日だと思う。

それをACIMに思いをはせるのではなく、ひとりぼっちの孤独感のほうに引っ張られている私。クリスマスに反応するような歳でもないだろうに。学習者としてはえらく未熟もんだよな、と自嘲してしまう。

今週、数ヶ月に一度通っている病院の診察に行った。えらく混んでいる病院で受付から検査、診察まで3時間以上かかる。なのでACIMと出会うきっかけとなった『神の使者』を持っていき待合室で何度目かの再読を始めた。

改めて読むと、今まで気にならなかった箇所が響いてきたりして、また「いい」と思う。

今年の冬は、また原点に戻って『神の使者』『不死というあなたの現実』を読んで心静かに穏やかに締めたいと思う。

ともかく風邪が和らいできて、あと少しというところまで来た。よかった。明日早めのクリスマスイベントを楽しんでこよう。

ACIMからしばらく離れた、戻っていこう

2017-11-27

ひとりが身に染みる

たった四日間の母の滞在だったけれど、その後やや調子を崩していた。

ふだんひとり暮らしの私にとっては同じ空間にずっと誰かがいるというだけでストレス、それが非日常のワクワク感と相まって、ずっとテンションが上がったままだった。

その上がってしまったテンションが母が帰った後もすぐには通常に戻らず、またようやく気が抜け出すと、上がった後の揺り戻しなのか、ぼーっとして動きづらかった。

そして、心の内では、短い期間だけれど母とずっといることで、この世の現実感をいつもよりぐっと強く感じ、同時にACIMの世界観が遠ざかっていた。

すがすがしい晴天の空、母を新幹線で見送った帰り道、この東京で私はひとりなのだなと強く感じたのだ。

みんなが大切にして紡いでいく家族というものを、私は作れなかった。老齢の母はいつまで元気でいてくれるだろうか。私はこの人生で何をやっていたんだろう、何やってるんだろう、といった思いがぐるぐるした。

人生とは、愛する人と出会い子どもをなして、愛する子どもを育て家族を作り、その中で笑ったり泣いたり、いい事もそうでない事もあって、老いていずれ子や孫に未来を託してこの世を去る、そうした営み。

それがまっとうな人生で、私はやっぱりできそこないじゃないか…

おりしも、季節はクリスマス商戦の真っただ中。クリスマスソングがやけに身にしみる。

ACIMはこの世からの隠れ蓑?

私はこの世の現実から遠ざかりたくて、ACIMをやっているのではないか。時々思うこの疑惑がまた湧いた。

私はこの世で幸福の証明とされているものは何一つ持っていない。ACIMやACIMワークはこの世の価値観から身を引きたい自分のための言い訳のようなもので、この世で「勝ち組」で「幸せ映え」するものさえ手にしていたら、ACIMを見向きもしなかったんじゃないか。そう思えた。

だけど、今ようやく、ひとりの時間に慣れて平常心?になってくると、

ACIMの見方こそがやはり正しいと思える。

この世の楽しいことも、もちろん、味わっていい。私たちには五感があり感情がある。日々の小さな、あるいは大きな出来事もある。それを感じないでいるというのは不自然だ。

だけど、それはそれ。真の意味でリアルではない。やはり、私たちが回り灯篭に映している映し絵のようなものにすぎないのだ。

おいしいものはおいしい。お母さんは愛しい。私は気兼ねなく旅行できるくらいのおカネのゆとりが欲しい。健康で若々しくいたい。

これらはぜんぶ本音だ。

だけど、私の根幹にはもうひとつの、本音というか真実がある。

God is.

神は在る(それ以外はない)。

そして、私は神が創造したままの私である。

 

これを思い出しながら、また中断してしまったワークを再開したいと思う。

2017年秋、母との時間

2017-11-22

母が来た

先週土曜から三泊で母が上京していた。先月『日曜美術館』で運慶展の特集をやっていたのを見て、ぜひ生で見たいと興味をもったのだ。

母は好みがはっきりしていてストライクゾーンが狭い。私はなんとか母を満足させたいと、好きそうな建築や庭のコースを考えランチの店を予約し、わが家でのメニューを考え…、と段取りしていた。

しかし、来る前に足を痛めそれが回復していないとかで、杖をついてやってきた母は、私が想像していたよりかなり重症で50m歩くのも辛そう。ゆっくりゆっくり普通の3倍位のスピードで杖を頼りに歩く。

よく来たな。私だったら直前でも取り止める、と思う。筋肉痛だと思っていたものが良くならないどころか悪化したのだと言うが…

何とかランチを予約してあったお寿司屋さんまでは辿り着いたものの、観光できる状況とも思えず、予定変更し、連日、前回の上京でもお世話になった整体の先生に予約を入れて診てもらった。

そんな状態でも、「運慶展」だけは行くと、日曜、上野公園の国立博物館まで行って大混雑のなか40分待ちの列に並んで、見てきた。好奇心が強いというか根性があるというか…。あと、お茶のお稽古に持っていく○○という和菓子のお土産を買わねばならない、と見栄をはりたいあたりは、まだまだ生命力があると安心した。

母は私とちがって外交的でおしゃべり好きで、朝目覚めた瞬間から夜眠りにつくまで口を閉じるということがまったくない。ほとんどは「○○という番組に出ていたあの○○の弟って誰やったっけ?」みたいな質問、「この器の色、料理に合わないね、もっと○○だったらいい」とみたいな意見と「どの駅降りるの?」という類の質問だ。

私は、母に優しくしたい、満足してもらいたい、と思う一方で、目先の質問攻め、意見攻めにはたちまち辟易してきて、「さあ」「知らん」「そうやね」と流してしまう。引きこもりの私には、人との会話は3時間くらいが限界なのだ。

かつて憎んでいた母が今、小さくなって目の前にいる

その昔母は156㎝の私より10㎝も背が高い、色白美人だった。頭が切れ店を仕切るキャリアウーマンであり、母は私にとっては「私にまちがいはない、言うとおりにしなさい」と叱る絶対的権力者だった。私は支配的暴力的な母が大きらいだった。

在る日いきなり勉強部屋に現れた母が、なぜかわめきながら雑巾で私の顔を何度も拭いた。三世帯家族でたまったストレスを子どもにぶつけたらしい。

その時私は「覚えてろ。いつか私が大人になり力関係が逆転したらぜったいにこの仕返ししてやる」と心に誓った。子ども時代の記憶はほとんどないけれど、その瞬間のことは覚えている。

その母が、私より小さくなり皺くちゃのおばあさんになり杖をつき、歩くのもままならない様子で目の前にいる。

ふと「盛者必衰」という四文字熟語を思い出した。母だけでない、この世で移り変わらないものはない。

この瞬間、自分が母を憎んだり恨んだりしていないことが救いだ。無意識ではわからないけれど、私が感知できるかぎりは憎しみは消えている。

逆に、とてもとても愛しいと思う。

それだけで、私の人生はWINだと思える。それだけ自分のなかで母の存在と母への感情が大きかった。

母はわが身の投影

もちろん、ACIMを学んだ今、母はわが身の投影だとわかる。他のことと同じ、幻影でありゆるすべきもの、手放すべきものだ。手放すからこそ、私自身が贖いゆるされる。

しかし、この母への思いは何だ。恨み、怒りはない。あるのは、愛しさと強烈な執着心だ。

憎んでいたのは、叱られ甘えられない、認められないことに対する反応だったのだと思う。50も半ばを過ぎた今、「認めてもらいたい」「褒めてもらいたい」と幼い頃出せなかった気持ちを溢れさせている自分がいる。

その甲斐あってか、今回の滞在で

「どこで食べるより、あんたが作ったものがおいしい」と母。料理下手な私は、おいしいと評判の鍋つゆやあえ物のペーストを買いこみ、それで鍋や茶わん蒸し、春菊の胡麻和えを作っただけなのだけど、それでもとってもうれしかった。

また一方で「あんたに子どもがいたらよかったんだけど」とつぶやく母に、「ごめん」と心の中で答えて肩を落とした。

母への執着心とACIM

母の滞在中ずっとおしゃべりしている母に、ACIMのワークのことも、その考えもすっかり忘れていた。

私がACIMワークが細々とでも続けていられるのは、ひとり暮らしの孤独からで、家族がいて家族との生活があったらその必要性すら感じないのかもしれない。

家族と住んでいたらACIMワークをやりたいと思っても、自分だけの時間とスペースを保つのもむずかしいだろう。

私はACIMワークを続けACIMを細々とだけど学んできたと思うけれど、母をゆるせてはいない。許せてはいると思う。が、それはACIMのいう赦しとは異なる。

感情の向きが憎しみ・恨みから愛しさへと逆になっただけで、手放すどころか、強い情と執着心をもって、幻影をリアルにしてしまっている。

いつかその母とも、この世での別れが来る。今はそういうことを想像できないし、したくない。

今の私はまさにエゴトラップに引っかかっているのだと思う。

私が赦されるのは、こうした母への執着を手放すからだ。それがACIMの学びだ、と思いながらも、今は感情の波に翻弄されている。

そして、もう少しだけ、その波に漂っていたいようにも思う。

ゆるすことを勉強中

2017-11-13

当マンションで大型修繕工事案が計画中

私は今、住んでいる古マンションの管理組合の理事長だ。

役員は順番制だけど高齢化率が高く、賃貸に出して実際には住んでいない人は除かれるから、4年に2年くらいは役員が回ってくる。そしてなり手がいなくて、今は「理事長」。私だってヤだけど、拒みきれなかった(>_<)

もうすぐ築40年に手が届く古い建物で、前回の大型修繕からもう15年近く経っていて、そろそろ大型修繕が必要…

ということで、管理会社の勧めで無料建物診断をしてもらったが、やはり「早急な対応」が求められるとのことで、大型修繕工事の事案が上がっている。

排水管もしょっちゅうどこかで水漏れしていて、どうせなら大型修繕と排水管更生工事を両方やってしまおう、という方向に進行中だ。

問題は、修繕積立金がまったく足りないこと。概算で2,000万円以上借入が必要。住民のなかには、すべてにヒステリックに反対するタイプの方もいて、決まったとしても難航しそう…

役員以外は、無関心を決め込んでいるのか、建物の無料診断説明会や工事やその際の借入の必要性の説明会にも、役員とそのヒステリックな反対者以外はほどんど出席なし。

ただ管理会社の担当者は、他のことはなかなか動いてくれないくせに今回はやけに積極的。公募する修繕業者がなければ管理会社推薦の業者で進めることになるが、そうしたらよっぽどいいことがあるのか、、前のめり姿勢だ。

こんな多額の借金をするのに、表面的な形式だけは踏んでいるけれど、それでいいのかな?皆さん、説明会に参加されていないけれど、どれだけ理解し、納得しているのかな、と気がかりな私。

「見積もり参加業者の募集」!?私まだ確認してないよ

そんななか、「11月末までに工事業者を推薦ください」と理事長名(つまり、私の名で)業者募集がポスト投函されているのを見つけて、びっくり。管理会社の担当者の方が、作って出したものだ。

私は、なんとなく話はしていたものの、「11月末までに工事業者を推薦」の条件と締切はまだ話し合いをした上で進めるつもりだった。

なんかいやな気がした。何がどういやなのかはわからなかったけど、急にドキドキしてきた。

少し時間が経ってから考えてみたら、私に書類を確認することなく、物事が進められていることに、“強引さ”を感じ、それに恐怖と怒りを感じたらしかった。

恐怖は、形式上の手続きだけはとっているけれど、住民のみんなは説明会に参加もせず、どれだけ工事について理解し了承しているのか。充分に納得しないまま、私の責任で大きなおカネを借りることと、それで工事をすること…だった。

怒りのほうは、「見積もり参加業者の募集」書類は、やっぱり私に最終確認をしてからにしてほしかった。なんか甘く見られているのかな、と感じ、自尊心が少し傷ついた。

私が矢面に立たされているのに、自分のコントロールを超えて事が進む感じがいやだったのだ。

ACIMでは、この世の幻想性を見抜き、それを赦すことを学んでいるはずだったけれど、私はただこの世から逃避して、この世での力だけを弱めているようにも思える。実際に「問題」が起こった時、「これは幻想だから」と逃げているだけで、その対処法がわからない。

私の恐怖と怒りをゆるす

今朝のワークで、このことをイメージしてみた。

これも、またやはり幻想にすぎない。

何かがあって→ 私が恐怖と怒りを感じたのではなく、

私の心に恐怖と怒りがあって、それが存在を私に主張している。

…だから、このことが起こっているのだ。

だから、このゲンジツに対処は必要だけど、それは派生して出てきたこと。元である私の恐怖心と怒り(神からの分離という誤解に由来する)こそ、幻想だと見抜いて赦すことが必要なのだ。そう感じた。

私が恐怖と怒りをいただいたまま、管理会社にアプローチしてもうまくいかないだろう。

まだざわざわがあるけれど、それを治めてから、具体的な行動を決めたいと思った。

生きるのは、この地に足をしっかりつけて踏ん張るようなものだと思っていたけれど、今は自分の人生映画のスクリーンに現れてくることに「私が作っている映画だよ」を思い出すようなもの、になっている。

携帯会社をauからマイネオに変えて、固定費節約

2017-11-03

auからマイネオに

世間は三連休で、車も少なく町の空気が緩んでいる。

お天気もいい。

冬になる前のおでかけ日和…ドライブに最高の日だな。

携帯会社をauからマイネオに変えた(乗り換えっていうのかな)。新プランはデータ通信(3GB)+通話のプランで1,510円だけど11月9日まではさらに1年間毎月900円割引の大盤振る舞いキャンペーン中だから、向こう一年は基本の料金が410円になる!これは大きい。

auサイドには違約金を払わなくてはいけないけれど、もうすぐ2年間の割引きがなくなりぐっと電話料金が高くなる予定だったから、やっぱりマイネオの方がかなり安い。移行できてよかった。

ひとりでなんとかできた!

機械、通信関連にめっぽう苦手意識がある50代のひとり暮らしの女(あえておばさんとは名乗らない)が、あれやこれやネットで調べ、MNP(携帯電話番号ポータビリティー)の予約番号を取り、これを買えば事務手数料を無料にできるとかいうワザを使いエントリーコードを買い、自分でsimカードを交換して、カスタマーセンターに2回も電話して聴きつつ通信設定して…、と、四苦八苦する様はなんともキュートではないか、と自分で思う。

最後まで設定できて、電話、ネットともつながった時には、達成感を感じた。

わたし、ひとりでも、できた!

しかし、便利な世の中というかなんというか、こうした移転手続きやエントリーコードを買って受け取るのも含めて、家にいながらグーグル先生だけを頼みにしてできるのだから。

コミュニケーションにやや難ありの私には大助かりだ。本来ならば、コミュニケーションする相手もわずかなのだから、電話の機能だけでみれば私には必要ないくらいだけれど。これはもう電気や水道と同じく社会のインフラになってしまっている。ネットも地図もたいへん便利だ。そうそう、ACIMワークの時も、You Tubeの瞑想音楽をよく使っている。

ACIMから見たら節約はmeaningless

こうした「節約」は、ACIMから見ればまったく意味のないことだと思う。文字どおりmeaningless。

この世のゲーム内でうまくやることではなく、その幻想性を見抜いて、そこから抜け出すのがACIMの教えだから、ゲームの中のゴールドだか、ギルだかルピーが増えようが減ろうが、本来は関係ないはずだ。

それどころか、そのゲーム内のことに熱くなってしまうことは、それをリアルにしてしまうことだから、ACIMに逆行することだともおもえる。

でも、でも、今は、

自分で何とか手続きできたこと、と、

月々の携帯電話代が大きく節約できそうなことに、

ちょっぴりテンションが上がっている。

けさのウォーキングで

2017-11-01

自分のなかのホーリースピリットを意識する

さわやかな小春日和というのかな、空気はひんやりとしつつも空が澄んでいる。寒い、寒い、と体を堅くする前の穏やかな陽気。慌ただしい師走の前、心を旅させるのにもいい季節かもしれない。

私は最近のワークでは、主題概念のワークの前に、 自分の中の「死なない部分」とその性質をイメージするということをしている。

無限にやさしく…無限に感謝にみちて、無限に神聖で…無限に誠実で、無限に喜びにみちて…無限に穏やかで、無限に豊かで…。

「私の中の死なない、神聖なところ」…最初は短かったイメージが、長くなり最近は7つもの形容詞を並べるようになった。きれいごとに聴こえてもかまわない。この私ではなく、神の似姿のことだから。

「自分の中の死なない部分」とは、死を恐れている私が、実は私たちは体ではなく霊なのだと自分に宣言し、自分の心の奥底に住まうホーリースピリットを意識する、フックとなることばなんだと思う。

ホーリースピリットそのものを意識するより、こっちの方がイメージがしやすくて使っている。実際の私ではないから気がねなくイメージを飛ばす。

この世で住まう、体を持った私も、暗示効果で少しでもそうなったらいいな、という思いもある。

日常ではぜんぜん…まだまだ

でも、けさのウォーキングで、自分はその性質からはえらく遠いと、改めて気づかされることがあった。

一週間ぶりのウォーキング。車一方通行の狭い道で、黒い服の若い男性がふらつきながら向こうからやってきた。

お酒に酔っているのかな、そうじゃないのかな、千鳥足みたい、足元がおぼつかない。道の脇の家の門にぶつかったり反対方向に大きくよろけたりしながら、こちらに向かってくる。

ラリってる!? 危ない人?…と思った。

私の前には杖をついてとぼとぼ歩く小柄なおばあちゃん。

このままではふらついたまま、おばあちゃんを巻き込んで倒れてしまう!…私は、その男性とおばあちゃんの間に入ろうと歩幅を大きくした。

…、とそのおばあちゃんが、男性に話しかけた。

「だいじょうぶ、あーた。具合わるいの?」

私は、一見危なそうに見える男性におばあちゃんが話しかけるとは思っておらず、びっくりした。

男性は「あ、だいじょうぶ…コンビニすぐそこだし…」

おばあちゃん「シャッターに手を添えたまんま歩きなさい」

男性「は…い」

私は勝手に男性を見た目で警戒したことを恥ずかしく思った。そして、おばあちゃん、えらいな、と思った。

おばあちゃんと私は、目が合う。安堵の表情。

おばあちゃんの隣からお顔を覗いて「やさしいですね」と声をかけた。おばあちゃんは、「な~んも、だれんでもおんなじ」と。

その瞬間、向かいからフルスピードの自転車。おっさんが私に、

「前見て歩け、このあほーっ!」と罵声を浴びせて走り去った。

私はとっさに「すいません」と言ったものの、ただ並んで歩いていただけ。私のほうがすごく危ないことしてたわけないじゃん、と憮然としてしまった。

「な~ん、だれんでもおんなじ」と体から優しさがにじみ出るおばあちゃんと、人を見た目で警戒したり、ささいなことにも赦すどころかムッとしてしまう私。

日々のワークが日常に現れるには、まだまだ時間がかかりそう…と思うのだった。

2つの「不安」と、現状維持

2017-10-27

ちゃんと稼いでないまんまだ

今朝、久しぶりにウォーキングに行った。18日からずっと行ってなかったから、9日ぶりだ。

週末はまた台風が来るらしいけれど、今日は秋らしいすっきりとした空気で気持ちよかった。最近メンタルがいまひとつ、のように感じていたけれど、ずっと雨続きだったこと、ウォーキングに行けてなかったことにもけっこう左右されていたのかな、とふと思った。

メンタルがいま一つなのは当然といえば当然。生活費をちゃんと稼ぐということができていなくて口座から補てんするような生活をしているから。不安があるのは当然だ。

それでも求職も同時期にフリーランスのほうの仕事の声かけをいただきタイミングを逸した感あり、ACIMでは「計画を立てることは防衛である」といった件もあって、それらを口実に「まあ、もうしばらくはいいか」と先延ばししてやりすごしている。

普通なら、「大変じゃない!すぐにでも仕事探しなさいよ」という状況で、一見余裕を見せられているのはACIMの存在のおかげなんだけれど、世間はそれを学習とは見ないだろうし(当然だ)、それよりも「退化」あるいは「病んでいる」と見るだろう。

そういう意味では「衰え」と「病み」が深くなっている。

まちがって学んでやしないか

もう一つの不安は、ACIMを独学で学んでいて、本人は忠実に学んでいるつもりだけれど、どこか間違っていやしないか、心理的な迷い道に入ってしまってないかというもの。

これも、もっと他の方の参考書籍などを見た方がいいのかもしれないけれど、逆に「人」のフィルターごしに見ることでその方の解釈とACIMの考えが混ざって考えが揺らいでしまいそうで、これも判断を後回しにして、現状継続でしばらく続けようかと思っている。

すなわち、中央アート出版社刊の『奇跡講座』のテキスト、ワークブックを大畑学さんの精読版を参考として独学していく方法だ。

「夢」

こうした不安は、不安や恐れをもつこと自体、エゴの発想だからと、人にグチとして出すこともできずに、くすぶっている。毎回のワークのたびにうち消したり流したりしているけれど、でもやっぱり、ある。

東京都の講座で、ウェブサイトを作るためのHTML5とCSS3を習ったりして、なんとなくサイトづくりの方法がわかった(つもり)。サイト管理ソフト、ドリームウィーバーも前に買った。

雇用されて時間で働くのは苦手だから、今さらだけど、ネットショップみたいなものや、パソコンを使った何らかの方法で収入が得られたらいいな、そうすればいずれ高齢の母が一人暮らしをする実家に戻ることがあっても、いくらかの収入減になるし。そういう思いがずっとある。

それだから、ウェブサイトづくりの基本も勉強したいと思ったわけだけど、じゃあ、そこで何を扱う?となると、具体的にイメージできない。

ACIMをこつことゆっくり勉強しながら、生きていけたらなぁ…

漠然と思う。そんなことしか、考えが巡らない。

それだったら、今もやっていることだから、「夢」が実現できていることになる(・・;)

そう思うと、先には変化が待ち受けているだろうけれど、今のこの時は貴重だと気づく。

今日は秋晴れを感じたい。

ワンコインイングリッシュで英会話勉強中

2017-09-27

復習Ⅳを終えてレッスン151へ

『奇跡講座(ACIM)』ワークブックは、復習Ⅳを終えてレッスン151へ。

これがまた長文!で、英語読みに喘いでいる。

せっかく吟味された和訳があるんだから、何も英語で読もうとする必要はないんだけど、原文を横において和文と見比べながら読むと、ACIMを勉強したという満足度が上がる。これって、勉強というより趣味だな…。

ACIMを勉強しだしてから、英語の勉強への意欲も高まった。

何といってもACIM発祥の血はアメリカだし、全世界の学習者とコミュニケーションできるとしたらそれは英語を通してだそう。いつかワークショップにも参加してみたい。

読むのはなんとか英語と和文翻訳、あと大畑学さんの精読版でやっていくとして、話すのをなんとかしたい。

日本のこれまでの英語教育の弊害かな?文章は読んでなんとなく意味がわかるとして、しゃべる方は、まったく話せない。悲しいかな、

Hallo!

How do you do?

This is a pen.

のレベルで止まっている(>_<) 英会話スクールに行きたいけど、月謝は払う余裕はないし…。

ワンコインイングリッシュ

そういう私だったけれど、4月から英会話を習っている。地域のNPO団体が主催で月2回やっているもの。

これが素晴らしい!

先生はネイティブの美しい女性。1回1時間半でワンコインの500円。

電話、レストラン、道案内など、実践的なシチュエーションでの会話を毎回練習している。

これまでに英語の授業のほか英会話スクールでも習ったことがあるけれど、いちばんいい。何よりRとLの発音など基礎の基礎にこだわる先生だから。

「日本人の英語は土台がしっかりしていない。基礎がない上にどれだけ高い建物を立てようとしても崩れちゃう」とおっしゃって、しつこく何度も基本をくりかえしてくださる。

そして、クラスにいる全員に順番に話させるところもいい。

せっかくのいい講座。復習しないから、二週間でまた元のレベルに戻ってしまって活かしきれていないのが反省点だけど。

よいものは高い、と思い込んでいたけれど、そうとは限らないと実感。

よい英会話の講座に出会えたことに感謝!!

いつか、ACIMを学ぶ外国人と英語でと話してみたいな~。はてしなく遠く思える。密かな野望…

いろんなかたちの恐怖と、それを赦すこと

2017-09-15

再びのミサイル発射と恐怖心

今朝7時、北朝鮮がまたミサイルを発射した。

初秋のさわやかな風を感じながら、ウォーキング中、信号待ちでスマホのニュースを見たら、このニュース…!今度は北海道上空を通過って…。

だけど、びっくりした…と同時に慣れっこにもなりつつあった。

「日本を核爆弾で沈める」「米国を焦土化」…昨日北朝鮮が発表した声明もさらに過激になっている。どういう勝算シナリオがあって、こんなこと続けるんだろう。金正恩の心がアメリカに対する恐怖と羨望でいっぱいなのはわかる。いったい、若い指導者は北朝鮮の国民を連れてどこに向かおうとしているのだ。

そして、これは私自身の投影でもあるのだと思い出す。

私の人生に映し出されるすべてのことは、赦すためにあるという、ACIMの教えを思い出す。恐れは、その心が恐れたものをその心にとって実在化して、恐怖をさらに大きくしていく。百害あって一利なしだ。

わかっていても、恐れている心は恐れに飲み込まれる。恐れるがあまり、思考停止に陥ればもっとも愚かな行動をとってしまう。小さな不安からパニックまで対象や大きさはちがっても、恐れの本質を知ってそれを手放すというというのは、私たち人間にとって大きな普遍的テーマだ。

聴いてもらって楽になった

一昨日は、月1度のカルチャー講座、ユング心理学の日で、講座後、先生と受講者みんなで喫茶店に行き夕ご飯を食べた(みんな、といっても4人だけど)。

雑談のなかで、私はついついフリーランスの仕事が減ってこのままでは生活が回らないことや、最も難度が低そうな近所の小さな会社の在宅仕事に応募したけれど面接まで至らず落ちたことなどなどを話した。

これも不安や恐れの気持ちが根底にある、いわばグチだから、誰かに話すことは、「それを自分が認め、リアルにしてしまうこと」で、良くないこと、慎むべきことだと思っていた。だから、話すこと自体がなかなかできなかった。

だけど、話をして聴いてもらったら、なんだかスッキリ、楽になった。堅かった心がほぐれたというか…

話していくうちに、ずっと前から経済的に不安定ながら細々とでも奇跡的に回ってきたこと、必要な時には必要なものがただで手に入ったことなども思い出した。

先生は、私がずっと『奇跡講座』を勉強していることを知っておられ、「あなたケチよ、わかちあいいなさい」とおっしゃった。また私のことを「自閉ね」とも。(いろいろ言われたけど、それだけ覚えている)。

ケチ、自閉…というのは、そんなに自分が素晴らしいと思っているACIMをただ密かに内に籠って勉強していることを指しているのかな?

その日は久しぶりに自分の感情を話したので、テンションが上がってしまい、いただいたアドバイスをちゃんと聴くということができなかった。そもそも人と要件以外を話すこと自体が久しぶりでもあった。

でも、よくわからないけれど、帰りには、ゆるく甘い私の話を聴いてもらって、何だかうれしいな、ありがたいな、という気持ちになっていた。

そこに愛とかわかちあいとか、感じた。

次のお題は、自閉を脱し、自分の本音をわかちあうことかな。

私にとって手放すべき恐怖は、経済的不安というより、人と触れ合いわかちあうことへの恐怖なのかもしれない。

2017-09-10

あこがれはネットビジネス!?

土曜日は前週、昨日とパソコンのウェブサイト管理ソフト「Dreanweaver」の講習だった。3日間コースだから来週で終わりだ。

引きこもり傾向のある人ならだれでも一度はインターネット経由で収入を得ることを考えたことがあるんじゃないだろうか。こもる傾向のない人でもいるかもしれない。

私は十年位前から「ネットでビジネス」に関心があり、何をやるかのアイディアはないけれど、ホームページをさっくり作れるくらいにはなりたいな、と、HTMLやCSS、Dreanweaverなど東京都の安い講習を受けている。

今回の講座、実は去年もおととしもこの講習を受けた。でも全然使いこなせるようにはなっていない。同じ講習を何度も受けるのは恥ずかしいと思ったけれど、身についていないのだから「講習の恥はかき捨て」とばかり、また紛れこんだ。

講習を受けている時は、操作についていくのが精いっぱい。ついみんなから遅れ、手を挙げて補助の講師の先生を呼ぶ。反応が人一倍遅い。

スキルはあとで自分のサイトを作るなどして復習しないと一生身につきそうにない。できる人は独学でもどんどんやっていくから、単にセンスがないのだろう。

働く場所や時間に制約されない収入のしくみが欲しいな、と思いながら、そのための試行錯誤もせずに、もう何年も経ってしまっている。

毎年のように受けている講習でも説明される内容が変わってきていて、ネット社会もどんどん変化していると感じる。

もしも技術が身についたとしても、ネットを使ってそこから収益を得られるようになるまでにだどり着けるかな。収益を得るのは無理でもホームページだけは作れるようになりたいな。

求人の方は先週住んでいる町内の「在宅ワーク」の募集を見つけ、とりあえず申し込んでみた。時給でなく出来高で働く仕事。もしかしたら、年齢で落とされ、面接までもたどり着けないかな。

中高年のひとり暮らしの方々のブログを読んでいると、「みんな頑張っているな~、えらいな~」と思う。私はこれまで恵まれていたとも気づく。

常に欠けた部分を見て不安や心配を感じてしまうけれど、こうしたことを赦し、今を喜びたいと思う。

日々のワークの追加版

2017-09-07

最近、日々のワークの際に一緒にやっているのが、

1.自分の中に「絶対死なない部分」を見つけること、と、

2.祈りの瞑想、

3.プロセス

だ。長い時間をかけるわけではなく合わせても数分。順番はこのとおりではなく、3→1→2とでやって、それから日々のワークへと移ることが多い。

1.自分の中に「絶対死なない部分」を見つける

自分の中に「死なない自分」を見つけるとは、へんな言い方だけど、7月ごろから私が勝手にやっているワーク(?)だ。心の中のホーリースピリットの住みかをイメージしようとしてやりだした。

レッスン143のダイアリーにも書いていたけど、やっているのは次のとおり。

目をつぶって自分はそもそも身体ではないんだ、死なない、身体はいずれ滅びても自分の中には「絶対死なない部分」がある、と考える。

そして、その部分を自分の内に探す。ぴったりそうかなと思えなくても、ここがそうかな、と思うところを見つける。

それから、その部分の性質を考える。それは、神の子である私の本当の性質だから、神と同じようだろう。

私の場合は、①無限にやさしく、②無限に感謝に満ちて、③無限に誠実で、④無限に穏やかで、⑤無限に喜びに溢れ、⑥無限に豊かだ、と感じる。最近、⑤の「無限に喜びに溢れ」が加わった。これ以上長くならないようにしようと思う。

この性質は今の私の性質とはちがっていてもお構いなし。神の子、私の理想形であり、本質なのだから。

それから、この性質を十分感じ、それとはそぐわない今の自分の部分を削ぐ、流す、手放すイメージをする。言葉はいろいろ、それぞれみんな自分が腑に落ちる言葉があるのかもしれない。

これを今の復習Ⅳは朝と夜にワークがあるから、その時に一緒にやる。そうすると、気持ちが落ち着く。

おそらく私が「自分の中の絶対死なない部分」を探すきっかけは、私が死を恐れているからだと思う。だからこそ、私は身体ではない、肉体の死は服を脱ぐようなもので死はないのだ、と思いたいのだ。

いつかホーリースピリットの見方がしっかり身につけば、こういう考え方は必要なくなるのかもしれないけれど、今は自分が何者か、どういう者か思い出すのに役立っている。

2.祈りの瞑想

2の「祈りの瞑想」は『神の使者』で紹介されていたものだ。検索してみたら、今年の7月28日のダイアリーに書いていた。

今、自分が「困った」「問題」だと思っていることに囚われてそれをこじらせてリアルにしないように、それを神の祭壇に委ねてしまう方法だ。その「問題」の答えはある時、ホーリースピリットの導きによって直感や目にする本や人からの情報、ネットなどからもたらされるという。

繰り返しになるけれど、やり方はざっとこんな感じ。

①ホーリースピリットとともに内なる神の祭壇に行く(イメージをする)

②自分の問題や目標や、偶像を、贈り物として神の祭壇に捧げる。心の外に出し、自分は忘れる。

③神に深い愛と感謝を捧げる。神とひとつになる。

④その喜びを感じる(祈りの瞑想の一次的効果)

⑤その後に、ふと、自分の問題や目標についての、解決策や方策のヒントが与えられることがある(祈りの瞑想の二次的効果)。

3.プロセス

3の「プロセス」は「ザ・マネーゲーム」から脱出する法で紹介されている方法。

この本は『奇跡講座』関連書籍ではないのだけれど、私はこの本を副読本としている。すばらしい本だと思う。

考え方がACIMとすべて一致しているわけではないけれど、この世が実は現実ではない、そこから抜け出すことで自分が作っている制約から自由になれるという考えは共通するものがある。

そして、この世界の幻想性を破る手法の一つとして「プロセス」を紹介している。私は「赦しの実践」に、この本のやり方をアレンジしてやっている。

「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』については、また別の機会に書きたいと思う。

以上、日々の瞑想ワークのアレンジでした。やり方なんて自分でも意識しないうちにしょうっちゅう変わっちゃうから、とりあえず「今」を記録。。。

← 戻る

←古い記事を見る 新しい記事を見る→