2019-04-24
故郷での老母との時間
ゲイリー・レナードさんの京都ワークショップから金沢を経由して、富山で母と二人で過ごす時間。
母とおいしいと評判のコーヒー屋さんまで出かけてお茶したり、県内の宇奈月温泉に行き日帰り入浴+バイキング夕食を楽しんだりした。
何げないささやかな時間だったが、そのゆるい時の流れこそ貴重で愛おしいものに感じた。
地味ながら私にとっては最高のGWだ。
せっかくゲイリー・レナードさんに『奇跡講座』(ACIM)について直接お話を聞き理解が深まったように感じていたが、実家に着くと母のおしゃべりに飲み込まれ、1時間もしないうちにACIMや赦しはどっかに行ってしまった。
やはり実家はACIMから最も遠い場所なのだ。
あ゛~、ぎっくり腰
この母との時間に水を差したのが、私のぎっくり腰だった。
京都ワークショップの最中にはすでに痛く怪しくなっていたが、実家に着いてから悪化した。何とか歩けるけど痛い。
近所の接骨院にも行ったが、あまり変わらない。よりによって帰省時に…(*_*;
これは、二次元的視点で見たら、ワークショップ時長時間同じ姿勢で座っていたことや長距離移動がダメージになったように思われた。
一方ACIM的観点から見たら、すべての病や痛みは罪悪感の投影なのだから私の罪悪感が体に投影されたものと捉えられた。
そう、実家というのは私の罪悪感がうずく場所なのだ。
親が望むようにちゃんと結婚して孫の顔を見せるということができなかった。
家意識が強い富山という土地で幼いころから家の継承を期待されていたけどできなかった。
私という人間には到底無理だと思うことだけど、母の顔を見ていると申し訳ない気持ちになりこれまでの来し方に後悔と自責の念を感じてしまうのだ。
ゲイリーさんのワークショップで無意識が動いただろう。それも感情の揺れに拍車をかけたかもしれない。
要するに、日頃は無意識に埋めているもろもろの罪悪感が浮かび上がりぎっくり腰として顕在化しているようだった。
これももちろんエゴ。
老母に対する特別の愛と罪悪感、これは神からの分離をリアルだと主張する私のエゴが見せているオリジナルのストーリーなのだ。
エゴの罠…の甘酸っぱさ
意識からACIMがぶっ飛んでいても、赦しの機会はちゃんとやってくる。
この凝り固まった腰にため込んでいる思いを解放しよう。
この世界はリアルではない。だから自分で自分を赦すのだ。
そう思う一方で、
いやいや母をリアルに思いたい。だから、自責の念や後悔も手放したくない、とも思う。
後悔や自責の念はどこかしら官能的で甘酸っぱい。
エゴの世界のトリックだと頭で認識しながら、その甘酸っぱさにもう少したゆたっていたい。
なんかゲンジツって麻薬的だ。
PS. 翌日、帰りの新幹線でゲイリー・レナードさんの3冊目の著書『愛は誰も忘れていない』を読んでいた。
p218~219にパーサがゲイリーの両親にまつわる記憶に触れたところがあり、ACIMテキストからの引用もあった。
「あなたは心の彷徨にあまりにも寛容で、心の誤った創造を受動的に容認している。」(ACIMテキスト2 Vl.4-6)
そしてパーサのアドバイス…
「誤った創造を受容している自分に気づいたら、その責任を取らなくちゃね。エゴと一緒に考えるのをやめて、聖霊のほうに切り替えましょう。そして、その誤った創造を実在させるのをやめなくっちゃ。」
そーだよなぁ、誤った創造を実在させていたなぁ、と思いながら東京に向かった。4年前開通した北陸新幹線は、車窓からの景色をどんどん変えながらすごいスピードで東京に向かっていった。