2019-04-18
テンションMaxから気が抜けて
ゲイリー・レナードさんのワークショップでいつになくテンションが上がってしまった翌日はぼわーんとしてしまっていた。
元々外交的なほうじゃない上に近年こもっているから、一人で初めてのところに出かけていくこと自体ハードルが高かったようだ。
その緊張と、本ではよく知っている憧れている人に会えた喜びと。
それらがまぜこぜになってMaxになった後、そこからストンと気が抜け日常に戻ろうとしていた。
自分が軽くなり空気に身を任せるのが心地よいという感じだった。
憧れの人を前に、教えをすっかり忘れ二元性のダンスに興じていたなぁという照れくささもあった。
公園に行くと1羽のハトが、仲間から離れて座り込んでいた。
春の日に何か考え事をしているような?
いや、何にも考えてないのか。
しかし、この世のリアリティの圧倒的なことよ!
赦して、赦して、玉ねぎの皮を剥くようにエゴを剥いで…この世を別の見方で見よというけれど、ちょっと動いただけでこの世のリアリティに飲み込まれてしまう。
私は理屈はわかったつもりでいても、この世で自分の配役でどう適用していくべきなのかは、まったくわかっていないのだった。
非常に圧がかかったゲンジツでも、軽やかにやさしくいられたらいいと思う。
ACIMワーク256-今日は、神だけが私のゴールである。
私たちは、罪悪感があるから、この世に出現している(かのように見える)のだという。
ここでは私たちはまるで夢遊病者のように五里霧中のなかをさまよい歩いているだけだ。
ただ目をつむり内なる神を見ることができれば、神の実在が感じられるはずだが。
この世は忙しいのだ。
二元性の世の中では私たちと神は分離しているように見え、神と神がもたらす死は最も恐ろしいものだ。忙しいのは、その神と死を忘れていなければならないからだろう。
…そうではなく!
私たちは今も神とひとつだ。何も心配することはない。
ただただ夢を夢と認めこじらさないことだ。
「神への道はこの世では赦しを経由する。」(L256-1-1)
「この世では、私たちは夢を見ることしかできない。しかし、本当はいかなる罪もない神の子を、私たちが赦したという夢を見ることはできる。」(L256-1-7,8)
どうせ見るなら、私たちが赦したという夢が見たい。
「神が私たちのゴールであり、赦しは私たちの心が遂に神のもとに帰るための手段である。」(L256-1-9)
この世の出来事に関わらず、いつも正気でいられたらいいなと思う。
非二元性を受け入れながら、二元性に見えるこの世の中でどう在ればよいのか、まだ正直なところわからない。
だた、赦すべきが現れたら赦すだけ。(それがむずかしいが)
それがこの世での在り方を身に身に付けさせてくれるのだろう。
このロールプレイゲームの戦い方は、赦しなのだ。
まだまだ稚拙だけどそれしかないと知っているから、やろうと思う。