6年目の3.11

2017-03-12

6年前のあのとき

昨日は東日本大震災から6年目の日だった。あの時のことを思い出した。

2011年3月11日午後2時26分に1回目の地震発生。午後3時15分に2回目の揺れ。その後大津波、そして原発事故。

私は東京の錦糸町で占い鑑定の契約仕事の日だったが、一緒に仕事をしていた先輩とすぐにお客を帰して店を閉めて、いっしょにバスに乗って、時間はいつもの4倍位かかったが、無事帰宅することができた。

最初は何が起こったのかわからなかった。

翌日テレビで大津波に飲み込まれていく建物や車を見た。行方不明の方の数が増えていった。こんなことが実際に起こるのか…と、ただ茫然としていた。企業CMが消え、くりかえしくりかえし流されるACのCMが不気味だった。

あのとき、日本人が戦後信じて頑張って積み重ねてきた産業信仰みたいなものが、一気に崩れた気がした。ガーンと頭を殴られたようなショックがあった。述べ95万人もの復興ボランティアが駆けつけた。日本全体で「もっと便利に、もっと豊かに」という生き方そのものを見なおそうと、気持ちをひとつにした。今ではそれも薄れてきている。

亡くなった方、

その家族の方々。

今も復興途上で辛抱を続けている方。

人生が大きく変わってたいへんな思いで日々を生きている人。

ものすごいことだった、とても悲しいことだった、と改めて思う。

この現実を赦すとは?

ACIMを学び、厳しい現実もエゴが見せている幻影だと知った。

現実のできごとに対する感受性が鈍化している自分がいる。そしてそれに罪悪感を感じている自分も。

でも一方で、これもまた赦すべきことだ、と思いなおしたりしている。

こうした厳しく恐ろしい現実に直面したとき、どうしたらよいかわからなくなる。

心の中では、常に赦すということ。

では、ここにいる私の行動は?

この世はすべて幻想なのだから無頓着でいいということとはちがうだろう。

『神の使者』を読みACIMのワークを始めてから、乱暴な例えかもしれないけれど、この世をロールプレーゲームのようなものと見ている。

ここにいる自分はゲームの中の主人功として生きている、そして実はそのゲームをしているもう一人の自分がいる、という見方だ。ゲームの中のことは幻想だから、それに囚われず、今も神と離れていない真理に目覚めること。それが真に生きるといういことだ、と学んだ。

だからといって、どんなことがあっても、ゲームの中のこと…と割り切っていいものだろうか。

「赦す」ことを意識している私は、ただ共感力の乏しいドライな人間になっただけではないか、とも思う。

コストって? 経済って? 発展って?

あのとき、津波で原子力発電が停電した事態について、専門家がテレビに呼ばれ、ずっと「万が一メルトダウンしたら、大変なこと」と言い続けていたが、結果的にはメルトダウンはすでに起きていた。

1ヶ月後、事後の甚大さはチェルノブイリ事故と同じ「レベル7」に引き上げられ、後々チェルノブイリをはるかに超える放射性物質が出てしまったこともわかってきた。今もどう収束できるのか見えていない。

あの時命がけで陣頭指揮を取って日本を守った福島第一原発の吉田所長は2年後に亡くなった。震災とは別だけど、私の父も旅立った。6年の変化は大きい。

原子力はCO2を出さずクリーンで低コストなエネルギーだと聞いていたけど、コストとは何だろう。

どこまでがコストなのかな。お金で換算できることと、できないこと。

経済とは何で、

発展とは何で、

豊かさとは何なんだろう。

こう思いを巡らせる私は、実在しない現実に巻き込まれているのだろうか。

これこそが私が赦すべき現実なんだろうか。

東日本大震災を赦す、とは?

たぶん、そうなんだろう。。。

では、「ゲーム」の中の小さな私の生き方は?

何かと闘ったりはしないとしても、このうつろう現実のなかで、どう生きたらいいんだろう。

やはり目の前の人、出会う人、縁ある人を、赦し、愛する、ということかな?

じゃあ、それができているかな?

ACIMを自分なりに学び、浸透させようとしているけど、独学で勘ちがいしてベクトルをまちがえたりしていないかな?

ただ社会に無関心になり、事なかれご都合主義を助長させているだけではだめだよね。

東日本大震災を赦す、とは、ここに体を持って在る私がどう動くことだろう。

あの震災直後ありえないことに直面して、ACIMと出会う前だったけど、一瞬“正気”に戻った気がした。

ACIMを少しだけど学んだ私は、

東日本大震災のぜんぶをどう赦すのか。

赦した私は、どう考え、どう動くのだろう。

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