稀勢の里さん、手負いの優勝、すごい!

2017-03-27

テレビをつけたら、お相撲が

ここ最近冬のような寒さだ。昨日は月1回の色彩サークルがあった。持ち回りで講師というか進行役をやっていて昨日は私が担当。「アートセラピー」のミニ講座みたいなものをやった。ちょっとしたキンチョーがあり、よい刺激にもなった。

帰宅後、テレビをつけたらお相撲だった。

普段相撲は見ない方だけれど、見れば千秋楽で横綱・稀勢の里さんが取り組むところ。場内は気合いに満ちている。二日前の24日左肩を痛めたらしくテーピングが痛々しい。本来ならば休場してしかるべきなのだろうけど、押して出ているらしい。昨日の取り組みのVTRでは、痛めた肩に力なくあっけなく敗れる姿があった。

ケガが悪化したらどうするんだろう、やめとけばいいのに。

相手は優勝して横綱になるのを目指す大関・照ノ富士さん。照ノ富士の方は、前日の取り組みで対戦相手の琴奨菊さんを立ち合いで変化してかわしたことがブーイングされているらしい。VTRは見ていないけど、試合なんだからそれもありだろう。相撲わからないけど、それも技のうちなのでは?

一般的に考えたら、照ノ富士関が勝って終わり。稀勢の里、ケガなのによく出てきた…、ってとこだろう。日本人の判官びいきなのか、ケガをしている稀勢の里さんをつい応援してしまう。

最初の立ち合いで息が合わず、仕切り直し。その時、あれって、思った。もしかしたら、流れが変わる?

よくわからないけど、照ノ富士さんの表情が少し曇っている気がする。前日、立ち合いの変化で勝ちはしたけど、それで受けたブーイングが意外と響いているのかしらん。勝つことへのストレートさがなくて迷いがある感じ。

立ち合いし直し。思わず正座をして画面に見入った。

決まり手は何と言うんだろう、照ノ富士さんの方がころんところがった。

なんと手負いの稀勢の里が勝った。すごい!!

稀勢の里、優勝決定戦へ、すごい

もう画面にくぎ付けだ。これで照ノ富士、稀勢の里、ともに二敗で優勝決定戦にもつれ込むらしい。

そして迎える優勝決定戦。これって、世紀の一番じゃ…

もう画面にくぎ付けだ。

もうこうなったら、やるしかない。息を飲むとはこのことだ。一瞬たりとも見逃すまじ。

そして、なんと、稀勢の里が勝った!!

すごーい、すごい!!

それから、場内に流れる君が代と稀勢の里さんの涙…。思わず一緒に歌ってしまう。君が代、歌ったのいつぶりだろう。

…ここで6時10分となり中継はおしまい。

ふだんお相撲見ないけど、だからこそか、感動。すごい!よくやった。

ACIM的に見たら…

それからいくぶん落ち着いて、ACIM的に見れば(もちろん勝ち負けは二元性の世界のことでACIM的ではないけれど)照ノ富士さんが負けたのは、前日での立ち合いの変化について、どこかしら“罪悪感”のようなものを持っていたのではないかしらん?と思った。

ネットで見たら、その一番、照ノ富士関には「モンゴルに帰れ」「恥を知れ」などといった激しいヤジが飛んだらしい。「勝ってしまったら…(さらに反感を買うのでは)」と優勝してしまうことへの恐怖がどこかにあったのではないか。

意識の上ではそんなことには動じないのかもしれないけれど、それでも人の子、無意識には、多少なりとも罪悪感や勝ってしまう恐怖があったのでは。それが、取り組み前の迷いのような、寂しさのような表情ではなかったのかな、と思った。

ずっとACIMの見方を学んでいるから、うがった見方になっているかもしれないけど。

いや、こんなに勝ち負けで興奮するのは、学べてないのかな。

私たちは体ではないし、勝ちも負けもない。でも心を動かしたということはそこに真実の何かが含まれているからか。それともエゴの策略にまんまとかかっているだけなのか。

熱くなった。そして熱くなるのもいいな、と思った。

お相撲また見たいし、応援したい。稀勢の里さんも照ノ富士さんも応援したい。

勝つこと、成功することには常に罪悪感も伴う。頂点に立つということは、その下に多くの人がそうではない人がいるというころだから。それを押して勝つのには、自分なりの裏づけや大義がいるのだろう。

私は、勝ったり負けたり、成功したり失敗したりする二元性の世界の見方を卒業したいと思いつつ、今それに興奮したり感動したりもしている。