レッスン93-光と喜びと平安が私の中に宿っている。

2017-03-29

レッスン93をやったのは先週21日。ワークをした日とそれをダイアリーに書く日のライムラグを縮めたいと思っているけど、まだ縮まらず、ダイアリーブログがなんとなく億劫になっている。ワークはしたいけど、ブログにするのがむずかしい。

改めて、ワークのダイアリーに何を書いたらいいのかわからないことや、

さらにレッスン91からは文章が長く理解しきれていない、というのと、

こんなこと(中途半端にダイアリーを書くこと)して何になる、という気持ちがある。

でも、ブログがなければワーク自体緩く続けることもできていない気がするし、多少なりとも復習になっているのでは?とも思っている。

レッスン93:光と喜びと平安が私の中に宿っている。

レッスン91からのワークは、くりかえし私たちに闇ではなく光に目を向けるよう方向づけしている。

ワークは冒頭、「あなたは自分の中に悪と闇と罪が住みついていると思っている。もし誰かがあなたの真の姿を見たなら、毒蛇を見たときのように飛びのき後ずさりするだろうと思っている。」から始まる。

ここには私たちの深い自己嫌悪が書かれている。これは私のように意識の上でもそう思っている人と、意識はしていなくても無意識でそう思っている人とに分かれるだろう。

ただ、この自己嫌悪には根拠がない。「虚無に基づく信念」だけど、虚無が作り上げた世界にずっと生きている(と思っている私たち)には、まるで信じがたい。

私たちは神から自分から分離したと思い込んでいる。そして、そのことについて神にあまりに大きな罪の意識と恐怖を感じている。

でも、ACIMはくりかえし、それは誤解だ、と教えてくれる。

自ら離れたと思っている今ここの私は、エゴでありそれこそが虚像。真の自己は一度も神から離れたことがなく今も神の平安とともにある。

それをレッスン93では「あなたが為したと思っているすべての悪は一度も為されたことはないと保証されて、なぜあなたは大喜びしないのだろうか。」と言っている。「あなたの罪がすべて無であることも、あなたが創造されたままに清らかで神聖であることも、光と喜びと平安があなたの中に宿っていることも、たしかに保証されている。」と太鼓判が押されている。

でも、この考えが、虚無の世界になじんで闇の法則で生きている私たちには、ぴんと来ない。

レッスン93では、

光と喜びと平安が私の中に宿っている。

私の無罪性は神により保証されている。」と唱え、神と一なる自己を体験することに主眼が置かれている。

そして、私たちの強固な思い込みに正しい考えを刷り込むべく、起きている間はずっと1時間うち最初の5分をこの練習に使うこと、としている。

ワークをして

毎時最初の5分を使うというのは、なかなか慌ただしい。気づくと時間が過ぎていることもままあり。私はまだフリーランスだから家での作業中はやりやすいけど、勤務している人とかはいったいどうやっているのだろう。こうしたワークができる環境というのは限られているのでは…?

最初のうちは5分とても長く感じられ、何度も目を開けてしまう。落ち着かない。

でも回を重ねるごとにだんだん、やりやすくなってきた。

夕方5時のワークでは「私は幸せになってもいい」と感じた。

未だに心の奥のどこかで、「私は悪い子、悪い人間で、だから幸せである資格がない」という刷り込みがあるのだ。その自己否定は大人になってから気づいて、変えてきたつもりだけど、まだ、ある。

そこで、「私の無罪性は神により保証されている。

そして、「光と喜びと平安が私の中に宿っている。

この本当は正しい事実を、新しい暗示のごとく、何度もくりかえす。

エゴが怯えて身構えてしまわないよう、リラックスしながら、気を抜きながらくりかえした。

晩7時のワークでは、

「罪ある自分が少しましな世界を望むんじゃないんだ、そもそも原罪はないんだ」と感じた。

だから、ずっとHappy&Peacefulでいていい。問題を温存せず、手放していいんだ。

これはぐるっと一周して、元いたところに戻る…みたいだけど、

結局「自分を愛する」ということだ。そしてリアルには他者と自己の区別はない。

だからシンプルに「愛する」こと。

いいことをしたから、許される、認められる、

悪いことをしたから、不十分だから、認められない、罰せられる、というのではなくて、

そもそも無辜(むこ)であり、愛されていい。幸せであってもいい。

夜9時のワークでは、「幸せであってもいい」じゃなくて、

「いや、幸せでなきゃいけないんだ」と思った。

だからこそ、いつも上機嫌であること!

エゴは罪悪感と怖れから必要のないものを創り出している。それは実は起っていない過ちのためだ。

それを取りなすこと。それが祈りの本質なのかもしれない。