2016-08-14
お墓参り&浄土宗
昨日、朝早くと夜、母とお墓参りに行ってきました。
夕方には市内にある仏舎利塔にもお参りに行ってきました。
仏舎利塔がある丘から市内を見渡すと遠くに海が見えます。
日本海に沈んでいく夕日は、故郷の古い記憶を呼び起こします。
今日は門徒になっているお寺のお坊さんがお経をあげに来られました。
母は、亡父が好きだった栗きんとんを出しながら、友達の骨董屋さんに騙されては偽物ばかり買わされていたという父のことを「本当に見る目のないバカな人だった…」とグチを言います。
「お母さんは、そのお父さんのおおらかな審美眼で妻に選ばれたんだよ」と私。和尚さんはニコニコ笑っておられました。
和尚さんが帰られた後、京都在住で法事に来られなかったいとこ夫妻も、線香をあげにきてくれました。社交的な性格の母は久しぶりの来客に嬉しそうで、一人しゃべりまくっていました。
私はACIMの学習者であり、家は浄土宗。
仏壇が大きく金ぴかなことでも知られる富山。家意識と信仰心が強く先祖供養の慣習もいろいろあります。
私は東京で一人暮らしをしている時は、自分の嗜好を持ち自分で考えているかのように思っているけど、実家に戻ってくると、一気に実家の、というか母の空気に吞まれてしまい、自分が思っていたことのリアリティが薄くなってしまいます。一日中話している母の話を聴いて答えるのに精一杯で、「脳ジャック」されてしまっているのかもしれません。ダイアリーもいつもに増してまとまらない…。
レッスン51
富山に来る前日、レッスン51をしました。
レッスン51~60までは「復習Ⅰ」で、これまでの50のレッスンを、1レッスンに5つずつ復習していく。
レッスン51は以下の5つ。
1)私の見ているものには何の意味もない。
2)私に見えているあらゆるものに、私にとってそれがもつすべての意味を与えたのは私自身である。
3)私に見えているどんなものも、私は理解していない。
4)これらの考えには何の意味もない。
5)私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。
おもしろいなと思ったのは、復習Ⅰの序文に復習全体に対する留意点があり、
「できれば静かな場所でひとりになれるときに目を閉じて演習を行うようにする。今のあなたの学びの段階では、そうした状況下に練習することが重視される。」と書かれている一方で、
「すでに穏やかで静まったかに見える状況よりも、動揺させられるような状況の中でこそ、こうした学びが必要とされる。あなたの学びの目的は、あなたがいつも静けさを携えていられるようにすること、そして苦悩や混乱を癒すことができるようにすることにある。それらを避けて、自分ひとりになれる避難所を求めていたのでは、この目的は達成されない」(ワークブック編P113)とあったこと。
最後の一文に笑ってしまった。
私のフリーランスでの仕事&一人暮らしの家は、まさに「自分ひとりになれる避難所」であり、私がワークブックを一巡させた約2年半はほぼそういう環境下だった気がするから。
もしかしたら、2巡目は「避難所」を出てもっと「動揺させられるような状況」を求めた方がよいのかもしれない。
そういう意味では、この家族の距離感が近くて良くも悪くも一人になれない実家というのは、もうワークのビギナーではない私にふさわしい場なのかもしれない、と思った。