レッスン46-神は愛であり、その愛の中で私は赦す

2016-08-01

都知事選、小池さん圧勝

都知事選、ふたを開けてみたら、小池百合子さんが次点の増田寛也さんに100万票以上の差をつけて圧勝だった。増田さん、小池さん、鳥越さんの三氏が競っていると聞いていて、正直こんなに差がつくとは思わなかった(私は安倍内閣の“暴走”に反対する意味で「鳥越さん」に入れた)

選挙が戦いだとしたら、三氏とも「戦略」はたいしてなかったんだと思うけど、小池さんは細かい「戦術」が巧みだったと思う。精力的にきめ細かく演説をこなし「ゆりこグリーン」を「みなさま方お一人おひとりの力で広めて」…というメッセージでの魅せ方、人の巻き込み方が上手だなと感じた。

結果的には小池さんが「東京の新しい顔」になる。アイディアパーソンであり女性ならではの華やかさもあり、いいかもしれない。

レッスン46-ACIMの根幹「赦すこと」

土曜日レッスン46をやった。

このレッスンは、ACIMのワークブックの中でも最も根幹となるワークだと思う。私はACIMを主にゲイリー・R・レナードさんの著書『神の使者』『不死というあなたの現実』から学んでいるが、ACIMを実生活で実践するとはどういうことか、一言で表すとしたら、レッスン46の「赦すこと」に行きつくのではないかと思う。

「赦す」は私たちが日常的に用いる「許す」とはまったく異なる。

「許す」は、あなたがしたことは問題があるけど「ゆるしてあげるよ」という感じ。

一方ACIMでいう「赦す」は、この世は映し絵であり「そもそも起こっていない」ことを「ゆるす」。

ここでの「ゆるす」のニュアンスはむずかしいけど、それに囚われない、気持ちをゆるめる、幻想として受け入れ受け流す、というような感じではないかと思っている。

レッスン46には「赦しはこの世界が大いに必要としているものであるが、それはここが幻想の世界だからである」とある。そして「赦し」が必要になる前には「咎め」があったから…と言っている。

その咎めとはとりもなおさず、神の子たる私たちが神から離れたから。実際には今も神とともにいるのだけど、「自分から離れてしまった」と勘違いしているから。

私たちはそのことを大罪だと感じ、また神からの報復を恐れ、それがあまりに大きなものだから、そこから逃れるためにエゴに助けを求め「宇宙」を作った。一見逃げ切れたように思っているが、あまりに大きな罪悪感と恐れを無意識に沈めている。直接見るのはあまりにも怖いから、感じることすら拒否しているのだ。そして、その沈めた罪悪感、恐れは「自分ではない」他者に投影される。日常で出会う嫌な人や嫌なことがそれだ。

散り散りに分裂した(と思っている)私たちはそれぞれの場所から、自分の罪を投影して他者に映し出している。

でもそれは現実ではない。錯覚、勘違いだ。それに囚われ、他者をバッシングしたり被害者になっているかぎり、この夢から覚めることはできない。

今日のワークは、ここで起っていることは夢だと自らをとりなす。

私たちは他者に自分を見る。自分の罪や恐れを直接見ることはできない。他者への赦しを通して初めて、自分を赦すことができる。

だから、これは自分を赦すためのワークだ。

赦すことはむずかしい

長々とレッスン46の解釈を書いてしまったけど、ダイアリーなのだから、私の稚拙な解釈より、実際ワークをやってどう感じたのか、自分の人生にとってはワークがどうインパクトを与えたのか等、を書くべきなんだろうけど、そこのところがまだどこまでどう書いていいのか、わからない。毎回、ひとり~数人の人が思い浮かび、「赦すワーク」をしている。

毎回出てくる人もいる。それは、私がまだその人を「赦しきれてはいないから」なのかもしれない。

2013年6月ワークブックを始めた時から感情を乱されまくった相手がいる。怒りを爆発させては落ち込みワークをし平静になったかと思うとまた乱れ…をくりかえしていた。怒りだけなら離れればいいので楽なんだけど、恋心があり、いわゆる恋愛がらみに加え、おカネも絡んで、心の中でベタなすったもんだをくりかえしていた。その人との縁も、2015年1月にとぎれた。

具体的に自分に係ることがあると、かくもささやかなことでも「赦す」ことはむずかしい。だって、ここにいる私にとってはすっごくリアルなことだから!

それでも、その人とできごとを赦すことでしか、この世の非現実性を後にできない。その人が「悪いから、あるいはいいから」ゆるすのではない。そもそもここにいないから、私が私のからだだと見ているものを含めて、これはリアルではないから「ゆるす」んだ。

私はもともと気が短いところもあり、ぜんぜんできていないけど。

赦すべきことに遭遇するたび、ただ実践あるのみなのだ。

神は愛であり、その愛の中で私は赦す。