『Journey through the Text of ACIM』(35)-4章3節「イエス」-「赦し」

2020-06-05

続・壺のはなし

そういえば…一昨日「壺のはなし」を書いたけど、その後、気づいたことがある。

(壺のはなし、というのは、ACIMや『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の勉強において、膨大な時間がかかる学習について「高い壺をローンで買っちゃったような気分になることがある」と書いた、志低い話である。参照:4月20日の日記/6月3日の日記

それは、私はすでに「壺」を買ってローンを支払っている、というジジツ。

それは、自我の壺。

実際、自我が商う“高~い壺”を買って、今なおこの世の人生という生まれ変わってもずっと続くローンを支払っているのは、私だ。

ACIMやJTTAが壺に見えたのは、私が自我の視点から見ていたからだった。

よく「過払い金請求」のCMを目にする。過払いで払い過ぎた利子が戻ってくるというが、ACIMを学びイエスのように実践できれば、利子どころか元本ごと戻ってくる。そもそも架空なんだから!

そう気づいたのだ。

そもそも「なんで壺?」と問われれば、そこで話が終わっちゃうビミョーな例えだけど。

ACIMにおけるイエスの目的

本題へ。

『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』、4章「The Illusions of the Ego(自我の幻想)」、第3節「イエス」の見出しの3つめ、「赦し」についてだ。

テキストの初めの方なのではまだ「赦し」という概念そのものは出てきていないが、「正しい心の状態」として赦しに近い概念が述べられている。

救済とは『正しい心の状態』以上のものではない。『正しい心の状態』とは聖霊の一なる心の状態ではないが、一なる心の状態が回復される前に達成されなければならないものである。」(T-4. II.10.1)

自我は裁きなしには生き残れず、裁きがなくなれば退けられる。」(T-4. II.10.3)

繰り返しになるが、自我は私たちが「正しい心の状態」に戻ることに抵抗する。そこに戻れば、知覚は訂正され正気に戻った私たちは、自我を選ばなくなるから。それは、自我自体の存続にかかわる。だから自我は決してそこに気づかせてはならないと思っている。

そのため自我は巧妙に私たちの心が選択の力を持っていることを隠しているが、イエスはACIMでその部分を明るみに出す。

そもそも正しい知覚の価値は、それがいずれ必ず、すべての知覚が不要だという理解に達するという点にある。…(略)…この世界に生きている『あなた』とは、誰だろうか。」(T-4. II.11.3,8)

ワプニック先生は「明らかに『あなた』とは決断の主体を指しています。」としたうえで、ここで続けてイエスのACIMにおける目的を述べておらせる。

ACIMの目的とは第一に、私たちには心があると教えること。

(この「心」という言葉の扱いはやや難しい。一般的には「心なんてあるに決まっている」となると思うが、現在の個々の体の維持のために日々刺激-反応に追われているこの世の心のあり方ではなく、その奥にある真の心という意味を指すのだと思う。)

そして目的の第二は、その心は決断の力を持っていると教えること…だという。

この目的が達成されれば、私たちは運命の主導権を真の心へと戻す可能性が見えてくる。

兄弟への感謝の大切さ

幻想からの脱出を学ぶにあたり、あなたが兄弟から受けている恩義は、決して忘れてはならないものである。それはあなたが私から受けている恩義と同じものである。あなたが他者に対して利己的に行動するときはいつでも、自分が恩義を受けてきたことへの感謝と、それが生み出すことになる神聖な知覚を投げ捨てている。」(T-4.VI.2:1-3)

ここでイエスは、恩義という言葉を用いながら、一なる神の子の一体性を強調しているのだという。「私たちは分離と罪悪感の思考システムを他者に投影して見ています。その結果この世で一なる子の一体性を証する兄弟に感謝するかわりに、彼らを敵とみなしているのです。」とワプニック先生。

イエスは、続いて次のように兄弟に対する感謝の思いの大切さに触れている。

兄弟に対するあなたの感謝の念のみが、私が望む唯一の贈り物である。兄弟を知ることがまさに神を知ることだと知っている私は、あなたに代わって、それを神のもとへもっていく。」(T-4.Ⅵ.7:2-3)この文章の前には「聖なる存在が小さな隔たりを埋めることができる」(T-4.Ⅵ.7:1)とある。

兄弟(同胞)に対する感謝…。ACIMはすごいボリュームの言葉を並べて抽象的な概念を教えているが、突き詰めれば、これができればいいのだな~と、感慨を覚えた。それが難しいからこうやって学んでいるわけだけど。

伝統的なキリスト教では、神やイエスとの関係性は強調しているものの、他者といかに関わるかは重要視されていない。ACIMでは、他者をどう捉えるかが極めて重要だと言っている。もちろんこれは自我を通して見るか、聖霊を通して見るかという心の決断に由来する。

感謝の念を通して、あなたは自分の兄弟を知るようになり、一瞬でも真に認識するなら、すべての兄弟があなたの兄弟となる。」(T-4.VI.7:5)

ここで「私たち皆が神の子の一部だから」とワプニック先生は補足されている。

イエスはここでも感謝を通して一なる神の子の一体性について言及しているのだ。

そして、ここから発展させて互いの利益を一致させることを自分の喜びに結びつけることが教えられる。

「どちらか一方」ではうまくいかない

救済とは共同事業である。」(T-4.Ⅵ.8:2)

それは、一なる子から自らを切り離している者たちが着手してもうまくはいかない。なぜなら、彼らは自分を私から切り離しているからである。」(T-4.Ⅵ.8:3)

救済が共同事業だというのは、「心で(すべての人を赦し)皆を連れていかないかぎり天国には戻れないという重要な法則」のことを指している。

「“どちらか一方”という枠組みのなかでは断片化された神の子は、善と悪に分断され、悪を倒せば善が成されると信じています。」とワプニック先生。

しかし、もちろんこの信念は正しくない。一つの悪を倒しても、神との分離をリアルとしたその罪悪感は別の他者に投影され、また悪が出現する。私たちは、対峙する相手の「輝かしい特別性」を互いに盗もうとしているのだ。そしてワプニック先生はここで、(もちろん私たちは、自分は“善サイド”だと信じています)とかっこ書きされている。そこが、ちょっと笑えた。

あなたが兄弟たちに神を与えるのと同じようにしてしか、神があなたのもとに来ることはない。まず彼らから学びなさい。そうすれば、あなたには神から聞く準備が整うだろう。なぜなら、愛の機能はひとつだからである。」(T-4. VI.8: 4-6)

愛の機能はひとつだという。つまり、誰かを愛し他の誰かを愛さないというものではないということだ。それでは誤った罪悪感は取り消せない。

他のスピリチュアリティでも「ワンネス」という概念を耳にするが、「ACIMは誰かを除外するなら、神の愛に戻ることは決してないことを理解するのがいかに大事か強調している点において類を見ません。」と説明されている。

雑感

ひえぇ、いつものことだけど、要約になっていない。

長すぎ。

いつもどこを書き出してよいか、迷う。

私が重要だと思うところにしたら、「いっつも同じ点を書いちゃう」みたいになるし、逆に他で書いてないトピックを取り上げた方がいいのかと思うが、全体像がわかっていないから、それはそれでどうまとめてよいかわからなくなる。

…で、結局方針が決まらず、気まぐれ。その時の「なんとなく」でやっちゃっているー。あとで私が成長して見返したら、赤面ものかも。

聖書の引用やそこからの転換がいくつか見受けられるけれど、そもそも聖書の概念がよくわかっていないから面白い話なのかもしれないけれど掘り下げられず。

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