『Journey through the Text of ACIM』(33)-進捗と4章後半へ

2020-06-03

『Journey through the Text of ACIM』-進捗と壺のはなし

ワプニック先生のテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の“私の旅”は、4章「The Illusions of the Ego(自我の幻想)」の後半、第3節の「Jesus(イエス)」のところ。

1年で4章。31章全部終わるには、あと28章。単純に割り算して28章÷4章/年=7年。あと7年か…。

先々月「ACIMーたま~に「高い壺」を買っちゃったような気分…?」という不謹慎な記事を書いちゃったけど、このJTTA本についても、同様に「壺買っちゃった…」気分になることがある。「めいっぱい頑張って7年で完済できるローン」で…!?(失礼、すみません)

もちろん“壺”たって、押し売りされたわけじゃない。契約書もない(いつ止めたっていい)。

何より本書は素晴らしいACIMのテキスト解説書だ。学びたい気持ちはある。

問題は、英語読みに時間がかかりすぎていることだ。去年他のことほとんどやってない。これがあと7年も続くのか(無理だ)。正解の訳文がわからないことも心もとない。

…と要は、私の“英語力”の問題だった。

最近は鼻っから、「横断翻訳サイト」に英文を入れちゃう。そうすると妙な訳ながら文章の塊が認識できて、なるほど、ふむふむと見ながらヘンな日本語を整える。翻訳サイトも、長文苦手でしばしばやってくれない(私は分割して再入力)。またちょいちょい修飾節のかけ先を間違え、自我と聖霊の説明を取り違えるから、私は「ちがうよ!」と日本語を直す。

そんなことをしているからか、英語を英語のまま読み取る力はなかなかつかないのだった。

このまま続けていけば、果たして読解力は伸びるだろうか。何とかしたい。

「別の方法はないのか」ーイエスに導かれるとき

さてさて内容へ。4章3節は「イエス」というタイトルだ。

4章3節は、最初に全体を通しての説明があり、その後以下の見出しで解説されている。今日は最初の部分と「強化理論」の項目のざっくりまとめを。

・「強化理論」

・「自我を見ること」

・「赦し」

・「教えることと学ぶこと」

 

この世では絶えず様々な「問題」が生じるが、私たちは自我が見つけるこの世レベルの解決策はどれもうまくいかないことに薄々気づく。

で、自問する。「何かこれまでとはちがう方法はないんだろうか。」

これは自我が決して尋ねてはほしくない質問だという。

ワプニック先生曰く「この質問は自我の終わりの始まりを示しています。」

ワークブックには特別な関係性に関するところで、「別の形態を見つけることは可能である。」(W-pⅠ.170.8:7)とあるが、この世には永続的に完璧に解決できる方法はない。

「ある時点で、絶望して降参し、助けてほしいと懇願します。これが自我をクビにしてイエスを教師として受け入れるきっかけとなるのです。」

イエスによる聖書の再解釈

ここでいくつかイエスによる伝統的な聖書に対する再解釈が挙げられている。最初のものは、「十字架への旅」について。

十字架の旅は、最後の『無益な旅』となるべきものである。…(略)…『粗削りの十字架を慕う』といった哀れな誤りを犯してはならない。十字架刑の唯一のメッセージは、あなたは十字架を克服できる、ということだけである。…(略)…私たちは別の旅に出なければならない。…」 (T-4. In.3)

「あなたは十字架を克服できる」…これがイエスの正しい十字架刑の定義だ。それは重要視すべきものでもリアルなものでもない。

また別の部分の再解釈。

キリストの最初の降臨とは、単に、創造の別名にすぎない。キリストとは神の子のことだからである。キリストの再臨とは、自我の支配の終焉と心の癒し以上のものを意味してはいない。…(略)」(T-4.Ⅳ.10:1-3)

ここでワプニック先生は「イエスを教師として受け入れると再臨は恐怖から希望へと変化します。それはイエスによる罪の裁きを表わすものではなく、イエスと私たちすべての神の子の永遠の平等性を確約するものとなります。」と説明されている。

強化理論

20世紀の有力な心理学の学派に1950年代初頭に生れた行動主義がある。その中にスキナーによる強化理論というものがある。強化理論には「人は罰を通してよりも報酬を通してのほうがよく学べる」という結論があるが、「イエスは明らかにこの学派に属しています」とワプニック先生。

(学び始めの頃)イエスが信頼できないのは、イエスを信頼してしまったら、「個々の自己であること」への投資を損なうと思っているからだという。

しかし、イエスを教師として選びその結果、平和と喜びという「報酬」を得られることが体験できれば、イエスへの信頼は強化され、さらに経験を重ねることで信頼は確信となる。だから「報奨を通しての学びは、苦痛を通しての学びよりも効果がある。」(T-4.Ⅵ.3:4)のだ。

この段階では、まだ「赦し」についての説明はまだないが、「イエスは、もし私たちが非難は正当なものとして主張を固持するかわりに裁きを赦して手放すなら、文字通り、肉体的にも感情的にも気分よく楽に感じるだろうと言って、私たちの利己心に訴えています。」と説明されている。

特別性への執着を手放せば気分が良くなる

他のスピリチュアリティや宗教では、概して、自我が問題だとレッテルを貼り自我をリアルにしたうえで手放すことを説く。

しかし、ACIMは、問題となるのは自我そのものではなく聖霊か自我かの選択において自我を選んだ心の決定だと明言する。

ただ、私たちは自分がした選択を忘れてしまっている。

私たちはキリストの中で非特異的かつ抽象的な存在状態を共有している。それは過去に私たちが個々の特別な存在としての自分たちを重んじたがため投げ捨てたものだ。イエスは私たちに特別性への執着を手放せば気分が良くなるのだとわからせようとしているのだという。

しかしこうしたことを学ぶには多大な努力が必要だ。というのは、私たちは「特別な自己」を自分自身と強烈に同一視しているからで、それは必然的に世界を敵だとする見方につながるからだと説明されている。

人と違う「特別な」自分あるいはその家族や国、民族に重きを置くこと、他者を自分とはつながりのない存在と見なすこと、他者を非難、批判すること。これらはすべて自分への憎しみを深めて不幸につながる。

私たちにはこうしたことを教えてくれる教師が必要で、イエスこそがその教師なのだと結論づけられている。

 

なるたけ平易になおかつ流れを持たせてまとめたかったが、断片的な羅列になってしまった。時間があれば、伝統的なキリスト教についての知識もちゃんと得たいところ。。

今日の核心は何かな?

私たちがこれまでの自分たちのやり方でもがき続けていても、そこに究極の解決策はない。兄たるイエスを信頼して委ねよ。イエスは聖書に書かれていることを断じて言ってはいない。正しくイエスに学べば気分が良くなるよ、経験してごらん、ってことかな。

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