ACIM学習者のはしくれですらないかも?…と気づく

2019-09-11

シェアしていて気づいたこと①−学習意欲が低い

『Journey through the Text of A Course in Miracle』シェアの会がスタートしてから3ヶ月余り“英語アレルギー”の他にも気づくことがいろいろとあった。やっぱり、ひとと触れ合う、直接会う、話すって大事だなぁ。。。

そのひとつが、私はACIM学習者としての崇敬偏差値というか意欲というか、が低いな~ということ。

ずっと一人でやっていたから、誰かと比較するということなく気がつかなかったけど、私は他の仲間よりACIMについてもっと本を読もうとか新しいことを知っていこう、という意欲が欠けている。それが悪いとか、あるいはいいとかいうわけではなく、ただ低いなと気づいた。

『Journey through the Text of ACIM』の訳はここ数ヶ月私の中ではかなり頑張ったほうだ。だけどそれは、ACIMやワプニック博士への修道心というより、仲間へのきもちだった。

「ごにょごにょ言ってたけど、やる気がないわけじゃなよ。参加してて楽しいよ。ありがとう、声かけてくれて。いろいろ教えてくれて。すごい感謝してる」という―。

ACIMの私の今のスタンスを正直に言えば、こうだ。

「だいたいのところはわかったつもりです。要は、

  • しかるべき時に赦す。
  • 聖霊の導きに従う。
  • すでに与えられているすべてを祝福し感謝する。

が大事なのですね。これをなるたけ実践していきます。」

もちろんこれがとっても難しいことも気づいてはいるんだけど!!

…だけど、ここからいろいろ読んで学習を深めていこうというより、この基本だけ覚えているようにこれまで読んだ本とかを繰り返し読めばいいか…というくらいの心根だったのだ。(ふうせんさんのおかげで『Healing the Unhealed Mind 』というワプニック博士の本を知り、これには新しく関心をもった。そしてMASATOさんのブログ「ACIMメモ」から原書で読めるようになりたいと思った、これは本当だけど)

気づいたこと②-エゴを明け渡す覚悟がない…

そして、もうひとつ気づいたこと。

もしかしたら、前々から気づいていたのかもしれないけれど、私はACIMの道を極めたいという覚悟があるわけではなく、「“この世の・今の私”を今より幸せにしよう」という思いのレベルなのかも?

この世も、

私自身も、

手放したくも、

諦めたくも、

ない~!

のかも?

本気でやるには、私自身を明け渡して、本当にACIMにゆだねて…なんてことを心の底では思ってないのかもしれない。エゴを手放すべき場に直面すると、やだ~!とメッキがはがれて本性を現すのかもしれなかった。

あな、恐ろしや、恐ろしや。。。

ACIM学習者ではなくって、ACIMもどき学習者。。。(>_<)

これまでACIM学習者のはしくれだと思っていたけど、はしくれですらないかも。

でも、それをさほどいけないと思ったり反省したりもしてなくて。。。

「奇跡講座ダイアリー」なんて、まがいもんのくせに大層なタイトルつけちゃったな。あわあわ、とこっちの方が気になっている。

こういうの、昔習った「無知の知」っていうのかな?いや違うか。

まあ、それでも聖霊さんの導きにしたがって生きたいとは思っているので、そのみちゆきを歩んでいく。。

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