2019-04-22
美しい春の日の京都ワークショップ
ゲイリー・レナードさん、シンディ・レナードさん夫妻の京都ワークショップは、美しい緑の庭に面した開放的な会場で行われた。
私は前週の東京の時は、初めてゲイリーさんにお目にかかったことと、初めて『神の死者』や『奇跡講座』を学んでいる学習仲間に会えたということでテンションが上がり興奮しすぎていた。
京都ではその最初の興奮状態から一息ついていたことと、参加者が40~50名と東京よりややこじんまりしていたこととで、ようやく落ち着いて話を聞く態勢になれていた。
通訳の幸田良隆さんの京都弁がここ京都では一層マッチしていた。
幸田さんが「A Course in Miracleのこと知らないって人いてない?なんかまちがって来ちゃったわなんて人~?」とジョーダンめかして言ったけど、誰一人手を挙げなかった(あたりまえか)。
「4冊目の本、新著『イエスとブッダが共に生きた生涯』を読みましたっていう人はどのぐらいいてますか」の質問には、約9割くらいが手を挙げた。
私は『神の死者』からのゲイリーさんの著書や『奇跡講座』に関心を持っている方々と時間、空間を共にしているのが、やはり心地よくうれしかった。
本来ならば、ワークショップの内容について書くべきなんだろうけれど、それはまた改めてにしよう。
ワークショップ終了後、金沢に向かった。友人宅に泊めてもらい(ACIM以外の)積もる話をして、翌日曜には富山の実家に着いた。
今は実家という私にとってACIMとは遠い世界にいる(母の存在感が強すぎて、神さまを忘れてしまう。そして考え事がまとまらない)。
ワークショップ参加でフェイズが変わる
今回、東京、京都とゲイリー・レナードさんのワークショップに参加したことは、私にとってとっても意味が大きかった。
これまで、一人でやっていてACIMというものがどこか観念的だったのが、ワークショップに参加したことでこの世の三次元的な活動としてリアリティを感じるものになった。
それは、この世の幻想性を前提にするACIMの見方からいうと逆行しているのかもしれないけれど。実感としてはそうだった。
私は、ACIMを学んでいるつもりで、実のところはACIMをこの世からエスケープするための口実にしているんじゃないか、と常々疑いを持っていた。
そしてエゴを解体するのがACIMの目標なのに、ACIMを学んでいる体で観念の世界でだけ通用するヘンテコなスーパーエゴを作り上げて、内に籠って“勉強している”という隠れ蓑の元にそのスーパーエゴを温存しているような気がしていた。
実のところはわからないけれど、このゲンジツの世で生のゲイリーさんに会ったことや、同時代にACIMに関心をもって勉強している方々と会ったことが、この世からのエスケープから私をゲンジツに引きずり出しただろうことだけは確かだ。
ACIMはニューヨークの雑踏のなかで生まれたものだし、人と関わり合うことを避けてACIMを行くことは無理だ。
私は頭では赦しの必要性を知っているつもりだけど、実のところ赦しはむずかしくエゴは赦したくはないのだ。
だからなるたけその機会からも逃げていたのかもしれない。
それじゃあ、学習者としては浮かばれないよなぁ。
理屈じゃなくて実践。
ワークショップに出て、ACIMってやっぱりむずかしい!と思った。
今回のワークショップで最も幸福感を感じたのは、ゲイリーさんにハグしてもらったとき。なんともいえないやさしさと安心感を感じた。
先のことはわからない。ぼちぼちいこう。